報告
フェイミリアム城の西塔は、普段あまり訪れる者のない静かな区画だった。
政務を司る中枢からは遠いが、衛兵や騎士団の訓練場へは直接つながっている。この塔の一角には、フェイミリアム騎士団――その中でも上位の将校にあてがわれた執務室があるのだ。
セリムは廊下の曲がり角で足を止め、周囲に気配がないことを確かめてから、石造りの厚い扉の前に立った。
面会が禁じられているわけではない。ただ、今自分は秘密裏に調査をしており、誰もが軽々しく耳に入れてよい話ではなかった。
重々しい扉をノックすると、中から聞き慣れた声が響いた。
「開いてるぞ。」
扉を開けて足を踏み入れたその瞬間、がっしりとした両腕が容赦なく襲いかかる。
「ようやく来たか、セリム!」
セリムの身体がぐいと引き寄せられ、力任せに抱きしめられ、セリムは「ゔっ」と声にならない声で小さい悲鳴を上げた。
肩越しにはしゃぐような笑い声とともに、ばしんばしんと背中を叩かれ、頭をぐしゃぐしゃと撫で回されたた。
「冗談抜きで、ちゃんと飯食ってるか? 」
「……肋骨が軋む、テオドール。」
「はは、悪い悪い。」
ようやく離れたテオドールの顔には、それでも笑みが残っている。だが、セリムの顔を見るとすぐに表情を引き締めた。
「それで、例の件か?」
「……ああ。十年前の夜のことだ。覚えている限り、話してくれ。」
「なるほどな。やっぱり、あれを掘り返しに来たか。」
「座れ。……あの夜のこと、話す準備はできてる。」
テオドールは椅子を引いてセリムを座らせる。自身も向かいに腰を下ろし、少しの沈黙を置いた後、語り始めた。
「……あれは、不戦条約の調印が終わって少し経った頃だったな。メルベール城へは、大公と一緒に儀礼訪問って名目で俺とクラウスも随行していた。クラウスは、あの頃もう“白獅子”って呼ばれてたしな。」
「巡回任務の中で、彼はアカシア姫の居室前を通るようになっていたのか?」
「そうだ。メルベール側の兵はやたらと警戒してたが、クラウスは『こちらの方が戦力として信頼できる』ってことで、夜の見回りに組み込まれてた。メルベールの連中は、納得してたかは微妙だったけどな。」
「では――あの夜、彼が姫の部屋にいたのも、任務として通りかかった結果だったと?」
「……俺はそう聞いてる。あいつ自身も、そう説明してた。至っていつも通り淡々と任務に忠実だった。ただ、」
テオドールは一瞬言葉を切る。そしてふっと笑って付け加えた。
「クラウスが女に会いに行く? あいつはそんなタイプじゃない。いくらモテても、浮いた話ひとつなかったし、隙もなかった。貴族の娘たちに取り囲まれても、にこやかにかわすのが上手い奴だったよ。」
「だからこそ、他国の姫君の部屋で命を落としたと聞いた時は、何か裏があると思った……そういうことか。」
「俺たち皆が最初に疑問に思ったのは、そこだった。」
セリムは眉間に指をあて、思考を巡らせる。
「……アカシア姫は、メルベール城の姫君だ。城内で万が一、賊が出たとしても、まず守るのはメルベールの兵の役目のはずだ。それを、なぜ他国の将軍であるクラウスが“庇った”という形で死んでいるのか。違和感しかない。」
テオドールの顔がわずかに曇る。
「俺もそう思ってた。けど、大公はそのとき、“事を荒立てるな”とだけ言って、それ以上は調べるなって命じた。今思えば……あれは大公なりの、何かの配慮だったのかもしれないな。」
沈黙が部屋を支配する。
セリムの目は鋭く一点を見据えているが、心の奥では微かな感情の波が揺れていた。
クラウスの死の真相は、まだ靄の中だ。
テオドールが、わざと明るく声を上げる。
「にしてもな、クラウスの奴、当時ほんっとに騎士団の中でも人気だったんだぞ? もう、“あいつがいれば安心”って、男からも女からも言われるレベルでさ。……俺だって、ずっと背中を追ってたんだ。横にいただけさ。」
