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白い獅子の骸  作者: sume
第四章
23/33

起点

 晴れ渡った空の下、メルベール城の広間は華やかで、金色の陽光を反射する飾りつけが一層その豪華さを引き立てていた。ヴァレリー大公の公式訪問という、国の重要な行事のため、広間には品位のある衣装を身に纏った貴族たちが集まり、まるで一つの大きな舞踏会のような賑わいを見せている。アカシア姫は、その静かな美しさを保ちながらも、心の中で少しだけ落ち着かない気持ちを抱えていた。




 メルベール王国とフェイミリアム公国は、長年にわたって大なり小なり争いを続けていたが、先のローザリア全土の不戦条約締結に伴い、友好関係を築き始めたばかりであった。表向きの安定した関係にも、姫の心はどこか張り詰めたような緊張感を感じていた。それは、決して無意識ではなかった。今日、フェイミリアムからやってくるのは、ヴァレリー大公だけではない。その騎士団の中に、あのクラウス・アシュノッドが随行しているという事実に、アカシア姫は自分でも驚くほど反応していた。




――クラウス殿が来られるのですね……




心の中で呟いたその言葉には、気づかれぬように注意深く意識を込めた。


白花の儀の時、ほんの少し言葉を交わしただけの彼。けれど、そのときのことは、何度も心の中で思い返すほどに、姫の胸に深く残っていた。しかし、その感情が一体どこから来るのかは、アカシア姫自身にもよくわからなかった。




――またお会いできることを…私は楽しみにしているのでしょうか?




少しだけ口元を緩めて、そう自分に問いかける。


しかし、すぐにその問いに答えることなく、姫は広間のテーブルに目を移した。メルベール大公とヴァレリー大公が静かに会話を交わす中、アカシアの視線は自然とクラウスへと向けられる。


彼の姿は、どこにでもいるような騎士たちの中でもひときわ冷静で落ち着いている。その強い存在感に、アカシアは引き寄せられるように目をそらせずにいた。


その時、クラウスがふと顔を上げ、アカシアと目が合った。ほんの一瞬だったが、その瞬間、彼は少しだけ微笑んだ。決して派手な笑顔ではない。その一瞬の表情が、アカシアの胸に予期せぬ波紋を広げた。




――どうして、こんなに心が動くのでしょうか?




その瞬間の感情に、アカシアは自分でも驚きながら、心が少しだけ跳ねるのを感じた。しかし、なぜそのような気持ちになったのか、理由が分からない。何もしていないのに、ただ目が合っただけなのに――。




――おそらく、偶然でしょうか……




姫は自分にそう言い聞かせ、心を落ち着けようとする。


しかし、その温かな気配が、胸の中にしばらく残り続けるのを感じた。何度も深呼吸をして、ようやく気持ちを整理する。




目の前の大公たちの会話の音が、どこか遠くに響いてくるようだった。目の前で繰り広げられている儀式や会話のすべてが、アカシア姫の心にはどこか空虚に感じられた。




そして、姫は再び、自分の心の中で小さな問いを抱える。




――どうして、心が少しばかり乱れるのでしょう?自分でもよくわかりません。




答えは見つからなかった。けれど、心の奥底で湧き上がる感覚に、アカシアはまだしばらく気づけずにいた。




—―――――――――――――――――






メルベール城の晩餐会は、夏の夜を惜しむように開かれた。城内の天井には蝋燭の光が揺れ、光と影が交互に壁を撫でている。

北方の国にとって、夏は儚い祝祭のようなものだ。

だからこそ、こうした宴は城全体が一体となって祝う「最後の明かり」のように思えた。


アカシアは、椅子に腰をかけながらも、その細やかに仕立てられた礼装の袖を自らの膝の上で静かに指先でなぞる。

手のひらにじんわりと汗がにじむのは、暑さのせいではない。自分でも分かっている。




視線を動かす。


ひどく意識していないふりをしながら、心は一箇所に縫いとめられていた。そう、彼のこと。



――クラウス・アシュノッド。




騎士団の整列する席、蝋燭の光に頬の影を落とし、まっすぐ背筋を伸ばして控えるその姿。姿勢に隙はなく、振る舞いも品位を失わず、しかしどこか静かな翳りを帯びている。

彼を囲むフェイミリアムの騎士たちは少しばかり周囲を伺うように緊張しているが、彼自身はまるで他者の評価に無関心なように見えた。




――見つけた。




ほんの一瞬、彼の視線がこちらをとらえた。それだけだった。言葉も、合図も、名を呼ぶこともなかった。

けれどアカシアは、確かに、彼が自分を見て微笑んだことに気づいた。




「……っ」




心の奥底に、細い弦が張り詰められるような感覚。微かな音を立てて、その弦は震えた。



――どうして、こんなにも胸が熱くなるのだろう。




(わかりません……)




