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白い獅子の骸  作者: sume
第四章
22/26

白影



 ローザリア不戦条約が交わされてから間もなく、この日の夜、フェイミリアム王城でその平和を祝う記念祭が華やかに催されていた。




 メルベール公国、エムステルド公国、アルメリア公国など、ローザリアのすべての大公国から国賓が集まり、賑やかに祝意を交わす姿が見受けられる。

 穏やかな空気の中、目の前で繰り広げられる盛大な宴には、どこかひとつ、微かな違和感が漂っていた。


 広間に広がる燭台の灯火が金色に揺れ、壁には金の蔓草が飾られ、絢爛たるドレスを纏った貴族たちが互いに交わす言葉が、まるで音楽のように重なり合う。

 だが、アカシアの心にはその華やかさがまるで無機質なもののように感じられ、祝祭の最中にありながらも、心の中に静かな寒さが広がっていた。


 明日、白花の儀が控えている。




 フェイミリアムの幼い姫とともに、彼女はその儀式で花を捧げる大役を担う。

 だが、目の前に広がる平和の象徴のような光景が、アカシアの心を一層深く、重く沈めていた。



 この宴は皆が望んでいた平和を意味するものなのだろうか?



 それとも、まだ何かが隠されているのではないか――と、心の中で問いかけが続く。




 父・メルベール大公をはじめ、ローザリア各国から、代表・使者が集まり、みな祝辞を交わし合っている。その豪華な礼装と華やかな言葉のやり取りに囲まれ、アカシアは一層孤独を感じていた。

 どの顔も、どの声も、心の中で何かを無理に押し込めているような気がしてならない。


 そのとき、アカシアの視線がふと、広間の隅に佇むひとりの男に止まる。 彼は、他の誰とも異なり、派手な会話や笑顔を無視するかのように、ただ静かに立ち尽くしている。

 黒衣をまとったクラウスだ。彼は警備の任務として、この宴に同席しているが、他の誰とも交わることなく、ひとり黙々とその場に留まっている。

 その姿は、まるで宴の喧騒から切り離されたかのように、ただ佇むだけの存在に見えた。




 (こんなにも静かな人物が、ここにいるのか)




 アカシアは、その無言の姿に、なぜか目を奪われる。

 彼が何を考えているのか、何を感じているのか、まったく知る由もない。それでも、彼の立ち振る舞いがどこか他の誰とも違うものであり、そしてこの祝祭に浮かぶ喜びや祝辞が無意味に見えるのを、彼がひとり、無言で証明しているように思えてならなかった。




 彼の冷徹とも思える表情、そしてどこか遠くを見つめる瞳。その視線が、他の誰よりも深い闇を感じさせるかのように、アカシアの胸にじっと迫る。

 ――この祝祭が平和の象徴であるならば、彼の目にはそれはどんな意味を持っているのだろうか。




 アカシアの心に沸き上がる違和感。 明日には白花の儀があり、彼との接触の機会も恐らくあるだろう。しかし、今夜の彼の姿に、何かしらの答えを求められているような気がしてならない。

 彼がただひとり立つその場所が、まるで静かな問いを投げかけているようで、アカシアの心はそこから逃れることができなかった。




—――――――――――――――――――――――




 白花の儀は、まるで誰かの心の中にある冷たいものをそのまま具現化したかのように、静寂に包まれていた。


 薄い白の花が咲き誇る中、アカシアはメルベール公女として、父の隣に座っている。その美しい儀式の光景に、貴族たちの笑顔や祝辞が溢れ、まるで世界中が祝福しているかのように見える。



 だが、その華やかさを背景に、アカシアは一瞬として心の中に浮かぶ疑念を拭うことができなかった。




 —―この平和は、本当に平和なのだろうか?




