第一章
パシっと激しい音が頬に走った。ひりつく痛みが追いかけるように襲ってくる。畳の上によろけて転んで手を突くと、その手の上を真っ白な足袋を履いた爪先がぎゅうぎゅうと踏みつけてきた。
「まったく、使えない子。まともに掃除ぐらい出来ないの?」
「申し訳、ございません……」
唇をぎゅっと噛みしめて朱音は俯いた。
叔母が満足するまではそのままでいなくてはいけない。一度、首が痛くなってきて首を動かそうとしたところ頭を手で押さえつけて畳に額を擦りつけさせられたのだ。
「本当に気に入らないわ。どうしてうちがお前の面倒を見てやらないとならないのかしら。それなのに――本当にずうずうしいわね、女学校に通いたいだなんて」
「っ、申し訳……ございませ……ん!」
ぎり、と体重をかけられたので手指がいっそう痺れた。叔母は美しいひとだがその性根は残酷だった。叔父は続けられる虐待に無関心で、見て見ぬふりを決め込んでいる。いたぶることにも飽きたのか、すたすたと傍らを歩き去る気配が遠ざかるのを待って朱音は顔を上げた。
その表情には疲労が滲んでいる。
それもそのはず、叔父夫婦の家に引き取られた朱音は女中の真似事をさせられていたのである。朝は誰よりも早く起きて朝餉の支度をし、ひととおり掃除を済ませなければ女学校へと登校することも許されなかった。
本当は退学をさせるつもりだったようなのだが、婚約するでもなく途中で辞めさせるのは外聞が悪いだろうという叔父の判断からしばらくのあいだ朱音は女学校への通学を許されていた。
掃除用の着物から通学用の薄紫の袴に着替えると、朱音は誰にも聞こえない小さな声で「いってきます」と呟いて玄関を後にした。
桜華国帝都――ではなく、そこからさらに西に在る央都・凪矢の地は春爛漫、桜の花盛りであった。満開の桜並木の下を歩いていると、嬉しいような切ないような、複雑な気持ちで胸がいっぱいになる。
ひらひらと舞い散る桜の花弁を結い上げた髪に付けながら少女たちが焦茶色の門の中へと吸い込まれていく。そのなかのひとりに紛れこんで朱音も永泉女学校の門をくぐった。
すると「おはよ」と背後からぽんとつよく背中を叩かれて思わず朱音は咳き込んだ。慌てて振り返り涙目で睨む。
「もう、環さん。吃驚するじゃない」
「ごめんごめん。ふふ、背中が曲がっていてよ朱音さん」
けろりとした表情で言ってのけたのは同級生の坂口環であった。頬のあたりでばっさりと断った黒髪は襟足が隠れる程度に短くなっている。凛とした断髪姿はこの永泉女学校で環のみだ。
指摘されたのだから直さねばと朱音が背筋を伸ばし、きりっと表情筋に力を入れると環は噴き出した。どうやらやりすぎたらしい。まじめなんだから、と呆れている。
「最近多いけれど優等生の朱音が、予鈴が鳴る直前にご登校なんて。もしかしてまた叔母様?」
「……ええ」
表情を曇らせた朱音を見て、環はため息を吐いた。
「登季子さまに相談したら? あの方なら力になってくれるわ」
「でもご迷惑をかけるのは」
登季子というのは朱音や環よりも一学年先輩で、たおやかな美人である。
すっと切れ長の瞳にぷっくりとした唇、すらりと長い手足の登季子は躑躅丘少女歌劇団の一員としてステージに立っていてもなんらおかしくないほどに瑞々しい美しさを誇っていた。
「いいじゃない。登季子さまは朱音さんのお姉さまなんだから」
一学年上の福宮登季子は朱音のお姉さまである。
といっても朱音はひとりっ子なので実際の姉妹ではない。永泉女学校において「お姉さま」とは後輩生徒を教え導いてくれる親しい上級生のことを示している。昨年の春に下駄箱に秘密のお手紙を入れていただいた日から登季子との間には親友の環とはまた異なる関係が築かれていた。
