奉命
フェイミリアム王宮・東塔の一室。
初夏の風が、白絹のカーテンをそっと揺らす。硝子窓越しに射す陽光は柔らかく、机上に広げられた羊皮紙の端を金の縁取りのように染めていた。
「セリム様――大公殿下がお呼びです。執務室へお越しくださいとのことです」
扉の向こうからかかった声は、控えめながらもどこか緊張を帯びていた。
セリム・アシュノッドは筆先を止め、わずかに視線を宙に彷徨わせる。今、綴っていた文章の最後の語が脳裏に浮かび、やがて霞のように消えていく。
静かに椅子を引き、立ち上がる。
窓の外では、夏に向かって色づく庭木の梢が、陽にきらめきながら風に身を任せていた。
三か月前、彼はフェイミリアム城へと戻った。表向きにはオーブ姫の教育係として、しかし実際は――兄クラウスの墓を荒らした者を追う、密命を受けて。
それが、彼にとっての“帰還”だったのかどうか。いまだに答えは出ない。
ただひとつ言えるのは、城の壁も、敷石も、人々の声も、職を辞した二年前とはどこか違っているように感じられるということだった。
いや、変わったのは世界ではない。己の心だ。
扉を開け、通い慣れた廊下を歩く。
絨毯を踏む足音は吸われて消え、壁にかけられた紋章や絵画が視界の端を静かに流れていく。
十年前まではこの景色のすべてが、兄の背中とともにあった。
今は――ただ静寂だけが、寄り添っていた。
大公ヴァレリーの執務室。重厚な扉が開くと、そこにはすでにひとりの男がいた。
白銀の髪を短く整え、年輪の深く刻まれた顔に、澄んだ知性の光を湛える老文官――マクシム・ベルノワ。
その姿を見るだけで、背筋が伸びる思いがした
兄・クラウスの傍らにあって助言を惜しまなかったこの人は、セリムにとっても幼き日の記憶と結びついていた。
「……マクシム様もご同席とは、光栄です」
「セリム様」
老臣は静かに一礼した。かすかな笑みが、その深い皺の間に浮かんだ。
それは、懐かしさと誇りが滲んだ、父にも似たまなざしだった。
「さて」
大公が低く、確かな声で告げる。
「来月初め、我が国からメルベールへ使節を送る運びとなった。先方の大公より、正式な招待が届いている」
その名が口にされた瞬間、空気の温度が一段、低くなったような気がした。
メルベール――兄が命を落とした地。心の中で、決して遠ざかることのない場所。
「……白花の儀の返礼ですか?」
「建前としては、です」
マクシムが応じる声は、静かであるがゆえに、重みを帯びて響く。
「ですが、水面下では別の意図もあります。クラウス殿の墓荒らしの件が、我が国のみならず、先方にも波紋を広げ始めています。いま、十年前の出来事が改めて問われているのです」
あの夜、荒らされた墓標、奪われた遺骨。
誰が何のためにそれを行ったのか――真実は、地中よりも深く、闇よりも重い。
「……真相を探りたい者が、双方にいるというわけですね」
マクシムは小さく頷いた。
その表情に、かつてクラウスを守るために尽力していた頃の面影が宿る。
「セリム様、貴方にはこの使節に随行していただきたいと、大公殿下よりご命令です」
静かだが、揺るぎのない口調だった。
それは信頼の証であり、同時に背負うべき責務の重さでもあった。
「私は教師です。表向きには外交に関わる立場ではありませんが……よろしいのですか」
「だからこそ、です」
ヴァレリーが視線を向ける。その眼差しは、問いかけではなく、確信だった。
「オーブの教師としての立場を活かし、同行する。だが実際には、真実の糸を探る目として、そなたにしかできぬ役割がある」
口を閉ざしたセリムの中に、微かな痛みが芽生える。
兄の死を、ただ私事としてのみ捉えていたはずの自分が、今や国家の意図の中にいる。
だが、その矛盾こそが、彼を動かす原動力になりつつあることを、自身もまた否応なく理解していた。
「……オーブ姫はこの件に、どうお考えですか」
「姫は既に了承なさっています。むしろ、自ら使節の代表としての任を望まれました。」
マクシムの口元が、かすかに和らぐ。
「貴方とテオドール殿に護衛と補佐を頼みたいと」
オーブ姫…
その名を聞いただけで、胸の奥が不思議な熱を帯びる。彼女もまた、十年前を背負って生きている。セリムと同じように。
「……承知しました」
瞳を伏せたまま、セリムは静かに頷いた。
兄の死の真実が、また一歩、彼の目前に近づこうとしていた。
けれど、それはただの“真相”ではない。
そこに待つのは、人の心の深淵――踏み込めば、二度と戻れぬ闇かもしれぬ。