 無意識にその問いが浮かび、彼女は微かに眉をひそめた。


ここに集う者たちが、皆笑顔を見せ、誠実であるように振る舞っている。しかし、その裏で何かが隠されているような、抑えきれない違和感が胸に残る。



 それが、平和という言葉に対しての恐れでもあった。

 それが、彼女自身が一歩踏み出すたびに感じる重圧であった。

 この“平和”は、誰かの“沈黙”の上に成り立っているのだと、本能的に感じていた。




 ――この儀式の中にあるものは、本当に祝福なのだろうか。




 アカシアは、肩のあたりに冷たい空気を感じて振り向く。だが、目の前の光景に目を奪われているうちに、ふと、脇の陰に佇む青年の姿が視界に入った。




クラウス――。




彼の姿は、まるで儀式の場にそぐわないように感じられるほど、異質で静かだった。


若いながらもこの式典の警備責任者を務めているという。ひとたび戦場に出れば無敗、「白獅子」と称される稀代の騎士の噂はメルベールにいた頃から噂好きの侍女たちを通じて耳にしていた。



 彼は式典の目立たない場所に立ち、まるで影のように、周囲の華やかさと一線を画している。だが、その無言の姿が、逆に彼を強く引き立てていた。


 彼の背中から伝わるものが、何かしら重く、そして冷たいものを感じさせた。


まるで、他の誰もが感じ取らないような、深い暗闇をその身に宿しているかのような気配。



 アカシアの心がひときわ静かに、そして鋭く、その青年に引き寄せられるのを感じた。



 不思議なことに、その瞬間、彼女は少女らしい好奇心ではなく、もっと強い感情が湧き上がっているのを自覚した。それは、むしろ責任感に近い感覚だった。




 「彼は何を背負っているのか。」




その問いが頭の中で反響する。アカシアは、クラウスが何か大きなものを背負い込んでいるのを感じずにはいられなかった。

 青年の目には、何か隠された苦悩が漂い、その姿を見つめるたびに、彼女の心の中に静かな圧力がかかっていく。

 それは、他の誰もが感じ取らないような、真実を見逃さないようにという警鐘のようだった。

 そして、なぜかその感覚が、アカシアの胸に直接響く。



 “彼のことを知りたい”――その衝動が、抑えきれないほど強く、しかし冷静に彼女の中で膨らんでいった。




 「それに、あの背中には、どうしても目を離せない。」




 誰もが祝福に酔いしれる中で、アカシアだけはその異なる空気に気づいていた。そして、そこには確かな“責任”があった。

 自分が何かしらの役目を果たさねばならないという、内なる使命感が強く突き動かす。

 でも、それがどんな形で果たされるべきものなのか、彼女には全くわからなかった。ただひたすらに、クラウスの影が自分の目に焼き付き、無言の呼びかけをしているように感じるだけだった。

 その気配は、誰かに求められているような気がして、心を乱す。


 目の前の儀式が進んでいく中で、アカシアは自分の手をぎゅっと握りしめた。 背後に響く祭りの音、華やかな香りとともに、心の中には冷たい何かが静かに広がっていく。

 そして、彼女は心の中で一つ、確信に近いものを感じ取る。




 ――私は、この日を無駄にしてはいけない。




 その決意が、次第に胸の中で確かなものになっていった。




—――――――――――――――――――――――




 式典が終わり、アカシアはクラウスの案内に従って貴賓室へと足を運んだ。少しだけクラウスと会話をしたが、穏やかな態度から少しだけ影を感じた不思議な青年だった。


その途中、少し気を抜いたように、白花の儀の重責から解放された自分を感じていた。しかし、いくら儀式の終わりとはいえ、心の中に溜まった疲れは容易には消えなかった。




 貴賓室に到着し、少しだけ休息をとると、すぐに催されたパーティー会場に向かうように言われた。たくさんの人々と一緒に、華やかな場に出ることに少し戸惑いを覚えながらも、背筋を伸ばし会場へ向かう。




 だが、煌びやかな装飾が並ぶ会場で、長時間の立ち話や社交の場に体力を使いすぎたのだろう、アカシアは少し気分が悪くなったように感じた。目の前に広がる贅沢な装飾も、豪華な服飾も、どこか浮世離れしているように思えて、気が滅入ってくる。




