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白い獅子の骸  作者: sume
第二章
11/33

白花

 春の午後、南棟の書斎には、風に揺れるレースのカーテンと、ペンの擦れる静かな音が心地よく響いていた。




「この戦後条約が結ばれた背景には、それぞれの国が抱えていた“疲弊”がありました。……たとえば、十数年前のローザリア一帯では、国境紛争が絶えなかったことはご存じですか?」




セリムの問いかけに、オーブ・エリオラ・フェイミリアムは顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。




「ええと……そこまでは……教わりましたわ」


「では、その後の不戦同盟がどういった意味を持ったか、覚えていますか?」




「もちろん覚えておりますわよ。……お父様が中心になって、ローザリアの国々と“争いは、しばしやめましょう”って約束したのですわよね?」


「……要約すれば、その通りです」




セリムが少しだけ口元を緩めた。


「正式には“相互不可侵条約”と呼ばれています。十二年前に、わが国——フェイミリアムが中心となって起草され、ローザリアの各国が署名しました」




「でも、条約って……そんなに簡単に決まるものではありませんのでしょう?」


「ええ。あのときは――」




言葉を切り、セリムはふと遠い記憶を辿るように、視線を机の上に落とした。




「多くの国が不安を抱えながら、それでも“これ以上の血は流せない”という空気があったのです。ダリアブルクの件も、その背景のひとつといえるでしょう」


「……セリム様の母国、ですわね」




オーブがそっと瞳を伏せる。




だがセリムは何も言わず、ただ静かに頷いた。


その沈黙の間を、オーブが明るい声でふと破った。




「そういえば、締結の翌年ですわよね。“の儀”が大規模に行われたのは」


「ええ。あの年は特別でした」




セリムの声も、どこか穏やかに響く。




「例年はフェイミリアムの国民による追悼行事にすぎませんが……あの年は、不戦同盟の成立を記念し、他国の要人も招いて執り行われました」




「ええ。他国の公子公女と初めてお会いしましたからよく覚えております。特にメルベールのアカシア姫の美しさには驚きました。童話で見るような…絵から飛び出てきたかのような方がいらしたのですもの。」




当時を振り返り、少しうっとりしながらオーブは語った。




「……絶世の美女、とも呼ばれておりますね」




「うふふ。まさにそのとおりですわ。所作も完璧で……わたくしなんて、思わず目が釘付けになってしまいました」




少しはにかんだような笑みを浮かべながら、オーブは椅子の背にもたれた。




「それに、あの日は――クラウスも、あの場におりました」


「……ええ」




セリムは短く答えたが、その声音には微かな陰りが滲んでいた。




「白花の儀」は、戦没者の慰霊と平和への祈りを込めたフェイミリアム独自の祭儀である。



その名は、雪のように純白な慰霊花を、死者たちの名を呼びながら捧げる習わしに由来している。




年に一度、フェイミリアム公国において、戦に倒れたすべての者へ哀悼を捧げるこの行事は、国の根幹を支える精神的儀式でもあった。




十年前の式典では、戦後の平和を体現する“新たな象徴”として、身分を問わず多くの者が涙を流し、平和を祈った。




「兄は、ヴァレリー様の直衛として、あの場におりました。」




彼の姿を見た誰もが、“ああ、我が国の誇りだ”と口にしていた。当時幼かったセリムでも兄のことをとても誇らしく感じていた。




「セリム様……その頃のこと、今でもよく思い出されますの?」


「……ええ。今もはっきりと覚えています」






セリムはそれ以上を語らず、机上のノートに目を落とした。




それを見て、オーブは何も言わず、静かに微笑んだ。


セリムが何を思っているのか――

彼がなぜ帰ってきたのか、すべてを問いはしない。


けれど、胸の奥では確かに理解していた。




彼が“何か”を求めて、今、再びこの城に戻ってきたのだということを。




ーー






 フェイミリアム城・北棟の奥深く。厚い石壁に囲まれた文書庫は、今日もひっそりと静寂に包まれていた。




 開け放たれた窓の隙間から、春風が一陣、古びた紙の匂いを運び込む。




 セリムは、棚の高段に収められた重たい書簡箱を両手で抱え、長机の上にそっと下ろした。




 《白花の儀・歴年記録集(典礼局編纂)》




 表紙に刻まれた金文字が、蝋燭の光を受けてかすかに輝く。




 




