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白い獅子の骸  作者: sume
第五章
25/29

氷縁

 空はまだ夜の名残を引きずっていた。 だが、朝は確実に訪れようとしていた。薄明の下、城門前に整えられた一行の姿は静謐そのものだった。使節団――というにはあまりに簡素な陣容。馬車一台と衛兵数名、外見上の華やかさは最小限に抑えられている。

 それでも、この出発の意味をセリムは痛いほど理解していた。


 風が衣の裾を揺らした。季節はもう夏。十年前のあの夏と、よく似ている。

 ――兄が還らなかった、あの夏と。


 冷たい汗が背筋を伝う。体の奥に小さな痛みが走る。心が過去の檻を軋ませる音だった。


 どうして、自分なのか。 なぜ、今なのか。

 そして――行きたくない、という感情を抑え込む自分が、いったい何者なのか。


 「……」


 無言のまま、彼はただ馬車の横に立っていた。心の中には、嵐のように去来する想いがあった。


 兄の墓が穢されたと聞かされたあの日から、全てが変わった。

 否、変わらねばならなかった。


 自分は真実を求める者だ。そう在ると誓ってきた。 けれど、果たしてそれは正しさだけの問題なのか。

 復讐でないと自分に言い聞かせるたび、心はどこか痛んだ。


 「お前に言うことは、もうないよな」


 その声に、セリムは一瞬だけ目を細めた。振り向かずとも、テオドールだとわかる。 軽く肩を叩かれる。

 その手に、言葉以上の感情が込められていた。


 「――頼んだぞ」


 短く、それだけ。


 それだけ告げるとテオドールは隊列の先頭へ向かい、愛馬に跨った。



 だが、その声に込められた信頼と不安と、何かを託すような静かな温度に、セリムは一瞬だけ言葉を失った。


 これ以上、背中を押してもらう必要はなかった。

 だが、それでも――彼がそこにいてくれたことが、どれほど支えになっていたか。


 セリムは馬車の扉に手をかける。 指がかすかに震えていた。

 乗り込む瞬間、足元の石畳の冷たさに、己の覚悟の薄さが浮き彫りになる気がした。


 だが、それでも彼は乗り込む。

 扉が閉まり、周囲の光景が遮断される。


 その閉ざされた空間に、静寂が満ちた。


 兄が命を落とした夏――

 十年の沈黙の向こうにある、あの夜の真実。


 誰かが嘘をついている。 それは愛か、政治か、それとも恐怖か。

 いずれにせよ、見極めねばならない。でなければ、兄は永遠に帰ってこない。


 ――これは儀礼の旅ではない。記録に残らない、追憶と対決の旅だ。


 馬車が揺れ始めた。

 やがて石畳の響きが、城門を抜けて消えていく。


 その振動の中で、セリムはそっと目を閉じた。


 兄上、

 どうか、今だけは私の傍にいてください――




ーーーーーーーーーーーー




かつて、兄が帰らぬ人となった地。


その地を再び踏むとは――皮肉にも「返礼」と銘打たれた儀礼のためだった。




石畳に靴音が響くたび、十年前の亡霊が起き上がるような錯覚を覚える。


風は冷たいが、それよりも心の奥に氷のような痛みがあった。




オーブ姫は前を歩きながら、ふと振り返って囁いた。


「……迎えが来ませんわね」




怒っているというより、乾いた嘲りのようだった。


実際、兵は彼らの姿に気づいているのに、何の動きもない。