セリムは微かに目を伏せた。
「……私は、ずっとその背中に手が届かなかった。」
「お前はお前だ、セリム。クラウスも、きっとそう言うだろう。」
—―――――—―――――
フェイミリアム城・南棟の一角にある、小ぶりな書斎。
かつては文官たちの仮住まいとして用いられていたその部屋が、今のセリムにあてがわれた執務の場であった。
日が西に傾きかけた頃、静寂の中にペンの走る音だけが響く。
書きかけの報告書の傍らには、城の記録庫から写し取った文書、先日テオドールから得た証言の要点、そして過去十年分の式典記録の断片が無造作に積まれている。
セリムは深く息をつき、背もたれに身を預けた。
「――十年前の出来事。断片は揃ってきたが、まだ核心には届かない」
彼は自分のノートを開き、簡潔に要点を箇条書きしてゆく。
十年前――ローザリア全土において不戦条約が締結され、各国の間に束の間の安定が訪れた。
その折、フェイミリアム公国のヴァレリー大公は、条約締結後の初の親善使節としてメルベール城を公式訪問し、相互の友誼と信頼の構築を図った。
クラウスは、大公に随行する護衛騎士としてその一行に加わっていた。
メルベール滞在中、何らかの理由でクラウスはアカシア姫を庇い殺害された。
姫は「正体不明の侵入者から自分を守ってくれた」と証言。犯人は現場に残されておらず、真相は“事故”として処理された。
侵入者から姫を守ったにしては、遺された武具からは争いの形跡は感じられない。
姫の部屋にいた理由は、未だ不明。本当に巡回中に偶然立ち寄ったのだとすれば、メルベールの兵士ではなく、なぜ他国の騎士である彼が姫を“庇う”状況になったのか。
セリムの目が鋭く細められる。
公的記録には、事件そのものの記述は一切残っていない。代わりに“表敬訪問は成功裡に終わった”と記されているだけ。だが、クラウスは城に戻ることなく――遺体となって帰還した。
彼は再び証言メモに目を落とす。先日、テオドールから聞き出した言葉。
『あいつは…メルベールに着いてからもずっと落ち着いていて、いつも通り任務に忠実だった。特に変わった様子は見受けられなかった。』
そして、別のページにはこうも書かれている。
『クラウスは誰よりも規律を重んじる男だった。仮に“部屋に女がいた”という噂があっても、あいつに限って軽率な行動はありえないから誰も信じないだろう。』
セリムはしばしペンを止め、無言で天井を見上げた。
(……なのに、なぜ。なぜそんな男が“女の部屋で死んだ”とされるのか)
事件当夜、姫は「侵入者に襲われた」と証言している。しかし、メルベール城兵たちをはじめ、目撃者の記録も曖昧。
そればかりか、事件後すぐに記録の多くが封印され、詳細に触れた報告は残されていない。
セリムは立ち上がり、積み上げた資料を整え始めた。
――テオドール、記録庫、そして己の記憶。
これまでの断片は、互いに矛盾しない。だが、明確な答えに結びつく線は、まだ見つからない。
「そろそろ、大公に報告すべき時か……。あの夜…大公殿下が本当に何を知っているのか、確かめねばなるまい」
淡い夕陽が、南棟の窓から差し込む。
セリムは静かに書類を抱え、扉の前に立った。
—―――――—―――――
セリムは大公の執務室に入ると、その静謐な空気に包まれた。大公は机に向かい、しばし考え込むような表情を浮かべていたが、セリムの足音を聞き、すぐに顔を上げた。
「セリム、来たか。話があるのだろう?」
セリムは軽く一礼し、ゆっくりと腰を下ろした。
「はい、大公殿下。十年前、兄が命を落とした夜のことについて、詳しくお聞きしたいと思いまして。」
