静謀
アカシア姫はメルベール城の端の一角の「氷室の塔」と呼ばれる塔で暮らしている。メルベール大公の許しを得た者しか基本的に立ち入りを許されていないため、普段はアカシア付きの侍女しか通らない。壮大な城の中で一際人気がなく静まり返っていた。
磨き込まれた石床、天井を渡る古い梁、壁にかかる肖像画――どれも古き威厳を湛えているが、どこか冷ややかだった。セリムは無意識に呼吸を整えながら歩を進めた。
氷室の塔へ続く回廊を歩くセリムとアルフェリスの足音だけが、広い石畳の空間に響いている。
「ほんとに大丈夫かねえ……」
アルフェリスが隣でぼそりと呟く。
いつになく声が小さい。めずらしく本気で心配しているらしい。
「なにが?」
「いや……俺のことに気付くような姫さんだしさ」
「問題ない。私も君も武術の心得はあるし、さすがにご婦人一人で男二人をどうこうはできないだろう。」
それに、とセリムは付け加える。
「――用件は明らかだしな」
心の奥で波立つ何かを隠すように、冷静さを装った。
彼女が私室に“呼んだ”のは、明らかに意図がある。
親善目的ではない。おそらくは……十年前の続きを、彼女自身の言葉で語るためだ。
「この先だ」
アルフェリスが立ち止まり、重厚な扉の前で振り返った。
控えていた侍女が無言で一礼し、扉を押し開ける。
――その瞬間、空気が変わった。
香のかすかな匂い。
天蓋付きの寝台、淡い紫の帳。
室内は過度な装飾を避け、静謐な品位に満ちていた。だが、その静けさの底に何か張り詰めたものがある。まるで呼吸ひとつにも意味が問われるような、そんな張力。
「ようこそ、お越しくださいました、セリム様。……それにアルフェリス殿も」
アカシア姫は、窓辺からこちらへと歩み出た。
その声音は穏やかで、いつものように礼儀正しかった。
だが、瞳の奥にはやはり……何か決意のようなものが宿っている。
セリムは一礼し、彼女の正面に立つ。
「お招きありがとうございます、公女殿下。私に御用がおありなのですね。」
「ええ。先日の白花の儀からずっと……こうして、お言葉を交わせる日を……お待ちしておりました」
――その“待っていた”の意味。
それを問う前に、姫のまなざしがそっと逸れた。
「どうぞ、おかけください。人払いは済んでいます。……今日は、少しだけ、率直な話をしたくて」
セリムは頷き、椅子に腰を下ろす。
背筋は自然に伸びていた。指先には、わずかに冷たい汗。アルフェリスは二人を見守るように近くの壁にもたれかかるようにして立っている。
対するアカシアは、扇を閉じるようにそっと手を組み直すと、小さく息をついた。
「セリム様……あなたは、真実を知るためにこの城にいらしたのでしょう?」
まっすぐに、逃げずに。
その問いは、まるで“扉”のようだった。
――今このときが、真実に至る道の入口であると、彼女は分かっている。
「何度かあなたとお話しましたが……わたくしもようやく決心がついたのです」
そう言うとアカシアは伏し目がちに静かに息を整えている。手は微かに震えていた。
アカシアの静かな吐息だけが響いているが、セリムとアルフェリスはじっと待っていた。
やがてアカシアは顔を上げた。
「今こそお話ししましょう、あの日の真実を」
その一言にセリムは息を呑んだ。
「まず……いくつか、確認してもよろしいですか?」
アカシア姫は、静かにそう切り出した。
午後の柔らかな光が差し込んではいるが、わずかに冷たい空気が流れていた。
その中で彼女は、片手をそっと上げると、白磁のような指をふたつ折り曲げて、指を立てる。まるで儀礼のように、落ち着いた所作だった。
「セリム様がこの城にいらした目的は、クラウス殿の墓荒らしの件……そして、クラウス殿の死の真相。――この二つを明らかにすることですね?」
その声音には微塵の揺らぎもなく、まなざしは真っすぐだった。
問いかけではあるが、それはすでに答えを内包した、確認の儀式に近かった。