招かれたはずの客人への対応としては、冷ややかどころではない。




やがて、石造りの回廊の奥から靴音が響いた。


ぴたり、ぴたりと、乾いた音が近づいてくる。




姿を現したのは――氷山のような存在感をもつ男。


エドモン・モーリッツ・メルベール大公。




年齢にそぐわない鋭い眼光。


その双眸は、何十年もの間に敵も味方も見極め、打ち倒してきた猛禽のような冷たさを湛えていた。


貴族というより、老獪な獣。


自らの牙を知っている者だけが持つ余裕と傲慢が、その足取りに漂っていた。




彼はセリムをひと目見た刹那、わずかに眉をひそめた。


声は出さない。表情もほとんど動かさない。


だが、その目の奥に走った陰り――それは間違いなく“苛立ち”だった。




—―似ている、と思ったのか




セリムは無言で大公を見返した。


何も言わず、何も訴えず。ただ、そこに立っているだけで、兄の幻影を相手の心に喚び起こすことがわかっていた。




「……返礼だと? 随分と律儀な遣いだな。よほど時間が余っていると見える」


大公の声は鋼のように硬く、だがあくまで冷静だった。


言葉の端に、微かに滲む毒。


それは他人にではなく、自身の感情を押し殺すためのもののようにも思えた。




「……して、そちらの男は?……見覚えがある気もするが。」




声色は穏やかだ。だがその奥にある棘に、セリムは一歩前へ出る。




「セリム・アシュノッドと申します。公女殿下の随行者としてお伴しております。」




「……ほう」




エドモンの目が細くなる。


真正面から見ると、確かに――髪、眼差し、面立ち。十年前に見た男の面影が、そこにある。




(……クラウス……否、違うな。だが似ている、あまりにも。)




心の奥に、氷のようなざわめきが走った。


だが大公は、目の前の青年をまるで興味もなさそうに眺めるふりをして、声を落とした。




「その名……確か、かのクラウス・アシュノッドとやらと同じ姓か。兄弟か?」




「はい。クラウスは私の兄です。」




「……なるほどな。」




それ以上は何も言わない。


だが、何も言わぬことが、彼の中で何かを噛み殺している証であった。




(似すぎている……あの目は、クラウスのそれだ。侮辱か? いや、偶然か……だが――不愉快だ)




表情一つ変えず、エドモンは指先を玉座の肘掛けにトンと打ちつける。




「まぁよい。……そなたらの“形式”に付き合う余裕は、我が国にも多少はある。」




あくまで儀礼に応じてやるという立場を崩さず、大公は軽く顎を引き、大公が短く言った。




「アカシア。顔を見せろ」




そして――現れた。




その瞬間、光が変わった気がした。


塔の奥から現れた女性は、まるで空気を変質させる“何か”だった。




白磁のように滑らかな肌。


空を編んだ絹糸のような髪が、光を受けて揺れるたびに、空気が緩やかに振動する。


その瞳は雪の夜空に浮かぶ星のように静かで、凍てついた美の極北にあった。




アカシア・ヴェルダ・メルベール公女。




セリムは、言葉を失っていた。




“再会”であるはずなのに。


白花の儀で面会していたにもかかわらず、彼女の美は記憶より遥かに強く、深く、鋭く突き刺さってくる。




(……この世の人間とは思えない)




