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白い獅子の骸  作者: sume
第四章
19/31

陥落



ダリアブルクの城下町は、夕暮れ時に染まりつつあった。家々の煙突からは煙が立ち上り、城壁の隙間からは緑豊かな山々が見渡せる。まるで時が静止したような、穏やかなひとときだった。




その日も、セリムは無邪気に城内を駆け回っていた。まだ幼い彼は、騎士たちが忙しなく訓練をしている姿を興味深そうに見つめては、足を止めることなく、また別の場所へと駆け出す。




周りの大人たちが抱える問題、そして、彼の周囲に流れる不穏な空気については何も知らずに。セリムの世界には、今この瞬間しかなかった。




城壁の向こうに広がる大陸の情勢、近隣諸国の動き、そして城内で交わされる密談――それらすべてがセリムには遠く、ただの「大人たちの世界」の一部でしかなかった。




セリムが駆け回る先で見かけたのは、騎士団の若者たちだった。彼らの訓練に興味津々で近づくと、騎士たちも優しくその動きを見守り、少しだけ微笑んだ。しかし、セリムは無邪気にその姿を真似して走るだけ。彼には、その先に待ち受ける未来に関して何も知る由もなかった。




一方、年長の兄クラウスは、その日も騎士団の一員として任務に追われていた。


年齢はまだ若いが、叙勲を受けた立場として、彼の責任は重い。しかし、その心の中には、静かな不安が広がっていた。ダリアブルクの政治は次第に不安定になり、大公の病が悪化したことで、後継者問題が混乱を深めていた。クラウスは騎士として義務を果たしながらも、深く内心では迷い、悩みを抱えていた。




「クラウス、今夜の議会の件……どう思う?」



テオドールがクラウスに歩み寄り、静かに声をかけた。彼もまた叙勲を受けた若き騎士であり、クラウスの親友だ。共に過ごした日々の中で、お互いに理解し合い、支え合ってきた。


クラウスは少しだけ肩をすくめ、ため息をつく。




「あの議会も、結局は何も決まらないだろう。後継者問題に関しては、誰もが自分の立場を守りたがっている。」




テオドールはその言葉を聞いて、少し肩をすくめてから、冗談まじりに言った。




「だったら、お前がなっちまえよ、大公。一応、遠縁なんだろ。俺は支持するぜ。」




その冗談に、クラウスは目を見開き、すぐに声を落として叱りつけた。




「不謹慎だ、テオドール。」


「なんだ、冗談だよ。」

「その冗談が今の状況を軽く見てる。余計なことを言うな。」




テオドールは肩をすくめ、笑いながら「わかってるよ、クラウス。本気じゃない。」と答えるが、その顔にはどこか虚しさが漂っていた。二人の間に流れる空気が、少しだけ重く感じられる。




その時、クラウスの視線は、再び小さな弟セリムに向けられた。広場を元気よく走り回るその姿を見て、クラウスはふと笑みを漏らす。まだ何も知らない、無邪気な弟。しかし、無邪気でいられる今がどれほど幸せなことか、クラウスは心の中で感じていた。




セリムの走りは次第に勢いを増し、周囲の騎士たちの間を縫って走り続けている。彼の後ろ姿を見つめながら、クラウスは心の中で呟いた。


あの小さな体が、これからどれほど多くのことを背負っていくのか。それを考えると、胸が痛むのだった。


だが、セリムにはまだ、知らなくて良いことが多すぎる。彼には、未来の重責を背負うことなく、今を楽しんでほしいと、クラウスは願った。しかし、時がそれを許すかどうかは、誰にもわからなかった。


城下に風が吹き抜け、遠くで何かが変わろうとしている気配が、わずかに感じられる。セリムが駆けるその先に、何が待ち受けているのか。クラウスには、それを止める力がないことを、心の奥底で感じていた。




――




ダリアブルク城の中庭は、戦争の予兆を感じさせることなく、どこか静かな雰囲気を漂わせていた。訓練が終わり、兵士たちは一息つき、甲冑を整えたり、無言で自らの剣を磨いたりしていた。まるで嵐が訪れる前の、凪のようなひとときだった。城内の壁に反響する音が、この場所が持つ長い歴史を感じさせ、どこか荘厳な空気が流れていた。




リュシアン・アシュノッドは、その静けさを感じ取っていた。彼はダリアブルクの騎士団長として、その責任を常に背負っていたが、今この瞬間が長く続くことを願っていた。年齢は40歳を少し超え、騎士としての実力に加えて、豊かな経験を持つ人物だ。冷静で理知的、そして何より家族を守るための使命感が彼を支えている。セリムとクラウスの父としても知られ、家族への愛情が彼の心の支えとなっていた。




