氷花
午後の陽光が執務室に斜めに差し込み、厚いカーテンの隙間からほこりの粒が宙を舞っていた。
その光の筋の中で、セリムは黙々と書棚を整理していた。必要があるわけではない。ただ、そうでもしていなければ思考が深みに沈んでしまうのが分かっていた。
フェイミリアムへ戻り、任を終えて数日。
主の命令もなくなり、動くべき理由はもうない。
――だが、足が重い。
目の前の書架に手を伸ばしながら、彼は静かに息をついた。
ここに留まる理由は、本来ない。
けれど。
「なぁセリムくん、……まだしばらく、ここにいたらどうだ?」
気配もなく背後からかけられた声に、セリムはわずかに眉をひそめた。 聞き慣れた調子。あまりにも軽薄で、真剣さの「し」の字もない――だが、彼は知っている。
この男が、そう見えてどれほど人の本質を見抜く眼を持っているかを。
「姫も寂しがってたぜ? それにここにいれば俺はたらふく飯が食えるし」
アルフェリス・ヴェルミリオン。
セリムが己の秘密の一端を預ける、数少ない人物。
その陽気な仮面の奥には、計り知れぬ歳月と孤独、そして――義がある。
「……君の無尽蔵な胃袋事情に合わせて仕事をしていたわけではないが」
棚から地図の束を引き抜きながら、セリムはそう答えた。
言葉の端に微かに滲む柔らかさは、誰よりもアルフェリスが敏感に拾い取る。
「それに、私は教育者に向いているとは思えない。ただ……語っているだけだ」
語る。
選び抜いた言葉で、他者の心に火を灯すこと。
それは兄クラウスが得意としていた領域だった。セリムはその背を遠巻きに見ながら、常に自分を傍観者として位置づけてきた。
だが今、幼馴染でもあるオーブ姫の瞳が自分の言葉をまっすぐに受け止めてくる。
そのことが、彼の内部を静かに揺らしていた。
「へぇ、じゃあオレはその“ただの語り”で、だいぶ人間らしくなったかもな」
アルフェリスは窓辺に歩み寄ると、陽光の中でふと表情を和らげた。
「それに、姫も言ってたぜ。“セリム様の言葉は、剣よりまっすぐで、心に残る”ってな。……日記に書いてたぞ。可愛くハートまでつけてな」
「……勝手に人の日記を覗くな」
低く返した声は、呆れの中にどこか照れのような色を帯びていた。
笑えるほど、彼はもうここに染まり始めている。
兄であるクラウスを失ってから、色の無い世界を生きてきたかのようだったが真実を知ったことで新たな一歩を踏み出せているのかもしれない。
アルフェリスはその事実が単純に嬉しかった。誰かに慕われ、誰かの記憶に刻まれている。
「……」
窓の遥か向こう、城下町の街路には春の気配が宿っていた。
屋台の客引き、花売りの少女、笑いさざめく子どもたち――かつては気にも留めなかった景色に、彼の心がわずかに留まる。
かつての自分は、この風景を“無駄”と切り捨てていた。
だが今、無駄のなかに意味を見出そうとしている。
それが、兄が見た世界だったのか。
あるいは、オーブ姫が夢見る未来なのか。
そして――それを隣で笑って見てくれる、この赤き竜が示す道なのか。
「……少し、考えてみる」
そう呟いた彼の声は、もう迷いだけではなかった。
—―――――――――――――――――――――――――――――
咲き始めた花々が春の陽光に煌めくフェイミリアム城の庭園で、オーブ姫はそっと隣を歩くセリムに向けて、瞳を揺らしながら話し始めた。その瞬間、彼女の胸の内には言葉にできぬ想いが押し寄せていた。心臓が早鐘のように鳴り、呼吸が浅くなりそうになるのを必死に抑えながら、かすかな震えを声に隠しているのがわかった。
彼女の瞳は光を受けて揺れ動き、まるでその瞳の奥に隠された感情の波が溢れそうになっているかのようだった。
その声は柔らかく、時折震えを含み、まるで彼女の胸の内に秘めた不安と期待が溢れ出すかのようだった。言葉のひとつひとつが丁寧に選ばれているのが伝わり、しかしその声には隠しきれない切なさや願いが混ざっていた。
セリムの心にも、その声はまるでそっと触れるような温度で響き、彼女の抱えるものの重さを感じさせた。
「セリム様。わたくしには、まだ、あなたに教えていただきたいことがたくさんあるのですわ」
彼女は言葉を選びながらも、真剣なまなざしで彼を見つめる。 その瞳はただの師弟関係を超えた、もっと深い感情を隠せずにいた。──好き、という想い。尊敬と共に胸を締めつける恋心。
その目は彼をまっすぐに見つめながらも、時折どこか遠くを見ているような、まだ誰にも触れられたくない柔らかい部分を隠すように伏せられた瞬間もあった。
彼女の胸の奥で揺れ動く想いは、自分でも整理できぬほど複雑で、言葉にすることが怖くて、でも伝えたくて仕方なかった。
「わたくしは……大公家の者として、人としても――間違わぬ目を、言葉を、判断を、あなたから学びたいのですわ」