美しいという言葉では、追いつかない。


むしろ、美という概念そのものを問い直したくなるほどだ。


少女と女のあわい。純潔と誘惑の狭間。


時間の流れの中で、最も美しい一瞬だけを抜き出して凝固させたような存在――


“永遠”が、人の姿をして立っている。




「セリム様、オーブ姫……ようこそ、メルベールへ」


アカシアは、静かに微笑んだ。


それだけで、場の空気が緩やかに震えた。




「先日の白花の儀では、こちらから出向く形となりましたが……またこうしてお会いできるとは。嬉しゅうございます」




その声音に、取り繕いはない。


だが、その瞳は深すぎて――底が見えなかった。


嬉しさなのか、哀しみなのか、あるいは何か別の、名もない感情か。






「アカシア、もうよい」




エドモン大公の低い声が、彼女の言葉を断ち切った。


それは命令というより、“囲い”だった。


彼の中で、アカシアはすでに人に見せる存在ではなかった。


貴族社会の華、美しき令嬢、政略の駒――それら全ての仮面を否定し、ただ“城の奥”に閉じ込めておきたいと願う、偏執的な所有欲。


老獪な男の唯一の弱点が、そこにあるようにさえ見えた。




「……はい、お父様」




その返答もまた、音楽のように整っていた。


拒むことなく、反抗するでもなく――だが、どこか機械的な響きがあった。




アカシアはそっと頭を下げ、光の帯を引くようにして塔の奥へと戻っていった。


まるで、月の女神が祭壇へと退くように。


それを見送る者の誰一人として、彼女の背に言葉をかけることなどできなかった。




大公が望んだのは、まさにこの瞬間だったのかもしれない。


見せるためではなく、“見せたくなかった”からこそ、ここに連れてきたのだ。


他人の視線を借りて、自らの所有物たる娘の美を改めて確かめ、


そして、それをすぐさま自分の影の内側へと引き戻す。




彼女の姿が見えなくなっても、空気にはまだ、白い花の香が残っていた。


永遠の春が、ほんのひとときだけ、この石の城に咲き、そして閉じられた。




ーーーーーーーーーーーーー




 夜の帳が静かに降りたメルベールの城は、まるで時間そのものを止めたかのように沈黙していた。


晩餐の喧騒もとうに遠のき、館に仕える者たちの足音すら、音を殺したように消え失せている。




その夜。セリムとオーブ姫のもとへ、一人の静かな使いがやってきた。


影のように現れた老侍女は、目を合わせぬまま頭を垂れる。




「姫さまが、ささやかな夜の茶会にお招きしたいと――内密に、とのことでございます」




言葉の背にある意図は明白だった。名指しこそ避けられていたが、呼ばれているのはセリムである。


しかし彼が単独で夜に宮中を動くのは難しい。オーブ姫を名目としたのは、そのための方便だった。




「アカシア殿下とは、先日の白花の儀で少し言葉を交わしました」


オーブ姫が静かに笑う。


「……どうしてもセリム様にお会いしたかったのでしょうね。あの方は……先ほどの晩餐会でもずっと貴方を見ていらしたもの」




セリムは返す言葉を持たぬまま、ただうなずいた。




二人は灯りを控えた廊下を、老侍女の案内で進んでゆく。


冷たい石畳の下で、足音だけが響いていた。




やがて辿り着いたのは、塔の中でも最も奥まった一室。


白銀の香が微かに漂い、扉の向こうには、淡い光が揺れている。




案内もなく、扉が音もなく開いた。




「来てくださったのですね」




その声はまるで、絹を撫でる風のようだった。




部屋の中央には、光に包まれたひとりの女。


アカシア姫は、まるで時を忘れた幻想のごとく、そこに座していた。




その姿に、セリムは思わず息を呑む。




――美しい。




それは単なる言葉では足りなかった。


透き通るような白肌、空色の髪、細く整った指先。


そのすべてが、まるで神が一筆ずつ描き上げたような完璧さを湛えていた。


微笑すれば花が咲き、視線を交わせば心がかき乱される。


彼女の容姿は、“美”という語がまだ生まれる前から、世界に存在していたかのような神秘そのものであった。




「先日は……短い時間でしたけれど、貴方とお話しできて、嬉しかったのです」


アカシア姫が、柔らかく微笑んだ。


昼間見せた人形のような微笑みと違い、血の通った笑みだった。




—―こんな顔もするのか。




「すみません、はしゃいでおりますわね。……こんなふうに、誰かとお話しするなんて……わたくしには滅多にないことですから」


言葉の底には、微かに沈んだものがあった。




セリムは静かに彼女の前に膝を折った。


彼女が何を言いたいのか、どこまで語る気なのか――それはまだ、霧の中だった。




やがて茶が運ばれ、しばしの談話が交わされた。


言葉は穏やかに、しかしその合間に、姫の視線は何度も彼の顔を探るように彷徨った。




――この瞳は、あの方と同じ。わたくしを見つめたあの瞳と…






アカシアはそのことを言わなかった。ただ、言葉の隙間に苦悩をひそめた。




カップの中の湯気が薄れてゆく頃、姫はふと視線を落としたまま、言葉の調子を変えた。






「……セリム様がメルベールまでいらしたは…。クラウス殿の墓標が――荒らされたからでしょう?


