旧友
午後の陽が、王城の石造りの回廊を金色に染めていた。セリムとアルフェリスは、静かなその道を並んで歩いていた。
「でもさー、そもそも十年前の記憶か〜…当時のことを知る人に聞くのはいいんだけどさ、みんな覚えてるもんなのかねえ……なんて」
ぶつぶつと文句のように言いながらも、アルフェリスは周囲の気配に鋭く目を光らせている。彼の視線が、回廊の先に立つ人物に止まった。
「あれ? ……あれって、ギルベルトじゃね?」
日差しの中、白銀の壁を背にして立つのは、ふわりとした金髪に柔和な笑みを浮かべた青年。緋色の礼服の裾が風に揺れていた。
その瞳がセリムに気づき、ぱっと花が咲くように表情が緩んだ。
「セリム?」
「……ギルベルト大公殿下」
セリムが立ち止まると、金髪の青年はひらりと手を振った。
「殿下なんてやめてよ。僕たち友達じゃないか」
「形式は大事だ。今、君は来賓で、私は……」
「あはは、変わっていないね、君は」
苦笑するギルベルトの隣に、早くも駆け寄っていったのはアルフェリスだった。
「よう、ギルベルト! 十年前よりちょっと老けた?」
「えっ……う、うん? そうかな?」
「冗談だよ、冗談。全然変わってなくてびっくりしたってこと! 顔も性格も、ふにゃっとしたまんま」
「ふ、ふにゃっと……ひどいなあ……」
苦笑するギルベルトを見て、セリムもわずかに口元を緩めた。
「……ギルベルト。よければ、少し時間をもらえないか。話したいことがある」
その言葉に、ギルベルトは優しく目を細めた。
「うん。僕も話したいと思ってた。じゃあ、僕の客間でお茶でも飲もう。ゆっくりできる場所の方がいいよね」
「おっ、やったー。高級菓子あるかな、あるよな、あるって信じてる!」
「……アルフェリス、頼むから黙っててくれ」
セリムの疲れたような声を背に、三人はゆるやかな午後の回廊を歩き、ギルベルトの客間へと向かっていった。
途中、アルフェリスがふと眉をひそめる。ギルベルトの軽やかな足取りを横目に、少し先を歩くセリムの姿を見ながら、アルフェリスは一言つぶやいた。
「なあ、ギルベルト。奥さんは……セリアは……今日は来てないのか?」
「彼女は別の公務があるから、フェイミリアムには来ていないよ」
その言葉に、アルフェリスは心底安堵したように肩の力を抜いた。
「……よかった、マジで。あいつ、ほんっとにめんどくさいからなぁ」
「それは君だけじゃないよ、アルフェリス。セリアには誰でも手を焼くから」
ギルベルトは苦笑を浮かべながら言ったが、アルフェリスはその言葉に鼻を鳴らして答えた。
「だろ? あの調査欲、ほんとやばいもんな。もし来てたら…俺今度こそ解剖されて身体もイジられていたかも……」
「はは……君もセリアを冗談抜きで怖がってるんだね」
「冗談じゃないって。あの人、ほんとにやるからな……竜族の骨とか、人の血液とか、聞くとぞっとするわ」
ギルベルトはやや苦笑しつつも、アルフェリスの言うことが決して大げさではないことをよく理解していた。セリアの魔術への執着と、気まぐれな実験心は、王侯貴族の中でも異彩を放っていた。
「でも、今日は大丈夫だよ。セリアのことは気にしなくて大丈夫だから。お茶を飲みながら、思い出話でもしよう」
ギルベルトの提案に、アルフェリスはようやく安心した様子で頷いた。
ーー
ギルベルトの客間は、南向きの高窓から柔らかな日差しが差し込み、白壁がその光を受けて温かな金色に染まっていた。
内装は豪華さを控えめにし、質素でありながらも格式が感じられる。壁にはフェイミリアム特有の精緻な刺繍が施された絨毯が掛けられ、床には上質な木材が敷かれていた。
文机の上には、国の代表的な工芸品である精緻な陶器や硝子細工が飾られ、棚には歴史的な書物が整然と並べられていた。どこか温かみがあり、主客を迎えるための細やかな配慮が感じられる空間だった。
