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白い獅子の骸  作者: sume
第六章
31/33

氷室

 兄の死の真相を知ってセリムはまだ動揺を隠せずにいた。だが不思議と要因を作った目の前の女性を哀れとは思えど、憎む気持ちにはなれなかった。


 語られた真実を自らの中に順番にセリムは受け入れた。




 「ありがとうございます、公女殿下……ですが、まだ解決できていないことがあります。」




 クラウスが亡くなった十年前の真実はアカシアから語られた。真実を当事者である彼女とメルベール大公が伏せていたのならば、フェイミリアム大公やクラウスの部下が知らないのも無理はなかった。


 だが、セリムが調査を始めるきっかけとなったクラウスの墓荒らしの件は誰が何のために行ったのかいっこうに手がかりが掴めていないのだ。 




 長い沈黙のあと、アカシアはゆっくりと立ち上がった。




 「……ついてきてください」




 その声は囁きのように小さかったが、反響するように部屋に届いた。




 セリムは頷くでも、言葉を返すでもなく、ただ椅子から静かに腰を上げた。椅子の脚が石床をこすり、音を立てる。アルフェリスも一瞬だけアカシアの横顔を見つめたが、何も言わず、セリムの半歩後ろを歩くように着いてきた。




 アカシアは振り返らずに歩き出す。セリムもその背に従うようにして、無言のままあとを追った。




 アカシアの住まう塔は城の他の場所よりも冷えていた。もともとこの塔は貯蔵庫として使用されており、地下は氷室として使用していたらしい。


 本来であれば姫君が住まうような場所ではないのだが、塔の入口はひとつしかなく、監視しやすい面からアカシアはここに半ば軟禁されているのだ。クラウスと逢瀬を重ねたと実父の逆鱗に触れてから、十年もの間。


 三人の足音だけが階段に響き、どこか廃墟に似た気配を纏っている。


 進むたび、壁に掛けられた古びた織物や、古い燭台が通り過ぎてゆく。蝋燭の揺れる光が、アカシアの髪とドレスの裾を淡く照らし、彼女の歩みに幻のような静けさを添えていた。




 セリムにとって、この城は初めて訪れる場所だった。


 けれど、そこかしこに漂う空気には、かつて兄が踏みしめた足跡や、過ぎ去った時の残響があるように思えた。


 石の壁、沈黙、冷気――それらすべてが、名もなき記憶のように彼の胸を締めつける。




 やがて、階段の行き止まりーー地下への扉の前でアカシアの足が止まる。


 以前アルフェリスが探索していたときに辿り着き、アカシアに見つかった場所だ。


 彼女は手をかざし、何事かを呟いた。術式が静かに起動し、空気が震えた。


 無機質で重厚な扉が淡く光を帯び、重々しい音とともに、奥へと開いていく。




 「ここの存在を知るのは、大公家の者のみ…父とわたくしだけ……」




 アカシアの背が小さくそう言った。




 現れたのはさらに狭い螺旋階段だった。ひときわ冷たい空気が、地の底から吹き上がってくる。氷の気配と、魔力の匂い。ただの氷室にしては温度が低すぎるほどの冷気がセリムとアルフェリスを襲った。


 アカシアは先に足を踏み入れ、セリムもその後を追った。




 どれほど降りたかわからない。やがて視界が白く霞むほどの冷気に包まれた頃、ふたりは一つの扉の前にたどり着いた。




 銀と黒の紋章が刻まれた扉。手をかざしたアカシアの指先が光を帯びると、扉はまるで霜が割れるような音を立ててゆっくりと開かれていく――。






ーーーーーーーーーーーーーーー




 扉の向こうには、息を呑むほどの静寂があった。




 そこは石造りの地下室。冷気が肌を刺すように張り詰め、壁一面には複雑な魔術式が描かれていた。目を凝らせば、幾重にも重ねられた氷の結晶が光を反射し、まるで神殿のような荘厳さすら漂わせている。




 中央には一つの氷の台座。その上に、純白の布に包まれた躯が、まるで眠っているかのように横たわっていた。




 クラウス――セリムの兄。




 その顔は、まるで眠っているように穏やかだった。氷の魔術によって完全に保存され、皮膚の張りや睫毛の一本にいたるまで、生きていた頃のまま。頬には微かな紅が残り、瞼は静かに閉じられている。まるで、今にも目を開けて、ふと笑みを浮かべてくれるかのようだった。