セリムは、ひと呼吸おいてから無言で頷く。
問いに対する肯定。
だがその頷きには、緊張と覚悟、そして覚悟の裏にある怯えがわずかに滲んでいた。
この場は、真実の扉を開く鍵であると同時に、過去の亡霊と向き合う檻でもある。言葉一つ、視線一つが、すべてを変えてしまうかもしれない。
彼のすぐ傍ら、無言のまま控えるアルフェリスは、部屋全体の張りつめた気配に息を詰めていた。
普段の彼なら口を挟む場面かもしれない――だが、今は違った。
彼の両眼は、じっとセリムの横顔を見つめている。
まるで「今のセリムが、何を選ぶか」を見届けようとしているかのように。
セリムはアカシアから目をそらさず、内心では密かに唾を飲み込む。
――言葉を選ばねばならない。
姫の聡明さは、装いや曖昧さを許さぬ。彼女に対し、半端な嘘を吐けばすぐに察知され、この貴重な機会そのものを失いかねない。
そして何より――彼は、知りたかった。
兄・クラウスが、なぜあの夜、命を落とさねばならなかったのか。
真実の言葉を、彼女の口から、今度こそ。
アカシアは一拍の間を置いてから、かすかに微笑んだ。
だがその笑みは、柔らかさでも懐かしさでもない。
それはまるで、自らに鎧を纏わせる儀式――これから話すことに耐えるための、ひとつの決意のように思えた。
「……そうですか。ありがとうございます。やはり、わたくしの予想していた通りです」
「これまでセリム様が調査された結果と、現在の所見をお伺いしても、よろしいですか?」
丁寧な口調の奥に、探るような意図は感じられなかった。
そこにあるのは――ただ、向き合おうとする真摯さ。
そして、彼女自身がずっと抱えてきた記憶を、ようやく誰かと分かち合おうとする意志。
セリムは頷き、椅子の背に身を預けることもせず、前屈みのまま静かに口を開いた。
「まずは……墓荒らしの件から」
言葉は慎重に、だが迷いなく紡がれる。
証言、現場の状況、埋葬時のこと、あらゆる記録に齟齬がないことから感じている違和感、そして――犯人が手にしたであろう“何か”への推測。
声は淡々としていたが、語るたびに彼の内には怒りと無念がふくらんでいく。
アルフェリスはその様子を見守りながら、時折うなずき、手元の記録に目を落としていた。
だが一度も口を挟むことはない。ただ、彼を見守る立場として、忠実にその役を全うしていた。
やがて、墓荒らしに関する報告が終わる。
「……以上が、現時点で確認できたことです」
セリムの声に続き、短い沈黙が訪れる。
アカシアは、目を伏せていた。
だが、その唇がかすかに震えているのを、セリムは見逃さなかった。
彼女もまた、この話を「他人事」としては聞いていないのだ――そんな思いが伝わってくる。
「ありがとうございます。それでは……」
アカシアはそっと視線を戻し、まっすぐにセリムを見つめて言った。
「ここからは、わたくしからお話しさせていただきます」
その言葉に、アルフェリスの指がわずかに動いた。
この場で、彼女が何を語るのか。かつての“真実”が、今ようやく語られようとしている――それを悟った瞬間だった。
アカシアは、いっそう背筋を伸ばし、そして口を開いた。
「……十年前の件について、結論から申し上げます」
声は震えていなかった。けれど、その奥には、長年封じ込められてきた罪悪感の気配が確かにあった。
「クラウスが亡くなったのは……わたくしが原因です」
セリムの眉がかすかに動く。
それでも感情を揺らさず、淡々と応じた。
「それは……兄が殿下を賊から庇ったのなら、当然でしょう」
アカシアはかぶりを振った。
その動きには、痛みと後悔が混ざっていた。
「いいえ、違うのです。彼が命を落としたのは、“庇ったから”ではなく……わたくしの言動が、すべてのきっかけでした」
深く、深く息を吸い、目を伏せる。
アカシアは、ひとつ小さく呼吸を整えると、視線をゆっくりと伏せた。
