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白い獅子の骸  作者: sume
第六章
32/33

天秤

 窓はわずかに開かれていた。


 夏のメルベールの夜気は思いのほか冷たく、蝋燭の火を細く揺らしている。


 セリムは椅子に腰かけたまま、机に肘をつき、額を押さえていた。




 頭の芯に、氷のような感覚が残っていた。


 今夜、地下室で見たもの。クラウス――兄の、凍りついた遺体。


 まるで時間が止まったかのように、彼は眠るような表情をしていた。


 十年の歳月を、そのまま封じ込めたような、静謐な死だった。




 それを生涯の宝のように抱え続けていた女の想いを、セリムは拒めなかった。




「……どうすればよかったのだろうか、兄上」




 誰に届くでもない声を、闇に向かって吐き出す。




 アカシアの語った真実。


 愛に取り憑かれた女が、死者を奪い、自分だけの世界に閉じ込めた。


 歪んでいた。狂っていた。だが、その狂気は紛れもなく、ひとりの人間が全身で抱えた悲しみと渇望の結晶だった。




 あれは――誰にも裁けぬ心だった。




「なにか、結論が出たか?」




 声に振り返ると、いつの間にかアルフェリスが背後に立っていた。


 いつもと変わらぬ口調。手にはカップを二つ持っている。




「……寝ないのか」




「こんな夜に眠れるほど、図太くはないよ」




 そう言って、アルフェリスは勝手に窓辺の椅子を引き寄せ、片方のカップをセリムに差し出す。




「冷めたミルク。砂糖も入ってない。文句は受け付けない」




「……ありがとう」




 ひと口、口に運ぶ。熱はなくとも、内臓にすっと染み込んでいく。




 二人の間に、しばし沈黙が降りた。




 その沈黙を破ったのは、やはりアルフェリスだった。




「……オレも、見ちまったからな。


 凍りついたあいつを見てさ…ああ、もう戻らねぇんだって……変な話だけど、どこかでまだ、信じてなかったのかもしれない。


 クラウスが本当に死んだんだって、十年経ってようやく実感したよ」




 セリムは黙ってその言葉を受け止める。


 アルフェリスの横顔は、蝋燭の光に淡く照らされていた。




「クラウスってさ……最後の瞬間まで、誰かを守ることだけ考えてたんだなって思った。


 あの姫のことも、きっと『信じてた』なんて一言じゃ済まない……。


 信じた上で、背負って、それでも“選んだ”んだよ、自分の意志で。……そういう奴だったろ、あいつ」




 そういう意志の強さを感じ、面白い人間だと思ったからダリアブルクからフェイミリアムへ向かうときに同行すると決めたのだ。


 アルフェリスは永遠にも近い長い人生の中で短くとも強い光を放つ人間に強く心惹かれる。自分は命が長いからこそ、何事も全力を出したり必死にはなれないことを知っているから。自分にないものに飢えているともいっていい。




 セリムはゆっくり目を閉じた。


 兄の微笑、声、遠い日の背中。


 まっすぐで、誰からも敬愛され、常に誰かのために剣を取る人だった。




 クラウスほどの騎士が剣を抜かなかったのは、剣を抜いてしまえば状況的に国際問題に発展すると判断したからであろう。


 フェイミリアムの騎士とメルベール大公が剣を構えて対峙している様子を何も知らない者が見れば、当事者にそのような意図が無い場合でも戦の口実になりかねない。


 長年の戦乱から解放されたばかりのローザリアの平穏を乱すことは…誰よりもクラウス自身が望んではいなかったからだ。


 故国を無くす者の気持ちは誰よりも理解しているといっていい。


 大勢を救うために、たったひとりの家族であるセリムを捨てたともいえる行動だがセリム自身には兄を責める気持ちなどなかった。




「……兄上は、あの夜、アカシア姫はもちろん、フェイミリアムもメルベールも…すべてを守るために命を落としたのだろう。


 そして彼女は、その代償に十年を、狂気と共に生きた」




 ミルクのカップを見つめながら、セリムは静かに言う。




「それが……彼らの“答え”だったのだろうか」




「さあ……でも――」




 アルフェリスは立ち上がり、窓をそっと閉めた。




「その答えに向き合うのは、今のセリムだ。どうする?」




 返答はなかった。


 だが、セリムの中で、何かがゆっくりと、確かに動き始めていた。




ーーーーーーーーーーーーーー




 午後の陽が傾き始めたころ、フェイミリアム城の離れにある石造りの小広間に、重苦しい空気が流れていた。ここは表向きには使用されていない旧謁見室。壁には古い紋章が飾られ、幾度の政変を経ても変わらずその場に在り続ける重厚な椅子が円形に並べられている。






 ヴァレリー大公、テオドール、老文官マクシム、オーブ姫、アルフェリス——セリムが信頼する五人が、彼の呼びかけに応じてこの場に集まっていた。






 扉が静かに閉ざされると同時に、セリムはゆっくりと歩みを進め、円の中心に立った。背筋は伸びているが、彼の内に渦巻く葛藤と覚悟は、目の奥に宿る影となって見えた。




「……墓荒らし事件と、兄が亡くなった理由について報告します。」






 言葉が落ちると、場にいた全員が静かに息を呑んだ。マクシムはわずかに眉をひそめ、テオドールは身じろぎひとつせず、ただセリムを見つめていた。オーブ姫は膝の上で手を組み、指先がわずかに震えている。






