St(R)ay up late
――最悪。
その言葉が、耳にこびりついた。最悪期とは何が最悪で、どのように最悪になるのか、私には見当もつかない。男がそれについて詳しく話すかと思って待っていたが、あれ以上詳しいことは話さなかった。
――それに、またあの奇妙さが私に覆い被さった。ネメシスでの出来事。私の横に居た、考えていることを当てるのが上手い中年。言おうとしていたことは男が先んじて言ったことと一言一句相違がなかった。同じように当てられた。もしかしてあの中年が……いや、そんなことはあり得ないか。
「――間違いなく、最悪は来る。そして、アテネ・ユリウス。――君はもう一度ここに来ることになる」
男は一転、神妙な顔つきをして言った。顔を半分覆っているVRゴーグルの液晶がそれを示していた。
「嘘、嘘だ」
「――嘘じゃない。直ぐ来るんだ、録音放送が覆ることがあるかい?」
「それが正しくても、どうやって信じれば……? 顔も知らない男に、『近々不幸が訪れる』なんて言われてはいそうですか、って……」
「――そうかい。アドバイスをしている身として目の前でそう言われるのは少々残念だが……ま、信じたくないなら信じなければいい。話半分にでもしておきなよ」
男は手をひらひらさせて、不服そうに言った。
「もう私、部屋に戻りますから……ここから出してもらえますか?」
「――そうだね、そろそろ夜明けが来る、いい頃合いだ」
男はいつの間にか掛けていた回転椅子から立ち上がり、おもむろに指を鳴らした。
再び、蟲が這いずり回るようなあの気持ち悪さが襲ってきた。
一度体感したために、今度はもがき苦しむことなく、直立姿勢のまま立ち尽くしていた、そのところに男が声をかけた。
「――最悪期がいつ来るか……可哀想だから、少しネタバレしよう。『君にとっては明日の出来事だが……僕にとっては、昨日の出来事だ』」
「……待って、それ、どういう意味――」
「――もうお早うを言う時間だ、寝言を言うなら現実で。これは僕の夢だからね」
男が不敵な高笑いを挙げるのを導入に、私の意識は真っ黒な底なし沼に沈んでいくように、ずぶずぶと薄れて、やがて絶えた。
「おーい。おーーい。起きるの、じゃっ」
「ん……うぅ……っ、はっ?!」
飛び起きた。少しばかり、動悸がする。私はわけのわからないものに沈んでいったはずなのに、ベッドの上で掛け布団を蹴飛ばし、横になっていた。趣味の悪い夢だったのだ。そう思って部屋を見回すと……いや、あれは現実だ。床には男に振り下ろせなかったドライヤーが落ちている。
枕元には、少し目を赤くしたアミスが私の顔を覗いていた。ティッシュを敷き詰めた風呂桶を両手で支えている。
「……! 起きた……起きた……! 起きたのじゃあっ……!」
「わっ、い、痛いって……」
アミスは起き抜けの私に勢いよく抱きついてきた。私の胸元に顔を埋めて、泣きはらしている。
ただ眠っていただけで、何故こんなに――まるで、十年来生き別れていた兄弟姉妹と再会したかのような接し方だ。アミスには少々大袈裟なところがあると何となく分かっているが、これはあまりにもオーバー過ぎる。
「ねぇ、何があったの? ……痛っ?!」
「……ばか、心配掛けさせおって! ……ウヌは丸一日眠っておったのじゃ。朝から晩までうなされておって、ワシが起こしに行ったら蹴飛ばしてきよった。それに時々吐くもんじゃから、つきっきりでアテネのゲロの処理をじゃな……。いまのゲンコツは、その仕返しじゃ」
「ご、ごめん」
「もういい、オリエンテーションには復活できたんじゃ。寝ていた分頑張ってもらわんとな」
そう言って、アミスは私の枕元を後にし、部屋を出て行った。私はアミスの小ぶりな拳を落とされた頭頂部を押さえながら、思いを巡らせていた。
あれは、あの男は、事実だ。だとすれば、あの男が言った最悪期も――。
「ふんっ!」
ぱあん。
