微熱
メルベールの夏は静かだった。
陽差しは確かに強いはずなのに、空気はどこか冷ややかで、肌の奥にまで染み込んでくる。
風が草を撫で、石造りの街の路地にささやくような音を残してゆく。
クラウスは、ヴァレリー大公のすぐ背後、決められた距離を保って歩いていた。
白銀の甲冑に覆われた身体はよく鍛えられているはずなのに、妙に落ち着かなかった。
──息が浅い。
心拍が速まっているのを、自分でもわかっていた。
剣を抜くような危機ではない。だが、何かが近い。重たい空気の圧が、ゆっくりと胸の上に積もってくる。
整列する兵。無言のまま見下ろす城砦の石壁。
それらに込められた意味を、クラウスは理解していた。
それは警戒ではない。だが、信頼とまでは呼べぬ何か。
あの儀――白花の儀がいかに政治的だったか、それをこの無言の空気が物語っていた。
(……我々は、歓迎されているのだろうか?)
思わず疑問が浮かぶ。
すぐに首を横に振った。護衛の顔に私情は不要だ。
ましてや、目立ってはいけない。大公の背後で、影のように存在し、気配すら抑えねばならない。
—―――――――――――――――――――――
大理石の廊下を進むあいだ、クラウスはちらりと左右を見た。 調度は質素ながら、細部にまで手が入っている。 特に窓辺の彫刻や、敷かれた絨毯の文様には、意志のようなものを感じた。
この城は、ただ冷たいだけの場所ではない。
──彼女もこの廊下を日々歩いているのだろうな……
白花の儀以来、あの瞳を忘れられなかった。
燃えるような、あるいは氷のような眼差し。
静かで氷のように美しい儚い外見からは想像できない、奥に秘めた何か熱い感情。
視線を交わしたのは、ほんの一瞬。それでも、焼きついた。
(……名を呼ぶことすら憚られる)
自嘲が胸の奥でわずかに笑った。彼女は公女。自分はただの他国の騎士。
影が、陽のもとに出る資格などない。
公式な挨拶が済み、大公が謁見に臨む間、クラウスは控えの間に待機していた。ここからは城中の動きが一望できる。衛兵の交代、使用人の足音。
そして──遠く、回廊を渡る姿。
絹の裾が揺れた。
顔は見えなかった。けれど、わかった。彼女だった。
立ち止まり、こちらを見た気がした。まるで偶然を装ったような、しかし確実な気配。
クラウスは、動かなかった。いや、動けなかった。
目を伏せた。このまま目を合わせれば、何かが始まってしまう。
それが恐ろしかった。
それが、望んでいることだった。
けれど……目を合わせてしまった。
クラウスは微笑みを浮かべるしかできなかった。
—―――――――――――――――――――――
その晩、当直の巡回を口実に、クラウスは一人で外郭の上を歩いた。
北の空には薄雲が流れ、月が揺れていた。
「……弱いな、私は」
自嘲気味に呟いた声は、風にさらわれて消えていった。
戦場では一切の躊躇もなく剣を振るえる。
だが、あの瞳に焼かれた記憶だけは、未だ剥がれ落ちない。
仮に、彼女が手を伸ばしてきたとして── 自分に、それを拒むだけの意志があるのか。
それとも……。
(……この手で、炎を掴もうとしているのか)
夜風が冷たい。 そしてどこか、甘い気配が混じっていた。
それは、終わりを告げる夏の、最後の香りだった。
—―――――――――――――――――――――
宴が終わりに近づき、華やいだ空気の余韻が宮殿の奥へと静かに流れ込んでくる頃、クラウスは足を止めていた。静まり返った控えの間の前に立ち、その扉の向こうにいる人物の姿を思い浮かべながら、心の奥に沈めていたはずの感情が、微かに波立つのを感じていた。
――公女殿下は、今、何を思っておられるのだろうか。
その問いが、彼自身の中からふいに立ち上がる。
騎士として、主の敵味方を見極め、感情を殺し、義務を貫く。それが自らに課した在り方であり、幾度となくその誓いに身を置いてきた。だが、あの夜の、わずかな言葉と眼差し――それらが、未だに胸の奥に残り、消えずにいるのだった。
軽く息を吐き、扉の気配を感じ取って中へ足を踏み入れる。視界に入ったのは、月光を受けた白いドレスの裾、そして椅子に腰かけるアカシア公女の静かな後ろ姿だった。
彼女が振り返る。
その瞳が、こちらを捉える。
途端に、胸の奥が一瞬、強く打ち鳴らされた。
「クラウス殿、再びお会いできるとは思っていませんでした。」
――その声音に、ほのかに滲む安堵と迷い。彼女もまた、今なお何かに囚われている。
「殿下こそ、お疲れのご様子でしたので…無事でいらっしゃるか、少し気になりまして。」
そう返した自分の声が、あまりにも整いすぎていて、かえって空虚に響くのを、クラウスは内心で自覚していた。
(違う、これは言い訳だ)