 アルフェリスだけが、壁に凭れかかりながら、視線だけをセリムに向けていた。アルフェリスは他の皆とは違い、すでに真実を知っているが、無遠慮にも見えるその態度の裏に彼なりの緊張が滲んでいた。




 長い旅路の末、ようやく辿り着いた真実。それは、十年前の悲劇の根幹を穿つものだった。クラウスの死因――それは、偶然の事故でも、敵国の陰謀でもなかった。




 「――兄を殺したのは、メルベール大公です」




 静かに、だが確かにその言葉は落とされた。




 一瞬、部屋の空気が揺らいだ。


 全員その事実が公表された場合、ローザリアにどのような影響があるのか瞬時に理解した。




 テオドールの眉がひくりと動く。すぐに口を開きかけたが、言葉が喉で絡んだまま出てこなかった。その手は、無意識のうちに膝上で拳を握っていた。




 「……アカシア姫と偶然お話されていた現場を…密会だとメルベール公が誤解なさった、と」




 マクシムの低い声が続く。老いた瞳の奥には、かつて仕えたクラウスへの想いと、真実を知った者としての責任の重みが滲んでいた。




 セリムは静かに頷いた。喉の奥が焼けつくように熱い。唇が震えそうになるのを堪えて、言葉を選ぶ。




 「……姫が止める間もなく兄は刹那の間に命を奪われたそうです」




 続く言葉は、胸の奥に引っかかって出てこない。


 代わりに、ふっと乾いた声がした。




 「十年だ。……よく隠してこれたもんだな」




 アルフェリスだった。飄々とした態度は変わらないが、その目は鋭い刃のように細められている。普段は誰に対しても軽口を叩く男だが、今だけは違った。セリムと共にアカシアから真実を聞いているため、落ち着きがある。




 「その姫君の策略に乗せられて、わざわざ真相掘り起こす羽目になるとはね……皮肉な話だよ」




 テオドールは低く呻くように息を吐き、拳を膝の上で握りしめた。




「……つまり、あの時…十年前、メルベールで俺たちがクラウスが刺されたと聞かされた時点で、アカシア姫は全てを知っていたんだな?」




 セリムは頷く。




「はい。メルベール公に兄を殺された直後、姫はその場にいました。しかし、彼女は『クラウスが自ら命を賭して姫を守った』と偽りの報告をしました。事実を、十年ものあいだ……隠し通してきたのです」




 「……俺たちに、どうしろって言うんだ」




 低く、苦しげな声でテオドールが問うた。クラウスの親友として、長年真実を知ることすら許されず、ただ忠義に身を捧げ続けた男の問い。




 「……アカシア様やメルベール公に裁きを下すべきなのでしょうか?」




 オーブ姫が静かに問う。真紅のドレスの裾を揺らしながら立ち上がり、その瞳をセリムに向ける。兄を奪われた苦しみと、大公家の人間としての責任。その狭間で揺れる感情が、張りつめた声音に滲んでいた。




 セリムは、そっと目を伏せた。




 ――アカシア姫は、あの日から何かを償い続けている




 目を閉じると、春の白花の儀で祭壇に立つ彼女の姿が蘇った。揺れる美しい髪、完璧な所作の中にあるどことなく感じる淋しさ。




 「彼女が語らなかったのは、保身のためではない。兄の名誉を守るためだったと聞いています。」




 誰も、言葉を発しなかった。セリムの言葉が、全員の胸に重く沈んでいく。ヴァレリー大公は長い沈黙の後、重々しい声で問うた。




「ではセリム、そなたはこの真実を、どう扱うつもりだ」




 セリムは短く息を吸い、目を閉じた。何度も繰り返し考え、眠れぬ夜を過ごし、心の底から搾り出した結論。




「……公に今、メルベール大公とアカシア姫をともに糾弾すれば、要らぬ火種が生まれます。特にアカシア姫については……我々の手で裁くべきではないと、私は思います」




 オーブがわずかに顔を上げた。彼女の瞳には、理解と驚き、そしてどこか救いを求めるような色があった。




「なぜ?」




「彼女は、愛した人を目の前で失い、その場にいた者に脅される形で沈黙を選んだ……。確かに罪ではありますが、私にはそれを断罪できるほど、冷たくも、強くもなれません」




 テオドールが口を開いた。




「……本気で言ってんのか、セリム」




 その声音は抑えられていたが、怒りと戸惑いが滲んでいた。




「十年、クラウスが死んだ意味を捻じ曲げてきたんだぞ?そのせいで、どれだけお前が、俺たちが……」




「だからこそです」




 セリムは遮った。声が震えていた。




「彼女を断罪することは、兄上の選んだ愛と、その想いを否定することになる。……私は、あの人の生を、その最期を、そんなふうに汚したくはありません。」




 静寂が、再び落ちた。マクシムはしばらく瞑目していたが、やがて静かに言葉を落とした。




「……貴殿がそう決めたのであれば、私は従います。あの御方の弟君が、真実をもって導き出した結論ならば、それが正しいのでしょう」




 ヴァレリー大公はゆっくりと席を立ち、セリムのもとへ歩み寄る。




「この真実は、我らの胸に秘そう。だが必要な措置は取らねばならぬ。……セリム、そなたの覚悟、しかと受け止めた」




 セリムは頭を垂れた。安堵と痛みの混じった吐息が、唇から漏れた。




 その時、アルフェリスがぼそりと呟いた。




「……ま、結局お前は“選んだ”んだな。兄貴じゃなくて、未来を」




 その声音には皮肉はなかった。ただ、長く寄り添ってきた弟ともいえる相棒の選択を、確かに理解したという温かさが、あった。

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