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白い獅子の骸  作者: sume
第二章
13/33

白兆

 城内は、白花の儀に向けた慌ただしい準備で溢れていた。セリムは教師としての業務の合間に、臨時で手伝いを頼まれていた。些細な仕事ではあるが、それでも大事な儀式の準備を無駄にしてはならないと、彼はしっかりと任務を果たしていた。




そのとき、城内の静かな廊下に響く足音が近づいてきた。セリムは振り返り、その人物を認めると、すぐに頭を下げた。




そこに立っていたのは、長年フェイミリアム公国に仕官してきた老臣、マクシム・ベルノワだった。




「セリム様、ごきげんよう。」


マクシムは、静かな声で挨拶をした。


その白銀の髪、背筋の通った姿勢、そして年齢を感じさせない品位には、変わらぬ重みがあった。




セリムは深く頭を下げ、「ごきげんよう、マクシム様。」と答える。




少しばかりの緊張感を感じながらも、マクシムの安定した態度に安心感を覚えた。




「長らくお見かけしませんでしたが、元気そうで何よりです。」


セリムが言うと、マクシムは穏やかに微笑みながら頷いた。




「おかげさまで、元気に過ごしております。」


マクシムは落ち着いた声で答えた。その表情には、長い歳月を経て培われた深い知恵と経験が滲み出ている。




「それにしても、城内も慌ただしいですね。」




セリムは改めて周囲を見回し、話題を変えた。




「白花の儀に向けて、準備も忙しい日々が続きます。」


「そうですね。」




マクシムは穏やかな声で答える。




「これだけの大きな儀式ですから、準備が整うまでまだ時間がかかるでしょう。しかし、すべてが無事に終わることを願っています。」




しばらく静かな間が流れた後、マクシムはふと話題を変えた。






「ところで、セリム様。オーブ姫との授業は順調に進んでいるのでしょうか?」




「オーブ姫は、非常に真摯に授業に取り組まれております。」セリムは一瞬、口元に柔らかな笑みを浮かべながら答えた。



「多少、理屈よりも感覚を優先される傾向はございますが、常に前向きで、分からないことがあれば臆せず質問してくださいます。その姿勢には、私も励まされることがございます。」




「それは何よりです。」


マクシムは静かに頷いた。




「姫君は、小さな頃から感性豊かで、素直なお子でございました。理屈ではなく心で捉える──そのような資質は、政治の場においても、時として大きな力となりましょう。」


「はい。むしろ、私の方が思考の枠に囚われすぎていると感じるほどです。」




セリムは小さく息を吐いた。




「姫のおかげで、視野を広げる機会を頂いております。」


「良き巡り合わせでございますな。」



老臣は優しく目を細めた。






その後、マクシムは軽く微笑みながら、セリムに向けてさらに一言を加えた。




「実は、アカシア姫がメルベール公国からいらっしゃるとのことです。白花の儀において、重要な役割を果たすことになるでしょう。」




「アカシア姫が?」




セリムは驚きの表情を浮かべ、思わず言葉を漏らす。




「そうです。」




マクシムは冷静に頷いた。




「姫君の訪問は、儀式の準備において非常に重要な意味を持ちます。セリム様も、そのことを十分に理解されているでしょう。」




セリムは深く頷き、改めてその責任の重さを実感した。




「はい、十分に承知しております。準備がしっかりと整うよう、気を引き締めて臨みます。」




「その意気込みがあれば、問題ないでしょう。」




マクシムはセリムに微笑み、ゆっくりとその場を後にした。


セリムはその後、再び手伝いの作業に戻りながら、心の中でこれからの白花の儀の展開について考えを巡らせていた。






―――――――――――――――――――――――






白花の儀の日、神殿の庭には朝早くから人々が集まり始めていた。




雪のように白い花々が所狭しと敷き詰められ、風が吹くたびに儚げに舞い上がる。 清廉な弦の音が静かに響き、石造りの参道を歩く人々の足音までもが、まるで式の一部のように整っていた。




セリムは儀式の正装を纏い、整然と並ぶ参列者たちの列に静かに加わっていた。神殿に響く清らかな楽の音、白花の香気、金糸の織り込まれた旗が揺れるその光景は、まるで雪の中に咲く夢のように静謐で、神聖だった。




ここに集う誰もが、平和を希う祈りを胸に抱いている――そう思えば、胸の奥にわずかな熱が宿った。失われた土地、交わされなかった言葉、戦で砕けた絆。そのすべてが、祈りとともにこの空に昇っていくようだった。




それでも彼の目は冷静だった。理性が、儀式の意味を忘れさせなかった。白花の儀。それはただの祭礼ではない。政治と過去と感情が織りなす舞台であり、誰かの真実が塗り替えられた場所でもある。




――忘れてはならない。これは祈りであると同時に、記録される“歴史”なのだ。




その思考は自然と十年前の光景へと重なってゆく。あの時もまた、同じように白い花々が咲き乱れ、静寂の中に音楽が流れていた。




—――兄上は……確か、ここに立っていた。




壇上の中央、騎士としての威厳を湛えたクラウスの姿が、記憶の中に立ち上がる。


美しく、凛々しく、誰よりも自然にその場に馴染んでいた。


その傍らには、あの時の姫君たちの姿もあった。だが、今ひとつはっきりと思い出せない。




あの日、何が語られ、何が語られなかったのか。




視線を壇上へと向けた瞬間、静けさの中で誰かの名前が呼ばれ、そして彼女が現れた。




アカシア姫。


漆黒の衣を纏い、長い髪を一房、前に流して歩く姿は、まるで誰かが描いた絵の中から抜け出してきたようだった。足音ひとつ立てずに歩く様は、風すら避けているかのようで、観衆のざわめきは一瞬にして静まり返った。




