氷縁
空はまだ夜の名残を引きずっていた。 だが、朝は確実に訪れようとしていた。薄明の下、城門前に整えられた一行の姿は静謐そのものだった。使節団――というにはあまりに簡素な陣容。馬車一台と衛兵数名、外見上の華やかさは最小限に抑えられている。
それでも、この出発の意味をセリムは痛いほど理解していた。
風が衣の裾を揺らした。季節はもう夏。十年前のあの夏と、よく似ている。
――兄が還らなかった、あの夏と。
冷たい汗が背筋を伝う。体の奥に小さな痛みが走る。心が過去の檻を軋ませる音だった。
どうして、自分なのか。 なぜ、今なのか。
そして――行きたくない、という感情を抑え込む自分が、いったい何者なのか。
「……」
無言のまま、彼はただ馬車の横に立っていた。心の中には、嵐のように去来する想いがあった。
兄の墓が穢されたと聞かされたあの日から、全てが変わった。
否、変わらねばならなかった。
自分は真実を求める者だ。そう在ると誓ってきた。 けれど、果たしてそれは正しさだけの問題なのか。
復讐でないと自分に言い聞かせるたび、心はどこか痛んだ。
「お前に言うことは、もうないよな」
その声に、セリムは一瞬だけ目を細めた。振り向かずとも、テオドールだとわかる。 軽く肩を叩かれる。
その手に、言葉以上の感情が込められていた。
「――頼んだぞ」
短く、それだけ。
それだけ告げるとテオドールは隊列の先頭へ向かい、愛馬に跨った。
だが、その声に込められた信頼と不安と、何かを託すような静かな温度に、セリムは一瞬だけ言葉を失った。
これ以上、背中を押してもらう必要はなかった。
だが、それでも――彼がそこにいてくれたことが、どれほど支えになっていたか。
セリムは馬車の扉に手をかける。 指がかすかに震えていた。
乗り込む瞬間、足元の石畳の冷たさに、己の覚悟の薄さが浮き彫りになる気がした。
だが、それでも彼は乗り込む。
扉が閉まり、周囲の光景が遮断される。
その閉ざされた空間に、静寂が満ちた。
兄が命を落とした夏――
十年の沈黙の向こうにある、あの夜の真実。
誰かが嘘をついている。 それは愛か、政治か、それとも恐怖か。
いずれにせよ、見極めねばならない。でなければ、兄は永遠に帰ってこない。
――これは儀礼の旅ではない。記録に残らない、追憶と対決の旅だ。
馬車が揺れ始めた。
やがて石畳の響きが、城門を抜けて消えていく。
その振動の中で、セリムはそっと目を閉じた。
兄上、
どうか、今だけは私の傍にいてください――
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かつて、兄が帰らぬ人となった地。
その地を再び踏むとは――皮肉にも「返礼」と銘打たれた儀礼のためだった。
石畳に靴音が響くたび、十年前の亡霊が起き上がるような錯覚を覚える。
風は冷たいが、それよりも心の奥に氷のような痛みがあった。
オーブ姫は前を歩きながら、ふと振り返って囁いた。
「……迎えが来ませんわね」
怒っているというより、乾いた嘲りのようだった。
実際、兵は彼らの姿に気づいているのに、何の動きもない。
招かれたはずの客人への対応としては、冷ややかどころではない。
やがて、石造りの回廊の奥から靴音が響いた。
ぴたり、ぴたりと、乾いた音が近づいてくる。
姿を現したのは――氷山のような存在感をもつ男。
エドモン・モーリッツ・メルベール大公。
年齢にそぐわない鋭い眼光。
その双眸は、何十年もの間に敵も味方も見極め、打ち倒してきた猛禽のような冷たさを湛えていた。
貴族というより、老獪な獣。
自らの牙を知っている者だけが持つ余裕と傲慢が、その足取りに漂っていた。
彼はセリムをひと目見た刹那、わずかに眉をひそめた。
声は出さない。表情もほとんど動かさない。