「どうぞ、好きなところにかけて。紅茶でいいかな? それとも何か冷たいものの方がよかった?」
盆を手に入ってきたギルベルトが、ほわりとした笑みを向けてくる。いつも通りの、掴みどころのない口調だ。
「紅茶をいただきます」
「じゃあ僕もそれで。アルフェリスは……紅茶は苦手だったっけ?」
「え、いや。飲む飲む。ありがとな、ギル。……ていうか、今日は奥さん……セリアはついてきてないのか? いやあ、安心、安心」
アルフェリスが気軽に受け取りながら、ほっとしたように肩を落とす。
ギルベルトは小さく噴き出した。
「あはは、セリアのこと、やっぱりまだ怖がってるの? アルフェリスってば、昔から変わらないなあ」
「いやマジで……あいつ、目が合うたびに『今日は腱のつき方を観察させて?』とか言うじゃん。絶対いつか俺の腹開いて解剖するって」
真剣な顔でぼやくアルフェリスに、ギルベルトが苦笑し、セリムも思わず唇を緩める。
ひとしきり和んだところで、ギルベルトがゆるやかに表情を整えた。
「……クラウス将軍のこと。僕に話せることが、あるかどうか分からないけれど」
その声の調子は変わらぬまま、だが空気の温度がすっと下がったようだった。
「気になっているんでしょ? 十年前のこと」
セリムはわずかに目を伏せた。
「ああ。少しでも、記憶を辿ってもらえれば」
「そっか。……じゃあ、話せることから順にね」
ギルベルトは椅子の背にもたれ、窓の方へと視線を向けた。外の木々が、春の風に葉を揺らしている。
「白花の儀のとき、僕はまだ大公になったばかりだった。父が亡くなって数週間……喪服を脱いだばかりで、外交の場に立たされてさ。今よりもっと落ち着きなくて、ぎこちなかったと思う」
「……だが、あの儀には出ていたのだな」
「うん。あれが初めて、ローザリア諸国の大公として公の場に出た日だった。セリアとも……あのときはまだ、婚約したばかりだったっけ。ヴァレリー大公やクラウス将軍は面識があったけど、アカシア姫やメルベール大公ともそこで初めて挨拶したよ」
「兄と面識があったのか」
セリムが身を乗り出す。
「うん。君がまだうんと小さい頃だけど…フェイミリアムに来るたびにせがんで剣の稽古に付き合ってもらっていたんだ。数回程度だったけど、彼はいつも凛としていて、それでいてどこか……静かな人だった。でも、隣に立ってると不思議と安心できるような」
ギルベルトの語り口は終始ゆるやかで、情景を紡ぐように、記憶の断片をひとつずつ置いていく。
「……式典のあと、フェイミリアムに滞在する余裕もなくてね。すぐに帰国して、新政の準備に追われた。だから、クラウス将軍の訃報を聞いたのは、それからしばらく経ってから。たぶん、白花の儀から…三ヶ月くらい後だったと思う。メルベールで起きた不幸な事故――というふうに、公式には伝えられていた」
セリムは眉をわずかに動かす。
「……事故、という扱いだったのか」
「うん。でも、どこか不自然で。正直に言えば、何かを隠しているような気がしてた。詳しく調べようにも、あの頃は国のことで手一杯だったし、フェイミリアムとメルベールの問題だから他国の僕が表立って調べるにもいかなくてね。」
ギルベルトは、カップの縁を見つめながらぽつりと言った。
「僕はね、セリム。クラウス将軍に、命を救われたことがあるんだ。」
「剣の稽古のとき?」
「そう。稽古で近くの森へ魔物退治に行ったんだけど…そのとき魔物が跳びかかってきたのを、彼が咄嗟に庇ってくれた。あのとき彼がいなければ、僕は今こうして生きてないかもしれない。……だからね」
ギルベルトはゆっくりとセリムを見つめた。
その視線には、いつもの柔らかさの奥に、微かな決意が灯っていた。
