拾八 慈雨
『日本霊異記』にこんな話が書かれている。
聖武天皇の代、摂津国東生郡撫凹村の金持ちが祟りを受けた。
祟りを怖れたその男は、一頭の牛をはふって儀式を執り行い、、なんとか神の怒りを鎮めようと奮闘した。
一年で静まらず、二年目、三年目と引き続き儀を行い、七年目の儀式の後、彼は死んだ。
死後、男は閻羅(閻魔)の前に立ち審判を受ける。
「この者は七年間、罪無き牛を引き裂き、なますにして食べました。この罪の処分をお決めください」
そして、男の前には七人の牛頭の人間が怒りの形相で現れる。
「我らは耐え難き苦痛と死を与えられた。同じ苦しみと痛みを此奴にも。切り裂きなますにして喰らいたい」
だが、それに対して一千万人もの人が一方に現れてこう言った。
「この方は牛こそはふれど、我ら一千万の命を救ってくれた。儀式は必ず殺生を戒める放生会も同時に執り行い、多くの善業を積んでいる。殺してはいけない」
その数多の叫びがその場に飛び交い、閻羅は折れた。
「この者に罪はなし」
気がつくと、男は死の淵から生還し、彼の善業に救われた人々の前に再び姿を現した。
***
さて、源太夫がこの話を知っていたかどうかは分からないが、なんとしてでもお秀を生き返らせようとしたのは事実である。
多くの善業を積んだその男とお秀はまったく異なる境遇だったが、もし本当に生き返る術があるのなら、源太夫はなんでもしただろう。愛する娘を失った親の苦しみと悲しみは、如何ばかりか慮る。
そして、無情にも事態は動いていく。
「…お秀…!お秀!!」
牛頭馬頭が己の罪をその鼻面に突きつけられ咆哮をあげたとき、源太夫は目を覚ました。
一面の水面に映し出されるお秀の最期の様子。そして、そこからさらに牛頭と馬頭によって漆黒の闇に喰われてしまうその有様に、源太夫は発狂した。
「やめろぉ!やめてくれぃ!私の娘を奪わないでくれぇええ!!」
手足もおぼつかないまま、這いつくばりながらその水面に映るお秀を助けに行く。
すると、大甕から流れ出た水溜りだったはずの水面は、まるで底なしの海のように深くなっていた。
源太夫がどぷん、と水面に墜ちてゆく。
「お父!!」
「源おじ!!」
引き戻そうとする子どもたちを仁左が引き留める。
水中では、源太夫がずっと背負っていた行李が水に圧されて蓋が開かれた。あぶくとともに浮き上がったのは、か細い骨、また骨である。
あまりに細かく、今にも崩れそうな脆い骨だが、その頭蓋を見たとき人と分かった。
お秀の亡骸なのだろう。
お滋はその場で泣き崩れた。
「お父!おねえちゃああん!!」
その悲しみを汲んだように、水面にはぽつり、ぽつりとどこからともなく雨雫が落ち、波紋を刻んで揺れるのだった。
一方、牛頭と馬頭は水面から顔を背けるようにしていたが、それでも諦めきれないのかその場で歯ぎしりをして宗音、そして多幸丸を睨みつけていた。
「許さぬ、許さぬ。小賢しい人間ども!」
「食いてぇ、喰いてえ。何としてでも貪り食いてぇ!」
気がつくと、多幸丸が宗音の横に並んでいる。
「先程言ったことに偽りはない。誰の命も与えることはできないが、お前達の祠は綺麗にして毎年祀りを執り行うとここに誓おう」
だが、多幸丸のその言葉にも納得がいかないのか動かない。
宗音は「仕方がない…」と錫杖を構え直した。
「若、この社の何処かに帰り道があるでしょう。出来るなら子どもたちを連れて一足先に現世に戻って頂きたいのです」
「お前はどうする」
「無論、此奴らと心中する気は毛頭ありませぬ」
宗音がくすりと笑ってそう言うので、多幸丸は承諾した。
「よし、では仁左たちにも探させよう。宗音は牛頭馬頭を引き止めて…」
と多幸丸が言いかけたとき、水面を覗き見るようにしていた一行が「あっ」と叫んだ。
「源おじが!!」
という藤吉の叫び。そして、先程まで水の中に全身を浸してお秀を呼んでいた源太夫の姿が消えている。
(もしかして、あの水溜りの底に帰り道が)
宗音と多幸丸が同時に思い、多幸丸が背を向けて走り出した時、事が起こった。
「ソノ血肉喰ワセロオオオ!!!」
馬頭があっという間に間合いを詰めて多幸丸の胴体を両手で鷲掴みにしたのだ。
「ぐぁっ!」
多幸丸の短い悲鳴と、宗音にも聞こえるような「ミシッ」という骨の軋む音。宗音は瞬時に錫杖で馬頭の首元を衝き破ったが腕は離さない。
(しまった…!)
思うが先か今度は牛頭が突進して宗音を吹き飛ばした。
馬頭の馬鹿力でめきめきと締め付けられる多幸丸に、仁左たち近習も距離がありすぎて駆けつけられない。
万事休す、という場面で、水面を揺らす波紋が一気に増え、水溜りとなった場所にのみ大雨が降り注いだ。
ザザーーーーーー!!!
久しぶりに聞くような激しい雨音。そしてそれだけでは終わらない。
打ち乱れる水面がウワッと盛り上がったかと思うと、今度は白馬が躍り出てきたのだ。
喉を突き破られても手放さなかった馬頭の腕が、白馬のいななきと体当たりで緩められ、多幸丸は力なく宙を舞う。
「「若!!!!」」
多幸丸は宗音、そして走り込んできた近習に受け止められた。もはや長居は無用である。
彼らは多幸丸を抱え、仁左は子どもたちを抱え、大雨が降りしきる水溜りに向かってその体を思い切り投げたのだった。
水底に沈みゆく宗音が仰ぎ見ると、ぼやけた水面に牛頭馬頭の悔しそうな顔が浮かんで消えた。流石に追っては来るつもりはないらしい。
そしてぶくぶくと空気が水に紛れて泡立つ音色に混じるように、澄んだ優しい声が聞こえてきた。
―― お滋ちゃん。ごめんね、お父が迷うことのないように、今度は私がしっかり連れて行く。いつもあなたのことを想ってる。こっちは心配しないでね。
お秀の、さいごの言葉だった。




