第91話 死んでねぇよ
アイリスはあらかじめ渡されていた水中浮遊泡という魔道具を装着していた。海底の様子や海中の生き物を観察するための鑑賞用の泡で、空気の塊の泡に覆われて、水中をゆっくりと動くことができる。泡から腕を突き出しても割れることはないので、泡の中から攻撃も可能だ。
――海底でヨルムンガンドが死ぬまで釘付けにする。そのために代わる代わる魔弾を浴びせ魔力を吸収させ続ける
その先鋒がアイリスだ。応援が来るまで、アイリスは無心で魔銃をヨルムンガンドに向けて、魔弾を撃ち続ける。
魔力を吸収するためヨルムンガンドは固まる。吸収後、動こうとするところで再び魔弾。
これを繰り返し、ヨルムンガンドを海底に釘付けにし続ける。
しかし、魔弾で止められる時間はわずかであり、絶え間なく撃ち続けなければならない。
一発撃って一呼吸分稼げる。
手持ちの魔弾、五百発を撃ち尽くしても稼げる時間はわずかだ。
アイリスはあっという間に手持ちの魔弾を全弾撃ち尽くし、己の魔道具である魔拳に切り替え、拳の魔弾を放つ。自分の魔力も換算することでより持続性を持たせる。
が、そんな慎ましい努力も時を稼ぐには誤差でしかないほど、ヨルムンガンドはあっという間に魔力を吸収していく。
魔力を与えるとはヨルムンガンドを強くすることを意味する。すでにアイリスの魔力で一度、膨張脱皮しており、動き出したらアイリス一人で止める術はない。
海底に沈む怪物は、じっとアイリスを見上げ睨む。それを意識しないようアイリスは魔拳を繰り出すが、やがて己の魔力も尽きて、魔拳も全弾撃ち尽くしてしまう。
すでにおおよそ千発近い魔弾を放っており、一人で十分な時間を稼いだ。
が、海面を見上げても、後続部隊が来る気配はない。
打つ手はほぼなく、じわりと悪寒が走る。
海底に沈む怪物はアイリスの魔力を吸収し尽くし、やがて動き出す。ヨルムンガンドの威圧的な眼光は攻撃をし続けてきた外敵に向けられていた。
お互い牽制するように見合う時間は長いようで短い。
ヨルムンガンドがアイリスに向かって大きく口を開いた。
口から放たれるのは凝縮された毒玉。
危険を察知し、アイリスは泡の中から飛び出す。
間一髪避けるが、海中に放り出された状態のアイリスにヨルムンガンドは猛スピードで泳いで襲いかかる。
それを見たアイリスは手持ちの中にある切り札を出した。
服の襟につけていた剣のデザインのブローチはアイリスの魔力を注ぐことで膨張する特殊な細工がされている。
魔道具だとわからない魔道具「魔大剣」。
大きさの伸縮も調整可能で、アイリスの身長を超えるツヴァイヘンダーのような長剣にもなる。アイリスは残りの魔力を絞り出し、魔大剣を限界まで巨大化させる。襲いかかるヨルムンガンドに向けて、反発の魔道具で魔大剣を発射。
頭に近い胴体部分に刺さりヨルムンガンドはわずかにうろたえるも、体をひねって伸びてくる尻尾があっという間にアイリスに巻きつく。
(あっ……)
アイリスは自由の利かない海中で両手両足を拘束されたままヨルムンガンドと共に海底に沈んでいく。
危機感よりも頭の中が真っ白になっていく。これからのことばかり考えていたはずなのに、呼吸できない時間が続くと過去のことばかり記憶に流れた。
おいしいものを食べた時の幸福感、父と兄と大喧嘩した時の怒り、時計塔から王都の街並みを見た時の感動、必死に特訓して魔術を使えるようになった時の喜び、自分の未来が勝手に決められた時の悲しみ、はじめて魔獣を倒した時の充実感。
楽しいこともあれば悲しいことやつらいことも流れていく。
そして、自分を変えるきっかけをくれた人の言葉。その何気ない言葉はいつも胸に刻まれている。
でも、それもすぐに消えた。視界狭窄に陥り、目の前が真っ暗になりつつあるとき、光が見えた。
それが続々とヨルムンガンドに命中し、巻きついていた尻尾がはがれる。
が、アイリスには自分で泳ぐ力がなく、そのまま海底に沈んでいく。
