起念
静まり返った書斎の空気は、紙とインクの匂いに満ちていた。外では春の風が枝葉を揺らしているというのに、この部屋の中だけは季節の流れから切り離されたようだった。
セリムは机に肘をつき、右手で筆を転がしていた。書類の束は手つかずのまま山積みになっている。頭の片隅では「確認すべき報告書が三通、処理すべき書類が二通」と分かってはいたが、どうしても手が進まなかった。
――あの瞳を、思い出してしまう。
白花の儀で出会ったアカシア姫。
名はかねてより知っていた。だが、本人と言葉を交わしたのは初めてだった。
柔らかな声色。淑女らしい立ち居振る舞い。決して取り乱すことはなく、礼を尽くす姿勢に欠けたところはなかった。
だが――。
セリムの記憶の中で、姫の瞳だけが、まるで違う温度で焼きついていた。
あの夜、彼女の声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。 用意された言葉で飾った挨拶の裏に、明らかな“壁”があった。
それは恥じらいでも羞恥でもない。
むしろ、見られることを恐れているような、そんな――。
(……恐怖、か?)
セリムは眉根を寄せる。
「アカシア姫は、何かを隠している」
それは確信に近かった。
そしてその「何か」は、十年前、兄クラウスが命を落とした夜の真実に、限りなく近い場所にある――そんな予感があった。
セリムは立ち上がり、机の上の紙を片付けた。 手元にあった、兄の遺したペンをひとつ、ゆっくりと筆箱に収める。
その動作にさえ、ひどく慎重になるほど、彼の内面はざわついていた。
(兄上。……私は、あの人ともう一度話す)
彼は深く息を吐いた。
けれどその瞳は、迷いよりもむしろ静かな覚悟を湛えていた。
ーー
執務を終えたセリムは、書簡を抱えたまま中庭に面した長い回廊を歩いていた。
昼下がりの陽射しが、大理石の床に影を描き、足音が軽やかに響く。
ふと、遠くから見覚えのある大柄な人影がこちらへ向かってくるのが見えた。
短く刈り込まれた灰茶の髪。日焼けした肌と無骨な鎧の肩に、黒い狼の紋章が微かに光る。
「よぉ、セリム。今日も真面目に働いてるみたいだな」
快活な声と共に、テオドール・ヴァルツァーが片手を軽く挙げて笑みを見せた。
左目の傷跡が笑顔の奥でうっすらと動く。
「お疲れ様です、テオドール。……そちらこそ、今日は剣の鍛錬では?」
「たまにはな。大公様から『動きすぎるな』って釘を刺されたんで、身体がなまっちまう」
とぼけた口調で言いながらも、歩幅を合わせてくるその歩みはまるで獣のように静かで力強い。
“黒狼”と呼ばれた男は、ただ歩くだけで存在感を放つ。
「……そういや、お前、昨日あの姫と会ったって話じゃねぇか」
「……ええ。アカシア姫とは、初めて言葉を交わしました」
「どうだった?」
何気ない問いのように見えて、その声には微かな鋭さが含まれていた。
セリムは一瞬、口をつぐんだ。
「……穏やかな方でした。でも、それだけじゃない」
「ふむ」
「本当は……何かを隠しているように感じました」
素直な言葉だった。相手がテオドールだからこそ、飾る必要はない。
セリムの言葉に、テオドールは顎に手をやってしばし考え込む。
「……やっぱりな。あの姫さん、昔からどこかそういうとこがあったんだよ。見せる顔と、隠す顔」
「面識があったのですか?」
「まぁな。クラウスと一緒にメルベールに行ってた頃、何度か顔は合わせてる。口数の少ねぇ、澄ました子だったが……あの頃から、何かこう……」
そこで言葉を切る。
テオドールは迷うように視線を空へと向けたが、やがて決意したように続けた。
「セリム。お前、あの姫さんのところに行くつもりか?」
「……はい。今度、もう一度、ちゃんと話してみようと思っています。兄のこと――十年前の夜のことを、聞かねばならないと」
「そうか」
テオドールは短く答えると、しばらく何も言わなかった。
やがて、大きな手でセリムの肩をぽんと叩く。
