死地
山道に差しかかった一行の緊張が、瞬間的に弾けた。
「——動くなッ!」
乾いた怒声が木々の間から響き、十数人の男たちが一斉に姿を現す。前方、左右、そして背後。既に包囲されていた。粗末な鎧に無造作な武器、だが眼には殺気が宿っている。
「ほう……女と子どもばかりか。上物が揃ってやがる」
先頭に立つ、顔に傷のある男が下卑た笑みを浮かべる。
「女どもは都で高く売れる。残りは……ま、人買いにでも流すか」
一行の中で、誰かが小さく喉を詰まらせた。
馬も荷車も持たぬ逃亡者の列は、明らかに非戦闘要員が多い。幼子を抱いた母親、年若い文官、未熟な騎士——そのすべてが、賊にとっては「狩り」の獲物だった。
「……クラウス様、どうしますか」
誰かが低く問う。だが、クラウスはすでに前へと一歩進み出ていた。
「私が囮になる。その隙に、皆を……セリムを連れて逃げてくれ」
「バカなこと言うな!」
テオドールが怒鳴る。
「俺たちは、みんなで生きて帰るんだ!」
「けど、誰かが止めなければ……ここで全滅する!」
クラウスの声が震える。それは恐怖ではない。責任と、焦りと、覚悟の色だった。
賊たちはじりじりと間合いを詰めてくる。手には刃、目には欲望。
そのとき——
「やれやれ、面倒事に巻き込まれたな」
静かな声が、峠の上から降ってきた。
その男は、木の枝の上に座っていた。燃えるような赤い髪、同じ色を宿す瞳。奇抜な服でもなく、異国の装いでもない。だが、どこか常人と異なる雰囲気がある。何より、その“在り方”が只者でないと告げていた。
「誰だ、てめぇ……!」
叫ぶ賊の一人が突進する。だが男は枝から落ちるように跳ね、ふわりと地に降りた。
——次の瞬間、地面が鳴った。
赤髪の男の拳が、振るった一撃で地面に賊をめり込ませていた。
「な……なに……?」
「動きが読める。呼吸が粗い。腕も甘い。——退屈だな」
そう呟いた男は、ふわあ、とあくびをする。突然現れた男の緊張感のない態度は賊の神経を逆撫でするのに十分だった。
男が前に出る。だが、その身のこなしは獣のように滑らかで、刃を持つ賊たちが触れることさえできない。
音もなく踏み込み、足払いで一人、膝裏を打ってもう一人。咆哮を上げた大男が斧を振り下ろすも、それは赤髪の男の身体をかすめることすら叶わず、次の瞬間には喉に踵がめり込んでいた。
たった一人。だが、戦場を塗り替えたのはその拳と足だった。
賊たちは恐怖に駆られて逃げ出す。息を呑んでいたクラウスが、ようやく言葉を発する。
「ご助力感謝します。……なぜ助けてくれたのですか?」
「……気まぐれだよ」
男は背を向けて答える。
「ただ、あんたが……子どものくせに覚悟を決めてる顔をしていたから助けたくなっちまったのさ。あと……」
振り返り、赤い瞳を細める。
「自分ひとり犠牲になれば他が助かると思ってる、その考えが妙に気に食わなかった」
クラウスは言葉を失い、ただその背を見つめた。
「……お名前を伺っても?」
ようやくの問いに、男は一拍置いて答える。
「アルフェリス。——旅の者だ」
—―
山肌に刻まれた細い峠道を、風が吹き抜ける。木の葉はすでに落ち、灰色の岩と、朽ちた木の根が剥き出しのまま夜を迎えていた。視界のほとんどを闇が支配し、遠くで梟が一声、鋭く鳴いた。
火は焚かない。火を起こせば敵に気づかれる。せめてと、テオドールが何本か松脂の染み込んだ松明を用意してくれていたが、それすら使えず、ほぼ着の身着のままで逃げてきた一行は少ない毛布や外套を分け合い、肩を寄せて寒さに耐えていた。
クラウスは、一人で峠の影に立ち、遠くの谷を見下ろしていた。霧のように薄い雲が流れて、月明かりがちらちらと覗く。疲労は骨に染み込むほどだ。それでも、眠る気にはなれなかった。
この子たちを、無事にフェイミリアムへ連れて帰るまでは。
クラウスの側では、セリムが小さな寝息を立てている。目を開けている時間の方が少なかったのに、眠りに落ちるのはようやく今になってからだった。華奢な身体を抱いていると、胸の奥が妙に温かく、痛んだ。
誰かの足音が、小石を鳴らす音とともに後ろから近づいてきた。
「ダリアブルクから火の手が上がるのが見えた。おおかたそっちから逃げてきて疲れているだろうに……少しは寝たらどうだ?」
赤い髪が月光に照らされて、燃えるように揺れる。襲撃から一行を救ってくれた男—―アルフェリスだった。