その姿を目にしたとき、セリムは何かが心の中で反転するのを感じた。




—――この人が、兄の最後の場にいた。




—――そして「クラウスは、自分をかばって賊に殺された」と証言した、たった一人の目撃者。




姫は白花の台座の前で膝を折り、静かに花を捧げた。


その所作には一分の隙もなく、まるで長年積み上げられた修練か、あるいは信仰そのもののような清らかさがあった。




花を捧げるその背に、感情の起伏は見られなかった。 だがそれゆえに、逆に目を引いた。


セリムの心に疑問が差し込む。




—――この人は、本当にあの夜を目にしたのか?




—――あの証言に、偽りはないのか……?




感情的な怒りではない。


ただ、何かが“噛み合わない”という違和感だった。




姫はやがて立ち上がり、何事もなかったかのように退場していく。 周囲の者たちは、ただ美しさに目を奪われ、誰も言葉を発さなかった。




セリムはその背を見送りながら、記憶の奥に沈んだクラウスの声を探す。




—――兄上……あなたは、本当に姫を守って死んだのですか




—――その最期を、どのように迎えたのか






そして――その真実を、誰が知っているのか。




舞い落ちる白花の一片が、セリムの肩に触れた。






―――――――――――――――――――――――




 白花の儀が終わり、参列者たちはそれぞれ散り散りになった。セリムも他の参列者たちと同様にその場を後にし、式の余韻がまだ残る廊下を歩いていた。廊下に響く足音が、まるで時間を引き戻すかのように、セリムの意識を鮮やかに呼び戻した。




 そのとき、セリムの耳にひときわ近くで響く足音に気づく。




「もし、そちらの方……クラウス殿の弟君ですね?」




 その声に立ち止まると、目の前にアカシア姫が立っていた。彼女は装束を整え、まるで何かに包まれているかのように神秘的で、その存在感は今もセリムを圧倒していた。


 遠目から見ても他を圧倒する美しさを持っていた。近くで見るとまさに絵画から飛び出てきた女神のような姿で微笑みを浮かべていたが、どこか人形のようでもあった。




 その瞬間、セリムは心臓がわずかに跳ねるのを感じた。姫の穏やかな顔立ちの奥に、計り知れない深みがあるように思えた。




「お初にお目にかかります、メルベールのアカシアと申します。」




 姫は少し頭を下げて微笑みながら挨拶をした。


 セリムは驚いた様子で姫を見つめたが、すぐに冷静に答える。




「こちらこそお初にお目にかかります、セリム・アシュノッドです。なぜ私のことをご存じで?」




 アカシアは少し考え込み、優しく微笑んでから答えた。




「クラウス殿にうりふたつでしたから、すぐにわかりました。あの方はとても立派な…ローザリアが誇る比類なき騎士でした。」




 その言葉には深い敬意と共に、懐かしさも滲んでいた。セリムはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。クラウスの名前を聞くたびに、どうしてもその記憶が生々しく甦る。




「あなたには、大変申し訳なく思っております。」




 その言葉を聞いた瞬間、セリムは一瞬、自分の目の前がぼやけたような気がした。彼女の声に込められた申し訳なさや誠意を感じ取るものの、胸の内で波立つものを感じた。クラウスを失った痛みが、彼女の優しい言葉の隙間をすり抜けて再び心を締めつける。




「いえ、公女殿下こそ、お気遣い無用でございます。」




 セリムは冷静を保とうとするが、その声にはどこか張り詰めたものが感じられる。姫が何を思っているのか、なぜこんなにも自分に謝罪をするのか、わからないままだった。しかし、無理にその感情を抑え込んだ。




「私の兄は、殿下の記憶に残るほどの人物だったのですね。」




 アカシアは微笑み、ゆっくりと頷いた。




「はい。あの方の勇姿は今でも忘れられません。私にとっても、忘れられない……忘れてはならない大切な記憶のひとつですから。」




 セリムはその言葉に何も返せなかった。姫の目に誠実さが見えたが、それと同時に心の中にある疑念をどうしても拭い去ることができなかった。だが、言葉にすることはできず、ただ静かにうなずく。




「そうでしたか…。」




 そのとき、アカシアはほんの少しだけ歩み寄り、穏やかな口調で言った。




「私は数日貴国に滞在いたします。あなたは当時幼かったでしょうから……兄君のことで気になることがあれば、どうぞ遠慮なく聞きにいらしてください。」




 その言葉には、落ち着いた印象があり、姫が自分の記憶に強い思い入れを持っていることが伝わってきた。しかし、セリムにはその言葉の裏に隠れた何かがあるように感じられたが、それが何なのかはまだ分からなかった。




「私にできる限りのことをお答えいたします。」




 セリムは一瞬戸惑いながらも、深く頷いた。心の中で、彼女の言葉が次々と問いかけのように響いていた。しかし、今はその答えを持っていない。




「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。」




 アカシアは静かに頷き、そして再び微笑みを浮かべてから歩き去った。その背中を見送ると、セリムは立ち尽くした。




 彼女の微笑み、優しさ……それだけではない何かがセリムの心に残り続け、彼を引き寄せるように感じられた。



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