「だったら、俺は何も言わねぇ。ただし、ひとつだけ忠告だ」
「……?」
テオドールは静かに息を吐いた。
「まわりくどい真似はやめとけ。こっちが探り入れた時点で、向こうは殻にこもる。……ぶつかるなら正面からいけ。お前のやり方で、真正面からな」
その言葉に、セリムは目を伏せた。
思えば、これまでずっと、相手の感情を読み、論理で組み立てた言葉で対処してきた。だが、アカシアのように、感情の深淵を抱えるような人間には、それが届かないこともあるのだろう。
「……真正面から、か」
「そうだ。回り道しても、結局はそこに戻ることになる。だったら、最初から腹を割ってぶつかれよ。」
テオドールは笑みを浮かべると、背中を軽く叩いた。
「ありがとう、テオドール」
テオドールは嬉しそうに頷いた。
「……アル、後は頼んだぞ」
セリムが振り返ると、そこには影のように静かに立つアルフェリスがいた。いつからそこにいたのか、足音も気配も感じさせず、彼は淡々と頷いた。
セリムもアルフェリスと目を合わせると一歩、踏み出した。
ーー
夜の帳が下りる頃、セリムは城の一室で静かに書を閉じた。部屋にはアルフェリスと二人きりである。
「再び、アカシア姫と話す。彼女自身の言葉で――あの夜のことを、聞きたい」
言葉を紡ぎ出したセリムの声音は、火を灯したばかりの蝋燭のように揺れていた。静かで、冷えていて、だが確かに燃えていた。
対するアルフェリスは、部屋の隅にある古い棚にもたれたまま、口に咥えていた草をゆっくり抜いた。顎を軽く動かしながら、面倒そうに呟いた。
「……はあ?」
思考を巡らせるでもなく、ただ言葉が出た。相槌にすらならぬ、ただの反射だった。
「……それ、お前の中じゃもう決定事項ってやつ?」
セリムは沈黙のまま、頷いた。
「ふうん……」
アルフェリスは、ぽりぽりと指の関節を鳴らしながら、視線を天井の梁に向けた。室内には陽の気配はもうなく、蝋燭の火だけが、壁に淡く影を揺らしていた。
「お前、昔からそうだな」
不意に、そう漏らした。
「昔から?」
「そう。何でも“話し合えばわかる”って思ってんだ。いや、それが通じる相手もいる。クラウスとか、テオドールとか、……まあ、俺もそうだ。けど、姫ってのは違うだろ」
「彼女も、人間だ」
「だろうな。でもな――“ああいう”人間は、お前の言葉が届くかどうかは別の話だ」
アルフェリスの声には、皮肉も嘲りもなかった。ただ、そこには“割り切った現実”の重みがあった。
「……お前は、ああいう奴に弱い」
「弱い、とは?」
「“何かを背負ってる目”をしてる奴。過去に傷があって、自分だけで抱えて立ってる奴。そういう目を見ると、お前、黙ってられねえじゃん」
それは、否定できない。
2年前、セリムはフェイミリアム城を離れるとき、すべての人間関係を断ち切ったはずだった。けれど、いざ戻ってきた今、その時と変わらず、彼は人の表情を、眼差しを、言葉の裏を読み取ろうとしてしまう。
「お前のそういうとこ、俺は嫌いじゃねえけどな」
ふと笑ったような声で言って、アルフェリスは姿勢を崩した。長椅子に足をかけ、腕を後ろに組んで天井を仰ぐ。
「……でも、姫君がどう出るかは、分からないぜ。相手が“真実を話したい”って思ってる保証はない。むしろ、話すことで何かが壊れると感じてるなら、何をしても口を閉ざす。お前がどれだけ真摯でも、届かないことがある」
「分かっている」
「ほんとか?」
アルフェリスはわざと嘲るように笑った。
「お前、自分が何を背負ってるか分かってんのか? お前が問いを投げれば、相手は“セリム・アシュノッド”の名を背にそれを受け止めることになる。それがどういうことか、考えたか?」
「考えた。だが、それでも」
セリムの声が、強くなった。
「知りたい。彼女が語らなかったことを。兄が遺した言葉の続きを」
「おお……言うねえ」
アルフェリスは立ち上がった。蝋燭の影が、壁に彼の長身を長く落とした。