そういった音が、独りの寮部屋に鳴る。嫌な妄想が始まる前に、両頬を叩いてやった。こんなのではいけない。あの夜から一日飛んで、オリエンテーションの日は今日の朝9時に回ってきている。こんなこと、考えている場合ではない。あの男もいない。最悪期も来ない。そもそも、あの夢も存在しなかった。そう思うことにした。そう思うしか、今の私にはできなかった。
オリエンテーションはあの爆発事故があったのにも関わらず、予告通り空中都市・ネメシスで行われた。とはいえ元々予定されていた会場であるネメシスの中枢、C3地区はまだ復旧の目処が立たず、そこから離れたA2地区で、オリエンテーションは開始された。
まぁ……つまり、私達の昨日(アミスにとっては一昨日だろうな)の下見は、全く意味をなさなかったということだ。
特殊兵装科の一年一組全員が、部屋割りでバディを組み、所定の場所に散らばると、無線によるファラデー先生からルール説明が再度あり、呆気なく開始のベルが鳴った。クラスの皆もそれほど本気で取り組む空気ではないらしく、思いの外気抜けした。
アミスは比較的高いビルの屋上に陣取り、私はそのビル周辺の斥候、遊撃につく。
「もっかい聞くけど、射程距離はどこまで?」
『1㎞が最大、800m以内なら確実じゃ』
「了解」
無線を切る。アミスから1㎞以内なら私は安全だと言っていた。私はその半径1km以内を走り回って相手チームを誘導、見通しのいい屋外に引き出して来ればよい。こんなに楽なことはないな、とアミスに感謝しつつ、A2地区の道路を探索する。
A2地区は商業の場と住居が入り交じった地区のようで、一戸建て、アパートが建ち並ぶ中に、小売店が挟まっている。遠くにはノスタルジックさとチープさを感じる商店街が見えた。普段ならばある程度人で賑わっていそうだが、オリエンテーションのせいか人の気配はない。まるでロックダウン政策が施行されたかのように、街は静まりかえっていた。
迫ってきている相手チームも居ないようだとアミスから連絡が入ってきたし……しばらくは安全か。小走りしていた脚を止めると、一軒のコンビニが目に留まった。
――銃声も聞こえてこないし、状況が動くまでここに留まっておく方がいいかな。
そう思って、私はそのコンビ二に立ち入った。
自動ドアが、うぃん、とだけ言って開く。目の前に広がるのは、何ら普段と変わりないような陳列棚。強いて言うなら、蛍光灯が点いていないこととホットスナックを置いていないことに違和感を覚えた。まぁ、客が来ない日まで稼働させる義務はないし。
レジカウンターの下、トイレ、一応ジュースの並べられた冷蔵庫奥までくまなく調べたが、異常なし。チーム同士が接触するのはまだまだ先になりそうだ。20位が決まるまで、バックヤードに隠れていよう。
レジカウンターを乗り越え、タバコの棚の横にある店員用控室のドアノブに手を掛け、捻った。が、ドアが開かない。というより、何かが突っかかって開きづらい。奥の様子が1㎝くらい開いたドアの隙間から見えるのだから、押戸か引戸か間違えているわけではない。
――であれば……既に先客が居るのか?
いや、その可能性も少ないだろう。人影は見えないし、人が発する息の音なども聞こえてこない。そしてなにより、このドアは押戸だ。もし人が居るなら、わざわざドアを塞ぐメリットは何だろう?
ドアを開けた隙を狙う方が余っ程いいのではないか?
結局の所、何かしらの備品がたまたまドアの突っ張りになっているとか、その筋だろう。
私は軽く踏み込み、ドアに自重をかけ、全身で開くように押した。だが、手応えは強まるばかり。
「んん……こん、のおーーっ!」
ムキになって、さらに強く押し込んだ。ドアがようやく開いた。
ぶちん。何かが切れる音がした。
降ってきた。バックヤードの天井から。
降り注ぐのは、オリエンテーション特別製・弾をばら撒く手榴弾だ。