気になったのではない。確かめたかったのだ。あの眼差しに、未だ揺らぎがあるのか――そして、自分がその源となっていないことを、ただ祈るような思いで。
「……お気遣い、痛み入ります。」
彼女の返答に、礼を交わす。
そして、訪れる静寂。
(この沈黙は、拙い)
そう思うのに、何も言葉が続かない。距離を保つことには慣れていた。むしろ、それこそが己の術であり、生き方だった。けれど、この部屋の空気は、ただの沈黙ではない。
彼女が踏み出した。
ほんのわずか、ただ一歩。それだけで、空気が変わった。
「クラウス殿……先日の夜のこと、覚えていらっしゃいますか?」
まっすぐな問い。
「はい。あの中庭でのことですね。」
即答だった。それ以外の反応など、考えられなかった。
あの夜を、忘れるはずがない。
言葉を交わした瞬間に、彼女の瞳が、何かを決意していたのを見た。それが自分にとって、どれほど危うい感情を呼び起こしたか。クラウスは、誰にも告げることなく、何度もあのやり取りを反芻していたのだった。
「あなたは、冷徹であることを選んだと言いました。感情に流されず、務めを果たすために、と。」
彼女の声が続く。避けようとすればできるはずの言葉だ。だが、今はそれができなかった。
「けれど……私は、あれ以来ずっと考えていました。人が感情を抑えたまま、本当に何かを守れるのでしょうか?」
(感情に、守る力があると……?)
思わず、心の奥に揺れが走る。騎士の務めは理をもって果たすもの。情に傾いた判断は、主に災いをもたらす。そう信じてきた。だが、それが本当に唯一の道なのか――。
「公女殿下は、私に人としての弱さを求めておられるのでしょうか。」
問い返しながら、自身の声がどこか曇っていることに気づく。
「違います。」
彼女は強く否定する。その真っ直ぐな声音に、胸を貫かれる。
「私は……あなたが、ただ誰かの盾や剣としてだけではなく、ちゃんと“あなた自身”でいてほしいと思っているだけです。」
――“あなた自身”。
その言葉が、頭から離れない。自分自身とは、いったい何だ。剣となることでしか存在の意味を見出せない己に、そんなものは残っているのか。
「……私は、すでに“誰か”ではなく、“何か”になることを選びました。」
選んだのだ。誰に強いられたわけでもなく、自らの意思で。
「それは、今さら変えられるものではありません。」
それが本心だった。けれど、そう言った瞬間、胸の奥にかすかな痛みが生じた。
「では、誰かがあなたのために何かをしたいと思ったときも……それでも、あなたの心には届かないのでしょうか?」
その問いは、まるで懇願のようだった。
彼女の声が、震えていた。恐れているのだ。自分の想いが、拒まれることを。いや、拒絶されること以上に、その想いすら届かぬ場所に自分が立っていることを、彼女は怖れていた。
(何故、そんなふうに……)
言葉が出ないまま、少しだけ目を伏せた。
「そのときは……ありがたく思うでしょう。ただ、それが私を変えることはないと思います。」
これ以上、踏み込ませてはならない。
そう思う一方で、その言葉が彼女を傷つけたことが、はっきりとわかった。彼女が目を閉じ、静かに微笑んだ時、その笑みに宿る感情の色を、クラウスは決して見過ごせなかった。
「……本当に、頑固な方ですね。」
苦笑ではない、あきらめでもない。そこにあったのは、たしかな「想い」だった。
そして、あの言葉――
「……それでは、あなた自身は、どこにいるのですか?」
痛烈な問いだった。
クラウスは、心の中に生じた穴のような感覚に、はじめて気づかされた。
己自身など、もう存在しないと思っていた。けれど彼女の言葉は、その空虚の奥に残された小さな灯を、探し出すように差し込んできた。
「寂しさは……慣れます。殿下。」
かすれそうになる声を押し出すようにして、そう告げる。
それは虚勢ではなかった。本当に、慣れていたのだ。孤独も、犠牲も、忘却さえも。
「そんなものに、慣れないでいただきたいのです。」
まっすぐに告げられたその願いに、クラウスはどれほど心を揺らされたことか。
(それでも、私は……)
「私は、いずれ忘れられる者です。」
再びそう言うしかなかった。
「名も、姿も、功も――主のために尽くし、そして消える。騎士とは、そういうものです。」
そうでなければ、心が耐えられないのだ。
「わたくしは、忘れません。」
雷のように鋭く、美しい言葉だった。
思わず目を見開いた自分に気づき、内心で動揺を隠す。
「だから……私は、あなたの味方です。たとえあなたが、それを望まなくても。」
主でありながら、そう言う彼女の強さが、あまりにもまぶしかった。
そして、告げられる最後の問い。
「あなたは……今のままで、本当に、幸せなのですか?」
(幸せ、だと……?)
