絵描きのキャンバス
そこにいた という証を刻みたくて
「僕はね、絵が描けないんだよ」
青年は、窓の向こうに広がる、濃紺の中にまたたく光に語りかけた。けれどもそれは返事を返すことはない。
青年はキャンバスに向かった。そこには何も描かれてはいない。
「――――――ふぅん、お兄さん絵描きなんだ」
突然部屋の中から声がした。青年はびっくりしてキョロキョロとうすぐらい部屋の中に視線をやった。
「あはは、どこを見ているの? こっちだよ」
ふと後ろを振り返ると、そこにいたのは十歳ほどの少年だった。青年はポカーンとして、君はだれ? と尋ねた。すると少年はきょとん、としたあと大口あけて笑い出したものだから、青年はますます困ってしまった。
「ああ、ごめんねお兄さん。あんまり普通とはかけ離れた反応だったから、つい」
「はぁ……。それで、君は……?」
すると少年はすっと窓の外を指差した。
「え?」
青年がその指先を追うと、そこには夜空に浮かんだ黄金の存在。
「……ぼくはあそこにいるよ。さっきお兄さんが話しかけてくれたでしょ?」
「…………」
「あはは驚いてる。ぼくさ、あんなんだから話しかけてくれるような友達いないんだよね。でもお兄さんが話しかけてくれたから嬉しくて」
少年はにこっと笑って「ついお兄さんの目の前に現れちゃった」といった。
「えぇと。君は、空ってこと?」
「ちがうちがう。えぇと、人間のことばで……ホシ、だったかな? ほら、ひとつだけ青白いのがあるでしょ? あれがぼく。」
青年はなんだか現実味がないなあなどとぼんやり思った。
「ぼくさ、あんまり話しかけてくれる人いないんだ。みんな月ばかり見てる。ぼくだってちいさいけれど空にいるのに。ひとくくりにされちゃうの。だからお兄さんが話しかけてくれて嬉しかった」
今夜は月が出ていない。そのかわり、ちいさな星たちが空に見えた。
「ね、ね、お兄さんは絵描きなんでしょ?」
よいしょ、とベッドの上にすわった少年が瞳をきらきらさせて言う。青年がそうだ、というと、さらにきらきらさせて、「ね、ね、お願いがあるんだ」といった。
「お願い?」
「うん! あのね、ぼくを描いてくれない?」
それは青年にとって予想もしなかった言葉だった。少年の瞳はこれでもかというほどにきらきらしていて、青年は何と返したらいいかわからず戸惑った。
「君、て。星をキャンバスに描くの?」
「そうだよ! ぼくだけじゃなくて仲間も描いてくれるともっと嬉しいな」
「でも……僕、絵が描けないんだ……。さっきも言ったでしょ?」
しゅんとする青年を見て、少年はベッドを飛び降りると青年の前まで歩いていき、目の前にあった椅子に座った。
「ねぇ、お兄さんは絵が描けないのに絵描きになったの? どうして?」
「……どうしてかな。わからない」
「絵が下手なの?」
「……それはないと思う。自分で自覚するほどの下手さなら絵描きになんてならなかっただろうし……。ただ……僕には見えてしまうんだ」
「?」
「……絵を描こうとおもって絵筆をにぎって、被写体を目にした瞬間。いろんなものが渦をまいて僕の脳に流れ込んでくる……。それがとてもいいことならいいんだけれど……。恐怖を感じるものも多くてね……。それからというもの、僕は絵を描けなくなった。風景ならどうだろうと思ったけれど、風景こそいろいろなものがさまよっているんだ。そこに暮らしている人々の思念とかが留まっている」
青年は絵筆をもてあそびながら、どこかぼーっとしたまま窓の外を見ていた。その目には一体何が映っているのだろう。少年がしばらく青年を見ていると、ふとその視線に気づいたらしい青年が少年を見て弱弱しく笑った。
「でも、やっぱりこうしてキャンバスを目の前にして、絵筆をにぎっていないとなんだかおちつかなくってね。キャンバスは真っ白なんだけど、色を載せる気にはならないし……」
「…………」
「ごめんね、こんな話で。さぁお茶をいれよう」
青年が椅子から立ち上がり、台所にこもる。そしてカップとポットをもってもどってくる。ランプに灯りをともすと部屋は明るくなった。
「この街にも思念が留まっているの?」
「いのちあるものが住まう場所にはどこにでも。僕は人一倍…、いや、ひとが感じることのないものまで感じてしまうから深く見ようとは思わない。ぼんやり眺めるくらいがちょうどいいんだ」
「ふぅん……。ぼくを見ても描けそうにない?」
「さぁね……どうだろう……。いつからか僕はただこうしてキャンバスを目の前にして絵筆を握るだけでよくなってしまった。それ以上のことを考えなくなった。描きたいものがないんだ。でもそれでいい。この先もそれでいいんだ……」
ふと寂しそうに目を伏せる青年。しかし少年はなぜかちょっと怒った表情になった。
「描いてみなければわからないじゃない。何度でも描いてみるべきだ。これまでが描けなかったからといって今も描けないとは限らないでしょ?」
