白幻
春の光が穏やかに差し込む客間の中、アカシア姫が一人、静かに座していた。白花の儀の余韻がまだ感じられる中、清潔で上品な室内に飾られた花々が、姫の気品を一層引き立てている。
セリムはその扉を開ける前に、一度深く息を吸った。ここに足を踏み入れることがどれほどの意味を持つのか、胸の奥で確かな重さを感じながらも、彼は冷静さを保ち続ける。
ーー私の心の中には、何が残っている?
そう自問しながら、彼は扉を開けた。
「お待ちしておりました、セリム様」
アカシア姫の声は柔らかく、少しだけ温かみを帯びていた。その微笑みの中に、ほんの少しの警戒心が垣間見えたが、それでも彼女はセリムに対して静かな歓迎の意を示している。
「失礼いたします」
セリムは静かに頭を下げてから、部屋の中に足を踏み入れた。彼の視線は、アカシア姫が座る位置に自然と向かうが、すぐにその姿勢を整えて顔を上げる。
部屋の隅には、アルフェリスが控えていた。普段はおしゃべりな彼も、このときばかりは黙して立ち、冷静に場を見守っている。
「本日はお時間を割いていただき、ありがとうございます」
「……構いません。お聞きになりたいことがおありなのですね。」
アカシアは、ふと窓辺に目をやる。春の光が庭の白花を照らしていた。
その光景に吸い寄せられるように、ぽつりと語り出す。
「……おかしな話に聞こえるかもしれませんけれど。あの方ーーークラウス殿とは、ほんの数度しか、まともに言葉を交わしていないのです」
「にもかかわらず、あの夜のことだけが特別だったわけではないような……そんな感覚があるのです」
セリムは静かに耳を傾けていた。アカシアは言葉を選ぶように続けた。
「はじめてお見かけしたのは、白花の儀の前、協議の折に随行しておられた時です。私は、ごく形式的な挨拶をしただけだったのに……目が、合ったのです。人波の向こうから、まっすぐに」
「不思議な目でした。穏やかで、澄んでいて……けれど、何かを探しているような、迷いのない眼差しでした」
彼女の指先が、膝の上でそっと組まれる。
「その後、何度か偶然が重なって。廊下で、宴の席の隅で、図書室の前で――言葉を交わしたのは数えるほど。でも、どれも短いのに……まるで昔から知っていた人のように、話せたのです」
「私のことを深く知っていたわけではない。でも、見透かされているような気もして……怖くはありませんでした。むしろ、心地よい沈黙さえありました」
アカシアはそこで言葉を止めた。
風が一陣、窓を叩く。白花が揺れて、ひとひら舞い上がる。
「……だから、今でも夢か現か、わからなくなるのです。あの方が私に微笑んだ日々は、本当にあったのだろうかって」
アカシアの声は穏やかだったが、どこか張り詰めていた。微笑みの奥に、容易に近づけない壁のような気配がある。
セリムはそれを理解していた。彼女が抱えるものの重さ、そして、いかに言葉を選ばねばならないか。
過去の美しい記憶に思いを馳せる彼女にセリムは切り出した。
「クラウスの件で、確認したいことがございます。ただ、これは決して姫君の責任を問うものではありません。あの夜の記録を、できるだけ事実に即して整理したいだけなのです」
一瞬、アカシアの表情が固まった。
「……そう、ですか」
彼女は目を伏せ、少しの沈黙が流れた。カーテンが揺れ、外の光が柔らかく差し込む中、姫の長い睫毛がその光を受けて微かに影を落とす。
「公的な記録によれば、兄は警備の任にあたり、巡回中に偶然、姫の部屋の前を通りかかった――そこで、何者かの襲撃から姫君を庇い、命を落とした。そう記されています」
「ええ……その通りです」
彼女の言葉は硬く、どこか無機質だった。
セリムはその変化を見逃さなかった。まるで、心の奥にある感情を押し殺すかのような声音。その背後には、別の真実があるのではないかという予感。
「では、姫君ご自身のご記憶としては? あの夜、兄は……本当に偶然、そこにいたのでしょうか?」
アカシアの睫毛が震えた。ほんの一瞬の揺らぎだった。だが、それはセリムにとって明確な兆しだった。
「……そう、だったはずです。彼は、城の巡回をしていて……そうして、私の部屋の近くを――通りかかったのです」
その言葉は途切れがちで、自分に言い聞かせるような響きを帯びていた。
セリムは、そこで一歩も踏み込まず、ただ静かに頷いた。
「クラウスは、その場で即死だったと伺いました」
「……はい」
アカシアの声は微かだった。けれどその眼差しは、遠い記憶の中へ沈んでいくような深さを持っていた。
「彼は、勇敢でした。……私のことを、守ろうとして……。あのとき、あんなにも……まっすぐで、愚かしいほどに……」
その言葉に、セリムの胸が痛んだ。兄の死を思う痛みではない。今、目の前で震えるように語る少女が背負っている苦しみに対してだった。
