葛藤
空気が張りつめていた。息をひそめるような静けさの中、薔薇色の帳が窓の光を鈍く染めている。陶器の壺に挿された白百合が、異様なほどに香り立ち、むしろ場の緊張を際立たせていた。
アカシア姫は、椅子に深く腰を掛け、視線を窓辺に向けたまま微動だにしない。光に照らされたその横顔には、沈黙を破らせまいとする意志が滲んでいた。
「再びお時間を頂戴し、感謝いたします」
セリムが一礼し、静かに向かいの椅子へ腰を下ろす。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
姫の返事はない。否、それは返事をしないという明確な意思だった。
「先日お話を伺ってから……どうしても、気になる点が残っておりまして」
言葉を選びつつも、問いかけの芯に迷いはない。セリムの声音は柔らかく、だが内に潜む執念は、目の前の姫に届かぬはずがなかった。
「また、あの夜のことを――?」
アカシア姫の声は低く、冷たくも熱くもなかった。だがその響きは、何かを封じた扉の前で鍵を握る者のように、セリムを試していた。
再び、沈黙。
セリムは視線を姫から外さぬまま、胸中で静かに息を整える。動揺は見せぬ。感情で押せば、姫はより固く扉を閉ざすだけだ。
「ええ。お話しいただいたことに、不自然な点がございました」
その一言で、アカシアのまなざしが初めてセリムを射抜いた。どこか“防衛”の色を含んだ瞳――いや、それは“咎め”の色にも見えた。
「私を疑っておられるのですね、セリム様」
「私は“事実”を求めております。姫を裁くためではありません。真実を知るために」
剣ではなく、秤を持つ者の言葉。だが、重い。
部屋の隅に控えていたアルフェリスが、静かに一歩前へ進んだ。
「…姫さん。既に全部話してくれているんだったら、俺たちはそれ以上は求めない。だが……“語っていないこと”があるなら、俺たちがそれを知らないままじゃ、真実に辿り着くことができない。」
それは問いというより、告げ口に近い冷徹な事実提示だった。姫が抱える“なにか”が、この場にあるのは確かだと、冷ややかに突きつける。
アカシア姫の指が、膝上で組まれ、力を込めたように白くなる。そしてふと、肩が小さく震えた。彼女はまだ沈黙している。だが、その沈黙はもはや“拒絶”ではない。
セリムは、それを見逃さなかった。
—――――—――――—――――
セリムがゆっくりとアカシア姫の前に歩み寄ると、彼女の目は一瞬、避けるように視線を逸らした。その瞬間、彼はふと、彼女が何かを隠していることに気づく。彼女の手元がわずかに震えたのも、その証拠だ。
「アカシア様、以前の話の続きですが…」
セリムは静かに言った。彼女が言葉に詰まる前に、その沈黙を埋めるように続ける。
「あの夜、賊の襲撃があった時、あなたが悲鳴をあげて、兄が駆けつけたということは記録にあります。しかし、その後については、いくつか矛盾があるように感じています。」
アカシア姫は、セリムの言葉を聞いて一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐにその表情を隠すようにして目を伏せた。彼女の手がわずかに震える。
「セリム様、それは…」
アカシア姫の声は震えていた。言葉を続けることができないようだった。彼女は再びセリムに目を向けるが、その目にはどこか恐れを感じさせる光が宿っていた。
その視線を受けて、セリムはわずかに眉をひそめた。
「公女殿下、もしあなたが何かを隠しているのであれば、無理に言わせるつもりはありません。ただ、あなたが本当に話すべきだと思った時に、私はその話を聞く準備はできています。」
その言葉を受け、アカシア姫は目を逸らし、顔をそむけた。わずかに肩を震わせるのが見えたが、すぐにその動揺を隠すように深く息を吐いた。そして、口を開こうとしたが、またすぐに黙り込んだ。
「あなたが言いたくないことがあるのはわかります。」
セリムの声は優しく、しかしその中には確信のようなものがあった。
「でも、あなたが抱えているその秘密が、全てを覆い隠すものではない。クラウスがあの夜何をしていたのか、そしてあなたがその後、どんな心情を抱えていたのか、いつか明かしてほしい。」
セリムの言葉が部屋に響く中、彼の視線がふと横の窓辺へと移った。
アルフェリスが、無言のまま、少し後ろに立っている。彼の表情は硬く、その目はアカシア姫の様子をじっと見守っていた。
彼の存在は、何も言わずとも圧倒的な重さを感じさせる。セリムはその視線を感じながらも、アルフェリスが静かに支えていることを心の中で確かめた。
アカシア姫は目を閉じ、唇をかみしめた。言葉が出ない。セリムはその様子を静かに見守る。姫の目の前に、確かに何かがあった。しかし、それを知るためには、もっと多くの時間が必要だと感じた。
「……すみません。」
アカシア姫はひときわ小さな声でそう呟くと、すぐに顔を隠すようにして俯いた。セリムはその姿を見つめながら、彼女の深い心情に触れられぬもどかしさを感じた。
