薄明
広場に立つ白花の柱が、朝陽に溶けるように輝いていた。 霧はもう晴れ、澄んだ空気に花の香りがほのかに漂っている。
フェイミリアム城の広場に設けられた特設の壇上は、軍と貴族の列に囲まれて静まり返っていた。
儀の始まりを告げる鐘の音が鳴ると、誰もが動きを止めた。
クラウス・アシュノッドもまた、広場の端に立つ騎士団の列に加わり、剣の柄に手を置いたまま沈黙を守っていた。
――身を正せ、見失うな。
そんな父の教えが、背筋を自然と伸ばす。 彼の胸にはまだ、最前線で散った戦友たちの名が焼きついていた。
この儀式が象徴する平和への祈りは、表面上に咲く花に過ぎないと知っていても、無意味とは思えなかった。
やがて、参列者の視線が壇上に注がれた。
フェイミリアム公国のオーブ姫、メルベール公国からはアカシア姫。
ふたりの姫が代表して、ローザリアの平和を祈念する象徴として同時に献花する。
その瞬間、広場に風が吹いた。
クラウスのマントが揺れ、白花がわずかに揺れる。
幼いオーブ姫と、アカシア姫は風に押されるように一歩を踏み出し、花台へ向かって歩を進めた。
(……あれが、メルベールの姫か)
視線が、意図せず彼女を追っていた。
厳かな礼装に身を包んだその姿には、どこか不釣り合いなほどの孤高さがあった。絶世の美女と呼ばれるその姫は美しさだけで片付けるには形容しがたい不思議な魅力を持っていた。
周囲を飾る花よりも静かで、他の貴族とは違う、名状しがたい印象を与える何かが――感じられた。
彼女は迷いなく、白花の茎に手をかける。
そして、一輪を丁寧に摘み取り、台の中央へと供えた。
(型通りだ。だが……)
型をなぞる所作であっても、その静けさが周囲の空気を変えたように思えた。 クラウスは、眉間に寄りかけた皺をそっと消した。
ただの儀礼だと自分に言い聞かせるように。
そして、オーブ殿下が同じく花を手向けたとき、広場に拍手が湧いた。
白花の儀は、終わりを迎えたのだ。
だがクラウスの耳には、その音がどこか遠く感じられた。
自分でも理由がわからないまま、彼はほんの一瞬、アカシアの後ろ姿に視線を残していた。
—―――――――――――――――――――――
式典の終わりを告げる鐘が、遠くで微かに鳴り止んだ。
白花が捧げられ、祈りが収められたあとの会場には、安堵と余韻が静かに広がっていた。貴賓たちはそれぞれの導きに従い、名残惜しげにその場を後にしていく。
その流れから離れた回廊に、クラウス・アシュノッドは姿を現した。式典の主警護としての役目を終え、軍装から正装へと着替えを済ませたばかりだ。しんと静まり返った石造りの通路に、革靴の音が等間隔に響く。
少し後方に、アカシア公女がいた。来賓にはそれぞれ控室があてがわれており、クラウスは彼女を貴賓室へ案内している。父であるメルベール大公は他国の代表らと歓談していたため、彼女のみ先に控室へ戻ることとなった。付き添いもつけず、一人歩いている。クラウスは静かに声をかけた。
「本日のご献花、堂々たるものでした、公女殿下。
見守っていた我が兵たちでさえ、その所作に感じ入っておりました」
クラウスの言葉に、アカシアは振り向くことなく応じた。
「……ありがとうございます。けれど、私は“当たり前”のことをしたまでです。
重要な式典になりますから……怯むわけにはまいりません」
その声音は穏やかだが、言葉に籠る芯は揺るがなかった。
「フェイミリアム公女殿下も……ご立派でした。あの年で、このような重要な式典に臆さず自らの役目をこなせる子は、そういません」
彼女の返答を聞きながら、クラウスは静かに頷く。
「殿下はよく見ておられる。 オーブ公女殿下は、己の足で立ち、国の代表としてあの場に在られました。
……おふたりの献花に、真の意味が宿ったのだと、私も信じております」
会話が途切れた一瞬、クラウスは歩調を合わせながら、そっと視線を彼女の横顔に向けた。装飾を抑えた礼装に包まれたアカシアの面差しは、年若いながらもよく鍛えられた剣のように静謐な強さを宿している。
「ならば、あの子と並び立つことを誇りに思うべきでしょうね。 ……けれど、白花だけでは平和は続きません。
祈りだけでは、剣を止められない。
だからこそ――忘れてはならないのでしょう。死者の重みを」
クラウスは、ただ黙ってその言葉に耳を傾けた。 その想いがどこから来ているのか、彼には察しがついた。