アカシアは、唇をかみしめた。部屋のすぐ正面にある白い藤棚から花の香が、かすかに開けた窓から風に乗ってきた。
「クラウス殿は……騎士の鑑でした。剣だけでなく、人としての誇りを纏っておられた。……私などが言うのは、僭越かもしれませんけれど」
「いいえ。それを聞けて、嬉しく思います」
セリムの声は、あくまでも柔らかかった。問い詰めることなく、引き出そうともせず。ただ、寄り添うように――。
しばし沈黙が続いた。だがその静けさは、先ほどまでの張り詰めたものとは違っていた。互いに、言葉にならぬ想いを感じ取るような、そんな空気だった。
アカシアはふっと微笑んだ。だが、その笑みにも影があった。
「あなたは、やはり……真実を、追い求めておられるのですね」
「はい。私には、それしか残されておりませんので」
その瞬間、アカシアの目がわずかに潤んだ。だが涙は零れなかった。彼女は、まだ語らぬことを心に秘めたまま、ただ静かに言った。
「また、いつでもいらしてください。……私に話せることが、もしあれば。そのときは、きっと」
セリムは深く一礼した。
彼女の中には、まだ真実が眠っている。だが、それを無理に暴くのではなく、彼女自身が語ろうとする日を待つ。その覚悟を、セリムはこの静かな室内に刻んだ。
ーー
――白花が、咲いている。
セリムが去った後の部屋には、静寂が深く積もっていた。
閉ざされた扉の向こうの気配はすでに消えたはずなのに、アカシアにはまだ、その影が残っているように思えた。
胸の奥で、古い風がそっと軋む。
十年前の春、あの白い季節が、再び息を吹き返す。
十年前、白花の儀。
初めて出会った彼――クラウス・アシュノッドは、軍の列の誰よりも静かで、誰よりも存在感を放っていた。
まるで、その場にいるべきでない異邦の者のように。
――けれど、不思議だった。
「この人を、私は昔、どこかで――」
そんな錯覚が、初対面のはずの彼に寄り添っていた。
式の終わり、風が吹き、アカシアの薄布がはらりと舞った。
それを無言で受け止めたのが、彼だった。
「……お召し物が、風に」
差し出す手は、鍛えられているのにどこか不器用で、触れぬよう、傷つけぬよう、怯えるように震えていた。
「ありがとう……白獅子…クラウス殿、でいらっしゃいますね?」
「はい。フェイミリアムの将、クラウス・アシュノッドにございます」
「あなた、少し、変わっておいでですね。私を……見ておられたでしょう?」
一瞬、彼は言葉を探すように眉を寄せた。
そして、目を逸らすことなく、こう答えた。
「……他人事と思えなかったのです。何故かは、分かりません」
その瞬間、胸の奥が震えた。
心の深く、名のつかぬ場所が。
「白花を、怖いと思ったことはありますか?」
「……はい。咲いては、誰にも告げずに散る。
気高く、美しく、けれど、誰のものにもならぬ花」
「わたくしは、時々こう思うのです。
白花に見られている、と。
何かを問われているような、許されていないような、そんな……」
アカシアの声が風に揺れると、クラウスは瞼を伏せた。
「公女殿下は、それでも咲き続けるのですね」
「……ええ。私は…咲くことしか許されませんから。咲いて、散るしか、ないのです」
彼の目に、かすかな哀しみが宿った。
「殿下は、まるで白花そのもののようですね。
……この世にあって、この世のものではない。
誰にも触れられず、それでも立っておられる」
「――それは、褒め言葉でしょうか?」
「無論」
アカシアの問いにクラウスは短く答え、それに対してアカシアは微笑んだ。ほんの、ほんの少しだけ。
そして、風が吹いた。
その隙間に、何か大切なものが零れ落ちた気がした。
ーーー
――白花が、咲いている。
アカシアは、窓辺の白花に手を伸ばす。
指先がそっと、花弁に触れた。――冷たい。まるで、あの日の彼の言葉のように。
セリムが去った後の部屋には、静寂が深く満ちていた。扉が閉じられてからもしばらく、アカシアはそのまま微動だにせず、椅子に腰かけていた。
窓の外では、春風に揺れる白花が、まるで過ぎ去った言葉の余韻を映すようにそよいでいた。そのひとつひとつが、記憶の断片のように柔らかく、けれど確かに彼女の胸を打っている。
「……何も、変わらない、白い花の美しさも」
アカシアはぽつりと呟いた。誰に向けた言葉でもない。ただ、己の心の奥底から漏れ出た、独白だった。
けれど、その声には、ほんのわずかな震えがあった。あの日の出来事が、彼女の中で終わったものではないことを、その声が物語っていた。
外では鳥のさえずりが、まるで遠い昔の音のように聞こえる。春の陽はなおも優しく、だがその優しさが、時に人の心に痛みを呼ぶのだと、アカシアは改めて知った。
「……セリム様」
名を呼んだ彼女の瞳には、既に彼の姿はなかった。それでもなお、彼女の想いは、あの青年の背に確かに残されていた。
白花が、またひとひら、舞い落ちた。