 彼女はそのまま会場から一歩外れ、静かな場所へと足を運ぶ。疲れた体を少しでも休ませたくて、空気を求めるように中庭に出た。


 しばらくその場に立って深呼吸していると、ふと視界の端に誰かが現れた。


 クラウス――その黒の正装を身にまとい、会場にいたときとは違った、少しリラックスした様子で中庭に立っていた。

 会話の中では常に冷静で毅然とした態度を見せている彼だが、今はどこか静かな落ち着きを感じさせる。


 アカシアはその存在に一瞬心を奪われたが、すぐに気を取り直し、軽く微笑みながら声をかける。




 「クラウス殿、お疲れ様です。こんな場所で、偶然お会いするとは思いませんでした。」




 その言葉にクラウスは、少し驚いたような表情を見せ、すぐに微笑んだ。




「公女殿下こそ、お疲れではありませんか。式典は、さぞ緊張されたかと。」




 その言葉に、アカシアは疲れた顔を隠すように少しだけ視線を逸らすが、すぐに言葉を続けた。




 「皆が見守る中で、いろいろと気を使うことも多くて……。」




 クラウスはその言葉に、少しだけ苦笑を浮かべながら頷く。




 「そうですね。あのような場では、いかに完璧に振る舞うかが問われますから。けれど、殿下のお姿は実に堂々としておられました。」




 「ありがとうございます。」


アカシアは少しだけ素直に礼を言うと、すぐに気を取り直して言葉を続ける。


「けれど、ただの儀式です。大切なことは、やはり実際に戦わなくてはならない時に、しっかりと守れるかどうかです。」




 その言葉に、クラウスは無言で黙ってうなずき、ほんの少し間を置いてから言った。




 「その通りです、殿下。儀式や言葉で平和を築けるなら、戦争なんて必要ない。しかし、現実は違いますから。」




 アカシアはその言葉に深く頷き、しばらく静かに二人の間に漂う空気を感じていた。


 ふと、クラウスが改めて言葉を口にする。




 「殿下、少しお休みになられては?」




 その言葉に、アカシアは軽く肩をすくめた。笑顔を浮かべながら、ほんの少しだけその疲れを隠すように見せる。




 「ええ、ありがとう。こうして静かな場所で一息つくのも、時には必要ですね。」


 そのとき、クラウスがほんの少しだけ表情を変え、深く見つめるようにして言った。




 「もし、よろしければお話をさせていただいても? 無理にとは言いませんが、少しは気が晴れるかもしれません。」




 その言葉に、アカシアは少し驚いたが、どこか温かみを感じて答える。


 「……ありがとうございます。では、少しだけ…お時間いただけますか?」




 クラウスは静かに頷き、その場に立つ。二人の間に静かな時間が流れ、アカシアは自分が何かを言いたくなってきたことに気づく。何か胸の内にしまい込んだ感情が溢れそうになる。それを整理するように、クラウスは静かに見守っていた。






 アカシアは静かに深呼吸をした。


 心地よい風が頬をかすめ、心の中の微かなざわつきを少しだけ鎮めてくれる。けれど、それは一時的なもので、すぐにまた気持ちが揺れる。




 彼女の目はクラウスの姿を捉えたままだった。彼がどこか遠くを見つめているように感じられるその姿に、アカシアは少し不安を覚えた。彼は、まるで彼女の思いを読み取るかのように、時折静かな表情で自分を見つめる。だが、彼の目の中に何を感じているのか、アカシアにはわからなかった。




――それが、彼と自分との決定的な違いだと思う。




「クラウス殿、あなたはどうして……あのように、冷徹に振る舞えるのですか?」




思わず、その言葉が口をついて出てしまった。


自分でも驚くほどの率直さだった。しかし、彼に聞きたかったことを、この瞬間でしか尋ねられないような気がした。




クラウスは穏やかで、他者と接するときは微笑みを崩さない。外見や態度からは冷徹という言葉とは無縁のような存在と取れるが、アカシアはそうは思っていなかった。


仮面のように被った微笑みの中に静かな冷徹さを感じている。




クラウスは少しの間、何も言わずにアカシアを見つめた。その視線に、アカシアは逆に緊張してしまう。何を思っているのか、何を隠しているのか、それを知りたくてたまらない。