 「……十年間、ずっとこの場所で眠っておられます」


 アカシアは静かに告げた。


 氷の台座の前に立ち、手を胸の前で組みながら氷を見つめている。




 セリムは言葉を失った。




 兄の遺体がここにある。この場所に、十年もの間、誰にも知られることなく、眠っていた。




 セリムは、冷気に満ちた空間で、自身の心臓だけが熱く脈打っていたように感じた。思考が追いつかない。ただ目の前にある事実が、全ての理屈を凌駕していた。


 あの日、棺の中に納めたときと変わらぬ姿の兄がいた。




 その横で、アルフェリスは珍しく顔を強張らせていた。普段は何事にも動じない彼ですら、言葉を飲み込んでいる。




 「フェイミリアムでの葬儀が終わったその晩……私がここへお連れしました。あの方を、この手で」




 アカシアの声には、ひとかけらの揺らぎもなかった。




 「私の魔術で、この部屋を、氷の時の牢に変えました。誰にも見つからないように、誰にも触れさせないように……」




 ふっと、目を細めた彼女の表情は、まるで安らぎに包まれているようだった。




 「……ここは、私とクラウス殿だけの空間です。十年間、朝も夜も、この方とともに生きてまいりました。……それだけで、十分でございました」




 その言葉に、セリムは思わず視線を逸らしそうになった。




 十年――。




 兄の死を己の中で封じ込め、背を向けるように過ごしてきた自分と、こうしてただ一人の死者と向き合い続けていた彼女。どちらが真実と向き合っていたのか……分からなかった。




 凍てついたクラウスの顔を撫でる彼女の指先は情事のときのように艶めかしく慈しむように這っている。




 氷の空間でクラウスは静謐そのものだった。安らかだった。だが、それが逆に、胸を締めつける。




 セリムの中に、幾重にも絡みついた疑問が渦巻く。




—―何故このようなことを……何故、兄は……。




 「ですが……貴方様のお噂を耳にしてから、私は初めて……自らの行いを、見つめ直すようになりました」




 振り返ったアカシアの瞳には、淡く揺れる光があった。




 「クラウス殿に、ただ一人のご家族がいたと知って……わたくしは、向き合わなければならないと思いました」




 その声は、震えてはいなかった。だが、確かに奥底には葛藤の影があった。




 「セリム様。墓荒らしの件は、私が仕組んだものです。すでに空となったあの墓を暴かせれば、その違和感に気付く者がいる。そしてそれを耳にした貴方が…きっとこの地に辿り着くと、そう信じておりました」




 その告白に、アルフェリスが小さく息を呑んだのが聞こえた。




 凍りつくような沈黙が、地下室を包む。




 「私は間違っていたのでしょうか?」


 氷の台座の傍らで、アカシアは膝をつくと眠るクラウスの顔を愛おしそうに眺めながら、再び撫でるように手を添えた。




 セリムはその姿を見つめた。愛ゆえに壊れてしまった女、セリムにはそう見えた。






「……愛は…時として罪となりましょう。


けれど、それでも、彼と共にいられた日々が、ただ罪だとも思えなかった。


それが、どれほど歪んだ想いであったとしても――


それを、裁いてくださるのは……あなたしか、いないのです」




 それは、祈りでも、赦しを乞うでもない。


 たった一つの答えを受け入れる覚悟を湛えた、氷よりも冷たい問いだった。




ーーーーーーーーーーーーーーー




 沈黙が落ちた。




氷室の空気は張り詰めた弦のように静まり返り、凍てつく空気が皮膚を刺す。けれど、その冷たさ以上に、アカシアの問いはセリムの胸を鋭く貫いていた。




 「……私を、どう裁かれますか?」




 その声音はあくまで穏やかで、取り繕うことのない真摯さに満ちていた。まるで運命の裁定を、静かに、しかし確かに受け入れようとしているかのように。




 セリムは息を呑んだ。冷気が肺に突き刺さる。思考が絡まり、答えが見つからない。答えてはいけない気さえした。




 氷の上に横たわるクラウスの姿が、セリムの目に焼きついていた。美しいままの肉体。時の流れを拒絶するように眠る兄の面差しは、死の静けさよりも、平穏そのもののようにさえ見えた。




 皮膚の下に薄く血の気が残っているかのような錯覚に囚われる。今にも目を開けて、あの穏やかな声で名を呼ばれそうで――けれど、それは決して叶わない幻想だった。




 (……兄上)




 氷に護られ、永遠に囚われた兄の姿は、神聖であると同時に、どこか残酷だった。


 凍りついた時間の中で、兄はただひとり、生の余韻をまとったまま眠り続けている。




 「……なぜ、私をここへ?」




 沈黙の果てに、セリムは問いを返した。それは裁きの言葉ではなく、理解を求めるための問いだった。




 アカシアは目を伏せ、クラウスに視線を落とした。


その瞳は、氷に映った過去を見つめるようであり、同時に、己の罪を直視するようでもあった。




 「私は……ずっと、自分のしてきたことに怯えておりました。ですが、後悔はしていないのです。むしろ、これが……クラウスがわたくしの、救いでございました」




 彼女の白い指が、クラウスの唇に触れた。その体は冷たすぎて、アカシアの体温をも下げ白い肌からさらに生気が失われていくように見えたが、彼女は気にする様子は一切ない。




 (救い……?)




