第236話 心の置き場所がまだよくわかんないな
しばらくの間、魔王城内は静寂に包まれていた。
ディンはニーズヘグを鎮圧し、目を閉じていた。荒ぶる心が次第に静まり、やがて深い息をついて目を開く。
周囲の静けさに小さな満足を感じた。その時、ふと気がつく。
自分を囲むようにシーザ、タンタン、フローティアの三人が立っていた。
それぞれつかず離れずの距離で、理解しがたい異物を見るかのような目でディンを見つめていた。その視線にディンはハッと我に返る。
「えっ……? な、なに?」
「いや……本当に、ディンだよな?」
シーザが恐る恐る問いかけた。
あらゆる敵と戦ってきた三人がディンという個体に対して、本能で警戒していた。
それほどの変貌をディンは遂げていた。
「……いや、俺だけど」
「本当に?」
疑いの目を向けられて、自然と沈黙する。
証明の仕方がわからず、少しの間黙っていると、タンタンが何食わぬ顔でディンに歩み寄ってきた。
そして、何でもないことのようにディンの頬をつねる。
「い、いてぇ! な、なんだよ」
「頬をつねった時の反応で確かめようと思ったけど、よく考えたら君のことあんま知らなかった」
そう言ってタンタンは手を放し、肩をすくめて告げる。
「まっ、大丈夫じゃない? ただの勘だけど」
タンタンはニコリと笑う。いつも通りの軽い調子の笑みで、自然と重い空気が柔らかくなっていく。
「まあ、誰がどう見てもディンだもんな」
それに続いてシーザも固い表情を崩して、笑みを浮かべた。
「別に狂ってないし、暴れたりしないって」
「そこまでは思ってないけど、なんか雰囲気に圧倒されちゃってさ」
そう言われて、ニーズヘグと戦った時のことを思い出した。
あの時の自分は確かに主観的に見ても少しおかしかった。
魔王城という舞台の影響なのか、付与魔術を習得した直後のせいか、あるいはその両方か。
戦いに集中していたというより、まるで魔王ロキドスの目を通して世界を見ているような感覚だった。
一見、悪しき影響に思えるが、そうではなく……どちらかというと、熟練の魔術師の視点を借りて戦場を操る感覚に近かった。まるで経験や知識が自分の中に流れ込み、戦いを支配しているようだった。
その体験を通じて、ディンは魔王ロキドスの本質をわずかに理解した。
ロキドスは内側に涼やかな静寂を飼っている。それ以上でも、それ以下でもない。
それがロキドスなのだ。
ふとタンタンが目を見開いて指をさす。
「ねぇ、あれ!」
指さした先は、祭壇の横側。右手側の奥に銅色の扉が忽然と現れていた。
「さっきまでなかったよね? 呪霊鬼を解いた影響かな」
「最初からあそこにあったけど、見えなかったってことね」
フローティアとタンタンは慎重にその扉へ近づき、問題がないか確認する。やがてゆっくりと扉を開けると、草花が息づく静かな草原のような空間が広がっていた。
「これに間違いないわね」
「やれやれ。一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなったなぁ。早く行こう」
二人が一足先に進み、シーザもそれに続く。
しかし、ふと扉の前で思い立ったように立ち止まり、ディンの方を振り返った。
「どうした?」
「大丈夫なんだよな?」
その問いかけの真意を測りかね、ディンは一瞬言葉に詰まる。静かな間を置いてから答えた。
「問題ないって」
「ならいいけど」
シーザはそれ以上追求せず、扉の奥へ進んだ。
ディンはその場で立ち止まり、自分の掌をじっと見つめる。
シーザにもまだ伝えていない秘密があった。
呪霊鬼を浄化するどこかの過程で、魂を殴られるような衝撃を受けた。そのせいか、ディンの中で明らかに何かが変わった。
感じ取ったのは今までにないほどの一体感。
今まではどこか借り物の手足を動かしているようだったが、それが完全に繋がった。言語化すれば、カチッとピースが綺麗にはまった感覚だ。
それは言うまでもなく、ディンの魂がユナの器にぴたりと嵌まったことを意味していた。
――どちらかの魂は消えてなくなる運命だ。つまり、どちらかは死ぬ
ゼゼの言葉が脳裏に蘇る。
ディンとユナの魂は共存できない。もしディンの魂が完全に嵌まったのであれば、近いうちにユナの魂は消え去る。
その予感を、ディンは深く感じ取っていた。
(ユナを……救わないと)
そう思う。心からそう思っている。
そして、救う手段も既にわかっていた。
継承魔術により習得したのは付与魔術だけではない。
ロキドスに付与された数々の魔術もディンは習得していた。
その中には転生魔術も含まれる。
ディンはその仕組みを理解したことで、魂に干渉する術を知った。
やろうと思えば、今からでもユナの魂を救い出せるのだ。
が、それは自分で自分の魂を追い出すことを意味する。
目の前に死が迫りくるその現実に、ディンは息を呑んだ。
(……まだ猶予はある。今はまだその時じゃない)
そう、自分にはまだやるべきことがある。
魔王ロキドスを倒すことが最優先だ。
ここでバトンを渡すのは逆に良くない。
ユナを救うのはその後だ。
心の奥から冷静に訴える自分の言葉にディンは従うことにした。
【お前はどこまでも――自分に嘘をつくんだな】
突然幻聴のような声が響いた。声の主はゼゼだった。
「俺は自分に嘘なんてついてない」
そうつぶやきながらも、ゼゼの言葉は頭の中にこびりつき、ディンはほんの少し唇を噛みしめた。
「ここが天界……」
扉の先にはなだらかな草原が広がっていた。淡く発光する花々や、虹色の鱗粉が舞う草など、地上では見たことのない神秘的な植物が、一面に群生している。その間を縫うように、自然の力で形作られた白砂利の道が、景色の奥まで伸びていた。