睫毛がわずかに震え、長い沈黙が落ちる。
その仕草はまるで、胸の奥底に沈めてきたものを引き上げるための時間稼ぎのようでもあり、
あるいは、今から語ることの重さに、言葉を紡ぐ勇気を奮い立たせているようにも見えた。
「……ほんの一言でも、お話できたなら。それだけを、願っていたのです」
ぽつりと、まるで独白のように紡がれた言葉。
けれどそれは、部屋の空気を一変させるには充分だった。
「けれど、それを率直に口にする勇気も手段も、わたくしにはありませんでした」
セリムは目を細めた。
静かに、息を潜めるようにして、アカシアの言葉に耳を傾ける。
その瞳の奥で、彼女の真意を探ろうとする理性と、兄の名を聞いた瞬間に疼く感情がせめぎあっていた。
「ですから……“偶然”の出会いに見えるようにと、いくつかの手配を致しました。
父には、フェイミリアムの騎士団にも巡回に加わっていただくよう進言しました。
『双方の要人の安全を等しく保障するには、共同警備がふさわしい』――そう申し添えて」
実父の庇護という名の囲いの中で、ひたすら“従順な姫”であることを求められてきたはずの彼女が――
まさかここまで筋道立てて考え、しかもそれを実行に移すとは。
セリムは、思わず息を呑んだ。
感情に駆られた子供の浅はかさではない。
それは、己の想いを叶えるために――限られた駒で盤を動かそうとした、ひとりの人間の采配だった。
「すべては、ただお顔を拝したくて……どれほど軽率だったのか、当時のわたくしは、考えが至っておりませんでした」
自らを責めるような言葉に、アルフェリスのまぶたがぴくりと動いた。
まるで「そこまで言わなくてもいい」と、止めたい気持ちと、黙って聞くしかない焦燥が綯い交ぜになっているようだった。
――この言葉を、十年ものあいだ彼女は抱えてきたのか。
アカシアは、椅子の肘掛けに添えていた指先を、布の上できゅっと握りしめる。
繊細な手のひらが、苦悶を隠せずに震える。
だが、彼女の声音はなおも崩れなかった。
気丈だった。
涙を見せることも、感情を荒げることもなく――
ただ、静かに、事実を告げる者としての覚悟を帯びていた。
「わたくしが……愚かだったのです」
ゆっくりと顔を上げると、アカシアの瞳がセリムをまっすぐに見据えていた。
その目は、濁ってなどいなかった。
ただ、深い痛みを抱きしめながら、赦しを乞うでもなく、赦しを諦めるでもなく、
“理解してもらうことすら望まぬ”覚悟だけが宿っていた。
「世間知らずの小娘が、舞い上がって、考えなしに取った行動が……結果として、取り返しのつかないことを引き起こしてしまった」
言葉のひとつひとつが、まるで刃のように彼女自身を切り裂いていた。
そしてその傷口は、決して誰にも癒せぬと知っていながら、それでも語らねばならぬ罪の記録だった。
「どれほど悔やんでも、どれほど償っても……あの夜の過ちは、もう消せません」
静けさの中に、アカシアの声だけが響く。
セリムは、まるで凍りついたように微動だにしなかった。
ただ、唇をかすかに引き結び、アカシアの言葉のすべてを、
聞き逃すまいとするように、研ぎ澄まされた静寂の中で耐えていた。
アルフェリスはと言えば、主の背後で拳を握りしめていた。
軽く震えるその手は、怒りでもなければ憐れみでもない。
クラウスの死が、こんなふうに語られる日が来るとは――という、言い知れぬ感情の渦が、彼の胸中に静かに押し寄せていた。
アカシアはそれ以上、何も言わなかった。
少し俯き、言葉を噛み殺すように視線を伏せたまま、沈黙の中に身を置いている。
セリムは、ほんのわずかに瞳を細めた。
――ここまで語りながら、彼女は“そこ”を避けている
最も重い真実に、まだ触れていない――
「殿下。どうか……続きもあなたの言葉でお聞かせ願えますか」
ゆっくりと、しかし確かに、セリムはそう問いかけた。まるで、その先に待つ闇を、己の手で迎え撃つように。




