真実
※注意
このエピソードは本編の核心に迫る内容です。
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「……私は、ほんの少しだけ、わがままを通したかったのです」
その呟きは、かすかに震えていた。けれど、それは決して怯えでも、迷いでもなかった。
己の内に積み重ね続けてきた想いを、ようやく言葉にしたときの、切実な確信の震えだった。
それは、ただの衝動ではなかった。
淡い憧れでも、戯れに過ぎぬ恋でもない。
ただ、胸の底に澱のように積もり続けていた、ひとつの願い――ほんの一瞬でいい、彼と言葉を交わしたい。
それだけの、慎ましく、けれど決して赦されぬ願望だった。
何度も胸の内で否定し、押し込めてきた想い。けれど消えなかった。それどころか、日に日に静かに、けれど確実に大きく育っていた。
公女としての矜持、立場、名誉。
それらすべてが、この想いを否定した。
してはならないことだと、理屈では理解していた。
誰よりも分かっていた。自分がどれほど厳格に育てられ、何を背負って生きているか。それでも――してしまったのだ。
禁を犯すような、甘美な予感に突き動かされて。
静かに火を灯されたような心の底の衝動は、ある夜、彼女の意志をそっとすり抜け、行動へと変わっていた。
十年前。
クラウス・アシュノッドは、フェイミリアム大公の随行騎士として、メルベール城に足を踏み入れた。
年若いが「白獅子」と称えられる彼は、礼節を重んじ、鋼のごとき意志を瞳の奥に湛えていた。
その名が訪問者の名簿に記されているのを見つけた瞬間。
アカシアの胸の内がふっと浮き上がった。
心臓が一拍遅れて脈打ったように感じた。深い湖に石を落としたように、波紋が広がって止まらなかった。
静謐を好む心の奥に、突如として訪れたさざ波――それはとても小さく、けれど決して無視できぬものだった。
彼が城に滞在すると知ったとき、アカシアは……己の中の「公女」を忘れた。
いや、忘れたというよりも、ほんの少しだけ、その役割を脇に置いたのだ。
無意識のうちに、ほんの些細な、けれど意図的な調整を加えた。フェイミリアムの騎士も警備に加わるよう父に進言し、巡回経路にわずかな手を入れる――まるで、偶然を装うように。
それだけだった。それだけのはずだった。
けれど、その一手がすべてを動かしたのだ。
静かに開いた扉の先に広がった運命の歯車は、音もなく、だが確実に回り始めていた。
月が、夜空を淡く照らす夜。
私は窓辺に立ち、何度も空を仰いだ。
吐く息は細く、すぐに冷えた空気の中に溶けていった。
手鏡に映る顔は、いつになく火照り、どこか所在なげだった。
頬が、うっすらと赤い。唇に自然と手が伸びる。何かを整えたわけではない。ただ、何かに備えるような仕草だった。
心は静かにざわめいていた。
「彼は私と話をしてくれるだろうか」
「会えたらなんと声をかけようか」
――そんな問いや期待が、頭から離れなかった。
胸の内に去来する問いかけは、言葉というよりも祈りに近く、理性の声は、今やほとんど遠ざかっていた。
そして、静寂の中に、足音が忍び寄った。
控えめでありながら、はっきりと確かに近づいてくる。
鼓動が早まる。まるで自分の耳の内で鳴っているかのように、うるさく響いた。
灯りをつけ、少しだけ扉をわざと開けておく。
真面目な彼ならば、不審がって職務を全うするために声をかけるに違いない。
約束をしていたわけではない、あくまで偶然を装うために。
何度も何度も想像した場面だった。
けれど、いざそのときが訪れると、息を整える余裕さえなかった。
扉の前で、その音は止まり、私は祈った。
「公女殿下……まだお休みになっておられないのですか?」
——彼だ。
私は静かに扉に手をかけた。胸の高まりがおさまらない。指先に伝わる木の感触が、やけに生々しかった。
冷たいのか、温かいのかすら分からない。ただ、心のすべてがその扉の向こうに注がれていた。
静かに開いた扉の向こうに、彼は立っていた。
「もう夜も更けてまいりました。お休みになられては……」
制服に身を包み、端正な面差しに微かな驚きを浮かべたまま。