『朱音さん、なんでもお話ししてくれていいのよ』
登季子はおそらくそういうだろうが、いかにお姉さまとはいえど一つ年上の女学生である。
朱音が抱えた問題を解決できるとは思えない。そんなふうに考えてしまって、彼女を前にすると朱音は無口になってしまうのだった。お姉さまに余計な荷物を背負わせるのも憚れられる。
何より――叔父叔母からつらく当たられているというこの惨めな状況を、大好きなお姉さまに打ち明けるのが朱音は恥ずかしかった。
上履きに履き替えるときに、下駄箱の中に手を突っ込むとかさりとやわらかな感触が指に触れた。取り出してみれば、そこにあったのは真白の封筒に包まれたお手紙であった。差出人は開けて見なくてもわかったが、そこには「今日のお昼ごはんをご一緒しましょうね」という登季子の言葉が綴られていたのだった。
お昼休みになり、朱音が廊下を早歩きで進み、突き当りを左に曲がった。登季子はいつものように空き教室で待っていた。お手紙に書いてなくてもお姉さまが朱音を呼び出す場所は決まっていた。
「あら、朱音さん。ごきげんよう」
登季子の声は鈴の音のように麗しい。結い上げた束髪はほつれることなくきちっとリボンでまとめられている。朱音は三つ編みにするのがやっとという不器用ぶりだから、登季子の姿かたちはまさに乙女の憧れといったものであった。
「お弁当、今日もそれだけ?」
「はい……」
朝餉の支度のついでに用意したおむすびひとつを包みから取り出した朱音を見て、登季子さまは顔をしかめた。ぎっしりとおかずが詰まったお弁当箱をずい、と朱音のほうに寄越してくる。
「いけません、お姉さま」
「多めに用意してもらっているの。朱音さんに手伝ってもらわないと、食べきれないわ」
ほぼ毎日のように登季子がお昼を誘ってくれるのは朱音を憐れんでのことなのだろう。やはり申し訳なさと共に募る羞恥で頬がかあっと熱くなる。「相談したら」と環に言われたことを思い出しながらも胸の中で凝るばかりだった。
「あのね朱音さん」
登季子が申し訳なさそうな声で言った。
「実は来月から……もうわたくしあなたとお昼をご一緒出来なくなると思うの」
その瞬間、どきりと朱音の胸が鳴った。
「そう、なのですか……優等生のお姉さまですもの。お勉強もお忙しいのでしょうね」
朱音がやっとの思いで言葉を紡ぐと、登季子はふるふると首を横に振った。違うのよ、と登季子は箸を止めて朱音を見遣る。
「わたくし、お嫁に行くことが決まったのよ」
「お姉さまが……お嫁に、ですか?」
登季子はいつまでも朱音だけの「お姉さま」だ。
そんなふうに思っていただけに(そんなはずがないのに)、登季子の告白に朱音は幻想を打ち砕かれた想いだった。かりそめの姉妹は永泉女学校に在学するあいだだけで成立する儚い関係で、これから先の人生に深くかかわることはない。
「……退学、なさるのですね」
「ええ、卒業まで待っていられないそうなの……ねえ、お嫁に行ってもわたくし朱音さんにきっとお手紙を書くわ」
「嬉しいです。おめでとうございます、お姉さま」
喉に痞えた一言を押し出すようにして言えば、登季子はぎこちなく微笑んだ。よほど朱音はひどい顔をしているのだろう。唯一の頼りの綱が、ふつりと断ち切れたような感覚は長く尾を引いて朱音に影響を与え続けたのだった。
環からの甘味処への寄り道の誘いを断り、急いで朱音は下校した。帰宅すると待っていたのは家事の山である。すぐさま普段着に着替えると他の女中たちの手伝いをしながら、朱音は雑巾がけをし、夕餉の用意を手伝った。
この邸はもともと、朱音と朱音の父がふたりで済んでいた家だった。いまは住み込みの女中が住んでいた部屋に追いやられたが、二階の隅に或るのが朱音が使っていた部屋で、いまは従妹の雪子のものとなっている。