その理由を考えようとするだけで、背筋がこそばゆくなった。

心が、どこか遠くへ浮いてしまいそうだった。




(けれど、また……こうしてお会いできたことが、嬉しい。とても……)




アカシアは自分の内に湧き上がる感情に戸惑いを覚えていた。恋――そんな明確な言葉には、まだ至らない。

だが、それでも、どうしても忘れられなかった。

あの白花の儀での偶然の出会いを、彼の静かな眼差しを、記憶のどこかでずっと大切にしまっていたことに、今更ながら気づかされたのだ。




「姫様、冷えてはおられませんか?」




近くに控えていた侍女が、心配げに声をかけた。




「……いいえ、大丈夫です、ありがとう。少々……考え事をしていただけです」




言葉にしたとたん、心の奥にそっと触れたその考えの輪郭が、ゆっくりと形を成していく。話したい。

できることなら、今夜のうちに――あの方と、言葉を交わしてみたい。




もちろん、それは“姫”としての立場を著しく逸脱する願いだった。父であるメルベール大公が、それを許すはずもない。



アカシアが他国の男と親しく言葉を交わすなど、もってのほかである。




(でも……言葉を交わすだけならば。名目があれば、機会さえ設けられれば……)




脳裏に浮かぶ策略は、決して悪意によるものではなかった。むしろ、アカシアなりの“真心”の延長だった。



フェイミリアムとメルベールの和平を象徴する文化交流――その名目で、クラウスに直接話をする場を設けるよう、侍女を通じて父へ提案を伝える。

さらに――夜の巡回にフェイミリアムの騎士団を加えるよう、父に進言する。

共同警備。それは安全保障の一環として、非の打ち所がない申し出となるだろう。

その配置の調整次第で、クラウスが姫の私室に近い回廊を通るよう仕向けることも可能となる。




――すべては、“偶然”を装うため。


自らの行為が軽率であることも、理解していた。

だが、理性で気持ちを抑えきれるほど、大人でもなかった。




(……これで、ほんの少しでもお話できたなら)




それだけでいい。それだけで――今夜を、思い出にできる。


蝋燭の光が静かに揺れる。アカシアの頬にはその温もりと同じ光がさしていたが、誰もその理由を知らない。



鳥籠の中で育った姫が初めて得た心の自由、それを咎める権利など、誰にもなかった。

姫の心に咲き始めた花は、まだその名も知らぬまま、夏の夜にそっと芽吹いたばかりだったのだから。




—―――――――――――――――――






 宴がひと段落し、宮殿の奥へと進んだアカシアは、控えの間の静けさの中に身を置いていた。式典から続く一連の行事に疲れが滲み、頭の芯がぼんやりとする。だが、彼女の心をもっと重たくしているのは、終わったはずの儀式の疲労ではなかった。