大公は一瞬、沈黙をもってその言葉を受け止め、やがて深いため息をついてから、口を開いた。
「あの日のことは、今でも私の心に重くのしかかっている。クラウスがあのように死ぬなんて、誰も予想していなかった。」
セリムはその言葉に続けて聞いた。
「アカシア姫をかばって命を落としたと聞いています。あの時、何が起きたのか、お聞かせください。」
大公は少し目を閉じ、思い出すように語り始めた。
「クラウスが姫を守ろうとした理由は、ただの忠義だけではないと思う。彼は、メルベール…ひいてはローザリアの未来を守るという強い意志を持っていた。姫を守ることが、国の安定に繋がると確信していたのだろう。」
セリムはその言葉に興味を示しつつも、さらに尋ねた。
「未来を守る? それはどういう意味ですか?」
大公は顔をわずかにしかめ、答えた。
「十年前、メルベール大公の親類は、かの国を支配しようと画策していた。その者たちは、アカシア姫しかいないメルベールの後継者問題を狙っていた。男子がいる家が、姫の後を狙い、家族の権力を握ろうと画策していたのだ。そのため、姫を不安定な立場に追い込もうとする者もいた。」
セリムはその話に少し驚きながらも、冷静に聞いていた。
「そのような背景があったのですね。」
大公は頷きながら、さらに続けた。
「その時、クラウスは姫を守ろうとした。騎士としての信念が、彼の行動を決定づけたのだろう。だが、残念ながら、その結果が混乱を招き、さらに危険を招くことになった。」
セリムはその言葉を噛みしめるように聞いた。
「混乱を招いた? それは一体どういう意味ですか?」
大公は少しだけ表情を曇らせてから、静かに語った。
「クラウスがあの日、姫を守るために動いたことで、親善のために赴いていたにも関わらず主催国側で貴賓側の騎士――しかも高位の将校が死んだことで二国の関係は一時危ない状況になったのだ。しかし、彼の行動に誤りはなかった。姫を守るために命を捧げる覚悟を持っていたことが、クラウスの美徳だったのだ。」
セリムは大公の言葉を聞き終わると、しばらく沈黙した後、静かに尋ねた。
「ですが、大公殿下、その混乱が引き起こされた背景に、他の勢力が関わっていたのではないでしょうか? 兄ならこうすると見越して何者かが仕掛けて、わが国とメルベールの関係を壊す目的をもっていたとしてもおかしくありません。実際に不戦条約を快く思っていない勢力があったと調査途中で何度か耳にしております。」
大公はその問いに答えることなく、ゆっくりと息を吐いた。
「その可能性も捨てきれない。しかし、私が知る限り、クラウスの行動には何も裏がなかった。彼は純粋に、姫を守るために動いただけだ。ただ、あの時の状況があまりにも複雑であったために、すべてが思い通りに行かなかったのだろう。」
セリムはその言葉に内心で納得しつつも、さらに一歩進んだ問いを投げかける。
「でも、大公殿下、兄がそのような状況に自ら足を踏み入れる必要があったのでしょうか? 他にもっと慎重な方法があったのではないか…」
大公はその問いを少しだけ考え込むように受け止め、やがて短く答えた。
「それについては今も悔やまれることだ。だが、クラウスがあの日、命を懸けて守ろうとしたのは、姫だけではなく、メルベール…ローザリアそのものだったと思う。クラウスは…自身のように故郷を失う者がいなくなる世のために、と常に行動していた。結果的に、それがどうなったのかは、今も私の胸に残る痛みだ。」
セリムはその言葉を胸に刻みながら、心の中でさらに疑問が深まっていくのを感じた。
大公の話は、彼の推測に過ぎない部分も多くあり、やはりその暗い影がセリムの心に何か引っかかるものを残したのだ。
その真相を探ることが、自分の使命であると改めて感じていた。