「何も言わなくてもわかります。」
セリムは静かに答える。その言葉には、姫が話しきれなかったことを受け入れる覚悟が込められていた。
アルフェリスは微動だにせず、二人の会話を見守っている。
その存在が、まるでセリムに対する無言の支えであるかのように感じられた。もし今、何かが起きれば、すぐにでも動き出すだろう。その鋭さを、セリムは肌で感じていた。
アカシア姫はただ黙ってうなずき、しばらくの間、二人の間に重苦しい沈黙が漂った。セリムはその沈黙の中で、彼女がどれほど深く傷ついているのかを感じ取った。
「でも、あの夜、兄が何をしていたのか…何があったのかはあなたにしかわかりません。」
セリムがそっと言ったその言葉は、姫の胸をさらに圧し、彼女の心をさらに閉ざすことになる。
アカシア姫は再び顔を上げ、セリムを見つめた。目には決して明かすことのできない深い闇が沈んでいた。それでも彼女は答えなかった。彼女の中でどれほどの葛藤があったのか、そのすべてをセリムは理解することはできなかった。
彼女が何も言わなくても、セリムはその言葉をずっと胸に刻んだ。そして、ここで無理に答えを求めることは無意味だと感じた。アカシア姫の心は、まだ閉ざされたままだ。
その日、セリムは再び何も得られなかった。しかし、姫の心の中には何かがあることを、彼は確信していた。
――それを解き明かすためには、さらに深い時間が必要だろう。
—――――――――――――――――
部屋には、どこか張り詰めた静寂が漂っていた。
日差しはすでに傾き、窓辺のレースを透かして射す光が、金糸の刺繍をかすかに照らしている。
アカシア姫は椅子に腰掛けたまま、薄い唇を閉じ、指先を膝の上で組み直していた。整った姿勢のまま、けれどその所作はどこか不安げで、まるで心の揺れが皮膚の下で脈打っているかのようだった。
「……公女殿下」
セリムは慎重に言葉を選んだ。
「すでに以前、お話を伺いましたが――あの夜のことには、まだ語られていない一端があるのではないかと、私は思っております」
アカシアはすぐには応じなかった。
ただ、睫毛の影が長く頬に落ち、その下で感情の波が静かに渦巻いているようだった。
「クラウスが駆けつけたのは、たしかに悲鳴を聞いたから……だが、あいつが真っ先に姫さんの部屋に駆け付けたっていうところに不自然さを感じているわけよ」
後方、壁際に控えていたアルフェリスが、足音を立てぬよう軽く体重を移した。
その小さな気配が、場の空気に鋭い針を刺したようだった。
「気を悪くしたなら、先に謝るよ。ただ、俺たちは真実に辿り着くためにあくまで可能性としての話をしている。――姫さんは、その夜…クラウスと何らかの取り決めをしていたとか?メルベール城なのに駆け付けて姫さんを真っ先に庇ったのが他国の騎士であるクラウスっていうのがやっぱり何か引っかかるんだよ。」
その言葉に、アカシアの肩がぴくりと震えた。
そして、沈黙が訪れた。
やがて、アカシアはゆっくりと顔を上げた。
だがその瞳はまっすぐに誰かを責めるものではなかった。むしろ、己自身への責めに満ちた、深い痛みを湛えていた。
「……あなた方に、何がわかるというのですか?」
声は掠れていた。その中には、“重すぎる秘密を背負い続けてきた一人の女”の影があった。
アカシア姫は言葉を続けようとして、唇を開きかけた。
だがそのまま、指先に力が入る。組んでいた両手が、痛いほど強く握られた。
「……彼は、優しい方でした」
それだけを告げる声に、セリムは静かにまばたきをひとつする。
「私が……あの夜……」
ぽつりと、ほんのひと欠け、心の底からこぼれ落ちる言葉。
けれどその先は続かなかった。続けられなかった。
「……いえ。やはり、何でもありません」
震える声に、微かな笑みさえ浮かべようとするその姿が、かえって痛々しかった。
アカシアはその場に座したまま、目を閉じた。
長い睫毛の下から、涙が零れ落ちることはなかった。だがそれは、涙がないのではなく、涙を流せぬ心を強いている証だった。
セリムは、姫が語らなかった“空白”こそが、もっとも雄弁にすべてを物語っていると知った。彼女は恐れていた。告げた瞬間に、何かが壊れてしまうことを。
そしてその何かは、クラウスとの最後の記憶か、あるいは、彼を死に追いやってしまった己を許すための最後の支えだったのかもしれない。
アルフェリスが静かにセリムの方へ一歩寄った。無言のまま、鋭い視線でアカシアの表情を見つめている。
――この沈黙には、意味がある。
セリムはそう確信した。そしてこの“言葉にならなかった告白”が、次の調査の道を照らすことも。
アカシア姫の部屋にクラウスが警備以外の目的で訪れた可能性はないのか?
それは、姫からの何らかの意思表示がなければ起こり得ない。
ならば次に探るべきは――当時の部屋の配置、警備体制、そして誰が何を見て、何を見なかったか。
目には見えない“通じ合い”があったはず。
その断片こそが、真実へ続く鍵。