だが、その目の奥に走った陰り――それは間違いなく“苛立ち”だった。
—―似ている、と思ったのか
セリムは無言で大公を見返した。
何も言わず、何も訴えず。ただ、そこに立っているだけで、兄の幻影を相手の心に喚び起こすことがわかっていた。
「……返礼だと? 随分と律儀な遣いだな。よほど時間が余っていると見える」
大公の声は鋼のように硬く、だがあくまで冷静だった。
言葉の端に、微かに滲む毒。
それは他人にではなく、自身の感情を押し殺すためのもののようにも思えた。
「……して、そちらの男は?……見覚えがある気もするが。」
声色は穏やかだ。だがその奥にある棘に、セリムは一歩前へ出る。
「セリム・アシュノッドと申します。公女殿下の随行者としてお伴しております。」
「……ほう」
エドモンの目が細くなる。
真正面から見ると、確かに――髪、眼差し、面立ち。十年前に見た男の面影が、そこにある。
(……クラウス……否、違うな。だが似ている、あまりにも。)
心の奥に、氷のようなざわめきが走った。
だが大公は、目の前の青年をまるで興味もなさそうに眺めるふりをして、声を落とした。
「その名……確か、かのクラウス・アシュノッドとやらと同じ姓か。兄弟か?」
「はい。クラウスは私の兄です。」
「……なるほどな。」
それ以上は何も言わない。
だが、何も言わぬことが、彼の中で何かを噛み殺している証であった。
(似すぎている……あの目は、クラウスのそれだ。侮辱か? いや、偶然か……だが――不愉快だ)
表情一つ変えず、エドモンは指先を玉座の肘掛けにトンと打ちつける。
「まぁよい。……そなたらの“形式”に付き合う余裕は、我が国にも多少はある。」
あくまで儀礼に応じてやるという立場を崩さず、大公は軽く顎を引き、大公が短く言った。
「アカシア。顔を見せろ」
そして――現れた。
その瞬間、光が変わった気がした。
塔の奥から現れた女性は、まるで空気を変質させる“何か”だった。
白磁のように滑らかな肌。
空を編んだ絹糸のような髪が、光を受けて揺れるたびに、空気が緩やかに振動する。
その瞳は雪の夜空に浮かぶ星のように静かで、凍てついた美の極北にあった。
アカシア・ヴェルダ・メルベール公女。
セリムは、言葉を失っていた。
“再会”であるはずなのに。
白花の儀で面会していたにもかかわらず、彼女の美は記憶より遥かに強く、深く、鋭く突き刺さってくる。
(……この世の人間とは思えない)
美しいという言葉では、追いつかない。
むしろ、美という概念そのものを問い直したくなるほどだ。
少女と女のあわい。純潔と誘惑の狭間。
時間の流れの中で、最も美しい一瞬だけを抜き出して凝固させたような存在――
“永遠”が、人の姿をして立っている。
「セリム様、オーブ姫……ようこそ、メルベールへ」
アカシアは、静かに微笑んだ。
それだけで、場の空気が緩やかに震えた。
「先日の白花の儀では、こちらから出向く形となりましたが……またこうしてお会いできるとは。嬉しゅうございます」
その声音に、取り繕いはない。
だが、その瞳は深すぎて――底が見えなかった。
嬉しさなのか、哀しみなのか、あるいは何か別の、名もない感情か。
「アカシア、もうよい」
エドモン大公の低い声が、彼女の言葉を断ち切った。
それは命令というより、“囲い”だった。
彼の中で、アカシアはすでに人に見せる存在ではなかった。
貴族社会の華、美しき令嬢、政略の駒――それら全ての仮面を否定し、ただ“城の奥”に閉じ込めておきたいと願う、偏執的な所有欲。
老獪な男の唯一の弱点が、そこにあるようにさえ見えた。
「……はい、お父様」
その返答もまた、音楽のように整っていた。
拒むことなく、反抗するでもなく――だが、どこか機械的な響きがあった。