「冷徹……ですか。」


クラウスが静かに呟くように答えた。




「私は、ただ務めを果たしているだけです。冷徹に見えるかもしれませんが、それは必要なことですから。」




彼の声は、まるでどこか遠くから響いてくるようだった。


冷静で無駄がない。それなのに、なぜかその言葉の中にほんの少しだけ、深い疲れを感じ取ることができた。




アカシアはその言葉を反芻しながら、少し顔をしかめた。




――『必要なこと』。


彼のその言葉の裏にある、彼自身の覚悟が透けて見えるような気がして、思わず胸が締めつけられる。




「あなたは、普段から……自分の気持ちを抑えているようにお見受けします。」




アカシアは小さな声で続けた。


その言葉が、まるで彼を、自分自身を責めるように響くことを恐れながらも、心の中で沸き上がった疑問をどうしても抑えることができなかった。




クラウスはしばらく無言で立っていた。そして、やっと静かに答えた。


「私が冷徹に見えるのは、私がそれを選んだからです。感情に振り回されてはいけない。騎士として…守るべき者のため、私はそのために存在している。」




彼の声は穏やかだったが、確かな決意が感じられた。


アカシアはその言葉を聞きながら、胸の中で何かが弾けるのを感じた。




――彼は、本当にそのように考えているのか? それとも、何かを隠しているのか?




「でも……」


アカシアは言葉を続けようとしたが、思わず口をつぐんだ。


「でも?」


クラウスが静かに問いかける。




「……でも、あなたは本当にそれで満足しているのですか? 自分の本当の気持ちを、抑え続けることが?」




アカシアの声は、ほとんどかすれそうだった。自分でも驚くほど、彼に対する好奇心と、胸に湧き上がる少しの不安が入り混じっていた。




クラウスは一瞬だけ目を細め、そして静かに口を開く。




「……満足しているか、ですか」


その言葉を繰り返すと、しばらく黙ってから続けた。


「満足しているかどうかはわかりません。ただ……こうすることで、大切なものを守れると信じている。それだけです。」


アカシアはその言葉に深く頷いた。




――守るもの。彼が守りたいもの。




それが何であれ、彼の心にある一筋の強い意志が、彼のすべてを支配しているのだと感じた。だが、同時にそれが、どれほど彼を苦しめているのか、アカシアは痛いほど理解していた。




彼女は静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。


しばらくの間、二人の間に言葉は途切れ、ただ静かな風の音だけが響いていた。その瞬間、アカシアはふと気づく。自分がこの男にどこか引かれていることを。




「私は、あなたが……少しだけ、羨ましいと思いました。」


アカシアが唐突に言った。


自分の思っていることがそのまま口をついて出たことに驚きながらも、彼に目を向けると、彼は少し驚いたように見えた。


「羨ましい?」


クラウスはゆっくりとその言葉を反芻し、考えるように問い返した。




「あなたのように、強くなれるなら――時には、感情を押し殺してでも、守るべきものを守るために力を尽くす覚悟を持てるなら……」




アカシアは目を伏せながら言った。彼女の声には、どこか寂しさと共に強い決意が込められていた。




「私は――」


言いかけた言葉を、ふと口に出すことができなかった。




クラウスはその言葉に何も答えなかったが、代わりに静かにアカシアを見つめる目が、彼女の心に深く突き刺さった。その視線に、思わず胸が熱くなるのを感じる。


二人の間に、言葉では言い表せない何かが流れていた。お互いに持つ痛み、そして理解し合いたいという気持ち。その距離感が、どこか切ないものであることを、二人は知っていた。






—―――――――――――――――――


 