雪子も朱音とおなじく永泉女学校に通っているが、大方寄り道でもしているのだろう。日暮れ近くになったいまもまだ帰ってきてはいなかった。
ほんのわずかに開いたままの襖に手をかけ、開くとぐちゃぐちゃに着物が放り投げられた床が見えた。畳がほんのわずかしか見えない。その放り投げられた着物というのが、朱音の母の形見の品だった。
古臭い、と鋏を入れて端切れにでもされそうになっているのを必死で止めて「どうか返して」と訴えた朱音が面白かったのか――雪子の言うことをなんでも聞いたら返してあげると交換条件を出されていた。
それ以来、朱音は雪子の奴隷だった。
朝は身支度を整えさせられ、髪を結い上げるのを手伝うように要求される。ただ女学校の中では決して話しかけてくれるな、と言い置かれていたから唯一学校の中だけが朱音にとって安らげる場所ではあった。
どうせどれが母の着物なのか、雪子は忘れてしまっただろう。その証拠に床に放りっぱなしだ。さっと部屋の中に入って取ってしまえば気づかれることはあるまい。する、と雪子のモノとなった部屋に入り、目当ての着物を引っ掴んだ。心臓がやけにうるさく鳴っている。そのとき、後ろから何者かが朱音の腕を掴んだ。
「泥棒」
「っ」
ねばっこい男の声音が降り注ぎ、産毛がちりちりと騒いだ。
振り返れば従兄の太一郎がにやにやしながら朱音を見下ろしていた。太一郎は高等学校に通っているがあまり成績がよくなく遊んでばかりいると叔父夫婦に叱られているのをよく見かけた。でも長男可愛さに厳しくできないため、結局太一郎の「遊び」はいまも続いているようだった。
「……これは、本来わたしの母の着物で」
馬鹿だな、と鼻で笑いながら太一郎は言った。
「うちにあるものすべてが俺たち家族のものだ。お前のような孤児が所有するものはない」
「嫌っ、離して」
太一郎の腕が朱音の帯に絡みついた。拒もうともがくほどに着物が乱されていく。
「いい加減理解しろよ――お前自身だって、お前のモノではないんだよ」
太一郎の言葉は朱音の頭をがつんと横殴りにした。
そしてその瞬間、もうどうでもいいやという諦念より先にあらわれたのは朱音の生来の勝気な部分だった。このままでなるものか、どうにかしてこの悪鬼のような男の手から逃れなければ――。首を腕で締められ、気を失いそうなとき朱音その太く日に焼けた腕に思いっきり齧りついた。
ぎゃあという悲鳴が上がり、朱音は急いで母の形見を引っ掴むと悶絶する太一郎を残して屋敷を転がるようにして抜け出した。
そとはぽつりぽつりと雨が降り出して、傘を持っていなかった朱音はすぐに濡れ鼠になってしまった。とぼとぼ薄汚れた着物で歩く朱音の姿を見て、央都・凪矢の街行くひとたちは眉を顰めるばかりで手を差し伸べるようなことはなかった。
朱音はぼんやりとした頭のままで雨に打たれ、女学校まで続く桜並木の道をあるいていた。永泉女学院近くまで歩いてきても時間が時間なだけにもう生徒たちはどこにも見当たらない。正直に言って、飛び出してきたはいいものの、これからどうするかなんてことは何一つ考えてはいなかった。土間に額をこすりつけて謝罪でもすれば、またあの家の敷居をまたぐことは可能かもしれない。
だが、あの屋敷において朱音は自分自身さえも所有できないのだという。だとしたら、行方も知らぬ道をただひとり歩いていた方が幾分かマシなようにも思えたのだった。
友人の環にも、お姉さまにもご迷惑をかけるわけにはいかないわ。雨に打たれてぼやけていく思考の中でも朱音はそんなことを考えた。むしろいま、彼女たちのことを思い出すのは甘えではないかしら。どこかで助けて、誰か。と、誰でもいいからみっともなく縋りつきたいという気持ちがあるのではないかしら。