そう告げる彼女の声には、静かな決意の裏に甘く切ない響きが混じっていた。胸の内で震えるのは、セリムへの憧れ、信頼、そして秘めた心の葛藤だった。触れられそうで触れられない、その距離に胸が締めつけられ、言葉に力を込めることで自分を保っていたのだ。
彼女は心の奥底で、自分が抱くこの想いがただの「学び」だけではないことを知っていた。けれど、それを認めてしまえば、きっと手に負えなくなる——そんな恐怖も同時に抱えていた。
だからこそ言葉に力を込め、無理にでも自分を支えていたのだった。
セリムはその瞳に射すくめられ、思わず足を止めた。一瞬、言葉を失う。内心、困惑と戸惑い、そして微かな心の動揺が渦巻いた。彼女の想いは確かなものであり、しかし自分はどう応えればいいのか――答えは簡単には出せなかった。
胸の奥でざわつく気持ちを振り払い、理性を保とうとするも、心のどこかが甘く熱く疼き始めているのを感じていた。
その思いは彼の心にとっても未知の領域であり、戸惑いと共に少しだけ期待も混ざっていた。
ゆっくりと視線を落とし、俯いたまま小さな吐息を漏らす。
「教師というには、あまりに個人的な思いが入りすぎているかもしれません」
その声は、どこか自分自身の感情の揺らぎを隠しきれず、弱さを覗かせた。口に出すことで少しだけ心の重さが軽くなるような、それでいて言葉に詰まるかのような繊細な感触。
彼の中にある複雑な感情が、ぽつりぽつりとこぼれ落ちる音のように聞こえた。
「……昔のようにお話して?」
まっすぐな瞳でオーブはセリムに訴えかけるように呟いた。何も知らないこどもの頃に、共にこの城で育ったかけがえのない時を——その記憶に二人で還りたいと願っているようだった。
彼女の声には、純粋な願いと共に、触れたくても触れられない心の奥の寂しさが滲んでいた。
「……君が望むなら、もう少し傍にいよう」
彼の指先はそっと伸び、彼女の指に届きそうで届かない距離にあった。けれども、触れることはしなかった。 その微かな間合いのなかで、空気が震え、春の風が二人の間を静かにすり抜けた。
触れられない距離がかえって二人の間の緊張と期待を高め、心臓の音がはっきりと響いた。
その距離が彼女の胸の締めつけを和らげ、しかし同時に切なさも増していった。
オーブはその手の動きを見つめ、胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。触れられずとも、触れられそうな温もりを感じるその距離は、彼女の心を切なく満たした。
「ありがとうございます、セリム様……」
そう囁く声に、わずかな震えが混じる。彼女の瞳がそっと潤み、そして優しく微笑んだ。
その笑顔に、セリムは胸の中のもやが少しだけ溶けていくのを覚えた。
彼女の純粋で強い想いに応えようと決意しつつも、自分の心の中で生まれた感情に戸惑い続けている自分がいた。
微笑んだオーブはどんな花よりも明るく、美しかった。
—―――――――――――――――――――――――――――――
柔らかな陽光が書斎の窓から差し込む中、セリムは静かに机に向かっていた。
そのとき、軽やかな足音とともに、幼い頃から変わらぬ声が響いた。
「おっす、セリム。今いいか?」
振り返ると、そこには変わらぬ笑顔を浮かべたテオドールがいた。
幼い頃からの兄貴分であり、数々の困難を共に乗り越えてきた彼の存在は、言葉にできない安心感をセリムに与えていた。
「テオドールか……」
声に、どこかほっとした色が混じる。
テオドールはゆっくりと部屋に入り、セリムの隣に腰を下ろした。
「聞いたぜ、教師としてここに残るって決めたんだな」
セリムは一瞬、戸惑いを隠せなかった。心のどこかで、元保護者である彼が自分の決断をどう受け止めるか不安だったのだ。
けれど、その瞳に映る温かさに触れると、次第に胸のざわつきが和らいでいくのを感じた。
「ああ。殿下にはまだ教えなければならないことが、たくさんある」
その言葉には迷いも覚悟も混じっていた。
幼い頃から何度も励まされ、時には叱られたテオドールの姿が思い出される。
「お前は昔から真面目すぎるところがある」
テオドールは笑みをこぼしながらも、真剣な眼差しでセリムを見つめた。
「でも、それがセリムのいいところだ。俺はそれを誇りに思ってる」
セリムは視線を落とし、わずかに口元を緩めた。
「でも、肩の力を抜けと言われても……それが簡単じゃないんだ」
テオドールはふっと息をつき、優しく腕を伸ばした。
「わかってるよ。でもな、時には弱さを見せてもいい。お前は一人じゃないんだから」
その言葉に、セリムの胸の奥に溜まっていた緊張と孤独が少しずつほどけていった。