 ……そして、十年前の“あの夜”のことを……もう一度確かめにいらしたのでは?」




その声音は淡いながら、逃げ場を与えぬ鋭さを帯びていた。




セリムは短く息をつき、目を伏せた。




「……ええ。その通りです。


 墓を暴かれた理由を知りたい。そして、兄がなぜ……あのような最後を迎えたのか。


 十年が経っても、まだ何も見えないんです。知るべきだと、思いました」




アカシアは、しばし黙したまま湯の冷めた茶杯を見つめていた。


その手が、わずかに震えているのが見えた。




やがて彼女は、細い声で言った。




「……あの夜のことは、わたくしがすべて知っています。何があって、なぜそうなったのか――全部、全部」




セリムは微かに眉を寄せる。アカシアは語りかけるように、だがどこか夢見るように続けた。




「けれど……今お話しすれば、きっと……貴方の中の“クラウス殿”は壊れてしまうでしょう。


 わたくしの言葉が、あの人をまた殺すことになるかもしれないと思うと…。ですから……今はまだ……」




そこまで語ると、彼女はそっと目を閉じた。




「……ごめんなさい。何も言えなくて」




セリムはその謝罪に、何も返さなかった。


ただ、視線だけを彼女の顔から離さずにいた。




やがて、老侍女が再び現れ、茶会は静かに終わった。


オーブ姫はアルフェリスに付き添われ、先に部屋へと戻っていく。




—―――――――――――




残されたセリムは、静かな回廊をひとり歩いていた。




その時――




「……そなたか」




背後から声がかかる。




振り返ると、そこにはメルベール大公、エドモン・モーリッツが立っていた。


灯りの届かぬ石の柱の陰から現れたその姿は、まるで夜の獣のようだった。




「姫の私的な席に、まさか貴殿が同席していたとは。少々……興味深い偶然だな」




言葉は丁寧だが、どこか張り詰めていた。


セリムは頭を下げつつ、視線を合わせる。




「……公女殿下より、お話があると伺いましたので」




エドモンの目が細められる。その奥には、揺らめく感情の気配があった。


冷笑か、怒りか、それとも――警戒か。




「なるほど。やはり“あの一件”を忘れてはおらんのか。


 貴殿がこの城を踏むとは、クラウスも……草葉の陰で驚いていような」






「……大公閣下は、驚かれましたか?」




その問いに、大公は一歩だけ間を詰める。


近づいたことで、互いの影が重なった。




「驚き……否。


 だが――少しばかり、不愉快ではあるな」




セリムの背筋がわずかにこわばる。




エドモンはしばし彼を見下ろすように見つめ、そして声を落とした。








「……真実、か。


 まったく、貴殿とその兄君は、どうして揃いも揃って……面倒な理想に憑かれるのだろうな」




くっくっと喉の奥で笑いながら、エドモンは石の床に足音を響かせる。




「クラウス――あの、薄っぺらな正義と騎士道の塊。


 他者に敬意を払えば己が高貴になるとでも信じていたのか、滑稽だった。


 ……ああ、もちろん。よく出来た若者だったとも。


 周囲が勝手に持ち上げる分には、申し分のない『偶像』だったさ」




振り返り、セリムの目を正面から射抜く。




「……だがな、私は、あの男も、フェイミリアムも心底嫌いだ。


 鼻持ちならぬ“聖人ぶり”も、誰にも嫌われない器用さも、すべてが――気に食わなかった」




沈黙が落ちる。セリムの表情は微動だにしない。




(クラウスの影が、ここでもまた私を苛立たせるのか。……いや、違う。こやつの目の奥にある“問い”が、私の記憶を穿つ)




それを見て、エドモンはふっと目を細め、声をひそめる。




「その“弟”とやらがこうして現れ、同じ目をして、同じ匂いを振りまいている。


 はてさて、これは因果か、あるいは――ただの厄介事か」




一歩、間を詰める。




「知りたいなら教えてやらんこともない。……だが、聞く覚悟はあるのか?


 あの日、何があったのか。クラウスが“何をして”、そして“どうなったのか”――」




そこで言葉を切り、唇に皮肉を浮かべる。




「ふ。……まあ、せいぜい悩め。


 真実というのは得てして、心ある者にほど毒となる。


 貴殿がそれを飲み干せる器かどうか……私は、見極めてやるとしよう」




「……クラウスのような人間が、この世でもっとも……不快だ。そしてそなたは兄に似ている、それが私を苛つかせる。」




それが真情。


理屈ではない。


ただ、目障りなのだ。存在そのものが。




踵を返しながら、吐き捨てるように言い残すと一瞥もくれず、エドモンは闇の奥へと姿を消した。


その長い影だけが、石の床にしばし残っていた。

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