 回廊の天窓から、柔らかな月明かりが差し込んでいた。

誰の気配もない夜更けの宮殿は、まるで時間そのものが静かに息を潜めているかのようで。




アカシアは、自室へと向かう足を、自然と緩めていた。



手には、まだかすかに体温の残る外套――彼が、黙ってかけてくれたもの。


歩きながら、つい、そのときの仕草を思い返してしまう。




そこには戸惑いと、ためらいと、優しさがあった。




「……あのような眼差しを、お持ちだったのですね」




ふと漏れた独り言が、夜の空気に溶けて消えていく。

口にしてなお、信じがたいような響きだった。


本来なら、あのような男に、心を動かされる理由などどこにもないはずだった。

戦場という世界に身を置く人間が、他国の公女の関心に応える義理など、何ひとつない。




けれど。


「……どうして、あの方は、ああまでしてご自身を縛られているのでしょう」




目を背けているように見えて、実はすべてを見ている。

他人を拒むような冷たさの下に、見え隠れするのは――傷。


彼がぽつりと語った言葉。「感情は、判断を鈍らせる」。確かに、それは正論なのだろう。



けれど、その声には理屈では覆えぬ、深い哀しみがあった。


そのときふいに、アカシアは思った。

この人もまた――自分と、似ているのかもしれないと。




「“かくあるべき”という姿に、あの方もまた、縛られていらっしゃるのですね」




公女として、常に期待される「正しさ」を演じてきた自分。誰かに甘えることも、感情を露わにすることも許されなかった。

クラウスという男の佇まいにも、どこか同じ匂いがあった。


己の立場や、大切なものを守るために、感情を封じる。

理解されぬまま、それが正しさだと信じようとする。




「それは……本当に、正しいのでしょうか」




アカシアは、自室の扉をそっと閉じると、誰にも見られていないことを確かめて、外套を胸に抱き寄せた。



ふわりと香る、微かな風の匂いが、鼓動をかすかに早める。


ほんの少し、瞳を閉じてみる。

そのまま、ゆっくりと息を吐いた。




「……あの方は、ずっと、ひとりだったのですね」




決して、誰にも求めようとしない。

助けを乞わず、寄りかからず、ただ己を律して進む。


そんな姿が、胸の奥をひどく締めつける。


恋などではない。そうであるはずがない。

ただ――心が、痛むのだ。




「……違います。これは、違います。ただ……」




言いかけた言葉が、自らの中で宙に消えた。

この感情に名前をつけてしまえば、何かが変わってしまう気がした。


彼のような人が、この先もずっと、誰にも手を取られぬまま歩いていくとしたら。



それは、あまりに――




「……寂しいではありませんか」




アカシアは立ち上がり、鏡台の引き出しから白革の日記帳を取り出した。

他の誰にも見せぬ、自身の心だけが触れる、祈りのような場所。


ペンを手にし、紙の上にそっと触れた瞬間、思考が静かに流れ始める。




筆を取る前に、アカシアは一度、そっと机上の扉を振り返った。

誰かが読むかもしれない――そんな考えが、常にどこかにある。

この部屋は公女の私室であっても、「完全な密室」ではない。

名は記さぬ。それが、自分とあの人を守る唯一の術だった。






―—本日、私は一人の青年と出会いました。お名前も、身分も、まだ存じ上げません。

けれど私は、あの方を「知りたい」と思ってしまいました。


理を語り、感情を抑え、誰にも寄らず、ただ職務を全うする姿。

それはまるで、己を削ることでしか生き方を知らぬ、孤独な剣のようでございました。


私は、その姿に、どこか懐かしさを覚えたのです。

まるで、鏡に映るもう一人の自分を見るようで――


もしも、あの方がこのまま、誰にも救われずに歩み続けられるのだとしたら。

それは、あまりに……悲しいことでしょう。






書き終えたページに手を添え、アカシアは目を伏せた。月明かりが机上を照らしている。

その光はどこか冷たく、けれども確かに、彼女の中に小さな火をともしていた。




似た者同士かもしれぬ、孤独な魂に向けて。

誰にも気づかれぬまま、差し出したいと思ってしまう――その手を。


けれど、それが何をもたらすのか。

何を壊し、何を変えてしまうのか。


彼女は、まだ知らない。






—―――――――――――――――――




祭典の翌日、朝の光もまだ薄い頃。

アカシアは、メルベール大公が滞在する客間の扉の前に静かに立っていた。


 


控えめに扉を叩くと、すぐに「入れ」と低く響く声が返る。

彼女は深呼吸ひとつ、そして静かに中へと足を踏み入れた。


 