その時、遠くから響く鐘の音が、静けさを引き裂いた。城内に緊張が走る。鐘の音は、ただの警告の鐘ではなかった。




「大公が…」




誰かが呟いた。その声は瞬く間に広まり、兵士たちの顔に驚愕と不安の色が浮かんだ。リュシアンもまた、その言葉の意味を理解し、息を呑んだ。




ダリアブルク大公アルデマールの死が、ついに確定したのだ。これまでの数日間、大公の容態が悪化していたことは知れ渡っていたが、まさか今、この時に…その死が決定的となったのだった。




リュシアンはすぐに部下であるオスカー・ヴァルツァーに目を向けた。オスカーは副騎士団長であり、彼より年齢はやや上だが、騎士としては信頼に足る人物だ。冷静で誠実、戦場では頼れる指揮官として知られており、常に適切な判断を下すことで周囲の信頼を集めていた。


リュシアンの長子クラウスとともに叙勲を受けたテオドールの父でもある。




「すぐに伝令を送れ。全騎士団を集めろ。」リュシアンの声は静かだが、どこか冷徹さを帯びていた。




オスカーは言葉に迷わず従い、素早く周囲に指示を出し始めた。ダリアブルクの運命が、今、この時から大きく変わることを誰もが感じ取った。




その直後、遠くから伝えられる新たな情報がリュシアンの耳に届く。メルベール公国とエムステルド公国の連合軍が、突如としてダリアブルク城へと向けて進軍を開始したというのだ。




「来たか…」




リュシアンは目を細め、わずかに唇を引き結んだ。メルベールとエムステルドの連合軍が、なぜこのタイミングで攻めてきたのか。その理由は明白だった。大公アルデマールの死が、両国にとって最も好都合な状況を生んだのだ。




「全員、戦の準備を急げ。」リュシアンは周囲に向かって、冷徹に命じた。「我々の運命は、今この瞬間から決まった。」




オスカーがすぐにその命令を実行に移し、騎士たちは慌ただしく動き出す。城内に響く足音、甲冑の音が急速に高まり、ついには戦争の足音が確実に近づいてきた。




—―






激しい戦闘の中、ダリアブルク城は徐々に追い詰められつつあった。メルベールとエムステルド連合軍の攻撃は熾烈を極め、騎士たちもその戦いに命をかけていた。しかし、その激しさと勢いに、城内では不安と焦りが広がり始めていた。




「後退するな! 我らがここで食い止めれば城は守られる!」


クラウス・アシュノッドはその若い体に熱い血を感じながら叫ぶ。しかし、疲労と負傷が体に重くのしかかり、冷静を保ちながらも次第に敵の波に押されていた。若い騎士たちも同様に必死に戦い、彼の指示に従って身を挺していた。


テオドールもクラウスの側で得意の槍を使い善戦していた。




騎士団長であるリュシアン・アシュノッドが騎士たちを静かに見守っていたが、やがて冷徹な眼差しを向けて一歩踏み出した。彼の横に、すぐにオスカー・ヴァルツァーも姿を現す。




「リュシアン、何をする気だ?」


オスカーがその鋭い視線で問いかける。




「兵士たちに命令を出す。若い者たちには、今すぐに撤退を命じる。」


リュシアンの声は冷静だが、その中にわずかながらの痛みが見え隠れしていた。彼の目線は、必死に戦っている息子、クラウスに向けられ、心の中で強く決意を固めた。




「リュシアン。それしか無いのか。」


オスカーが口を開き、リュシアンを制止しようとする。しかし、リュシアンはゆっくりと首を横に振った。




「無駄だ、オスカー。君だってわかっているはずだ、私たちの力では、この戦況を覆すことはできない。」


その声には決意と共に深い疲労感が含まれていた。リュシアンは冷徹に戦況を見極めていたのだ。彼がこれ以上戦っても、無駄に命を削ることになるだけだと、よく知っていた。




「彼らには未来がある。命を無駄にするわけにはいかない。」


その言葉が、彼の内なる思いを全て表していた。若い騎士たち、特にクラウスやテオドールには未来があり、彼らを守るために、今この時に撤退を命じることが最善だと、リュシアンは確信していた。