「見張りはもう交代したが、眠れそうにないな…。……君こそ、我々と同行してよいのか。フェイミリアムへ向かっているが…道中は危険だ。」
「さっき俺に助けられたくせにそんなこと言うのか。まずは自分たちの心配をしろよな。」
冗談めかして言いながら、アルフェリスは岩に腰を下ろした。そう言えば、彼の身体には傷ひとつ付いていない。あれほどの人数を相手に、素手で立ち回ったとは思えぬ軽やかさだった。
「君の言う通り、私は助けられた立場だ。礼を言わせてくれ。あのとき、君が現れなければ、全員が無事では済まなかった」
「礼ならいらない。俺はただ――気まぐれで助けただけだ。命を張って仲間を守ろうって奴を見ると、どうも血が騒ぐ性質でな」
彼の目は、焚き火の代わりに月の光を映しているように見えた。炎のように赤く、冷たくも熱い。どこまでも他人事のようで、どこか他人事で済ませない何かがあった。
「なぜ、あんな風に戦える。……剣は携えていたのに、抜かなかった。君は……傭兵か何か?」
「傭兵じゃない。生き延びることと、退屈しのぎがちょっとうまいだけの通りすがりさ」
ふっとアルフェリスは笑った。あまりに軽く、力の抜けた声音。だが、それが虚勢ではないことを、私は本能的に悟った。異常な気配もなければ、誇示する気配もない。ただただ自然に、生死の境にいる男。
その時だった。
「――呑気なもんだな、二人して」
低く苛立った声。岩陰から、テオドールが現れた。
「お前が勝手に囮になろうとしたせいで、こっちはどれだけ肝を冷やしたと思ってる?」
「私は……最善を選んだつもりだった。誰かが敵を引きつけなければ、逃げ切れなかった。私が残るのが、一番よかった」
「違う!」
珍しく、テオドールが声を荒らげた。
「お前がいなきゃ、この一行はまとまらない。お前が指示を出して、皆を動かしてる。……俺にはその器はまだない。自分でよく分かってる」
「それでも、私が斃れても、君が……」
「――だから、それが間違ってるって言ってるんだよ」
静かに、けれど力強く言い切ったテオドールの声が、夜気に吸い込まれていった。
クラウスが何か言おうとしたその時、アルフェリスがふっと笑った。
「なるほど。お前ら、悪くないな。気に入った」
唐突なその一言に、テオドールが警戒の目を向ける。
「……何が言いたい」
「面白そうな道行きになりそうだ。俺は気まぐれで拳を振るうし、気まぐれで旅にも加わる。今夜限りかもしれないが、しばらく付き合うさ」
肩をすくめて、岩に背を預ける。そして、空を見上げながら、ぽつりと語った。
「……命なんて、軽いもんだ。風に吹かれれば折れるし、運が悪けりゃすぐ潰れる。守ろうとしても、零れ落ちる。そういうもんだと、昔から思ってる」
その声には怒りも悲しみもなく、ただ風の音に溶けていくような静けさがあった。
「だからさ。誰かが誰かを守るために、自分を賭けるってのは、理屈じゃなくて祈りだ。……俺は、それを笑わない」
月明かりに、彼の横顔が白く照らされていた。ひどく遠くを見ているような眼だった。
「祈るように生きる奴は、壊れやすいけど、綺麗だ。……だから俺は、そういう奴が倒れそうなときに、時々助けてやる。それだけだよ」
沈黙が訪れる。誰も言葉を継げなかった。
「眠れよ。……先はまだ長いんだろ。それに騒ぐと…そこのちびが起きるぜ」
しーっと指を立てながらそう言うと、アルフェリスはクラウスの側で眠るセリムを一瞥した。その眼差しはとても温かく優しかった。
――
夜が明けようとしていた。
黒のヴェールに包まれていた空が、ようやくわずかにほつれ、濃紺の裾にひと筆、白が混じる。
クラウスたちは黙って歩いていた。
この数日で何度目になるかわからない、山越え。地図にも載らぬ獣道。背には命がある。
セリム――クラウスの弟。あの小さな体に宿る、まだ知らぬ未来。
「……もうすぐだ」
そう、クラウスは己に言い聞かせるように呟いた。
息は白く、全身が軋む。だがそれでも歩を止めるわけにはいかなかった。止まった瞬間、すべてが終わる気がして。
途中、賊から一行を助けてくれたアルフェリスという赤髪の青年も隊列から少し外れたところを歩いて周囲を警戒してくれている。
見たところ、ローザリアの人間ではなく掴みどころのない男だが、敵ではないようだ。子どもが好きなのか、セリムをはじめ一行の子どもたちにもよく気を配ってくれている。