―――――――――――――――――――――
扉の前で一つ、息を整える。
静かに手を上げ、二度、扉をノックした。
「どうぞ」
即座に返された声は、張り詰めてはいない。
かつて幾度も聞いた――穏やかで、よく通る声だった。
セリムはゆっくりと扉を開けた。
部屋の中には、陽が差し込んでいる。
書類の山に囲まれた机。その奥に、姿勢よく座る男の姿。
テオドール・ヴァルツァー。
兄の親友であり、その死後自分を見守ってくれたくれた、あの人。
「ようやく顔を見せに来たな、セリム。忙しすぎて倒れてないか?」
気遣いとも冗談ともつかぬ口ぶりに、セリムは微かに眉を緩めた。
「……あなたほどではない、テオドール」
テオドールはまるでその隔たりを笑い飛ばすように肩をすくめた。
「まあ、お互い様ってことにしておくか」
机の脇に書類をまとめ、こちらへと歩み寄る。
背は高く、足取りは変わらず確かだ。
「それで?」
問いかけられ、セリムは短く息を吐いた。
「……大公殿下から随行するよう指示を受け、メルベールへ向かう」
「そうか」
たったそれだけの言葉だった。だが、テオドールのまなざしは深く、しばし何かを見つめるように沈黙した。
「……本当に、行くんだな」
その声音には、喜びも不安も混ざっていた。
あらゆる立場を飲み込んで、それでもセリム個人の無事を願う、ただの兄のような。
「はい。……行きます」
「なら、改めて伝えておく」
テオドールは一歩、距離を詰め、まっすぐに言った。
「今回の護衛任務は、俺が責任を持って引き受けた。セリム、お前の身は俺が守る」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
兄の死の後、誰にも守られぬことを望んでいた。
それが自立だと思っていた。
けれど――この人には、ついそのまま甘えたくなる。
「……ありがとう。でも、あなたにそこまでの負担を――」
「弟を守るのに、理由がいるか?」
テオドールは軽く笑った。
だが、その瞳には本気が宿っていた。
セリムは、目を伏せる。
あの頃。
クラウスが剣を振るい、テオドールがそれを支え、幼い自分は彼らの背中を追っていた。
自分だけが時を止めたつもりでいた。
だが、誰よりも歩き続けていたのは、目の前の男かもしれなかった。
「……頼りにしている。テオドール」
声に込めたのは、敬意と感謝だった。
セリムが呟くように言うと、テオドールはセリムの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「やっと真面目な話終わった?退屈で寝そうだったぜ」
ソファの背からひょいと顔を出したのは、赤毛の青年――アルフェリス。
寝転がっていたのか乱れた服装のまま、肘をついてこちらを見ている。
「アル、お前、いつの間に来てたんだ」
「最初から。ノックの音も聞こえたぜ? ……まぁ、邪魔すんのも野暮かと思ってな」
軽く笑って、ソファに足を投げ出す。
「それにしてもさ――お前ら並ぶと空気が締まりすぎなんだよ。“真面目×真面目”って感じでさ。見てるこっちが息苦しくなる」
セリムが小さく笑うと、テオドールも肩を揺らした。
「じゃあ、お前が加わればちょうどいいか」
「そうそう。俺、癒やし枠なんで。空気読むの、得意なんだぜ?」
「時々“空気破壊枠”になるのが玉に瑕だがな」
「ひでえ言い方! ……けど、まあ、そういう言い回しができる相手ってのも悪くない」
言葉の軽さの裏に、長い年月がある。
彼らは兄の時代から、こうして並び立っていたのだ。
「でもまあ……またこうして皆で動けるとはな」
テオドールがぽつりと呟く。
その声音には、懐かしさと、かすかな痛みが混ざっていた。
セリムは胸に手を当てた。
――兄上。
あの人のそばで、私は今、あなたの名の下に歩き出す。
「……向かう先は、メルベールだ。
真実を掘り起こすには、あの地を避けては通れない」
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。
「なら、迷うな」
テオドールの返事は簡潔だったが、何よりも力強かった。
「やるべきことを、やるだけだ」
「そうそう。俺らにできるのは前に進むことだけ。
……まあ、俺の場合は“のんびり進む”だけどな」
アルフェリスの気の抜けた声に、場の空気が少し柔らいだ。
「……お前がそう言うと、途端に不安になるのはなぜだろうな」
「信じてくれよ、テオ。俺、やればできる子なんだって」
「はいはい。やれよ、ちゃんと」