 その言葉に、セリムの胸に重たいものが沈んだ。  兄の死が、誰かの心を救っていた。その事実に、どこか抗いがたい感情が渦巻く。  納得することはできない、だが否定することもできない――そんな、形の定まらぬ感情だ。




 「クラウス殿の遺体を盗み、この城にお連れしたこと。十年間、魔術を施して朽ちぬよう保存していたこと。――そのすべてを、あなたに見ていただきたかったのです」




 まるで懺悔にも似たその言葉は、哀しみと安堵の混じった響きを帯びていた。  十年間、誰にも明かすことなく、ただ一人で兄と過ごしてきた日々。  愛と狂気の境界を、彼女はどれほどの孤独とともに歩いてきたのだろう。




 「あなたが、クラウス殿の弟でなければ……ここまで来てくださらなければ、私はきっと、永遠にこのままで……」




 そこで言葉を止めたアカシアは、ゆっくりとセリムへと顔を向けた。




 「けれど、あなたは来てくださいました。クラウス殿の家族として、私の前に。だからこそ私は、問いかけねばならないのです。……あなたなら、私をどう裁かれますか?」




 その問いは、今度こそ、逃れようのない審判としてセリムの胸に突きつけられた。




 アルフェリスが一歩後ろで沈黙を守っているのが分かった。彼は何も言わず、ただ主の決断を待っていた。  いや、違う――決断するべきは、セリム自身なのだ。




 (私は、彼女を裁くべきなのか?)




 十年もの間、兄の遺体を秘かに守り、誰にも明かすことなく共に過ごしてきた彼女の姿。狂気と、愛情と、後悔とが渦巻くその生き様を前に、単純な善悪の物差しなど意味をなさない。




 セリムの内側で、冷たく固められていたはずの倫理観が、じわりと溶け始めるのを感じた。  正義とは何か。常識とは何か。人の生とは、死とは――兄の死を前にしたこの氷室では、すべてが問い直される。




 (私が彼女を裁くとすれば、それは……何の名の下に?)




 クラウスの肉体がそこにある。  ただそれだけで、すべてが揺らいでいく。




 セリムの脳裏に浮かぶのは、兄の最後の姿。そして、彼の背中を追って生きてきた自分自身の道のり。




 この問いへの答えは、決して軽いものではない。  けれど、今ここで、彼女の問いに応えなければ――彼は、自らの道をも見失うことになる。




 氷室の天井から、雫が一滴、ぽとりと落ちた。  冷たいその音が、静寂のなかでひときわ大きく響く。






ーーーーーーーーーーーーー




 クラウスの遺体の傍らに佇むアカシアは、まるで祭壇に捧げられた巫女のように静かだった。


 セリムが近づくのを待っていたのか、それとも――決して背を向けられない想いに、今も縛られているのか。




「セリム様……」




 振り返った彼女の声は、氷室の静寂に溶けるようにやわらかく、けれど確固とした芯を宿していた。




「……私がこの十年、してきたことを、あなたはどうお考えになりますか?」




 その言葉は、あくまで丁寧で、あくまで穏やかだった。


 けれど、その眼差しは正面から逃げなかった。




 氷の結界に守られたクラウスの亡骸が、光を受けてわずかに輝いている。


 凍てついた空間にあってなお、その姿は崩れることなく、むしろ生者のような気配すら宿しているように思える。




 セリムは答えを急がず、視線を静かに彼の兄へと移した。


 あの日の葬儀の姿が、鮮明に脳裏によみがえる。


 眠るような顔。冷たくなった手。もう触れることの叶わない存在。




 その兄が、今、目の前にいた。




 ――いや、これは「在る」のではない。


 彼は確かに、もう逝ってしまったのだ。


 その事実を突きつけられるほどに、皮肉なほどに「変わらぬ姿」でそこに横たわっている。




 セリムの胸に、さまざまな想いが渦巻く。


 怒り、困惑、悲しみ、安堵――そして、理解。




「……あなたは、償いたいのですか?」




 問うたセリムの声には、糾弾も断罪もなかった。


 ただ、静かに、真意を探るような眼差しがそこにあった。




 アカシアはほんの僅かに笑ったようだった。


 それは、悲しみを含んだ微笑。けれど、自嘲ではなく、どこか晴れやかですらあった。




「いいえ。私は……償いのためにここにいるのではありません。


 私は……この人と、共に在りたかった。ただ、それだけです」




 正気の中の狂気。狂気の中の正気。


 アカシアの語る言葉は、その両方を孕んでいた。




「けれど、私のしたことは、きっと許されるべきではありません。


 だから、セリム様。どうかあなたの手で、私を……裁いてください」




 ついにその言葉が放たれた。




 決して声を荒げることなく、詫びるようでもなく、ただ、静かに。


 自分の行いと向き合い、それでもなお、選び取った結末を他者にゆだねるその姿は、ある意味で凛としていた。




 「自分の行いが死者への愚弄になるとも、遺族の方に対して大変失礼なことだとわかってはいても、あなたに判断を委ねるわたくしを……卑怯だと思ってくださって構いません」




 セリムの胸に、氷の針のような痛みが走る。


 クラウスを想い続けた十年。


 その思いを支えてきた女の、壊れかけた魂。


 それを「裁く」などという言葉で断じてよいものか――いや、それでも、今ここで答えねばならない。




 背後に控えていたアルフェリスは、黙して見守っている。


 何一つ言葉を挟まず、ただ、主君と王女のやり取りを見届けることに徹していた。




 沈黙が、重く落ちる。


 だが、その静寂こそが、最も強い問いであり、最も深い答えであった。











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