 ――あの人は、今、どうしているのだろう。




 ふとそんな思いがよぎる。どこかでまた、静かなまなざしで人々を見つめているのではないか。何も語らず、誰の感情にも染まらぬように、ただ己の役目を果たす者として。


 ふと、戸口に気配を感じ、アカシアは振り返る。


 そこにいたのは、やはりクラウスだった。


 黒の礼装に身を包んだ姿は変わらない。しかし中庭で見たときよりも、どこか張りつめた雰囲気を纏っている。アカシアは無意識に立ち上がり、軽く頭を下げた。




 「クラウス殿、再びお会いできるとは思っていませんでした。」


 クラウスは小さく微笑み、丁寧に礼を返す。


 「殿下こそ、お疲れのご様子でしたので…無事でいらっしゃるか、少し気になりまして。」


 「……お気遣い、痛み入ります。」




 その言葉には嘘がない。だが、それ以上踏み込んでこようとはしない――




彼は、いつもそうだ。程よい距離を保ち、必要以上の感情を交えない。それが彼の美徳でもあり、アカシアにとってはどうしようもなく、もどかしい壁だった。


 二人の間に一瞬、静寂が落ちる。アカシアは思い切って一歩、踏み込んだ。




 「クラウス殿……先日の夜のこと、覚えていらっしゃいますか?」


 「はい。あの中庭でのことですね。」




 彼は即座に頷いた。まるで、あの会話を何度も反芻していたかのように。




 「あなたは、冷徹であることを選んだと言いました。感情に流されず、務めを果たすために、と。」




 アカシアは視線を外さずに続ける。




 「けれど……私は、あれ以来ずっと考えていました。人が感情を抑えたまま、本当に何かを守れるのでしょうか?」




 クラウスの瞳がわずかに揺れた。それはごく微かな反応だったが、アカシアには確かにそれが見えた。




 「殿下は、私に人としての弱さを求めておられるのでしょうか。」


 「違います。」アカシアは即座に否定した。


 「私は……あなたが、ただ誰かの盾や剣としてだけではなく、ちゃんと“あなた自身”でいてほしいと思っているだけです。」




 その声は思ったよりも震えていた。自分でも驚くほど、感情が混ざっていた。


 クラウスは黙っていた。その沈黙に、アカシアは少しだけ胸を締めつけられた。


 だが、やがて彼はゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。




 「……私は、すでに“誰か”ではなく、“何か”になることを選びました。」


 「それは、今さら変えられるものではありません。」




 静かな声だった。その響きに、どこか諦めにも似た覚悟が混ざっているのを、アカシアは感じた。




 「では、誰かがあなたのために何かをしたいと思ったときも……それでも、あなたの心には届かないのでしょうか?」




 それはまるで、懇願のようだった。答えが怖かった。


 クラウスはしばらく答えず、やがてわずかに目を伏せて言った。




 「そのときは……ありがたく思うでしょう。ただ、それが私を変えることはないと思います。」




 アカシアはその言葉を聞いて、そっと目を閉じた。


 そして、微笑んだ。




 「……本当に、頑固な方ですね。」




 その笑みには少しの寂しさと、少しのあきらめと、そしてほんの少しの愛しさが滲んでいた。




「でも……」




アカシアは言葉を続けようとして、一度口を閉じた。沈黙がふたりのあいだに流れる。遠くの宴のざわめきがかすかに風に運ばれてくる中、夜の中庭は静かだった。




「……それでは、あなた自身は、どこにいるのですか?」




クラウスがわずかに目を伏せる。アカシアは自分の問いが、どれほど不躾なものだったかを自覚しながらも、後悔はしていなかった。




「あなたが言う『守るべきもの』は、わたくしのような者を指しているのでしょう。でも、それだけのために、生きるというのは――あまりにも、寂しい。」




まるで囁くように、アカシアは言った。自分が今、どれほど感情に身を任せているのかを、彼女自身がよく分かっていた。


クラウスは少しだけ息を吐き、静かに視線をアカシアに戻した。




「寂しさは……慣れます。殿下。」




その言葉には、痛みも、嘆きもない。ただ、既に選び取られた者だけが知る、静かな覚悟があった。


アカシアはその声音に、思わず眉をひそめた。




「そんなものに、慣れないでいただきたいのです。誰かのために、すべてを捧げるのが美徳のように語られるのは、時に残酷です。」




彼女の声が、ほんのわずか震えた。だが、それは怒りでも悲しみでもなかった。ただ、彼の中に感じる冷たい水面のような孤独に、どうしても目を背けたくなかったのだ。




「……それが、殿下の御心ならば。」




クラウスは淡く笑った。その笑みは、先ほどまでの仮面のような微笑とは違い、どこか困ったようで、少しだけやさしかった。




「私は、いずれ忘れられる者です。名も、姿も、功も――主のために尽くし、そして消える。騎士とは、そういうものです。」


「わたくしは、忘れません。」




アカシアの言葉は、鋭く、凛と響いた。クラウスが、初めて驚いたように目を見開いた。




「あなたが何を思い、何を選び、何を捨てたとしても――わたくしは、覚えています。だから……」




彼女は一歩、彼に近づいた。白いドレスの裾が、そっと風に揺れた。




「わたくしは、あなたの味方です。たとえあなたが、それを望まなくても。」




クラウスは何も言わなかった。ただ、まっすぐに彼女を見ていた。その視線の奥に、初めて、揺らぎのようなものが見えた気がした。


その瞬間、どこかで鐘の音が鳴った。宴の終わりを告げる合図だった。


アカシアは微笑んだ。少しだけ、疲れをにじませながらも、誇り高く、優雅に。




「あなたは……今のままで、本当に、幸せなのですか?」




クラウスは答えなかった。風が、彼の髪をさらりと撫でた。


アカシアは目を伏せたが、すぐに彼を見上げる。まっすぐな視線は、もはや躊躇いを持たなかった。




「その問いの答えを――もし、わたくしに教えてくださるなら……今夜、部屋までお越しくださいませ。」




声は静かだが、まるで胸の奥から響くような熱を帯びていた。




「公女としてではなく、ひとりの人間として……あなたと、言葉を交わしたいのです。」




クラウスの瞳が、わずかに揺れた。




「理由が必要なら……わたくしが、あなたを呼んだとだけ、お答えください。きっと誰も咎めたりはしません。」




そして、アカシアはひと礼し、回廊の先へと消えていく。




—―――――――――――――――――




夜が更け、城は静けさを取り戻していた。


窓辺のレース越しに、雲間から差す月の光が床に淡く影を落としている。アカシアは鏡台の前に静かに腰掛けていた。



両手は膝の上で落ち着きなく動いていた。


胸の奥に灯るのは、理屈では捉えきれぬ焦がれるような疼き。

それが不安なのか、それとも期待なのか、自分でも判じかねていた。


鏡の中の自分と、ふと目が合う。頬に紅は差していないのに、どこか火照ったように見える顔。

その目元には、熱とともに、隠しきれぬ揺れが浮かんでいた。




(……来てくださるのなら)