子供の頃、兄・クラウスと同じように家族のように支えてくれたテオドールの存在が、今も変わらず自分の心の支えであることを改めて痛感した。
「ありがとう、テオドール」
セリムの声はわずかに震えていた。感謝を改めて口にすることで彼自身、胸が熱くなったのを感じた。
テオドールは笑いながら肩を叩き、冗談めかして言った。
「おいおい、泣くなよ。俺はずっとお前の兄貴だ。どんな時も、そばにいるからな」
その約束に、セリムは小さく頷き、初めて心の底から安堵したのだった。
—―――――――――――――――――――――――――――――
静寂が支配する、石の階段。
その空間には、時間の流れすら存在しないかのようだった。
足音だけが、こつ、こつ、と凍てついた空間に反響する。
アカシアはゆっくりと歩いていた。ひとりで。
手には白百合の花束。もう、何度目の訪問だろうか。
季節はとうに移ろっているのに、この部屋だけはいつも、冬のままだった。
氷室――この場所を訪れる者は、今や彼女ただひとり。冷たい空気が肌を切るたび、まるで「生者は退け」と告げられているようだった。
けれど、アカシアにとってこの場所こそが現実だった。他のどこにも、もう居場所はなかった。
最奥、淡く輝く氷の台座。
そこに眠るのは、かつて彼女がただ一度、救いのように愛した男――クラウス。
「ねえ、クラウス。今日も……また、あのときの夢を見たのですよ」
その声は、氷に吸われるように消えていった。
だが、誰にも届かぬはずのその声には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。
「夢の中で、あなたはわたくしの手を取って……国も、名前も、全部捨てて、一緒に逃げてくれたのです。何も持たなくていい、ただあなたと一緒にいるだけで、わたくしは……」
言葉が、途切れた。胸の奥からこみ上げてくる熱に、声が追いつかない。
何が現で、何が幻だったのか――それすら、もう曖昧だった。
けれど、ひとつだけはっきりしている。
その“夢”こそが、いまの彼女にとって唯一の現実なのだ。
アカシアは膝をつき、白百合を棺に捧げる。指先が震えていた。冷気のせいではない。
彼女の心が、もう二度と融けることなく凍えたまま、そこに取り残されているからだった。
棺の傍に置かれた剣を胸に抱き寄せる。すでに何度も、何百回も彼の体のように愛撫したもの。
彼女は、まるで彼の声を耳元に感じたくて、ゆっくりと、恍惚とした表情で過去自身に向けられた言葉を呟いた。
――たとえ、直接手を差し伸べられずとも……少しでも……心のそばに……寄り添えたら……
「……あのときのあなたの覚悟……」
彼女は、凍てついたクラウスの唇にそっと自身の唇を重ねた。
氷が刺すように冷たいのに、そこには確かに、彼のぬくもりの幻があった。
現実に存在しない温もりにすがり、凍てつく愛に身を溶かすようにして。
「それが、私を……こんなにも壊すなんて、思わなかったのですよ」
声がかすれ、涙が頬を伝う。嗚咽の合間に、彼女の瞳が棺の中を見つめる。
その中に、もはや生きた人間の気配はなかった。
ただ、透き通った絶望が、永遠の彫像となって眠っているだけだった。
「……もう、ここには誰も来ないの」
父は沈黙を貫き、セリムは何も言わずに遠ざかった。
フェイミリアムに帰ったはずだが、彼の国からメルベールへ報せが無いことから、誰も彼女の嘘を暴こうとしない、という結論になったのだろう。誰も、真実を求めない。
「よいのです、それで……誰にも、邪魔されたくありませんから」
微かに浮かんだ笑みは、幸福にはほど遠く、どこか傷のように痛々しかった。
彼女の中にしか存在しない――壊れてしまった幻想を、必死に守ろうとする女の、最後の矜持だった。
「わたくしは幸せです。あの夜から、わたくしの時間は止まっている。
あなたはいつも、わたくしのそばにいる……だれもわたくしを、責めたりしない」
頬を寄せ、まぶたを閉じる。冷たさが皮膚を刺すたび、彼の体温を想像する。
凍えるはずのその感触が、なぜか、安らぎをもたらす。
そう錯覚しなければ、生きていけなかった。
「ねぇ、クラウス……もし、あのとき、わたくしが嘘をつかなかったら……
あなたは、いまも、生きていたと思いますか……?」
囁きは、どこか少女のように幼く、儚かった。問いは返されないと分かっていながら、彼女は待ち続ける。
その問いを抱きしめることでしか、自らの罪を保つことができなかった。
ふと、凍てついた男が、彼女を見返したような錯覚を覚える。
それはまるで――鏡のように冷たい、狂気を湛えた瞳だった。
「ねぇ、クラウス……もう、ほかにはなにもいらないの」
その声だけが、氷室に静かに、永遠に響いていた。
凍りついた夢のなかで、誰にも壊されぬ愛の幻とともに、彼女の時間は確かに――止まっていた。