そのときじじじ、と街灯が青く明滅した。
ざあ、という雨音に交じる異音。
それが重なり合って耳が痺れた。ざあ、じじじ、ざあ、じじじ。
蒼い闇の中から「朱音さん」と呼ぶ声が聞こえた。それはどこかで聞いたことがあるような声音だった。甘く優しく穏やかで、夜そのもののように深い声。ふらふらと声がするほうに歩いていくと、朱音は何者かの腕に抱き留められた。
「申し訳、ございません……」
大きな傘を差したそのひとに謝罪の言葉を口にしながらも、身体から力が抜けて身じろぎひとつできなかった。
「いいんだ、大丈夫だよ。ただ君は頷くだけで良い」
男の滑らかな声音が響く。
「私のところに来てくれるね――朱音」
ざあああ、と雨が降りしきる中、朱音は抱きとめる腕の優しさに縋りつくように首をゆっくりと縦に動かし、頷いていた。
薄明の中で朱音は目が醒めた。ゆっくりと身体を起こしてきょろきょろとあたりを見回す。狭い女中部屋ではないどころか広々としたこの部屋は見慣れない洋室で、磨き抜かれた飴色の調度品が並んでいた。
「お目覚めですか?」
部屋の中にひっそりとたたずむ女の姿に気付き、朱音はびくっとした。薄闇に溶け込むような黒の洋装に白のエプロンをつけたその女は静かに「朱音さま」と呼んだ。
「旦那様がお呼びです」
促されるがまま着替えをして、彼女の後について部屋を出た。
赤い絨毯が敷かれた長い廊下を歩いているとふわふわ雲の上を歩いているような不思議な心地がした。右に曲がったり左に曲がったりまるで迷宮のような感じだわ、と朱音は思った。自分ひとりだけでは先ほどまでいた部屋にまで戻れまい。
こちらへ、と案内されたのは応接室のようだった。
二人掛けの長椅子に座るように促され、腰を下ろすと正面にはどこかで見たような長身痩躯の男が漆黒の軍服姿で腰を下ろしていた。いかにも上等そうな洋風の調度品が並ぶ中で、その男の視線はまっすぐに朱音の瞳を射貫いている。朱音はどぎまぎしながら俯いた。
「お茶の用意をお願いできるかな」
天、と朱音の背後に控えていた女に呼びかけなければ反射的に立ち上がっていたことだろう。はい、と無機質な声音で返事をした天と呼ばれた女が部屋を出て行くと、男は「私のことを憶えているかい」と尋ねてきた。突然のことでなにも言えずにいると、無理もないかと名乗りを上げた。
「おはよう、お嬢さん。よく眠れたかな?」
朱音がええ、と小さな声でつぶやくと男は楽しそうに笑った。
「私の名前はね、狐堂。狐堂瑛月というんだ」
「あ……! 狐と書いて、こどう、と」
「そうだ。通夜の晩以来だね、朱音さん」
瑛月は茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。朱音は目覚めたこの場所が知っている方のお宅だったことにひとまず安堵した。自分の身に何が起きたのか皆目見当がつかないでいたのである。
「昨夜、君が永泉女学校の門前で雨に打たれていたからつい、私の家まで連れ帰ってしまったんだ。風邪などは引いていないかい?」
「ええ、大丈夫です」
恥ずかしいやら情けないやらで朱音は頬を真っ赤に染めて俯いてしまった。すると「顔を上げて」と優しく促される。
「可愛い顔が台無しだ。もっとよく見せてごらん」
「狐堂様、お戯れを……」
「おや、冗談だと思われてしまったのか。残念だな」
などとくすくす笑いながら言うものだから、ますます朱音は頬を熱くしてしまうのだった。ちょうど女中の天がお茶を運んで来たものだから、この気まずさも幾らか解消されはした。
「ところで朱音さん。先日の件は考えてくれたかな」
「先日の件、と言いますと……あっ」
お嫁に来ないか、という彼の言葉が頭をよぎった。