唇を結び、両手を胸にあてる。

思い出されるのは、あの白花の儀の光景――


春の終わり、花嵐の吹きすさぶ広場。壇の上に立ち、献花を捧げた瞬間、群衆の中に確かに彼の姿があった。

目が合ったわけではない。けれど、あのとき感じた視線のぬくもり。

それが胸の内に、そっと芽吹いた。


白花の儀のあと、何度か顔を合わせてきた。笑いも交わした。けれど、それはすべて“誰かに見られている”場でのこと。



礼儀と役目をまとった、よそゆきの彼だった。


本当はどんな声で笑うのか。沈黙のとき、どんなふうに目を伏せるのか。

怒ったとき、悲しんだとき――その奥にあるものを、私は何も知らない。




アカシアは彼の眼差しの奥を、言葉の調子を、そしてほんの短い間の沈黙までも、心に刻みつけていた。




次第に、名を呼ぶことさえ叶わぬ想いが、彼女の内側で育っていった。


今日、それが変わるかもしれない。

クラウスはこの城にいる。自分の招きを受け取ったなら、訪れるはずだった。


父が知れば、決して許されはしない。そんなことはわかっていた。






(……どうしても、話がしたかった)




知ってしまいたかった。

知ってしまえば、もう後戻りはできないとわかっていたのに。


それでも、止められなかった。




もっと彼のそばにいたい。

もっと彼のことが知りたい。


それだけの想いに、抗う術はなかった。




何も知らずにいるには、もう耐えられなかった。




――コツ、コツ、コツ……




廊下を渡る足音が、静かに近づいてくる。

鼓動が音に重なり、胸の奥で高鳴る。


足音はやがて、部屋の前でぴたりと止まった。


アカシアはそっと立ち上がる。

息を潜め、扉の向こうに気配を探る。




……沈黙。だが確かに、そこに“誰か”がいる。



決して言葉にはならない何かが、扉一枚を隔てたその向こうで、静かに揺れている。




(クラウス殿……)




声には出さず、ただ心の中で名を呼ぶ。

扉は開かれない。足音もない。けれど、そこにある“存在”は確かだった。


甘い期待、苦しいほどの緊張、そして、ひとしずくの不安。

そのすべてが、静かに息づいている。




(……来てくれた)




胸に確かな温もりが落ちてくる。

アカシアは静かに目を閉じた。


言葉も、行動も、もう必要はなかった。

この夜、自分の想いが届いたという確信だけが、何よりの証だった。


それだけで――すべてが、報われた。




—―――――――――――――――――




廊下の静寂を破るものは、遠くから聞こえる風の音のみ。


その中央に、ひとり立ち尽くす少女の姿があった。




アカシア・ヴェルダ・メルベールは、無言で佇んでいた。手には、白い布。赤く染まったその一部が、淡く月明かりに照らされている。その下に見えたのは、白い花――白花の儀で捧げられる、清らかさの象徴。




アカシアは、震える指で布を亡骸の胸にかける。まるで、罪を覆い隠すように。

あるいは、最後の慈しみを注ぐように。


その「亡骸」が誰であるかは、語られない。




「私は……あの方の名誉だけは、守らなければなりません」




ひとり呟いたその声は、震えていた。けれど、その瞳には決して迷いがなかった。震えながらも、静かに、ゆっくりと、偽りを受け入れていく意志。




「ですから、私は……語らねばならないのです。真実ではなく、語るべき“嘘”を」




彼女は膝をつき、白い花をそっとその胸元に置いた。


何が起きたのか。なぜ血があり、なぜその言葉が必要だったのか。


それはまだ、誰にも語られない。けれどこの夜、アカシアは、嘘を選んだ。誰かのために、そのすべてを背負うと、静かに決意したのであった。


そして、ぽつりと、言葉が落ちた。




「……彼の名誉だけは、私が守らなければならないのです」




それは誰にも届かない、孤独な祈りだった。嘘を語る決意。真実を封じる覚悟。

この瞬間、アカシアはもはや少女ではなかった。


何が起きたのか。なぜ、彼が命を落とすに至ったのか。



誰が、何を、どう語ろうとしているのか。


すべては、まだ語られない。

ただ、アカシアの手の中に残された花弁と、血の色が、すべてを物語っていた。

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