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極寒の隔たり

作者: 赤坂九丁目

氷の惑星での調査が、最後の仕事になるとジム・アンダーソンは覚悟していた。五十八歳、三十年の宇宙調査経験を持つ天体地質学者として、これが退職前の最後の現場となる。


クアドラント・ファイブ探査船「サンダー」は、無人観測機が大気中の特異なメタン濃度を検出したこの星に、詳細な調査のため降り立った。地表温度マイナス百八十度。厚さ数キロと推定される氷の地殻の下に、何かが存在している可能性を示すデータだった。


「メタンの組成分析、完了しました」


観測室の主任である若手科学者のキャロル・ウィンターズが、モニターに映し出された数値の列を指さした。


「生物活動由来のメタンとしては、同位体比が正常範囲を大きく逸脱しています。でも、火山活動由来としても説明がつきません」


「地球型生命の基準で判断するのは早計だな」


ジムは、データを見ながら考え込んだ。この星の表面重力は地球の約二倍。大気は窒素とメタンを主成分とし、僅かな水素も検出されている。氷の地殻の下には液体のメタンの海が広がっているという仮説が有力だった。


「クライオボットの準備は?」


「あと二時間で完了します。地殻の厚さを考慮して、出力を三十パーセント増強しました」


クライオボットは、高出力レーザーで氷を溶かしながら降下していく探査機だ。直径わずか十センチメートルのカプセルに、様々なセンサーが詰め込まれている。


「了解。私も最終チェックに立ち会おう」


管制室に向かう途中、ジムは船外の光景に目を奪われた。二重の薄環に囲まれた巨大なガス惑星が、地平線上にぼんやりと浮かんでいた。この氷の星は、その第四衛星だ。


クライオボットの打ち込みは予定通り実施された。レーザーで開けられた穴は、すぐに再び氷結するため、ケーブルによる通信は不可能だ。全てのデータは一定間隔で超高出力電磁波パルスとして送信される仕組みになっている。


「降下速度、予定通りです」


管制室のモニターには、クライオボットからのテレメトリーデータが次々と表示されていく。深度計は着実に数字を更新していった。


降下開始から六時間が経過した頃、異変が起きた。


「急激な温度上昇を検出!」


キャロルの声が、緊張を帯びていた。


「深度三千八百メートルで、周囲の温度がプラス二十度まで上昇。さらに上昇中です」


「レーザー出力を確認」


「レーザーは正常運転中です。これは外部からの熱源です」


その時、クライオボットからの信号が突然途絶えた。


「信号喪失!最後の受信データでは温度は五十度まで上昇していました」


静寂が管制室を支配した。誰もが、これが単なる機械の故障ではないことを直感的に理解していた。


「全センサーを最大感度に」


ジムの指示で、船のあらゆる観測機器が氷の地殻に向けられた。


それは、十分後に始まった。


最初は微弱な振動だった。地震計が、通常のノイズレベルを超える振動を記録し始めた。その振幅は徐々に大きくなっていき、やがて体で感じられるようになった。


「電磁波パルスを検出!」


通信機器が、規則的なパルス信号を捉えた。それは明らかに人工的なパターンを持っていた。


「波形分析を」


画面に表示された波形は、単純な数列のように見えた。二進数に変換すると、最初の百個の素数が並んでいた。


「これは...」


言葉を探しているその時、新たな振動が始まった。今度は船全体を揺るがすような大きな揺れだ。


「重力異常を検出!表面重力が局所的に変動しています」


観測データは、彼らの目の前で起きている現象を明確に示していた。氷の地殻の下で、何かが動いていた。


突然、轟音が響き、地表が隆起し始めた。直径約百メートルの円形の領域が、まるでドームのように持ち上がっていく。氷は砕け、蒸発し、その中から何かが姿を現した。


「これは...」


言葉を失うような光景だった。現れたのは、完全な幾何学的形状を持つ物体だった。全体として正八面体に近い形状を持ち、表面は無数の小さな突起で覆われていた。サイズは高さ約五十メートル。表面は暗い青銅のような色をしていたが、場所によって色が変化しているように見えた。


「あれは宇宙船?」


誰かがつぶやいた問いに、ジムは首を振った。


「違う。あれは...彼らそのものだ」


物体の表面で、波紋のような模様が広がった。突起の一つ一つが、まるで生きているかのように動いていた。


新たな電磁波信号が届いた。今度は画像データだった。それは、惑星系の図だった。太陽系の八つの惑星が、正確な軌道とスケールで描かれていた。そして、それに続いて、別の星系の図が送られてきた。十二個の天体が、二重星の周りを公転している系だ。


「彼らの母星系を教えてくれているんだ」


ジムの声は、興奮と畏敬の念に震えていた。


続いて送られてきたのは、もっと複雑なデータだった。化学式のように見えるものや、分子構造を示すような図形が次々と表示された。


「これは...彼らの生物学的な情報?」


キャロルが画面に見入りながら言った。


「そうだ。彼らは、自分たちが何者であるかを教えてくれている」


データは、彼らの体が主にケイ素と窒素の化合物で構成されていることを示していた。常温では固体として存在し、高温になると流動性を持つ。そして、メタンを触媒的に分解することでエネルギーを得ている。地球型生命とは全く異なる、しかし同じように自己組織化と自己複製が可能な生命体だった。


正八面体の物体―生命体は、さらに新しい信号を送ってきた。今度は、時間を表すような図形だった。彼らの母星系までの距離と、光速での移動時間を示している。


「七十二年...」


ジムは呟いた。彼らは、自分たちが再び来ることを告げていた。しかし、それは人類の一生に匹敵する時間の後になる。


最後の信号は、単純な数学的な証明だった。フェルマーの最終定理の別証明。彼らは、これを知的生命としての証明として残したのだ。


そして、正八面体の生命体は、突然の光とともに消失した。残されたのは、大きな氷の窪みと、莫大な量のデータだけだった。


「まるで...テストを受けているようだった」


キャロルが、凍てついた窪みを見つめながら言った。


「そうかもしれない。彼らは、我々が知的生命として成長しているかどうかを確かめに来たのかもしれない。そして、次の接触のための種を蒔いていったんだ」


ジムは、モニターに表示された最後の数式を見つめた。七十二年後。その時、人類は彼らとの本格的な対話の準備ができているだろうか。


「次は若い世代の仕事になるな」


ジムはそう言って、わずかに微笑んだ。これは最後の仕事として、これ以上のものはないだろう。人類に与えられた宿題。それは、七十二年という時間をかけて解かなければならない問題だった。


管制室の画面には、彼らが残していった莫大なデータが、まだ延々と流れ続けていた。解読に、どれほどの時間がかかるだろうか。しかし、それは始まりに過ぎない。本当の対話は、まだ先のことなのだ。

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