オスカーがその言葉に重く頷くのを見ると、リュシアンは深く息を吸った。




「君たちには、未来がある。」


リュシアンは、クラウスを含む若い騎士たちに向かって、毅然とした表情で命令を下す。


「今すぐ撤退し、無駄な戦いはやめろ!」




クラウスは一瞬、戸惑いの表情を見せた。彼がまだ戦いたいという気持ちが強く、目の前の仲間たちが必死に戦っている中、どうしてもその命令を受け入れたくなかった。しかし、リュシアンの鋭い言葉が彼の心に響き、やがて理解する。




「ですが、父上…!」


クラウスは一歩踏み出そうとするが、リュシアンが彼を強く止める。




「クラウス、今お前がここにいては、誰のためにもならん。お前には未来がある。」


リュシアンの声は深い愛情と強い決意に満ちていた。その言葉を受けたクラウスは、ようやく重い足を動かし、若い騎士たちに撤退を指示した。




「撤退だ!後退しろ!」


クラウスはその声を張り上げ、騎士たちに指示を出す。仲間たちも、彼の言葉に従い、一斉に後退を始める。




オスカーがリュシアンに静かに近づき、「これが最良の策だ、な。」と呟いた。




「…ああ。」


リュシアンは短く答えると、目を閉じ、背を向けて再び戦況に目を向けた。戦争は、時にこんな決断を求めるものだ。しかし、彼の心には、次代を託す若者たちへの深い信頼があった。




――




 ダリアブルク城の裏手、厩のさらに奥――森へと続く隠された小門が、重く開かれた。


 霧がかった夜気の中、甲冑を脱ぎ捨てた若い騎士たちと、文官、その家族らが静かに姿を現す。


 老いた者、幼き子を抱いた母、痩せた文官……。その一団は、戦う者ではない。


 彼らは、滅びゆく祖国の未来を託された者たちだった。




 十六歳のクラウス・アシュノッドは、その隊列の先頭に立っていた。


 その背筋は伸び、目には迷いの色はなかったが、拳には小さな震えがあった。


 それを悟られぬよう、彼は一歩ずつ、確かに歩みを進めた。




 すぐ後ろには、兄の代わりに三歳のセリムを抱えた乳母と、彼らを守る数人の若い騎士たち。


 その中に、クラウスの一つ年上のテオドール・ヴァルツァーの姿もあった。


 テオドールは周囲に気を配りつつ、後方を固めながら低く声を発する。




 「このまま南の隘路を抜ければ、フェイミリアム領に入る。峠の見張りは今夜外されているはずだ」




 「知っている」


 クラウスは短く返す。その声は年齢よりもずっと大人びていた。




 「……父上たちが、そう計らってくださった。戦場に立たぬ我らが、生き残れるように」


 テオドールは無言で頷いた。


 父、オスカー・ヴァルツァー副団長からは、「若者を連れて脱出せよ」とただ一言託されたのだ。




 森の中は深く、道なき道を縫うように進むしかなかった。灯りを使えば敵兵や野盗に位置を知られてしまう。王城から昇った煙に半ば覆い隠されてしまっている微かな月明かりを頼りに進むしかなかった。


 人々の歩みは遅く、乳飲み子の泣き声を誰もが恐れ、口を手でふさいでいた。


 それでも誰ひとり、泣き言を漏らさなかった。


 ――今この場に、父も、頼れる先輩騎士も、仕えるべき主もいない。


 だからこそ、クラウスが前を向かなければならなかった。




 「急ぐぞ。夜明けとともに、敵が追ってくる」


 そう言って振り返ったクラウスの目には、確かに騎士の決意が宿っていた。




 セリムは、まだ何も分からずにいた。


 見知らぬ騎士の背に負われながら、揺れる星の光を見上げている。


 ときおり、「兄さま……」と眠たげに呟いては、また目を閉じる。


 その小さな手を、クラウスはそっと握った。




 「大丈夫だ、セリム。……この手を離さぬ限り、必ず、おまえを連れていく」


 言葉の先には、自分自身への誓いがあった。




 夜は深まり、山道の空気は次第に冷たくなっていく。


 遠く、ダリアブルクの方向には、赤く滲むような煙が立ちのぼっていた。


 故郷は、戦火に包まれている。


 それでも、クラウスたちは一歩ずつ、進んだ。


 彼らの足が向かうのは、いつか帰るための未来だった。




 すべてが炎に包まれていく。


 生まれ育った家も、叙勲を受けた城も、そこで過ごした思い出も何もかも。


 クラウスは生涯忘れはしまいと、父が最後まで守った故国を目に焼き付けた。

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