弐 菜の花の君
確か四、五歳ぐらいのときだっただろうか。
父に連れられていった先で、従兄弟たちに混じって槍の稽古をした後のことだったと思う。
なかなか筋が良いと褒められて誇らしく、とにかく棒を携えて遊び回った。見知らぬ土地だったが、だからこそ探検心が疼いた私は、従兄弟や近習の目をかいくぐって探検に出かけたのだ。
と言っても何があるわけでもなかったが、近隣の神社や小川、竹やぶに入ってみたり、一人で飽きもせず遊びまわった。
季節は啓蟄の頃だった。
土の中から這い出た虫たちが活気づいて、春の陽気がこそばゆい。鳥たちも陽気に唄い、森からその軽やかな鳴き声が聞こえてくる。
そんなとき、ふと生き物の鳴き声が一斉にピタリと止み、私は思わず顔を上げた。
妙に生あたたかい風がざざーと音を立てて通り過ぎ、雲の影がすごい速さで地面を駆けていった。
そして目の前の菜の花畑を見ると、先程までは誰もいなかった場所に子供がいた。
私はそのときの光景を今でもありありと思い出せる。
黄色い花が咲き乱れた大地にぽつりと佇むその人影は、見たことがないほど美しかったからだ。
歳は同じ頃だろう。
髪は結い上げてはおらず、綺麗に切り整えられて肩のところまで伸びていた。目は切れ長で形が良く、長いまつ毛が白い肌に影を落としている。淡い桃色に染まった頬に、小さな口がきゅっと結ばれて、なんだか憂いを帯びた表情だった。
その様は子供というにはあまりに浮世離れして見えて、もしかして花の精か何かかな、などと思ってしまうほどだった。
どれほど見つめていただろう。その視線があまりにもうるさかったのか、その子もまたこちらに気づき、視線を寄越されてようやく我に返った。
「そんなところで何をしているの?」
思い切って声をかけてみた。
花の精なら言葉が通じないかもしれない、などと思っていたが、その子は少しばかり考える風に小首をかしげた後、「分からない」と返してくれた。
「こっちへおいでよ」
そう言って手招きすると、おずおずと菜の花畑から出てきてくれた。
身長はやや私の方が高いくらいか。
手を差し出すと握ってくれた。温かい。どうやら花の精ではなく人間のようだ。お人形のように可愛らしい女の子である。
「一緒に遊ぼう」
私が誘うと、これまたコクンと頷いてくれる。単純に嬉しかった。
「…どこで遊ぶの?」
「そうだなぁ。あっちの雑木林はどうだろう」
「雑木林?」
「そう。さっき少し入ってみたけど、なんだか古びた井戸があってね。枯れているのか見てみよう」
そこまで言うと、その子の手がぴくりと震えた。
「…怖いよ」
「怖くないよ。大丈夫、私が守ってあげるから」
守る、というとその子は少しだけ安心したのか、私の手を握り返してくれた。どうやら一緒に行ってくれるようである。
私はなんだか嬉しくて仕方がなかった。とりあえず守ろう。野盗だろうが、虫だろうが、私のこの槍(棒)で追い払ってみせる。
それから、私は率先して前に立ち、藪を踏みつけ、木の枝を払い道を作りながら雑木林の中を進んでいった。
昼間というのに薄暗く、確かにその子の言う通り、薄気味悪くて少し怖い。
だから、私は大声で「えい!やぁ!」と掛け声を上げながら何かと闘うようにして前に進んだ。ぶんぶんと飛び回る虫も驚いて逃げるに違いない。
ふと後ろを振り返ると、その子は戸惑いながらも笑っていた。
「ふふ、すごい…!」
その笑顔があまりに可愛らしくて、私は思わず頬を染めてしまう。
古井戸までたどり着くと、薄気味悪さはずっと増した。
木々が日光を遮っているにしても、なんでこんなに暗いんだろう、と思わず上を見上げてしまうほど暗い。風もざわざわと渦巻くように吹き上げ、生暖かい風が肌をかすめては空を切って音を奏でた。
びゅおおおお
気がつくとその子が私の袖を握りしめていた。
「大丈夫、大丈夫」
そう言って古井戸を覗き込んでみるが、深い暗闇に包まれて、枯れているのかは分からない。
「…帰ろうよ」
泣きそうな声でその子が袖を引いてくる。流石に憐れになったので、「分かった」と言ってから手近にあった大きな石を見つけて抱えあげた。
「これを井戸の底に落としたら帰ることにしよう。水音がすれば枯れていないと分かるから」
私は子供の両手で一抱えもある大きな石をよっこらしょと持ち上げて、思い切り古井戸に向かって投げ入れてみた。
するとどうだろう。
どっぼおおおおおん
と大きな音とともに水しぶきが井戸から上がり、私は思い切り仰け反ってすっ転んだ。
「うわあ…」
「…枯れてないね」
その子も目をまん丸くしてその様子を伺っており、目が合うと二人共可笑しくなって笑いあった。
「ワカ!!!こんな所にいたっ!」
今度は後ろから声をかけられて二人はこれまた仰天した。
見ると久兼の家臣で、確か仁左衛門とかいう若い男が腰に手を当てて立っている。
「熱が下がってもまだ病み上がりなんですよ!髪も結う前に忽然と姿が見えなくなったと、侍女たちが大騒ぎしております!」
そう言われて、その子ははじめて顔を歪めて涙を見せた。
「ご、ごめんなさい」
仁左はそれから私の方にも向き直り、「おや、あなたのお父上もすごい剣幕で探しておられましたよ。帰りましょう、石道姫様」と目配せしてくる。
ああそうだ。
皆に黙って飛び出してきたから、きっと怒っているだろう。
でもまあいいや。
怒られるぐらい屁でもない。
それにこの子の素性もようやく知れた。久兼家の者なのだ。
ワカちゃん、という名前なのも分かったし、と私は考えてからはたと気付いた。
いや、ワカちゃんではないようだぞ、と。
久兼には嫡子が一人、多幸丸という男の子がいると聞いた。
私と同い年で、少し身体が弱く、昨日まで熱を出していたから安静にしている、と誰かが言っていたのを思い出す。
よくよく見れば、ワカは思い切り男児の服を着ていたのだ。思い込みとは恐ろしい。
このとんでもない笑い話を思い出すとき、私は密かに「菜の花の君」とあの子のことを呼んでいる。