 パラ…と静かに頁を繰る。




 記録は数十年前のものから始まっていた。




 




 ――白花の儀。




 その起源は、半世紀前にまで遡る。 




 まだローザリア地方の諸侯が互いに争っていた時代――




 度重なる戦で疲弊した兵と民の魂を鎮め、武に殉じた者たちを弔うため、当時の大公が始めたとされていた。




 もともとは戦後の慰霊を目的とした内部的な式典にすぎなかったが、「白き花に平和を託す」という祈りの形が民草の間に広まり、やがて国家規模の行事へと昇華されていった。




 




 セリムはその一節に目を落とし、静かに頷く。




 いかにもこの国らしい。武を誇るだけでなく、それを悼む儀礼を重んじる――それはまさしくクラウスの生き方とも重なる姿勢だった。




 




 さらに頁を進めると、形式の整備や典礼の流れ、供花の種類、貴族の参列順位に至るまで、細やかに記されている。




 




 「……実に、形式美の極致だな」




 セリムは小さく呟いた。




 それは武人の慰霊という枠を超え、この国の“国風”とも言えるものだった。




 




 やがて記録は、「不戦同盟締結年」、十年前の式典へと辿り着いた。




 その年の記録には、典礼のほかに一際分厚い報告書が添えられていた。




 




 この年の白花の儀は、ローザリア地方の安寧を祈念し、戦後体制の象徴として執り行われた。




 式典には条約締結国より使節団が派遣され、各国から大公をはじめ、その子女、文武高官が列席。




 外交儀礼上、儀式後には、晩餐会、翌日以降には貴婦人同士による茶会、各国の騎士が参加する武術大会なども催され、親交を深める場が設けられたことが記されていた。




 




 「……あのとき、確かに。ローザリア全体が、“平和を信じられる”空気にあった……」




 セリムの瞳が、遠い記憶を追うように細められる。




 




 記録には、出席者の一覧も付されていた。




 メルベール公国からは、現大公、および、その令嬢アカシア公女の名。




 他にもアルメリア公国の騎士団長をはじめ他国からの錚々たる賓客の名が記されている。




 




 ただし、クラウスの名は出席者一覧には記載されていなかった。




 彼はあくまで、式典の警備責任者であり、参列者ではなかったのだ。




 




 ――白花の儀の警備総責任者は、クラウス・アシュノッド殿。




 その名が、別の文書中――儀典運営計画書の中にあった。




 




 《全典礼警備:クラウス・アシュノッド殿(階位・第一級将補)》




 《現場指揮補佐:テオドール・ヴァルツァー騎士長》




 「……やはり、兄上が」




 




 この一文が示すものの重みを、セリムは知っていた。




 外交の最前線、各国賓客が集う最大級の祭典。




 その場を託されたということが、クラウスの信頼と実力の証であった。




 




 さらに細かな記録の中に、クラウスの警備動線や、各国代表の控室配置図なども描かれていた。




 ――そこに特筆すべきものはない。




 




 だが一つ、セリムの目を引いたのは、儀式終了後の懇親会場に関する文言だった。




 




 《賓客は順次控室にて茶を賜る。衛士の警備は最小限とし、儀礼を優先する。》




 




 「……最小限、か」




 




 それはつまり、各国の高位者たちが一堂に集いながらも、互いに干渉しすぎぬよう配慮された、微妙な距離感の空間だったということだ。




 そして、もしその場にクラウスが警備としていたのだとすれば――




 否、憶測は無粋だ。




 