自分がそうであるように、彼女もまた、失ったものの重みを知る者なのだろう。
やがて歩みは止まり、ふたりは貴賓室の前へと辿り着いた。アカシアが扉に手をかけたそのとき、クラウスはごく自然な所作で一礼する。
「本日は……心より、感謝申し上げます」
アカシアは答えず、けれど微笑を残して扉の内側へと消えていった。
その後ろ姿が見えなくなったあとも、クラウスはしばしその場に留まり、胸に去来する想いを静かに受け止めていた。
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式典が終わった後、クラウスはひとまずの安堵と共に騎士団の控室へと戻った。肩の力を抜いたのは一瞬のことで、次の段取りを確認するうち、己の表情から微笑みが抜け落ちていることに気づいた。
アカシア姫の案内を任されていた。初対面の印象は、想像していたよりずっと繊細で、そして芯の通った人物だった。内に燃えるものを押し隠しているように見えたのは、自分と同じか、それ以上だったのかもしれない。
パーティー会場へと向かうよう殿下に進言したとき、自身もまた幾らかの疲れを覚えていた。気を張り詰めていたせいか、それとも、あのまっすぐな眼差しにあてられたせいか――どちらにせよ、そう簡単には解けない緊張が胸に残っていた。
そして、会場の喧騒を離れ、中庭の静けさに身を置いたとき、ふと己がそこに導かれていたことに気づく。意味など考えず、ただ静かな空気を求めて歩いた先――そこに、アカシア姫がいた。
「お疲れ様です、クラウス殿。こんな場所で、偶然お会いするとは思いませんでした。」
その声が耳に届いたとき、心の奥に波紋が広がった。驚きはしたが、それを悟られぬよう、微笑みで包む。
「公女殿下こそ、お疲れではありませんか。式典は、さぞ緊張されたかと。」
その顔には、明らかな疲労の色が滲んでいた。だが、それを口にすることは躊躇われた。責務を終えた安堵と、それでも消えない張り詰めた気配。どれも、あの場で感じた自分と同じだった。
「皆が見守る中で、いろいろと気を使うことも多くて……。」
「そうですね。あのような場では、いかに完璧に振る舞うかが問われますから。けれど、公女殿下のお姿は実に堂々としておられました。」
あの場に立つ者が、何を背負っていたかを思えば、安易な称賛は逆に失礼だ。だが、嘘ではなかった。本心からそう思ったのだ。
「ありがとうございます。」
「けれど、ただの儀式です。大切なことは、やはり実際に戦わなくてはならない時に、しっかりと守れるかどうかです。」
その言葉に、静かに頷く。彼女の言葉は、理想論ではない。現実を見据えた者の言葉だった。
「その通りです、殿下。儀式や言葉で平和を築けるなら、戦争なんて必要ない。しかし、現実は違いますから。」
その現実が、己をこの立場に縛りつけている。自ら選んだ立場である以上、誰にも愚痴は言えない。だが、時折その重さに押しつぶされそうになるのも事実だった。
「殿下、少しお休みになられては?」
そう問いかけたのは、ほんの僅かな気遣いのつもりだった。だが、自分の方こそ疲れていたのかもしれない。彼女の肩が僅かに震えるのを見て、ふとそう思った。
「ええ……ありがとう。こうして静かな場所で一息つくのも、時には必要ですね。」
その声に、ほっと胸をなで下ろす自分がいた。責任のない時間など存在しない。それでも、こうして短くても呼吸を許されるひとときは、貴重だ。
「もし、よろしければお話をさせていただいても? 無理にとは言いませんが、少しは気が晴れるかもしれません。」
そう口にしたとき、自分でも驚いた。普段なら言葉を選びすぎて何も言えなくなるような場面で、自然と口をついて出ていた。
「……ありがとうございます。では、少しだけ…お時間いただけますか?」
その応えに、心の奥に柔らかなものが灯った。アカシア殿下という人物に、少しずつではあるが、心を開き始めていたのかもしれない。
二人は中庭にあるベンチに腰掛けた。パーティー会場の喧騒が遠くから聞こえる。
やがて、彼女の言葉が空気を揺らした。
「クラウス殿、あなたはどうして……あのように、冷徹に振る舞えるのですか?」
その問いは、自分の心の最奥に触れるものだった。問いかけというより、痛みを伴う突き刺すような言葉。けれど、嫌ではなかった。むしろ、心のどこかで、いつか誰かに訊かれる日を待っていた気さえする。
