弐 歴史の狭間
室町時代は、江戸時代とほとんど同じ年月続く長期政権である。
征夷大将軍の地位に就いた人数も同じく15人。だが、太平の世を築き上げた江戸幕府に比べ、その治世は戦乱に次ぐ戦乱で血塗られた道筋を作っていった。
名著を数々残した歴史小説家からは「日本史上、足利幕府ほど愚劣、悪徳な政府はない」とまで言わしめるほど人々を苦しめた時代である。
確かに、一般の民草にとっては在って困ることこそあるが、無くて困ることはなかった政府かもしれない。
財政に困れば「徳政」の触れを出し、商人への借金を踏み倒す。応仁の乱から始まる重臣たちの争いは延々と続き、その度に戦に駆り出された民たちは命を落とし、村々は焼き払われ、家族を失い、田畑は荒れ果て、耕す者ももういない。それでも次の戦に向けた重い年貢にのしかかられる。
とは言うものの、肩を持つわけではないが、政治へ大きく関与し、意欲的に統治を試みる足利将軍が多かったのも間違いない。
江戸幕府は、後半は老中たちに政を任せ、お飾りのような将軍も多かった。鎌倉幕府も後半は将軍には実権がなかった。
足利将軍は、家臣たちに利用され翻弄されつつも、最後まで将軍という役割に自負を持ち、混沌とした政治の世界を正そうと努め続けた。
阿与の御所様もその一人であった。
御所様は、細川澄元と共に奪われた将軍職を取り返そうと何度も挙兵し、畿内の諸勢力を糾合して再起を図った。
深井の合戦、次いで芦屋河原の合戦を経て京都に入洛して奪還を果たす。報せを聞いた御所様の猛った御顔は、まさしく「大将軍」様なのだと阿与は痛感するほどだった。つまり、その時が来るまでは本当に、何の兆しもなかったのである。
「御所様あぁ!御所様あああ!!」
あまりに唐突な別れに、阿与はその場で取り乱した。
雌雄を決する大合戦を目前にして、御所様、足利義澄は三十二歳の若さでその尊い命を散らしてしまったのである。
さて、この事態に長らく御所様が身を寄せていた水茎岡山城は大いに混乱した。いや、合戦を目前にした細川澄元様ら陣営も心乱され錯乱したと思われる。だが、阿与もまたそれどころではない。
城主九里信隆は大樹公の死を不審に思っており、身近に敵が潜んでいることを確信していた。御所様の死は、確証こそなかったが「暗殺」の可能性が極めて高かった。
事実、対する足利義稙も度々暗殺されかけた事実があり、それは御所様、義澄の仕組んだものだと思われていた。つまり、報復に暗殺者を送り込まれていてもおかしくはなかったのだ。
そんな不穏な空気を察して、城主は義澄の死から間髪置かずに阿与を裏から逃がした。何故か。
それは、阿与が二人目の子を宿していたからである。
身重の阿与を引き連れたのは九里家家老の先代当主だった真野信茂という爺だった。案内役には長命寺の小坊主が一人。そこから守護の六角氏の目からも逃れて腹の子が無事生まれるまで隠れ潜んだ。
近江国の六角高頼は、最初こそ京を追われた御所様を匿ったが、やはり寝返った。
味方が敵になり、敵が味方になり…
足利将軍の取り巻きはこのように、権力欲のままに醜い攻防をひたすらに繰り広げ続ける。平和な世しか知らぬ現代人からすれば、その醜悪な政局が延々と続く様はあまりに見苦しく、理解し難い時代かもしれない。しかし、心ある者や忠義に尽くす者がいないということではなかった。
足利義澄、もとい御所様の急死から目まぐるしく戦況が変わり、人の立ち位置や流れが変わる中、変わらぬ忠義に身を捧げる者たちもいた。
近江国、水茎岡山城。その城主九里信隆は、六角高頼に何度詰め寄られようとも、義澄が最後に遺した赤子の行方を喋ろうとはしなかった。将軍の血を引く者は、この戦乱の世では権力争いにいいように使われる。これ以上遺児を振り回してほしくなかったのだ。
永正十一年、御所様の亡き後も頑なに忠義を尽くした九里信隆は、近江守護六角高頼によって謀殺される。
かくして、歴史の狭間で誕生した小さな命が、この混沌とした足利の治世でどのような運命にあったのか。
暫くはその軌跡が語られることはない。