大公は窓辺に立ち、外を眺めていた。

まるで、昨日の祭典など一切なかったかのような冷たい横顔。


 


「おはようございます、お父様。お加減は……」 

「――おまえは、昨日の式典後、それに夜の宴ではどこにいた?」


 


声は低く、張りつめていた。

アカシアはすぐに答えず、扉を静かに閉めてから、ゆっくりと父の背に向き直った。


 


「少し、城内を歩いたり…中庭におりました。雰囲気が騒がしくて……一人になりたくて」


「一人、ね……。その“ひとり”というのは、例の騎士を含めてのことか?」


 


アカシアの目が、わずかに細まる。


 


「騎士……クラウス・アシュノッド殿のことですか?」


 


その名を口にした途端、大公の肩がぴくりと震えた。


 


「そうだ。……昨日、城の廊下で貴様らが話しているのを、わしは見たぞ。ダリアブルクの生き残りだとか。亡命騎士を高位騎士にするなど…フェイミリアムも物好きなものだ。」


 


「そうですか…ほんの、挨拶を交わしただけです。」


 


「挨拶――? 貴様、気づいていないのか? あの男が、どんな眼でおまえを見ていたか。あれは――品定めの眼だ」


 


吐き捨てるような言葉だった。


 


「……お父様。あの方は、そういう人ではありません」


「そんなことはどうでもいい。奴が何を思っていようと――わしは、許さん」


 


突然、振り返った大公の眼が、異様に光っていた。

怒りでも憎しみでもない。執着――それも、狂気すれすれの。


 


「他のどんな男であろうと、おまえを“見る”だけで許せん。奴らの脳裏に浮かぶのは、政略結婚でも、忠誠でもない……欲望だ。穢れた本能だ」


 


「……お父様、彼は騎士です。分別は弁えているでしょう。」


「そうか? おまえは男の眼を知らぬ。おまえのような娘を、男どもがどう見るか、わかっていないだけだ。――だが、わしはわかる」


 


静寂。




「お父様……まさか、私が騎士に懸想していると、お思いなのですか?」






「違うとでも!? ……そもそも、あのフェイミリアムの騎士どもが我が娘を……お前をどんな目で見ているか、想像したことはあるのか!」





すぐさま、大公の声が響いた。

それは反射的な拒絶、理性の抜け落ちた否定。


 


「……誰かに取られるのが、嫌なだけだ。貴様は、わしの娘なのだ。お願いだ、どこにも行かないでくれ、わしを捨てないでくれ。」


 


威厳のある野心家と世間に恐れられるメルベール大公の姿はどこにもなかった。


誰かに捨てられる、置き去りにされることを子供のように恐れているひとりの男の悲痛な叫びでしかなかった。




その言葉の重さが、部屋の空気を凍らせた。

「わしの娘」――その中には、所有と支配の感情が、ありありと滲んでいた。


 


「……ええ。わたくしは、あなたの娘です。だからこそ、メルベールのために尽くしてまいりました」


 


アカシアは一歩近づき、微笑みを浮かべてみせた。

だがその微笑には、硝子のような冷たさがあった。


 


「安心なさってください、お父様。わたくしの心を惑わす者など、今も昔もおりません。――この命も、誇りも、すべてメルベールのためにあるのですから……」


 


その言葉に、大公の表情がほぐれていく。

まるで呪縛から解かれたかのように、静かに息を吐いた。


 


「そうだ……そうでなくてはならん」


 


娘を疑い、束縛しながらも、彼はその忠誠に酔いしれる。

だが、アカシアの心の奥では、冷たい水が一滴、音もなく落ちていた。


 


彼女はそっと背を向ける。


父は壊れてしまっている。


 


――この人は、私を“見て”などいない。ただ、閉じ込めているだけ。


 


誰よりも近くにいるはずの父が、

誰よりも、遠い存在に思えた。






彼女の中で、“嘘”はもはや言葉ではない。




それは“呼吸”と同じくらい自然で、“盾”であり、“武器”でもあった。



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