アカシアはそっと頭を下げ、光の帯を引くようにして塔の奥へと戻っていった。
まるで、月の女神が祭壇へと退くように。
それを見送る者の誰一人として、彼女の背に言葉をかけることなどできなかった。
大公が望んだのは、まさにこの瞬間だったのかもしれない。
見せるためではなく、“見せたくなかった”からこそ、ここに連れてきたのだ。
他人の視線を借りて、自らの所有物たる娘の美を改めて確かめ、
そして、それをすぐさま自分の影の内側へと引き戻す。
彼女の姿が見えなくなっても、空気にはまだ、白い花の香が残っていた。
永遠の春が、ほんのひとときだけ、この石の城に咲き、そして閉じられた。
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夜の帳が静かに降りたメルベールの城は、まるで時間そのものを止めたかのように沈黙していた。
晩餐の喧騒もとうに遠のき、館に仕える者たちの足音すら、音を殺したように消え失せている。
その夜。セリムとオーブ姫のもとへ、一人の静かな使いがやってきた。
影のように現れた老侍女は、目を合わせぬまま頭を垂れる。
「姫さまが、ささやかな夜の茶会にお招きしたいと――内密に、とのことでございます」
言葉の背にある意図は明白だった。名指しこそ避けられていたが、呼ばれているのはセリムである。
しかし彼が単独で夜に宮中を動くのは難しい。オーブ姫を名目としたのは、そのための方便だった。
「アカシア殿下とは、先日の白花の儀で少し言葉を交わしました」
オーブ姫が静かに笑う。
「……どうしてもセリム様にお会いしたかったのでしょうね。あの方は……先ほどの晩餐会でもずっと貴方を見ていらしたもの」
セリムは返す言葉を持たぬまま、ただうなずいた。
二人は灯りを控えた廊下を、老侍女の案内で進んでゆく。
冷たい石畳の下で、足音だけが響いていた。
やがて辿り着いたのは、塔の中でも最も奥まった一室。
白銀の香が微かに漂い、扉の向こうには、淡い光が揺れている。
案内もなく、扉が音もなく開いた。
「来てくださったのですね」
その声はまるで、絹を撫でる風のようだった。
部屋の中央には、光に包まれたひとりの女。
アカシア姫は、まるで時を忘れた幻想のごとく、そこに座していた。
その姿に、セリムは思わず息を呑む。
――美しい。
それは単なる言葉では足りなかった。
透き通るような白肌、空色の髪、細く整った指先。
そのすべてが、まるで神が一筆ずつ描き上げたような完璧さを湛えていた。
微笑すれば花が咲き、視線を交わせば心がかき乱される。
彼女の容姿は、“美”という語がまだ生まれる前から、世界に存在していたかのような神秘そのものであった。
「先日は……短い時間でしたけれど、貴方とお話しできて、嬉しかったのです」
アカシア姫が、柔らかく微笑んだ。
昼間見せた人形のような微笑みと違い、血の通った笑みだった。
—―こんな顔もするのか。
「すみません、はしゃいでおりますわね。……こんなふうに、誰かとお話しするなんて……わたくしには滅多にないことですから」
言葉の底には、微かに沈んだものがあった。
セリムは静かに彼女の前に膝を折った。
彼女が何を言いたいのか、どこまで語る気なのか――それはまだ、霧の中だった。
やがて茶が運ばれ、しばしの談話が交わされた。
言葉は穏やかに、しかしその合間に、姫の視線は何度も彼の顔を探るように彷徨った。
――この瞳は、あの方と同じ。わたくしを見つめたあの瞳と…
アカシアはそのことを言わなかった。ただ、言葉の隙間に苦悩をひそめた。
カップの中の湯気が薄れてゆく頃、姫はふと視線を落としたまま、言葉の調子を変えた。
「……セリム様がメルベールまでいらしたは…。クラウス殿の墓標が――荒らされたからでしょう?