勿論冗談なのだろうと思っていたのだが、にこにこしながら返事を待っている瑛月の姿を見ていると一抹の不安がよぎる。
「見たところ、君は行くところもないようだ。あんな雨の中ずぶ濡れで、ひとりきりで可哀想に……一体、何があったのか教えてくれないか」
瑛月の春の陽光のように穏やかな眼差しがかすかに剣呑さを帯びる。
「……実は」
口を開いたものの、朱音は途中でものを言うことが出来なくなってしまった。いままで自らの身の上に降りかかって来た出来事を語るにも、この美しいひとに呆れられてしまいやしないかと急に恐ろしくなってしまったのである。
女学校に通いはしているものの、家では女中同然の扱いを受け、虐待されていること。それに心の頼みとしていたお姉さまがご結婚されて、近いうちに自分の前からいなくなってしまうこと。それに……従兄に乱暴されかけ、形見の着物だけ抱いて家を飛び出してきたこと。どれも瑛月を呆れさせてしまうような話ばかりではないか。
ぶるぶる膝の上に置いた手を震わせた朱音を見遣って、瑛月は優しく微笑んだ。
「大丈夫……大体読めたからね。君が自分の口で説明する必要はない……本当に酷い目に遭ったんだね、朱音さん」
「狐堂さま……」
朱音は瑛月の言葉に思わず目頭が熱くなったが、ぎゅっと唇を噛んで耐え忍んだ。
「どうだろう、君さえよければこの屋敷から永泉女学校に通わないかい?」
「なんですって。そのようなご無理を狐堂さまにきいていただくわけには……」
恐縮しきって首を横に振った朱音に瑛月は「大丈夫、叔父様には私が話をつけてあげよう」と請け負う。でもそんな、ずうずうしい真似をしていいものなのだろうか。困惑した朱音の瞳を覗き込んで、瑛月は「君をお嫁に貰うんだから当然だろう」と、そう言ったのであった。
だがそれに大いに驚いたのは朱音だった。
「え、あのお話は本気でいらっしゃったのですか……?」
年上の男性が「お嫁に来ないか」等と言うのは社交辞令に他ならないと思い込んでいた。まさか瑛月が本気で言っていて、しかも憶えていたとは。
すると悲しそうに瑛月は眉を下げた。
「信用されていないみたいだね、私は。それもそうか――私のことを君は何も知らないのだもの」
「も、申し訳ございません」
結婚、ということが頭にはなかったわけではない。いずれは、とは思っていたのだが唐突に降ってわいたこの縁談を自分だけが了承するだけで完結するものではないだろう。唯一の親類とも言える叔父夫婦の了承も得なければならない……そんなことを考えると気重になってくる。
そのとき「大丈夫」と穏やかな声音で瑛月は言った。
「すべて私に任せてくれればいい」
「え……」
「それとも、私のことが気に入らない?」
ほんのすこし、瑛月が切なさを混ぜ込んだ言い方をしたので朱音は胸がぎゅうっと苦しくなってしまった。そういうわけでは、と痛む胸を押さえながらつぶやくのが朱音はやっとだった。
運ばれてきた紅茶は手を付けられないまま冷めていった。
天と呼ばれていた女中に先導されて最初寝かされていた洋室まで戻ると、不思議なことに朱音がいつも女学校に持って行っている風呂敷包み一式が揃えられていた。火熨斗がかけられた薄紫の袴に着替え――再び天に案内されて屋敷の外まで出れば、車が用意してあった。
「耀、朱音さまをお願いいたします」
天が、黒服の男に声を掛けると彼は帽子を片手に挨拶をした。
「どうも、お嬢さん。俺は耀ってもんだ、よろしくな」
「ええ、よろしくお願いします」
気安い感じだが悪い印象は受けない。頭を下げれば「朱音さまがそのような真似をする必要はありませんよ」と天が言った。
「耀は狐堂家の下男として働いています。力仕事など面倒なことはすべてこの者にお申し付けください」