「なあ、セリム」
彼は初めて、真正面からセリムを見据えた。
「人の心を見抜くのは、お前の得意技だ。それは否定しない。けどな――」
声が、低く静かに落ちてくる。
「今回は“見抜く”んじゃなくて、“受け止める”んだよ」
「……?」
「お前が信じたいものじゃなくて、相手が背負ってきた全部を、勝手に解釈せずにまるごと受け入れる。そういう話だ。腹の中を穿って、推理して、優しく包んで、それで済む相手じゃねぇ。……姫ってのは、そういうもんじゃない」
セリムの喉が動いた。
「それは、君の経験から?」
「いや? 俺は姫なんぞ知らん。けど、人を信じない奴の目は、何人も見てきた」
彼は言い切った。
「踏み込むなら、覚悟しとけ。剣も持たず、盾も持たず、お前が持ってるのは問いだけだ。ならせめて、その問いに命懸けてこい」
しん、と空気が凍った。
セリムは小さく息を吐き、目を伏せた。
「……ありがとう、アルフェリス」
「礼はまだ早い。失敗したら笑ってやる」
彼はそう言って、背を向けた。そして、部屋を出る間際、ちらりとだけ振り返った。
「ただ、期待はしてるぜ。セリム」
扉が閉まった。
残された静寂の中で、セリムは一人、拳をゆっくり握りしめた。
ーー
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
遠く、王都の街灯が星のようにきらめいている。けれど、ここ城の高層塔から望むそれらは、あまりに小さく、現実から乖離した幻灯のようにすら見えた。
セリムは机に広げていた書簡をすべて閉じ、蝋燭の火を静かに吹き消した。
部屋は月明かりだけとなり、白銀の帳が床と壁を淡く染めていた。
椅子に深く座ったまま、目を閉じる。
十年前のあの夜。
何度も見返した記録には、何の異常もなかった。
だが、確かに、兄は死んだのだ。
「兄上……」
小さく漏れたその呼びかけは、夜の帳にすぐ呑まれた。
クラウス・アシュノッド。
栄誉と信頼を一身に集めた若き騎士。
ローザリアの誰もが称え、慕い、そして、その死を“哀れみ”のうちに語ることしか許されなかった人。
“あの人は、姫を守って死んだのだ”
――そう記された事実に、どれだけの真実が含まれているのか。
セリムはゆっくりと立ち上がる。
月明かりが照らす窓辺に近づき、手すりに指を置いた。
「……何も変わっていないな」
首都の夜は、十年前と同じように美しい。
だが、すべてが止まっているようでもあり、何一つとして戻らないという現実だけが、胸の奥を冷たく叩く。
その時だった。
風が、微かに揺れた。
室内の空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。音もなく、気配もないはずの空間に、目に見えぬ何かが差し込んできたようだった。
セリムはそのまま、窓に向かって小さく囁いた。
「兄上……明日、私は彼女に会います」
声は震えていない。
けれど、その裏にあるものは、悲しみではなく、恐れでもなく、ただ――冷たい意志だった。
「真実を知るためではありません。知ってしまった先に、私は何をすべきかを、問うのです」
人は、真実だけでは動けない。
動かすのは“感情”であり、“責任”であり、そして、“誰に何を背負わせたいのか”という選択だ。
クラウスの死の裏に何があったのか。
アカシア姫の言葉の奥に、どれほどの苦悩と矛盾が沈んでいるのか。
そのすべてを――知ったうえで、なお、自分はどう在るべきか。
それを決めるために、明日、自らその目で見て、耳で聞く。
彼女が語ること。語らないこと。どちらも含めて、向き合う。
セリムは、手すりを強く握りしめた。
風が、また一度、揺れる。
「あの瞳の奥にあるものを知る。……必ず」
夜が深くなっていく。
だが、彼の内には、微かな炎が静かに灯り続けていた。
それはまだ小さな光に過ぎない。けれど、凍りついた記憶の闇を照らすには――きっと十分だった。