……そして、十年前の“あの夜”のことを……もう一度確かめにいらしたのでは?」
その声音は淡いながら、逃げ場を与えぬ鋭さを帯びていた。
セリムは短く息をつき、目を伏せた。
「……ええ。その通りです。
墓を暴かれた理由を知りたい。そして、兄がなぜ……あのような最後を迎えたのか。
十年が経っても、まだ何も見えないんです。知るべきだと、思いました」
アカシアは、しばし黙したまま湯の冷めた茶杯を見つめていた。
その手が、わずかに震えているのが見えた。
やがて彼女は、細い声で言った。
「……あの夜のことは、わたくしがすべて知っています。何があって、なぜそうなったのか――全部、全部」
セリムは微かに眉を寄せる。アカシアは語りかけるように、だがどこか夢見るように続けた。
「けれど……今お話しすれば、きっと……貴方の中の“クラウス殿”は壊れてしまうでしょう。
わたくしの言葉が、あの人をまた殺すことになるかもしれないと思うと…。ですから……今はまだ……」
そこまで語ると、彼女はそっと目を閉じた。
「……ごめんなさい。何も言えなくて」
セリムはその謝罪に、何も返さなかった。
ただ、視線だけを彼女の顔から離さずにいた。
やがて、老侍女が再び現れ、茶会は静かに終わった。
オーブ姫はアルフェリスに付き添われ、先に部屋へと戻っていく。
—―――――――――――
残されたセリムは、静かな回廊をひとり歩いていた。
その時――
「……そなたか」
背後から声がかかる。
振り返ると、そこにはメルベール大公、エドモン・モーリッツが立っていた。
灯りの届かぬ石の柱の陰から現れたその姿は、まるで夜の獣のようだった。
「姫の私的な席に、まさか貴殿が同席していたとは。少々……興味深い偶然だな」
言葉は丁寧だが、どこか張り詰めていた。
セリムは頭を下げつつ、視線を合わせる。
「……公女殿下より、お話があると伺いましたので」
エドモンの目が細められる。その奥には、揺らめく感情の気配があった。
冷笑か、怒りか、それとも――警戒か。
「なるほど。やはり“あの一件”を忘れてはおらんのか。
貴殿がこの城を踏むとは、クラウスも……草葉の陰で驚いていような」
「……大公閣下は、驚かれましたか?」
その問いに、大公は一歩だけ間を詰める。
近づいたことで、互いの影が重なった。
「驚き……否。
だが――少しばかり、不愉快ではあるな」
セリムの背筋がわずかにこわばる。
エドモンはしばし彼を見下ろすように見つめ、そして声を落とした。
「……真実、か。
まったく、貴殿とその兄君は、どうして揃いも揃って……面倒な理想に憑かれるのだろうな」
くっくっと喉の奥で笑いながら、エドモンは石の床に足音を響かせる。
「クラウス――あの、薄っぺらな正義と騎士道の塊。
他者に敬意を払えば己が高貴になるとでも信じていたのか、滑稽だった。
……ああ、もちろん。よく出来た若者だったとも。
周囲が勝手に持ち上げる分には、申し分のない『偶像』だったさ」
振り返り、セリムの目を正面から射抜く。
「……だがな、私は、あの男も、フェイミリアムも心底嫌いだ。
鼻持ちならぬ“聖人ぶり”も、誰にも嫌われない器用さも、すべてが――気に食わなかった」
沈黙が落ちる。セリムの表情は微動だにしない。
(クラウスの影が、ここでもまた私を苛立たせるのか。……いや、違う。こやつの目の奥にある“問い”が、私の記憶を穿つ)
それを見て、エドモンはふっと目を細め、声をひそめる。
「その“弟”とやらがこうして現れ、同じ目をして、同じ匂いを振りまいている。
はてさて、これは因果か、あるいは――ただの厄介事か」
一歩、間を詰める。
「知りたいなら教えてやらんこともない。……だが、聞く覚悟はあるのか?
あの日、何があったのか。クラウスが“何をして”、そして“どうなったのか”――」
そこで言葉を切り、唇に皮肉を浮かべる。
「ふ。……まあ、せいぜい悩め。
真実というのは得てして、心ある者にほど毒となる。
貴殿がそれを飲み干せる器かどうか……私は、見極めてやるとしよう」
「……クラウスのような人間が、この世でもっとも……不快だ。そしてそなたは兄に似ている、それが私を苛つかせる。」
それが真情。
理屈ではない。
ただ、目障りなのだ。存在そのものが。
踵を返しながら、吐き捨てるように言い残すと一瞥もくれず、エドモンは闇の奥へと姿を消した。
その長い影だけが、石の床にしばし残っていた。