「おい酷いな天よぉ、ひとを雑用係みたいに」
「雑用係でしょう、お認めなさい」
ちぇ、とつまらなそうに唇を尖らせた耀を見て、思わず朱音はふふと笑ってしまっていた。
「……耀、お前というやつは」
そのとき、瑛月が玄関の方から出てきて下男を睨んだ。
「私より先に朱音さんを笑わせるなんて」
「おいおい、旦那ぁ、そりゃないぜ。悋気もいい加減にしてくれよ」
一気に打ち解けた空気になった後、「気を付けて行っておいで」と瑛月に見送られ、車に乗り込んだのだった。
桜並木の手前で車から降りると、ゆったりとした足取りで朱音は永泉女学校までの通学路を歩いた。まだ登校時間には余裕があるので、女学生たちの姿はまばらである。
校庭を横切って下駄箱の前までたどり着くと、ガバレットに結い上げた束髪の後姿が目に入った。思わず柱の陰に隠れ、ぴんと伸びた背中の女学生が遠ざかるのを待ってから、朱音は編み上げの長靴を脱いで上履きに履き替えた。
案の定入っていた手紙には「お昼休み、いつもの場所で待っているわ」と綴られていた。
お昼休みになって廊下に出ると「朱音」と棘のある声が背後からかけられた。
振り向けば、顔を怒りで真っ赤に染めた従妹の雪子が立っていた。掴みかからん勢いで駆け寄ると「昨夜はどこに行っていたのよ、このふしだら女!」と大声で罵ったのだった。まあ、と廊下を歩いていた女学生たちが振り返りひそひそと言葉を交わしている。
「雪子さん、皆さまが見ていてよ」
「白々しいことを言わないでよ! いつも女学校の中では登季子さまの背中に隠れているくせに。わたしついに頭に来たわ、うちに厄介になっている孤児の身でずうずうしいにもほどがあってよ!」
声を張り上げ訴える声に「まあまあ落ち着きなよ」と教室から出てきた環が庇うように雪子との間に割って入ってくれた。
「廊下で言い合いなんて、通りがかった先生にでも見つかればはしたないと言われかねないわよ。君たちは家族なんだから少しは落ち着いたらどうなの」
「こんな女……家族ではないわ」
ふん、と言い捨てて雪子が去っていくのを見守ってから環が朱音の背を叩いた。
「何かあったみたいだけど……まあいいや、きちんとあとで教えなさいよ。お姉さまが待っているんでしょう?」
「ありがとう、環さん」
お礼を言って約束の空き教室に向かうと、登季子が心配そうな表情を浮かべて待っていた。
「何か騒ぎがあったようだけれど、大丈夫なの」
「はい、お姉さま」
ぎこちなく笑みを浮かべると、登季子はそれ以上追及せず、お弁当の包みを開き始めた。すると朱音が持参していた包みに目に留めた。
「あら、朱音さん。今日はお弁当を用意できたのね……あ、ごめんなさいね。嫌味のつもりじゃなかったのだけれど」
「いいんです」
朱音はどきどきしながらお弁当箱を開ける。ぎっしりとおかずが詰まったそれを眺めながら、わあ、と感嘆の息を吐いた。フワフワの卵焼きに梅干しを刻んで紫蘇と和えたごはん、佃煮……その他にも朱音が食べたことのないおかずが隙間なく入れられている。
「あらまあ」
朱音もだが登季子も驚いているようだった。いつも朱音が自分でむすんだ不格好な握り飯を持参していたのだから無理もないことである。
「登季子さま、いつも頂いているぶんわたしのお弁当もどうぞ召し上がってください」
「嬉しいわ。こういうのも素敵ね」
話に花を咲かせながら、朱音は登季子との昼食を過ごした。こんなふうに心穏やかに過ごすことが出来るのは父が亡くなって以来、朱音にとって初めてのことだった。
「お姉さまの、その……お相手の、婚約者の方はどのような方なのですか?」
ずうっと気になっていたことをようやく聞けた、とばかりに朱音が言うと「そうねえ」と登季子は宙を眺めながら答えた。