それは夢に見た光景そのものだった。いや、夢でさえここまで鮮やかではなかったかもしれない。
その声は、私の胸に直接触れたように、柔らかく、優しかった。
けれど彼はすぐに視線を逸らし、居心地悪そうに立ち尽くした。
その表情に、私は罪悪感と高揚を同時に覚えた。
自分の仕掛けた偶然が、現実となって目の前に現れている――その事実が、ひどく恐ろしく、けれど心のどこかで、たまらなく嬉しかった。
「あの……ほんの少しだけ……お話できませんか?」
そう囁くと、彼はわずかに眉を寄せ、逡巡の色を浮かべた。
けれど叱るでもなく、拒むでもなく――ただ、静かに答えた。
「ここで、でしたら。……それ以上は、なりません」
ああ、なんと優しい声だっただろう。
理を守る強さと、情を思いやる静けさが同居した声音。
その言葉ひとつが、アカシアの心をいっそう揺らした。
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二人きりの廊下。
石造りの床が夜気を吸い込み、ひんやりとした感触を足元から伝えてくる。周囲の燭台の明かりは遠く、二人の影は長く引き伸ばされて揺れていた。
夢を見るようにして彼と並び、言葉を交わした。
現実感はなかった。ただ彼がそこにいる、それだけがすべてだった。息をするたびに胸が高鳴り、世界が静かに色を変えていくような心地だった。
なんでもない話だった。
日常の、けれど心に触れる言葉たち。
メルベール宮廷の庭の花々のこと。
咲き誇る春の花々、白や桃の花弁が風に揺れていたあの庭を思い出す。彼の言葉に乗って、花の香りまでもが蘇る気がした。
遠い国の空の色。クラウスが見たことのある空。オリーブの木々越しに広がる薄青の空や、陽光を反射して金に染まる夕暮れの空。
話していると、その景色を彼の目を通して見るような感覚に包まれた。
アカシアは自らの髪と瞳が好きではなかったが、様々な景色を語るクラウスの瞳、彼が語ってくれた空の美しさ……それらを連想させる自らの色は特別なものだと感じるようになり、少し好きになれた気がした。
夜風の冷たさ――
ふいに吹き抜けた風が、アカシアの頬を撫でる。まるで彼の記憶が現実と混ざり合って、肌を通じて届いてくるかのようだった。
それらすべてが、彼女にとっては煌めく宝石であり、時を超えても色褪せぬ記憶となった。
まるで静かな夜の中でだけ現れる秘密の宝物のように、その瞬間一つ一つが彼女の心に刻まれていった。
だが、幸福は長くは続かなかった。その予感は、いつからか彼女の心に潜んでいたのかもしれない。
けれど、それが現実となったのは、あまりにも突然で、容赦がなかった。
突如として、重く鋭い足音が回廊の奥から響いた。
一歩ごとに石床が震えるような、威圧のこもった歩み。遠ざかっていた現実が、強引に押し寄せてきた。
空気が一瞬で凍りついた。
夜の静けさが打ち砕かれ、心臓が掴まれるような恐怖が胸を締めつける。
「……何をしている、貴様」
その声は刃のようだった。
鋼でできた言葉が、冷徹に空間を裂く。
声の主を聞くより先に、アカシアは恐怖を覚えた。身体が本能的に反応した。幼き頃から刻み込まれた威光と畏怖。
その存在を前にして、言い訳も逃げ道もすべてが無意味に思えた。
そこにいたのは――父、メルベール大公その人であった。
闇を背負うような威容。威厳と冷酷を帯びたその姿が、炎に照らされて廊下の先に浮かび上がる。
その眼差しは怒りと憤怒に満ちていた。
容赦のない正義、あるいは家名を穢すことへの純粋な激昂。その視線がアカシアではなく、クラウスに向けられていることが、恐ろしかった。
深夜、娘の部屋の前に立つ異国の若き騎士。
この光景が何を意味するかなど一目で分かる。
父にとって、それはただの“不始末”ではなかった。
名誉を損なう致命的な行為――否、そう見える「構図」こそが問題だった。
誇りを穢す、明確な「侮辱」だったのだ。
アカシアの血に流れるメルベールの威信を、踏みにじる行為と映ったのだろう。
「娘に懸想していたのか。見苦しい」
その声は怒号ではなかった。だからこそ、恐ろしかった。
感情が抑え込まれた声のほうが、より深い怒りを示していると、彼女は知っていた。