「冷徹……ですか。」
繰り返す言葉に、自分でもわずかな苦味を感じる。そう映っているのなら、それは成功なのだ。だが、代償もある。
「私は、ただ務めを果たしているだけです。冷徹に見えるかもしれませんが、それは必要なことですから。」
感情を棄てたわけではない。ただ、後回しにしてきただけだ。誰かを守るために、誰かに剣を向ける日があるのなら、自分はその日が来る前に、覚悟を完了させておくべきなのだ。
「あなたは、普段から……自分の気持ちを抑えているようにお見受けします。」
静かに告げられたその言葉は、自分を見抜いていた。驚きと共に、どこか安堵があった。理解されることの喜び――否、それは望んではいけない。
「私が冷徹に見えるのは、私がそれを選んだからです。感情に振り回されてはいけない。騎士として…守るべき者のため、私はそのために存在しています。」
その言葉の端々に、自分が幾度も反芻した誓いが滲んでいた。己の在り方を、否定も肯定もせず、ただ在り続けるために――。
—―――――――――――――――――――――
城の静寂な回廊を抜け、自室の扉を閉じると、クラウスはようやく肩の力を抜いた。壁にもたれかかるようにして立ち尽くし、目を伏せる。
アカシアの問いかけが、耳の奥に微かに残響していた。あの柔らかな声音とともに。あの場では、微動だにせず受け止めたつもりだった。だが、こうして一人になると、心の内に波紋が広がってゆくのがわかる。
クラウスは窓辺へ歩み寄る。暮れかけた空の下、遠くの森が夕闇に溶けていく。
その光景は静かで、どこまでも美しいのに、なぜか胸が苦しい。
「冷徹……か。」
彼はそっと、あのときの台詞を自分の唇からもう一度なぞった。
言葉を選ぶ余裕などなかった。ただ、自らに課した「型」を守るように、必要最低限の誠実を保っただけだった。
—―私は、ただ務めを果たしているだけです。冷徹に見えるかもしれませんが、それは必要なことですから。
必要なこと――そう言いながら、自分の心はどこか空虚だった。
あのときアカシアの瞳に宿っていた戸惑いと微かな痛み、それを振り払うほどの言葉は、とうに持ち合わせていなかった。
—―本当に、これが最善なのか?
かつての自分なら、そんな問いは即座に捨て去っていたはずだ。だが、アカシアの真っ直ぐなまなざしは、理屈ではなく、彼の心の奥底へと染み入ってくる。
—―私が冷徹に見えるのは、私がそれを選んだからです。感情に振り回されてはいけない。騎士として…守るべき者のため、私はそのために存在しています。
己の役目を自覚すること。それが何よりも大切だと信じてきた。
それに疑問を持てば、剣の重さにも耐えられない。
けれど、あのとき――「あなたは本当にそれで満足しているのですか?」と問われた瞬間、クラウスの内側に、小さな亀裂が走った。
「……満足しているか、か」
彼は呟き、その言葉の先にあるものを見つめようとした。
自分は満足などしていないのかもしれない。だが、それを望んではいけないのだ。
—―満足しているかどうかはわからない。ただ……こうすることで、大切なものを守れると信じている。それだけ。
繰り返すように思い出すたび、心の奥に渦巻く“なにか”が形を持ち始める。
それは後悔か、憧憬か、それとも…かつて手にすることを禁じた、柔らかな感情の名残か。
—―私は、あなたが……少しだけ、羨ましいと思いました。
アカシアのその一言は、剣よりも鋭く、彼の胸を貫いた。 どうして、あんなにまっすぐに言えるのだろう。
どうして、自分はああして「抑える」ことしかできないのだろう。
—―あなたのように、強くなれるなら――時には、感情を押し殺してでも、守るべきものを守るために力を尽くす覚悟を持てるなら……
彼女は伏し目がちに言った。あの震える声音が、今でも耳について離れない。
「私は――」
言いかけた言葉を、彼は聞くことができなかった。けれど、続きを想像することはできた。
彼女は何かを恐れ、何かを欲し、そして何かを諦めようとしていた――それは、彼自身がいつしか通り過ぎてきた道でもあった。
(……あなたは、私よりもずっと、強いのかもしれない)
クラウスは目を閉じる。
そのまま窓辺に手を添え、ひとつ息を吐いた。温度のない微笑を浮かべる自分が、今は少しだけ、悲しかった。