テオドールは、ずっとクラウスの側にいた。
誰よりも先に目覚め、誰よりも遅く眠る。隊列の後ろに控え、敵の気配に最も敏感だった。
槍使い――その矛先は、これまで数え切れぬほどクラウスを護ってくれた。けれど、それを当たり前と思ってはならない。
彼は兵ではない。クラウスの友であり、志を共にした同志だ。
「クラウス」
低く、押し殺したテオドールの声。
「伏せろ」
その一瞬、空気が凍った。クラウスの本能が体の奥で軋んだ。
矢が来る。
思考よりも先に、体が動いた。セリムを胸に抱え、地へと転がる。
背中で弾ける音。刃が地に刺さり、木が裂ける。叫び、喚き、怒号。
「包囲だ……ッ!」
誰かが言った。その声に混じって、テオドールの怒声が飛ぶ。
「俺から離れるんじゃない――前に出るな、クラウス!!」
そう叫ぶ彼の姿が、一際大きく見えた。
彼は槍を抜いた。月明かりを浴びた刃先が、刹那、星のように輝いた。
だが、敵は数にものを言わせて雪崩れ込んでくる。訓練された動きではない。獣のような殺気。咎なき命を喰らうことを楽しむ、野犬の群れ。
テオドールが先頭に出た。咆哮のような踏み込み。
私はそれを、見ているしかなかった。セリムを庇い、膝をつき、脇腹から血が流れていることにも気づかなかった。
次の瞬間、何かが閃いた。
「……っ!」
私の目の前で、赤い飛沫が舞った。
テオドールの顔に、縦一文字の傷が走った。左目の上から頬へ。
その瞳が――目を開いたまま、血に濡れていた。
「テオ、ドール……!」
クラウスは叫んだ。いや、叫びになっていたのか、それすら分からなかった。
テオドールは顔を斬りつけられてもなお立っていた。槍を握り、血を流しながらも、クラウスの前に立ちはだかっていた。折れもせず、揺るぎもせず、ただまっすぐに。
「大丈夫だ……見えている。……クラウス、お前は……守る」
クラウスは、動けなかった。
—―この男は、私のために死ぬ覚悟を持っている。
—―だがそれは、正しいことなのか? 誰かの忠義の上に成り立つ正義に、私はどれほどの価値を与えてきた?
哲学者は言う。正義とは、最大多数の幸福に資することだと。
だがこの瞬間、クラウスはその言葉を吐き捨てたくなった。
幸福などという漠然とした理想のために、この一人の命を――テオドールの命を、使い捨てるわけにはいかない。
クラウスは、もう誰一人として喪いたくなかった。
(この命を使い捨てるな。忠義に殉じるな。生きろ)
そう、彼に叫ぼうとした刹那だった。
――地が鳴った。
「…………!」
それは、風ではなかった。空気が裂け、何かが飛び込んでくる気配。
次の瞬間、赤が弾けた。
血ではない――髪。燃えるような赤。
アルフェリス。
彼は一言も発しなかった。けれど間違いようもない。あの喧騒の中、ただ一人だけが静寂を纏っていた。
風のように現れ、敵の一人を地に叩きつけ、そして――残りの者を、順番に沈めていった。
拳が鳴るたびに、骨が折れる音がした。
蹴りが通るたびに、喉が潰れ、声が消えた。
クラウスはただ、見ていた。
人間の形をした、獣の舞。何よりも静かで、何よりも速く、誰よりも鮮やかに、死を配っていく姿。
……違う。
彼は殺していない。殺せば、憎しみの連鎖が生まれることを知っているのだろうか。
やがて敵はすべて倒れた。
アルフェリスは一歩、二歩、血の中を歩き、テオドールの前に立った。
「……左目、見えてるか?」
テオドールが微かに頷く。
その目に怯えはない。ただ、己の使命を全うしようとする光がある。
アルフェリスは鼻を鳴らした。
「死ぬなよ。お前みたいなタイプが死ぬと、その死が呪いみたいに残された奴に一生つきまとうんだ」
そう呟いて、ふと、こちらを振り向いた。
「お前はどこまで覚悟を決められる?」
クラウスは言葉が出なかった。
セリムを抱き、膝をついたまま、ただ彼の眼差しを受け止める。
「生きるってのは、いつか……守る側に立つってことだ」
彼の言葉が、谷に残響のように響いた。
谷を抜けるとダリアブルクからの急報を受けたフェイミリアムの騎士たちが駆けてくる姿が見えた。
そしてクラウスは、テオドールを支えながら、無言のままその光景を見つめていた。
その腕の中には、小さく丸まるようにして眠るセリムの姿がある。
命を繋ぎ、未来を託す。――その意味を、彼らは痛いほどに知っていた。
夜が明けようとしている。