父の手が、剣の柄へと伸びた。
その仕草には迷いがなかった。私情もなく、まるで法を執行する官吏のように淡々と――だが、その眼には怒りが宿っていた。
アカシアは、叫んだ。
反射だった。自らの意志というより、身体が、心が先に動いた。
「違います、お父様!」
声が震える。届かないかもしれないと分かっていても、止めなければならなかった。
クラウスも、すぐに手を挙げ、冷静に応じようとした。
剣に手を伸ばすことなく、威嚇の意図も示さず、ただ正しく弁明しようとしたその姿は、彼の誠実さの表れだった。
「大公閣下、どうかご冷静に……私は巡回で――」
その声には、誠実と敬意があった。だが、それすら届かなかった。
けれど、その弁明が最後まで届くことはなかった。
理が、激情に勝ることはなかった。
金属音すら届かぬほどの一瞬――
世界が一度、止まったように思えた。
メルベール大公の剣が、雷鳴のように閃き、クラウスの胸を正確に、深々と貫いた。
あまりにも速く、鮮やかで、そして――致命的だった。
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その瞬間、アカシアの視界は赤に染まった。
――まるで、世界そのものが血に染め上げられたようだった。
驚くほど鮮やかで、どこか現実離れした深紅だった。花弁のように舞い散る血飛沫が、彼女の白いドレスに、頬に、指先に――否応なく降りかかる。音もなく、重力すら忘れたように、静かに、しかし確かに世界を侵食してゆく。
「クラウス……っ!」
反射だった。崩れ落ちるその身体を、アカシアは本能のように抱き留めていた。考えるより先に、体が動いた。ただ彼が倒れてしまわぬように、地に伏すことのないように、しっかりと、必死に――
その体は、驚くほど熱かった。
まるで命がまだ彼の中に燃えていると主張するように。 だがその熱は、彼の命が今まさに流れ出ている証でもあった。 重い。こんなにも人の体とは重いのか。否、彼の重さは――命の重さだった。
「お願い……お願い、クラウス、目を開けて……!」
震える声で名を呼びながら、彼の頬を、血の気を失ったその肌を、何度も叩いた。意識を戻してほしい。ただ、もう一度、あの瞳でこちらを見つめてほしい。祈りにも似たその願いが、手のひらから、声から、すがるように彼へ注がれる。
「……公女、殿下……」
かすれた声が、喉の奥から漏れた。その言葉の先に、自分の名があると気づいた瞬間、アカシアの胸の奥に、ずしりとした痛みが走った。鋭い刃ではない、じわじわと肺を圧迫するような鈍く重い痛み。
「……お怪我は……ありませんか……?」
「……なっ……」
息が詰まった。肺がうまく動かない。
なぜ、こんな状況で、彼は――なぜ、死の淵にあるこの状況で、最期に彼が発する問いが、自分ではなく、他人を案じる言葉なのか。
「どうして、あなたは……!」
叫びは怒りではなかった。混乱でも、悲嘆でもない。ただ、感情が形を持たずに溢れ出た、その残響だった。
彼は浅く息を吐いた。喉の奥で血がにじみ、唇を伝って滴る。それでも、彼の目は、どこまでも穏やかで、確かにアカシアを見つめていた。
「……中庭でのことを……覚えておいでですか」
「中庭……?」
思考の波が一瞬、凪いだ。
彼の言葉に、心の奥の引き出しがかすかに揺れ、そして、ふと記憶が呼び起こされる。
今年の春。フェイミリアムでの白花の儀の夜。 喧騒を避けて足を運んだ先、中庭で偶然交わした、短くも静かな会話。
そのときの彼は、丁寧に言葉を選びながら、彼女の疲労を気遣い、礼を尽くしていた。控えめながらも、そこに確かに宿っていた誠実な眼差し。
「……覚えております。わたくしを気遣って話しかけてくださいましたね。」
彼女の言葉に応えるように、クラウスは、わずかに首を傾けて微笑んだ。痛みすら和らげるような、その微笑みに――心が締め付けられる。
「……公女殿下は……誰も近づけないような場所におられて……けれど、ひどく……寂しそうに見えました」
その言葉は、まるで彼女の鎧を静かに打ち砕くかのようだった。
――誰も、気づいてはならなかった。そう、思っていた。