「……君はどうして自分を描いてくれというんだい?」
青年が少年をじっと見ると、少年は胸をはって答えた。
「描いてほしいからさ! ぼくはお兄さんの目にどう映っているのかとっても知りたい!」
さっきまでの怒った表情が一転し、今度は実に晴れやかな笑顔になった。答えになっているのがどうか難しいところではあるが、青年はころころと変わる少年の表情を黙って見ていた。
「君は、僕よりもずっと人間らしいね」
ちいさく笑みをこぼし、青年はティーカップに口をつける。
「ぼく人間に生まれたかったな。いつも空から見ていることしかできないんだ。人間じゃないとしても、せめて太陽か月だったらよかった」
しゅん、と沈む少年。自分の存在はあまりにも薄いから、ほんとうに寂しげにいう。
「……僕は、星のほうが好きだよ」
はじかれたように少年が顔をあげる。青年は自分なりに笑って、月や太陽よりもね、と付け足した。少年はとたんに泣きそうな顔になり、だがしかしとっても嬉しそうに笑った。
「…………。わかった。いいよ、君を描いてあげる」
ぽそりと呟くようにいった青年に少年は目をまるくした。青年は再び空を見た。しかし今度はその視線は青白く光る星に注がれていた。
「……。どうしたんだい? 描くよっていっているんだよ。君を」
少年の目には少し涙があったかもしれない。けれど青年はそれを見ないように空ばかりを眺めていた。
少年が青年の前に現れてから数日が経っていた。あれから少年は夜になると青年の部屋に遊びにきていた。遊びといってもおしゃべりをする程度である。少年は自分が今日何を見たか、なにを思ったかなどを話して、青年は絵筆を手にキャンバスに向かいながらその話に耳を傾けていた。少年はこれまでに自分がいろんなものを見ていろんなことを思ってもそれを伝える相手がいなかったから、青年を目の前にしても彼の話が途切れることはなかった。まるで記憶の宝庫だな、と青年が笑うと少年も笑った。そんな日々を繰り返していたある日の夜。少年がいつものように部屋に現れた。けれど今日はいつもよりも様子がおかしい。
「やぁ。こんばんは。顔色が優れないみたいだけれど、どうかした?」
「こんばんは、お兄さん。あのね、ぼく当分ここに遊びにこれないんだ。人型になるのってけっこう大変でさ。これからはお空でちょっとおとなしくしているよ」
えへへ、と力なく笑う少年に、青年はどことなく不安をおぼえた。けれど、確かにもともと人間ではない彼が人型になるためにエネルギーを使っているというのは容易に納得できることだったので、わかった、とひとこと返した。
「絵はもうすぐ完成するよ。小さい規模だし、明後日には仕上がるだろう」
「わぁ、楽しみだなー。ぼく、がんばって輝くからね。お兄さんにぼくの光が届くようにがんばるからね」
にっこりと笑った少年は空に帰っていった。
翌日からは少年のいない部屋でキャンバスに向かっていた。いつもなら自分の見てきたことを楽しそうに話す少年が今はいない。けれど空をみあげるといちだんと輝きを増した青白い光がある。青年はそこに少年がいるんだと考えながら筆を動かした。けれど今日はなぜかもの寂しさをおぼえた。あの青白い光を見つめれば見つめるほど、青年はどうしようもなく切ない気持ちになるのだった。
いよいよ今夜で絵は完成するだろう。青年がキャンバスの前の椅子にすわり、絵筆を持ち最後の仕上げをしようと空を見たとき。なぜか青年の胸が打ち抜かれたようにかたまった。夕べも感じたものが今夜も感じられる。それどころかいちだんと切なさが増している。不安になる気持ちをおさえながら震えそうになる手で筆を運んだ。あと少し、もう少しで完成する。ぼくを描いて! と瞳をきらきらさせていたあの少年の絵が出来上がる。仕上げのブルーホワイトの光を入れたとき、青年の目からはひとしずくの涙がこぼれおちた。
――そうか……。そういうことだったんだ。君は……―――
青年は絵筆を握り締めたまま完成した絵を空に向けて見せた。
「少年、見ているかい? 君の絵だよ……。僕の目に映る君の姿だよ……」
青白い光がちかちかとまたたいた。
キャンバスは一晩中空に向かっていた。青年はベッドではなく、キャンバスの前の椅子の背もたれにもたれかかるように眠った。朝がきても青年はそこを動く気になれずに、ろくな食事もとらず、ただぼんやりとしていた。目を閉じていると少年の笑い声やこどものような笑顔が浮かぶ。そうしてまた夜がやってきた。けれどいつもそこにあったはずの青白い光は、今日はなかった。けれど青年は何もかもを理解しているかのように寂しげに微笑んだ。
「……とうぶん、じゃなかったのかい……」
そう呟いたあとはただ静かにまぶたを伏せた……。
~おわり~
ありがとうございました