その手を握られ抱き寄せられる。
滲む視界に最初に映ったのは救いの言葉をかけてくれた友人の顔だった。
「アイリスではなかったよ」
翌々日の昼、孤島のすぐ南にある西極基地の一室で、ディンはシーザと対面していた。
ヨルムンガンドの討伐は現在も続いている。
しくじれば自分たちの住む領土が危険にさらされるとあって、西極は必死だ。
総動員で魔銃を最北の孤島へ集めて、人員も大量に送られている。
現在は魔術師団のジョエルが討伐の指揮をとっていた。
シーザは固い表情を崩さないまま視線だけディンに向けて問う。
「理由は?」
「ロキドスは下等とみなす人間に転生してでも生きる魔人だ。生への執着が異常だと分析してる。死ぬとなれば、本性を出すと考えた」
ディンの言葉に自然とシーザの目つきは鋭くなる。
「だから、海中で魔力切れになるまでアイリスを追い込んだ。お前、アイリスに続く応援をぎりぎりまで遅らせたな」
ディンはそれにしばらく答えず視線を落とす。一昨日からシーザの口数が少なかったことから、それに気づいていたことは察していた。
ポケットから取り出したのは掌に乗る小さなブローチだ。
「一見するとブローチだけど、アイリスの魔力に反応して膨張して剣になるんだ。魔道具の一種らしい。俺もはじめて見た」
ディンと行った前日にトンの魔道具店で購入したものらしい。
「ふん。それがロキドスの使う複製魔術だと誤解したってか?」
「可能性は潰さないとダメだろ」
そう強調するが、ディンはシーザと目を合わせない。
「どちらにしろアイリスじゃないとわかった。残り二人だな」
「そういう問題じゃない!」
シーザは声を荒げて、睨みつける。
「お前、あの状況で人を試したのか?」
「死の海に沈めれば、人の本性が見える。シーザの大先輩であるゼゼの言葉だ」
「エルマーならそんなことしない」
「やり方は人それぞれだろ」
「違う! これは信念の問題だ!」
お互いの視線が交錯する。
「シーザの言い分もわかるが、綺麗ごとばかりほざくな。心なんて曖昧なもので推し量るのは危険なんだよ。やるなら徹底的にやるしかない」
「だとしてもやるべきじゃなかった。死の淵の戦いだとあらゆる感覚が過敏になる。口に出さなくてもアイリスはうすうす感じてるはずさ。お前に信頼されてなかったってことにな!」
「……」
「こんなこと繰り返してると、お前に背中を預ける人間はいなくなるぞ」
シーザの視線と言葉が刺さる。言い分は理解できるが、自分が否定されているような気がして、自然と反論の言葉が口から出る。
「甘いんだよ。これは昔のような単純な魔王討伐じゃないんだ」
「わかってるよ! でも、私の言いたいことはそういうことじゃない!」
シーザはもどかしそうに机を叩く。苛立っているようでもあり悲しげでもある。
「お前が誰よりもエルマーの背中を見てきたはずだろ! お前は勇者の孫だ。前々から思っていたけど、お前はその自覚が薄い。上っ面だけじゃなく勇者の孫らしくだな――」
ディンの眼の奥が暗く沈んでいたことに気づき、シーザは思わず言葉を止める。
自然と場は静寂に包まれる。
「……いつまでもじいちゃんの影を追うな」
「何?」
「美化しすぎなんだよ。いちいち聖書みたいに持ち出しやがって、うっとおしい。じいちゃんの言動がこの世の正しき行動原則ってわけでもねぇだろうが」
「別にそんなこと言ってねぇよ! 私が言いたいのは――」
「とにかく勇者を引き合いに出すな。俺は勇者の孫だけど……勇者じゃない」
ディンは立ち上がり背中を向ける。
「もう勇者は死んだんだ」
ぼそりとつぶやき、部屋の中から出て行く。
部屋の中に取り残されたシーザは座ったままつぶやいた。
「死んでねぇよ。勇者の意志は引き継がれさえすれば、死なない。勇者の意志を継ぐのは……ディン、お前であってほしいんだ」
誰にも届かないその言葉はむなしく宙に浮いた。