公女として、冷たく、完璧でなければならなかった。だがその仮面の奥に閉じ込めた孤独を、彼は確かに見ていたのだ。
「……そんな風に、見えていたのですね」
「はい……」
たった一夜。わずかなやりとり。
それでも、彼はずっと、あの夜のアカシアを忘れずにいた。
「殿下が……私にかけた言葉はあなた自身にも言い聞かせていた言葉に思えました……」
彼の静かな声に、彼女は息を呑んだ。 まさか――そんな想いを、彼が抱いていたとは。
「……あなたが話しかけてくださって……慣れない場所でわたくしがどれほど救われたことか……」
「……私のほうこそ……」
流れ出す血は止まらない。
だが彼は言葉を繋いだ。
助けを求めず、ただ責務を果たすことに徹するその姿に惹かれながらも、自分が近づけば傷つけてしまうかもしれないという恐れがあったことを。
「……たとえ、直接手を差し伸べられずとも……少しでも……心のそばに……寄り添えたらと……」
声は震え、呼吸は浅い。それでも、嘘は一つもなかった。
アカシアは唇を噛んだ。 この人は、遠くから、静かに、自分を見つめていた。誰にも気づかれぬように、そっと、傷つけぬように。
「クラウス……あなたは……」
何を言えばいいのか、わからなかった。
ありがとう。ごめんなさい。生きて。
どの言葉も足りなくて、どれも正しくなかった。
ただ、彼の手を握ったその瞬間――その指先から、確かに温もりが失われていくのを感じた。
「……あなたに……出会えて、よかった……」
喉が詰まり、声が震える。
クラウスの瞳が、かすかに揺れた。そして、最後に――彼は、もう一度、微笑んだ。
「……アカシア様の……お幸せを……ずっと……」
その言葉が終わる前に、彼の眼差しから光が消えた。
――静寂。
世界が、音と、色を失った。
アカシアは動けなかった。 いいや、動こうとする意思すら、彼女の中から失われていた。
自分の腕の中で、あの誠実な青年が、息絶えた。 何一つ、報われぬままに。
「……っ……ぁ……」
嗚咽すら、出なかった。 涙だけが、音もなく、頬を伝った。
やがて、胸の奥底から、熱と怒りに焼かれたような言葉が、吐き出される。
「……お父様……」
口にした瞬間、全身が震えた。
絶望、恐怖、後悔、怒り、憎悪―― それらが、何一つ整理されないまま、激しく胸中で渦巻く。
「どうして……どうしてあなたは……!」
震える手が、クラウスの衣を握りしめる。 返事など来るはずもない。けれど、叫ばずにはいられなかった。
「クラウスは……何も知りませんでした……! 誰も脅かさなかった……! 彼はただ……わたくしと、少し話をしただけで……!」
声が、壊れていく。 床に向かって、喉を裂くように叫ぶ。
「……あなたは…… 娘であるわたくしの心を…… この手で引き裂いたのです……!」
それは、姫としての仮面を脱ぎ捨てた、ただ一人の少女の叫びだった。
激情を乗せた言葉を、彼女はかつて口にしたことなど一度もなかった。
完璧な姫として、冷たい器のように感情を押し殺し続けた少女が――今、泣いている。
「……赦さない……」
呟いたその声には、もはや人の温度が残されていなかった。
愛する者の血溜まりに身を預けて。
その瞬間、アカシアの瞳には、もはや引き返せぬ深淵の闇が宿っていた。
その瞬間、一人の少女が決して戻れない場所へと堕ちていった音が、確かに響いた。
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「……クラウス殿が亡くなったときのことは――以上です」
アカシアの声が、静かに落ちた。
その場に流れる空気が、ぴたりと張り詰める。
セリムもアルフェリスも、すぐには何も言わなかった。下手に言葉を挟めば、その語りの余韻が壊れてしまいそうで、ただ沈黙のまま耳を傾けていたのだ。
淡々と語られた出来事。
しかしその「淡々さ」の背後にある熱を、セリムは敏感に感じ取っていた。声の震えこそなかったが、それは彼女が必死に押し殺していたからだ。すでに何度も、心の中で反芻し、反芻し、それでも拭いきれなかった記憶。
まさか、クラウスがアカシアと――あの夜、あの瞬間まで――そんな深い絆を育んでいたとは。
