瀬尾
女学校から帰って来ると、瀬尾坊ちゃんのお相手をするのが朱音の役割であった。父親代わりである狐堂家当主、瑛月は出入りが激しいので子供に構ってやる余裕などないのである。
瀬尾はおとなしいお子ではあったが、新入りの朱音に威張ってみせたりするのを好んだ。朱音はこの広く迷いやすい屋敷をひとりで歩くことなど到底出来ないと話すと、瀬尾が「じゃあぼくが案内してあげる」と意気込んだのであった。
地下一階にある撞球場、酒などを貯蔵している倉庫などから始まり一階の応接間、食堂に洗濯室、女中や下男専用の階段まで瀬尾は屋敷のことを知り尽くしていた。子供心に冒険心などがあったのか、複雑な道行も頭の中にすっかり入っているようで得意満面に朱音を案内しては驚かせたのだった。
「ねえ瀬尾くん。このお部屋はなあに」
ただ二階のある部屋のところまで来ると、急に瀬尾は口を噤んで「知らない」とそっぽを向いてしまった。その反応がめずらしくもあったのでどうしたものかと思っていると、くるりと向きを変えて「ぼく飽きてしまった」と廊下を引き返してひとり自分の部屋へと駆けこんで行ってしまった。その場にひとり残された朱音は好奇心から、その扉へと足を進めた。
どうやら鍵がかかっているらしくドアノブをひねってはみてもうんともすんともしない。こんこん、と試しにドアをノックしてみると、まるで反響のようにこんこんとおなじ音色が響いてきたものだから朱音は仰天してしまった。
もしかしてこの中には誰か閉じ込められているのかしら――そんなふうに思って「ねえ」と声を上げかけたところで、背後から肩を掴まれた。
「朱音」
「っ」
気配がまるで感じなかったのでぎょっとしてしまったが、振り返るとそこには瑛月が立っていた。その姿は薄暗い廊下に溶け込む影のようであった。
「この部屋に入ってはいけないよ」
「え……ええ、かしこまりました」
戸惑いながらも頷くと、ほっとしたように瑛月は息を吐いた。その反応を不思議に思っていると瑛月は「どれ、私がお茶を淹れてみせようか」などと言いながら朱音の背を抱いて歩き始めたのだった。
いつも忙しそうにしている印象があるのだが、今日は幾らか余裕があるらしい。
まるで恋人のように肩を抱いて階下まで連れて行くと、愉しそうに鼻歌を口ずさみながら台所の方へと消えていった。
女中がやいのやいの騒いでいる声が居間までも響いて来る。「旦那様そうじゃありません、お湯はこうしないと沸かせませんよ」などと口酸っぱく注意されている声でそのさまが想像できて朱音は思わず笑ってしまった。
「朱音ちゃん」
するとどこからともなく現れた瀬尾が朱音の膝の前でぺたんと座り込んでいた。
「どうしたの瀬尾くん……あ、瀬尾くんもお茶をお飲みになるわよね。わたし瑛月さまにお願いをしてきましょうね」
瀬尾はいやいやをするように首を横に振った。
どうしたのだろうか、と首を傾げていると少年は団栗のようなつやつやの瞳を見開いて、朱音を見つめていた。まるで吸い込まれてしまいそうだわ、と思っていたところで「こら瀬尾」と瑛月の声が矢のように飛んで来た。
「朱音さんを怖がらせてはいけない」
「でも」
「駄目なものは駄目だ」
「いいえ、わたし怖くなんてありません」
本音で言ったつもりだったのだが首の裏がじっとりと汗ばんでいることにそのとき気が付いた。なぜかしら、と不思議に思っていると瑛月はことりとテーブルの上にお茶を置いた。
知らせに行かなかったのに、瀬尾の分もお茶は用意されていた。