西側には乾いた太陽が柔らかな日差しを注ぎ、島全体が穏やかな光に包まれている。
雲の上に浮かぶ浮遊島だが、不思議と浮遊感はなく、地上にいるのと同じような感覚で足元に大地を感じられた。
寒さも一切なく、むしろ心地よい涼しさが肌を優しく包みこむ。
明らかに地上とは異なる力学が、この土地に作用していた。
だが、目の前に広がる摩訶不思議な光景は、不気味さよりも心地よさを与えてくれる。人類未踏の地に足を踏み入れたからか、一同は感慨深げに、しばらくの間あたりをきょろきょろと見回していた。
「……すげー生命力に満ちた空間だな」
「ってか、死の霧が定期的に発生してるならもっと退廃的な感じになってると思ったけど、すごい綺麗だね」
タンタンは素直な感想を口にする。
「天界全域が魔力に満ちてる。枯れても再生速度が速いんだろうな。稀だが、エルフの森にもこういう場所はあった」
そう言いながらシーザは何気なく近くにある草の葉をちぎる。すると、葉はたちまち再生活動を始め、目に見えるほどの速さで成長し元通りになった。
枯れても折れても、すぐに元に戻る不思議な植物の群生だ。
しかし、どこを見ても無秩序に繁殖した様子はなく、まるで神が剪定しているかのように、それぞれが最適な状態で成長を止めていた。
自然法則より魔法の法則が優先される空間。
やっぱり摩訶不思議だと改めて思う。
「で? ここからのプランってどうなってるわけ?」
タンタンが軽い調子でディンに問う。その問いで本来の目的を思い出したかのようにシーザとフローティアは難しい表情になる。
そう、ここからが本番。
この天界にはゼゼの妹であるミーナがいる。
ミーナの協力を得るため、話が通じるかわからない相手を説得しなければいけないのだ。
その役目は同族のシーザが適任であると思われたが、シーザはミーナへの忌避感を隠しきれていなかった。
それを本人が口にすることはないものの、会話の端々からディンは感じ取っていた。
忌避感を抱く相手にミーナが心を開くとは思えない。
フローティアも説得役としては適任ではないし、タンタンにいたっては正直邪魔だ。
余計なことをする未来しか見えない。
「俺がミーナと話すよ。会ったことないけど、ゼゼの記憶で知ってるしな。霧が発生した時の対策もある」
皆、それが最善だと感じたのか、誰も異論を挟まなかった。
道沿いに進んでいくと、やがて深い森に辿り着いた。
一見するとどこにでもありそうな緑の森だ。しかし、どの角度から眺めても調和が取れており、人を引き込むような魔性を秘めていた。
その得体のしれない美しさから、魔の森だとわかる。
エルフは森に魅せられる。この先にきっとミーナはいる。
ディンは一歩前に進み、振り返る。
「ここからは一人で行くよ。集団だと怖がるかもしれないしさ」
「大丈夫か?」
「うん」
ミーナと会話したことはないが、ゼゼの記憶を通じてその性格は知っていた。
ミーナは怖がりであり、寂しがり屋だ。
一対一で会うのがきっと一番良い。
ディンは静かに森の深部へ足を踏み入れた。
緑の葉が木漏れ日を受けて輝き、薄暗さや不気味さは一切感じられない。適度に差し込む光が、森全体を優しく照らしていた。地面は歩きやすく、まるで丁寧に整備された遊歩道のような白い道が、長い木々の間に滑らかに伸びている。
所々に色鮮やかな木の実や果実が実り、清らかな小川が静かに流れていた。
小さな虫や蝶が舞う姿が見えるが、生物の息遣いを感じることはない。代わりに、森全体がシンとした静寂に包まれており、花蜜のかすかな甘い香りが空気に混じっていた。
まるで童話の森に迷い込んだような幻想的な光景。
そして、この森には溢れんばかりの魔力が宿っている。
食べ物も水も豊富にあり、誰にも迷惑をかけることなく暮らしていける。
ミーナのために作られたような理想郷……間違いなくここがスミの言っていた箱庭だ。
ようやくここまで辿り着いた。
ふとゼゼの共犯であり、友であったスミの顔が浮かんだ。
ゼゼの記憶をすべて読む余裕はなかったので、その後のスミを詳しく知らない。
シーザも死んだという情報だけで、その詳細を知らなかった。
ここでミーナと一緒に過ごしていたかもしれないが、記憶を読んだ時点ですでにスミの余命は残りわずかだった。
となると、やはりミーナはかなり長い時間、ここにずっと一人で暮らしていることになる。
それを思うと、同情を覚えた。
人間とエルフでは時間感覚に違いがあるとしても、百年以上一人でいるというのはきっと寂しいことだ。
望まぬ孤立は心を蝕む。記憶で見たミーナが変わってしまっている可能性もある。それだけでなく、病気や事故で命を落としているかもしれない。
「もしいなかったら……どうする?」
森の途中で立ち止まり、自分自身に問いかける。
その問いに対し、がっかりするよりも先に、ホッとしている自分がいることに気づいた。
ミーナはゼゼの妹というだけではない。無自覚の内に父サガリーを殺したかもしれないのだ。
「心の置き場所がまだよくわかんないな」
ミーナと会って話すのが少し怖かった。
でも、会わないと始まらないし、きっと何もわからない。
覚悟を決めて、ディンは道なりに森を進んでいった。やがて木々の開けた場所に辿り着く。
澄んだ池が広がり、周囲にはふかふかとした草が敷き詰められていた。その柔らかな草に包まれるように眠るエルフの姿があった。
それはゼゼの記憶で見た姿と全く同じ。
ミーナだった。
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