 セリムは頁を閉じた。




 確かにここには、事件性も、謎も、何も記されていない。


 ただ、粛々と綴られた、過去の国家の一断面。


 兄の死と関わりがあるかはわからないが、この城に確かに残された兄の記憶の一部。 






 セリムは静かに立ち上がり、書簡を丁寧に元の棚へと戻した。




 蝋燭の火が揺れ、記録庫の静けさに、紙の擦れる音が微かに響く。






 「……さて。そろそろ行こう」






 低くつぶやいたその声が、石壁に吸い込まれていった。




――今年もまた、白花の儀が近づいている。




 その象徴的な名のもとに、過去は静かに積み重なっていく。




 そして、自分はその「過去」の中に、いまだ埋もれている何かを見出さなければならないのだ。




ーー




 春風の吹く広場に、黒一色の喪服を纏った人々が静かに集っていた。


 年に一度、フェイミリアム公国で行われる、戦で命を落としたすべての者たちを悼む――「白花の儀」。


 この年はとりわけ注目を集めていた。


 


 かつて刃を交えた両国の公女が、共に祈りを捧げるという前代未聞の献花が予定されていたからだ。




 ゆるやかな階段をのぼる、二つの幼い影。




 ひとりはフェイミリアム公国の公女、オーブ・エリオラ・フェイミリアム。


 わずか九歳とは思えぬ、落ち着いた面持ちで花を抱きしめるその姿は、多くの者の胸を打った。


 小さな足で踏みしめる石段に、ためらいは一つもない。




 もうひとりはメルベール公国の公女、アカシア・ヴェルダ・メルベール。


 年は18、その美貌は絶世の美女とも呼ばれている。




 絹糸のような空色の髪をすっきりとまとめ上げ、艶やかな黒の礼装を纏い、目線ひとつ、指先ひとつにまで気品を宿すその立ち姿は、誰もが息を呑むほどだった。


 完璧な所作――それは、一朝一夕では成しえない、類まれなる鍛錬の賜物であった。




 二人が白花台の前に並び立つと、式場には神聖な静けさが満ちた。




 風がふたりの黒衣を揺らすなか、白花が供えられる。




 ただ、それだけの動作が、祈りであり、誓いであった。


 そして、歴史のひと幕であった。




 献花を終えた二人は、再び自席へと戻っていった。


 その背に向けられた無数の視線には、畏敬と、希望が込められていた。






ーー




 式典が静かに閉幕し、貴賓たちはそれぞれの案内に従って移動を始めていた。




 人々の流れから一歩離れた静かな回廊を、アカシアはゆっくりと歩んでいた。


 その傍らには、式典警備の最高責任者――クラウス・アシュノッドの姿があった。


 広場を統率していた軍装とは異なる、黒の正装に身を包んだ彼は、毅然とした雰囲気を保ちつつも、どこか柔らかな面持ちを見せていた。




 「本日のご献花、堂々たるものでした、公女殿下。


 見守っていた我が兵たちでさえ、その所作に感じ入っておりました」




 クラウスの言葉に、アカシアは歩みを緩めることなく応じた。




 「……ありがとうございます。けれど、私は“当たり前”のことをしたまでです。


 重要な式典になりますから……怯むわけにはまいりません」




 言葉は淡々としていたが、そこに込められた意志は強かった。




 「フェイミリアム公女殿下も……ご立派でした。あの年で、このような重要な式典に臆さず自らの役目をこなせる子は、そういません」




 クラウスは頷いた。




 「殿下はよく見ておられる。


 オーブ公女殿下は、己の足で立ち、国の代表としてあの場に在られました。


 ……おふたりの献花に、真の意味が宿ったのだと、私も信じております」




 アカシアは、ふと目を伏せるようにして笑った。




 「ならば、あの子と並び立つことを誇りに思うべきでしょうね。


 ……けれど、白花だけでは平和は続きません。


 祈りだけでは、剣を止められない。


 だからこそ――忘れてはならないのでしょう。死者の重みを」




 彼女の横顔に、春の陽が淡く差し込んでいた。




 クラウスは、黙ってその言葉を受け止める。


 数多の戦場を駆けてきた彼にとって、その声は、何よりも確かな真理のように響いた。




 やがて、貴賓室の前にたどり着く。




 アカシアが扉に手をかける寸前、クラウスは低く一礼した。




 「本日は……心より、感謝申し上げます」




 アカシアはその言葉に返礼することなく、ただ、静かに微笑むと扉の内側へと消えていった。

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