壱 晴れのち雨
宗音が領主の屋敷を訪れた日は、実は束の間の晴れ日だったらしい。
国人領主の嫡子、多幸丸に仕えると決めた翌日から、宗音は多幸丸に侍り、領地を各所廻ることになった。
朝から空は澄みきった晴天だったので、何の心構えもせず外に出ようとすると、下男から傘が手渡された。
「晴れているが」
不審に思ってそう言うと、下男は表情も変えずに「これから降りますけぇ」と言う。
さらに多幸丸とその横に侍る従者がやって来ると、やはり従者も傘を持っていた。宗音の視線に気付いた多幸丸が、眉を下げて口を開く。
「降るんですよ、今から」
この言葉は、屋敷を出て数十歩のところで事実となる。
宗音の鼻頭に冷たい雫がぽつん、と当たったのだ。
「私が外に出ると必ずこうなのです」
そう言った多幸丸が小雨みたいな哀しげな表情でそう言った。空は、白く明るく、泣いている。
―― 多幸丸の厄運を祓いなさい。
それが、領主の命である。
どんな厄運かも粗方聞いていた。それが、今まさに起きていることだった。ここから宗音の、果てない仕事の始まりである。
(成る程、『雨が降る』とはこういうことか)
改めて多幸丸を視てみると、その背後に巨大な何かが渦巻いている。
全体が見えないほどでかく、そして長いようだ。トグロを巻くようにゆったりと動きながら鱗が鈍く光っていた。
龍神である。
現代でも、俗に言う「雨男」「雨女」と自認する人々がいるが、彼らはいわゆる龍神系の神に愛された申し子と言われている。
自らの意思に関係なく、いざというときに必ず雨を降らし、子供の頃から、遠足、運動会、修学旅行、卒業式に入学式、果てには入社式に結婚式…あらゆる人生の晴れ日に雨が降るという。
彼らの悩みはつきないが、はっきり言って付き合っていくしかないだろう。なぜなら、龍神は守り神。祓うものではないからだ。
(雨は、厄運のせいではない)
だからこそ宗音にはどうすることもできなかった。だが、手立てはないこともない。
「若、この地にはもしかして龍神様をお祀りする社などがあるのでしょうか」
宗音がそう尋ねると、多幸丸、そして従者までもが「はっ」とした顔をして感心した。
「やはり宗音殿は凄いですね。そうです、我が祖先が代々祀ってきた龍神様の社が、この先にございます。今から案内いたしましょう」
多幸丸がそのように丁寧に言うので、宗音は軽く制した。
「若。わたくしのことは『宗音』とお呼びください。敬称は不要です」
「ふふ。そうか、そうだな。では宗音、参ろうか」
多幸丸は何故か少し嬉しそうだ。きっと、宗音が色々期待に応えてくれると思っているのだろう。だが、打って変わって宗音は難しい顔をしていた。理由は先程挙げた通り、厄ではないなら祓えない。他の手段が上手く運べばいいのだが…
程なくして、こんもりと茂った木々の向こうに、長く連なる階段と鳥居が見えてきた。
ありきたりな神社の様相だが、そこは澄み渡って美しい。近くに川が流れており、階段を上がった社から眺める景色はよさそうだ。地元の民からたくさんの敬いを向けられた龍神の住まうべき社である。
だが、一歩、一歩と登る毎に雨足が強まってきた。
「ここはそもそも雨がよく降る土地なのですが、今年はあまりにも雨が降る…」
階段を上がりながら多幸丸が言った。
「長雨は作物を腐らせますけぇのう。それにこれほど降りゃあ、いつか山の斜面も崩しよる…」
従者も頷いて口を開いた。彼らは心配しているのだ、この続いているという長雨による災難を。だからこそ、多幸丸も先程から顔が暗いのだろう。きっと、自分のせいもあるかもしれないと思っている。
「私は外へ出ると必ずのように雨を降らしてしまうので、最近は屋敷を出ないようにしていたのですが」
そんな風に言うので、宗音も聞き返した。
「ということは、もしかしてこのお社に来るのも久しぶりなのでしょうか」
「ええ、そうなのです。この道中で既に雨が降ってしまうので」
そうして、階段の最上にある社に着き、多幸丸と従者、それに従う宗音が三人で手を合わせ参拝する。
すると、多幸丸の頭上で龍神が嬉しそうにその巨体を捻り上げた。
同時に、背後の空がカッと光り、近くの木が恐ろしい衝撃音とともにズドーーーン!と崩れ落ちた。さらに、甕でもひっくり返ったような土砂降りが地面を叩く。
ザーーーーー!!!!
突然の落雷。その閃光と雷鳴、衝撃、続く豪雨に三人は固まった。
振り返ると、社の外は先が見えぬほど真っ白な幔幕となって雨が降り注いでいる。屋根もまた、大量の雨粒で激しく打たれ轟音で軋んでいた。
「ひっ」
従者の短い悲鳴が、その凄まじい光景を形容していた。
だが、もう一度言うが、龍神はうねりをあげて歓喜している。言い方を変えると、その様子はウキウキとときめき、さらにもう少し砕けた言い回しで言うならば、ハートマークさえ見えそうだった。
天を揺らし、地響きを轟かせ、舞いあがるハートマーク、というチグハグな空気に宗音は押し黙った。
「・・・」
そして多幸丸を見ると、やはりこの空気は読めておらず、顔を青ざめさせてこう言った。
「…私は、龍神様を怒らせてしまったのだろうか…」
一方通行にも程がある。
そして、なんと強大な神に愛されているのだろう。
「・・・若。今度からはもっと頻繁に、それこそ毎日通って差し上げるべきです」
「え」
「龍神様は、若が来るのを待ち望んでおられたようです」
「はあ」
「応えて差し上げることこそ、雨を鎮める唯一の手立てかと」
「…成る程。心得ました」
屋敷に戻ったら、もう少し今後の龍神との付き合い方を相談せねばなるまいな、と宗音は思ったのだった。おそらく、この守り神との疎通こそが雨の悩みの解消に繋がるはずだからだ。
だが、帰ったところでこの話題を口にする機会は得られない。あらゆるものを引き寄せる多幸丸の性質が、次の厄災を呼んでいたのだ。