ましてや、彼女の胸に、確かな想いを残していたとは、想像すらしていなかった。
それは、クラウスが生前、いっさい言葉にしていなかったからだ。
誇り高く、そして、どこまでも誠実だった彼が、誰にも明かすことなくその想いを抱えたまま散っていったことが、胸に鈍い痛みを残した。
アカシアは小さく、息を吐いた。冷えきった指先を、膝の上で静かに重ね直す。
「やがて騒ぎを聞きつけたメルベールの騎士たちがやってまいりました。…そして、何があったのか、父――メルベール大公に問いただそうとしたのです」
あのときの情景がまざまざと蘇るのだろう。アカシアのまつげが、かすかに伏せられる。
けれど、その瞳の奥には、燃え残る灰のようなものが、確かに揺れていた。
「父は…怒りで、頭に血が上っていました。理性を失っていたのです」
言葉を選びながらも、その声音にははっきりとした批判の色が滲んでいた。
「その状態で口を開けば、きっと父は……わたくしとクラウスが密会していたなどと、平然と叫んだでしょう。あの人なら、きっと」
アカシアには、父のそういう面が、あまりにもよく見えていた。
激情と偏狭さ。誇りと見栄に縛られた男の限界。その癖、自分の娘を「理想の女」としてしか扱わない、不器用な歪んだ愛。
「だから…咄嗟に、わたくしは口にしました。『父と話していたら賊が現れた。巡回で近くにいたクラウスが駆けつけ、賊からわたくしを守って……命を落とした』、と」
そのときの胸の鼓動が、まだ耳の奥に残っているかのようだった。
それが咄嗟の嘘であることを、彼女自身が一番よく知っている。
けれど、そうする以外に方法がなかった。そうしなければ、クラウスの名誉は貶められ、あの夜の真実が、醜く歪められてしまう――。
「……わたくしが偽りを口にしたのは、己の名誉を守るためではございません。
ただ――クラウスには、最後の瞬きまで、誇り高き騎士として在ってほしかったのです。」
アカシアは、ふと目を伏せ、指先をわずかに震わせながら言葉を紡いだ。
「一人の女のために、英雄『白獅子』が命を落としたなどという結末を、
わたくしは到底、受け入れることができませんでした」
その声音には、張り詰めた静けさと、決して語られることのなかった慟哭が滲んでいた。
彼女の言葉は、まるで一編の祈りのように、深く、静かに場を満たしていく。
「大勢の騎士が見守る中で、当事者であるわたくしが語れば、疑う者などおりません。普段、嘘をつくような人間だとは思われていないからです」
苦い笑みが、唇の端にだけ浮かぶ。
「父が何を言おうと、わたくしの言葉が『真実』となる。それがわかっていたから、父も口をつぐみました」
事実を捻じ曲げることで、真実が守られる――そんな皮肉な構図に、セリムは言いようのない不快感を覚えた。
「……父は、わたくしを理想化していたのです。完璧な、貞淑な、穢れなき姫であることを望んでいました。
だから、もしクラウスとわたくしが密会していたと知られれば、わたくしの純潔が疑われる。そんな事態は、何よりも彼にとって受け入れがたかった」
その瞬間、アカシアの瞳にわずかな怒りと悔しさが宿った。
それは「娘として」ではなく、「一人の女」として踏みにじられた感情だったのだろう。
「だから、父はわたくしの話を是としました。すぐに騎士たちに、調査を命じたのです――とはいっても、それは表向きのこと。
調査に加わるのはメルベールの騎士だけにとどめ、フェイミリアムの方々には“しばらく待機を”とだけ伝えました」
そして、アカシアはまっすぐにセリムを見つめた。
「……あとは、セリム様がお調べになった通りです」
静けさの中で、その言葉が地の底まで沈み込むように響いた。
誤魔化しも、装飾もない、むき出しの言葉だった。
その中に込められた覚悟と後悔と、僅かな救済への願いを、セリムは確かに受け取った。
――この人は、愛によって、そして父によって、自らの魂を引き裂かれたのだ。
真実を語ることが、どれほど残酷であるか……セリムはよく知っていた。
だからこそ10年もの間、胸に秘めた事実を打ち明けた彼女の勇気に敬意を表すことしかできなかった。