「冷たいひとだわ」
「え」
思いもよらぬ答えに朱音は言葉を失った。そのようすを見て登季子はからからと声をあげて笑った。
「不思議ね、朱音さんとこんな話をするようになるなんて」
「本当ですわね、わたしったらはしたない」
「そんなことないわよ。ふふ、勿論お見合いだし、自由恋愛ではないから……でも、いい方だとは思っているの。話し方はすこしきついのだけれど、本当は優しい方だと信じているわ」
「そうなのですね」
でも、と登季子は上目遣いで茶目っ気たっぷりに朱音を見上げた。
「私のお相手が気になるということは、朱音さん――もしかして意中の方が出来たのかしら。少し寂しいわね」
「いいえそんな、わたしそういうわけではありませんわ。お姉さまこそ。わたしを置いてお嫁に行ってしまうじゃありませんか」
「ふふ、それもそうね……お互い様ということかしら」
にっこりと笑い合う時間が久しぶりに感じて、ただそれも登季子がお嫁に行くまでの残りわずかなことだと思うと胸がきゅっと苦しくなるのだった。
放課後になると朝車を降りた場所に、耀が車を停めて待っていてくれた。小走りで駆け寄ると耀は目を細め、気にしなくていいのにと笑ったのだった。耀は愉快なひとであり、小粋な冗談を言っては朱音を笑わせた。屋敷までの時間はあっという間でどこの道を通ったのかもさっぱりわからぬほどだった。
狐堂の家に戻ると、瑛月が「おかえり」と出迎えてくれた。そして彼のすぐ隣には瑛月によく似た面差しの愛らしい少年が立っていた。六つか七つほどの年齢に見える彼は、じいっと朱音の姿を見つめている。
「朱音さん、紹介させてください」
「はい」
ずい、と少年の背を押して前に立たせると「ほら、瀬尾」瑛月は名乗るように促した。
「瀬尾……です」
「あ、わたしは朱音です。御坂朱音と言います」
ぺこりと頭を下げるとそれに倣うようにして瀬尾も頭を下げてみせた。それを見た朱音はこの子供が可愛くて仕方がなくなってしまった。
「瀬尾の母は早くに亡くなりまして……血の繋がりはありませんが、うちで僕の息子として引き取って育てているのです」
「まあ、そうでしたか」
朱音は話を聞いてこの子にますます親しみを覚えてしまったのだった。他人のようには思えない身の上である。
「朱音さん」
「はい」
瑛月は首をわずかに傾けながら言った。
「うちに住み込んで、この子の面倒を見てはくれませんか」
「わたしが、ですか」
朱音は開きかけた口を慌てて手で押さえふさいで表に出す驚きを最小限にした。この愛らしい坊ちゃんのお世話を、ということは家庭教師のようなことだろうか。でもまだ自分も学生の身であるし――などと考えていると、瑛月は「勿論、私の妻として住み込んでいただいても構わないのですが」と冗談を言う。さすがの朱音もこの屋敷に留まる理由を無理にでも作ろうとしているのだというのはわかった。
「瀬尾、おまえもお姉ちゃんがいてくれた方がいいよな」
「ぼくは……」
じっと朱音を見つめると、もじもじしたように瑛月の長い脚の後ろ側に隠れてしまったのである。その初々しくもいじらしいようすを見て朱音も意地を張るまいと心を決めたのであった。
「何卒、この家においていただきたく存じます」
「ええ、承知いたしました。歓迎しますよ、朱音さん」
ありがとうございます、と頭を深々と下げた朱音に瑛月はただし、と人差し指をちょっと立てて言ったのだった。
「私のことは瑛月、と名前で呼んでくれなきゃ嫌ですよ。他人行儀に『狐堂さま』だなどとおっしゃい、すぐに出て行ってもらいますからね」
「わかりました……その、瑛月、さま……」
恥じらいながらも朱音がその名を口にすると満足げに瑛月は頷いたのだった。