「彼のことを知りたいと思う君の気持ち、僕は信じて応援したい。たとえ……それが面倒な真実を掘り起こすことになったとしても」
セリムは、胸の奥がしんと熱くなるのを感じた。
それは悲しみでも怒りでもなく、かすかな感謝――そして、覚悟のようなものだった。
「……ありがとう、ギルベルト。君の言葉が、私の支えになる…」
傍らで聞いていたアルフェリスが、空気を読んだように大きく伸びをした
「いやー、いい話だったな! よし、俺もセリムくんのためにひと肌脱ぐぞ〜」
「頼りにしているが、あまり目立ちすぎないようにな」
アルフェリスの冗談にセリムがぴしゃりと釘を刺す。ギルベルトは目を細めて笑っていた。
しばしの沈黙が流れた後、ギルベルトが静かに口を開く。
「セリム、君がどうしたいか、よく考えてほしい。いろいろな思惑が絡み合っているけれど、君自身がどう進むか、が最も大事だ」
「……ありがとう」
セリムは素直に答え、再び頷く。
ーー
客間の灯火が和らぎ、しばしの沈黙が場を包んだ。ギルベルトは湯気の消えかけた茶器を見つめたまま、ふと口を開く。
「そういえば……十年前の白花の儀の夜。儀式のあと、城の裏庭でクラウス将軍と短剣の稽古をしたんだ」
その響きに、セリムのまなざしが鋭く揺れた。ギルベルトは懐かしげに笑みを浮かべながら、記憶の襞をなぞるように続けた。
「あれは、僕がまだ大公の地位についたばかりの頃でした。肩書きばかりが先行して、心身ともに追いつかず……あの場でも、どこか居心地の悪さを感じていた。そんな僕に、クラウス将軍は何気ない口調で声をかけてきて」
彼は手を軽く動かし、当時の所作を思い出すように短剣を構える仕草をした。
「“少し付き合ってくれませんか”って。それだけ。こちらの様子を見透かしていたんだろうね。稽古中、彼は多くを語らず、ただ黙々と剣を交えた。でも、その沈黙が……何よりも救いになったんです」
セリムは視線を落とし、小さく息を吐いた。ギルベルトの声音には、紛れもない敬愛と、静かな哀惜が宿っていた。
「僕に兄はいなかったけれど……あの人は、まるで兄のようだった。言葉で導くのではなく、背中で“在り方”を示す人。己の信じる正義を押しつけることなく、しかし揺るがぬ信念を持ち続ける……。まさに“騎士”そのものだった」
「……兄が、そんなふうに誰かを導いていたなんて……」
セリムの呟きは、思わず漏れたものだった。ギルベルトは彼を見て、静かに頷いた。
「彼が語っていたことを、もう一つ思い出したよ」
声が、さらに静まる。
「アカシア姫と話をした、と。ほんの短い会話だったそうだけど……彼は『あの姫と、自分は少し似ている気がした』と、そんなことを言っていた」
『誰にも見せぬものを奥に隠して、笑っているような目だった。似ていると感じたからこそ、あまり近づいてはならないような気もした』――
ギルベルトは、まるでそのときのクラウスの声を再現するかのように、ゆっくりと語った。
「……クラウス将軍らしい、どこか独りよがりな優しさだなと思ったよ」
そして彼は椅子を立ち、扉へと視線を向ける。
「セリム。君がここに来て、真実を追おうとしていること。それは、あの人が最もできなかったことかもしれない。そして、それを成し得るのが、あの人の弟である君なのだと……僕は、そう思っている」
セリムは、静かに頭を垂れた。
「ありがとう、ギル」
「ふふ、ようやく君が愛称で呼んでくれたね」
扉の外で待っていたアルフェリスが、堪えきれずに吹き出す。
「なんだよ、いい雰囲気だったのに。照れるなあ、セリム」
「余計なことを……」
セリムの声がひときわ冷えるが、その口元には僅かに柔らかいものが浮かんでいた。
クラウスを語る声があたたかく交差し、わずかながらに、彼の残した想いが現実の中に輪郭を取り戻していくような――そんな時間だった。




