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室町享禄妖奇譚  作者: 山縣十三
止雨
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肆 古代・中世のあれこれ

この国における祈雨儀礼の歴史は古い。




現代、東アジア区域の樹木の年輪データが統計的手法で処理され、過去の夏季の気温・降水量の変動が明らかにされた。


それによると、日本の古代・中世を比較したときに古代は気温が高く、降水量が少ないという事実が分かってきたそうだ。

つまり古代、奈良・平安時代は旱魃(かんばつ)の被害が多かったのだ。


さらに時代が下って中世になると、気温は乱高下を繰り返しながら徐々に低下し、対して降水量も同じく変動が大きく、十五世紀から十六世紀にかけて増大した。

つまり気候変動は激しく、室町時代は多雨に悩まされることが多くなったことになる。




古代・中世を通じて、農作物の改良や土木建築技術の向上による築堤や河川の改修の精度は上がっていくが、当時の技術力にはやはり限界があったのは言うまでもない。気温の上下や旱害(かんがい)、洪水などの自然の猛威の前には無力だった。

おまけに、列島には台風も押し寄せれば地震も起こる。


こう言った人の所業を超えた強大な自然災害には抗う術はないに等しい。


故に、人々は自然を恐れ、神と崇めて奉った。前述した(ひでり)、洪水、台風、地震、などの災害が複合的に絡んだとき、それは飢饉となり、弱り衰えた人々を疫病が襲う。この凄惨な状況は、当時の人々の目には失政への天の譴責(けんせき)、あるいは神の祟りという風に映った。

だからこそ、神の怒りを鎮めるために雨乞いをするのである。いや、おそらく自然災害に立ち向かう術は、天に乞うことしかなかったのだろう。これこそが国を治めるための最重要国家事業だったのである。



奈良時代から平安時代にかけて、馬の首を葬られたと思しき遺構がいくつも発見されている。『日本書紀』にも「六月、この月大いに(ひで)りす、…中略…村々の祝部(はふりべ)の教える所に随い、或は牛馬を殺し諸社の神を祭り…」と記された雨乞いの事例があり、時代が下ると生馬ではなく土馬、絵馬、平安時代以降には紙に描かれたものが神事に用いられるようになっていった。


祈雨の儀式は時代が下るにつれて国家的神事から、仏教による読経法会(どきょうほうえ)も実施されることが多くなり、いつしか地方での雨乞い、あるいは激増していった水害に対する日和乞いに関する史料が増えていく。各地で竜王・龍神などを祀る社が建立され、さまざまな雨乞い、日和乞いの儀式が執り行われていったのだ。



さて、前置きが長くなったが、ここで宗音が感じた「嫌な予感」について言及しよう。


宗音は祈雨・止雨の儀礼に決して詳しいわけではなかったが、父娘の伝えた「土馬」を用いた止雨の儀式、これがいやに古めかしい儀式であることがここまでの記述でよく分かるはずだ。宗音も、それが心の何処かで引っかかったのだ。


勿論、地域でさまざまな信仰があり、多種多様な儀式が存在したのは間違いない。しかしながら、何故ここにきて六百年も昔の平安の世で行われた祭祀が用いられたのか。


この疑問に応える者は一人もいなかったのだが、後に多幸丸共々、身を持ってその理由を体感する。

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