冗談まじりのやりとりの中で、セリムはそっと目を伏せる。
けれどその唇には、確かに微笑みが浮かんでいた。
今、自分は一人ではない。
それが、何よりも心強かった。
―――――――――――――――――――――
南棟の講義室。静けさの中、セリムは目の前に広がる書類に目を落としながら、ふと頭をあげた。窓から差し込む夏の陽射しは、穏やかで温かい。まるで今、彼の心に漂う不安や葛藤を包み込むかのように、優しく光っていた。しかし、その優しさとは裏腹に、心の奥底で渦巻く思いは静かに続いていた。
「殿下、白花の儀について、もう少しお聞きしたいことがあります」
セリムの声が静かに響き、オーブ姫はふと顔を上げた。彼女の瞳には、まだ消えぬ影が残っている。あの日の記憶が、確かに彼女の心の中に深く刻まれていることを、セリムは感じ取った。
オーブ姫は少し間を置いてから、静かに答えた。
「はい。白花の儀は、私たちの国にとってとても重要な儀式ですわね。しかし、あの時のことを考えると、どうしても気持ちが沈んでしまいます」
その声には、言葉では表現しきれないほどの重みがあった。セリムはその言葉に何も言い返せなかった。オーブ姫の心があの日から変わらず苦しんでいること、そしてそれを誰にも打ち明けられずに抱え込んでいることは、彼にはひしひしと伝わってきた。
「十年前、私はメルベールのアカシア姫と共に献花をしました。それは、戦争の終結を祈る大切な儀式でした。けれど、その儀式から数カ月後、クラウスが……」
オーブ姫は言葉を切り、わずかに目を伏せた。その視線の先に見えるのは、恐らく過去の思い出だろう。セリムもまた、心の中でその記憶を辿る。十年前、兄がメルベールで命を奪われた夏の日。彼の死を報せられたあの日のことを、未だに忘れられない。
「――あの時、子どもだった私は何もできませんでした。急いで駆けつけたかったけれど、国を代表する立場として、すぐには動けなかった」
オーブ姫の声は、次第に小さくなり、彼女の中でその痛みが再び蘇ってきたことがセリムには痛いほど伝わってきた。彼女がその時、どれほど無力感に苛まれたか、想像するだけで胸が締め付けられる。
「しかし、今、私は再びメルベールに行くことを決めました。これは、白花の儀に対する返礼のためでもありますし、何よりも平和をつなげていくための大切な一歩だと感じているからですわ」
その言葉に、セリムは少し驚き、そして少しの不安を抱いた。オーブ姫がその決意を口にするのは、それだけの覚悟を持っているからだろう。しかし、彼女の目の奥にある微かな揺らぎは、まだ完全に自信を持っているわけではないことを物語っていた。
「でも、セリム様――」
彼女が少し躊躇いながら、再び口を開く。
「私は、この訪問が本当に成功するのか、まだ自信がありません。メルベールと…あの国と平和が根付く余地があるのか、私には確信が持てないのですわ」
その言葉に、セリムの胸は一瞬だけ痛んだ。オーブ姫が感じている不安、そして恐れ。その感情を彼は何度も抱えたことがあるからだ。彼女はどれだけ力強く振る舞おうとしても、その心は確実に揺れていた。
セリムはゆっくりと、しかししっかりと答える。
「オーブ姫。あなたがそのように思うことは、私にはわかります。しかし、あなたがメルベールに赴く理由は、決して無駄ではありません。その想いが、必ず相手に届くと私は信じています」
セリムの言葉は、彼自身が心から思っていることをそのまま伝えるように、重みを持って響いた。オーブ姫はその言葉に、少しだけ顔を上げた。彼女の顔には微かな希望の光が差し込んだように見えた。
「――ありがとう、セリム様。あなたの言葉に、少し勇気をもらいましたわ」
その言葉には、オーブ姫が心の中で少しだけ前に進もうとしている瞬間が込められていた。セリムもまた、その微かな変化を感じ取り、心の中で少しだけ安堵の息を漏らす。
「もちろん、私も共に行きます。オーブ姫が一人でこの大事な任務を担う必要はありません。私も一緒に、メルベールに向かいます」
オーブ姫は少し驚いたようにセリムを見つめ、そして心からの微笑みを浮かべた。
「セリム様……ありがとうございます」
その言葉が、何よりも心強く響いた。セリムは静かに頷き、再び教室の窓の外に目を向けた。今度は、その窓から見える景色が、少しだけ希望を感じさせるものに思えてきた。
講義室の中には、静かな光が満ちていた。オーブ姫と共に進む未来に、少しだけ希望を見出しながら、セリムは心を決めた。