思考が止まる。
自分が幸せかなど、考えたこともなかった。
「その問いの答えを――もし、わたくしに教えてくださるなら……今夜、部屋までお越しください。」
言葉の意味をすぐに理解できないほど、その提案は静かで、けれども決定的だった。
「公女としてではなく、ひとりの人間として……あなたと、言葉を交わしたいのです。」
その声が、胸の奥に焼きついた。
アカシアが回廊の奥へ消えていく。
クラウスは、その背を追わなかった。
ただ、その場に立ち尽くしながら――
胸の中で、何かが崩れ始めているのを、はっきりと感じていた。
—―――――――――――――――――――――
宴が終わったのは深夜のことであった。
煌びやかな灯りがひとつ、またひとつと落とされ、宮殿の空気は眠りの気配に包まれてゆく。
廊下を吹き抜ける風の音さえも、今宵はどこか遠慮がちで、石壁に反響する足音がやけに大きく感じられた。
クラウスは、自室の扉の前で足を止めた。
手を掛けたまま、しばらく動かない。
視線は扉の木目ではなく、もっと遠く、思考の先に向けられていた。
──あの話の続きを、彼女はまだ、覚えているだろうか。
白花の儀の日。廊下で交わした、たわいない雑談。
中庭で話した自分たちの内面的な話。
それはあまりにも無意味で、けれど、あまりにも心に残る会話だった。
(……くだらないな)
自身の思考に、苦笑めいた息を吐いた。
他国の姫との雑談の続きを、確認しに行きたいなどと。
それが騎士として、いかに愚かで、危うい願いであるかなど、百も承知していた。
それでも、気になって仕方がない。
彼女は、あの続きを言おうとしていたのではないか。 言えなかったのではないか。
それとも──自分が言わせたくなかったのか。
クラウスは、扉から手を離し、ゆっくりと後ずさった。
(いや……行くべきではない)
確かに自分は夜の巡回任務で姫の居室の前を通ることになっている。違和感なく向かうことはできよう。
だが、他国の騎士である自分の立場からすれば、警備として廊下で控えることはあっても部屋に出向くことなどできない。
──けれど、確かに視線を交わした。
まるで「来てもよい」と告げられたかのように。
それが誘いであると理解するには、あまりに自惚れが過ぎる。
だが、彼女の瞳の奥に、明らかな「未完」の余韻を見たのは確かだった。
クラウスは階段の踊り場で立ち止まり、天井を見上げた。
高く、静まり返った空間に、蝋燭の揺らめきが柔らかな陰を描いている。
(……どうしたものか…)
誰に問うでもなく、心の奥で呟く。
理性は止めていた。忠誠もまた、己を縛っていた。
だが、感情が動いていた。
あの声をもう一度聞きたい。 あの続きを知りたい。
そして何より──
(……彼女が、今、孤独でないことを確かめたい)
ただ、それだけだった。
それだけのはずだった。
静かに、足が動く。慎重に。
彼は、静かに、そして確かに、彼女のもとへと向かっていた。