第232話 お前の中で都合の良い物語を作るな
ディンは祖父エルマーの姿を前にしてすぐ言葉が出てこなかった。これは幻だと頭ではわかっている。
それなのに、懐かしさが胸に溢れつい頬が緩む。まず先に来るのは純粋な嬉しさだった。しかし、すぐに気を引き締め、真顔に戻す。
「急にどうした?」
「ただ……お前とミッセ村を歩きたくてな」
祖父はそう言うと、ゆっくり歩き出した。ディンは黙ったまま、その背中を追う。
「お前が十四才になってから、こうやってゆっくり歩くことなんてほとんどなかったな。ディンはいつも忙しそうだった」
ディンが本格的にポールと手を組み、様々な商売の計画に没頭し始めたのが、ちょうどその頃だった。
「息子のサガリーにはあれこれ厳しくしすぎた。私の理想を押し付けていたと思う。だからなのかサガリーが死んでディンとユナを育てることになった時は、サガリーのようにしないよう気をつけた。結果、甘やかしすぎたかもしれないな」
それは母が愚痴としてよく口にしていた言葉だ。だが、今思い返してみると、それは非常に的確な意見だったと思う。
厳しさは時折あったものの、ディンとユナは自由に伸び伸びと育てられた。
「サガリーが死んだせいか、命の大切さはお前にくどいほど説いたな。ただ正直、今思うと、少し言いすぎたかもしれないと後悔してる」
ディンはその言葉に訝し気な視線を向ける。
「命は大切だろ? いい加減に扱っていいものじゃない」
「その通りだ。だが、後生大事に抱え続けるものでもない」
命を脅かす危険はいたるところに潜んでいる。街の外で盗賊や犯罪者に遭遇することもあるし、森の中では危険な獣と向き合うこともある。
一生を安全な部屋に閉じこもれば、危険を避けられるかもしれない。しかし、それが果たして人間らしい生き方と呼べるのか、それは議論の余地があるだろう。
「その点は百も承知だ」
「なら良い……」
祖父エルマーは言葉を呑み込み、そのまま口を閉ざした。晩年の祖父は、特にこんな風に自分の言葉を押し殺すことが多かった。
「なんでロキドスが生きてるってはっきり俺に言わなかった?」
意味がないと分かりながらも、ずっと胸に抱えていた疑問を幻にぶつける。
祖父は立ち止まり、しばらくの間、遠く森の方をじっと見つめた。
「ぎりぎりまで信じたくなかったんだろうな……」
ぽつりとつぶやく声が風に溶ける。もし魔王ロキドスが生きているなら、すべてがひっくり返る。
勇者の地位も揺らぎ、孫たちが今の立場を失うかもしれない。その葛藤が祖父の胸にあったことは、ディンにも痛いほどわかる。
「年を取るほど決断力というのは鈍る。私の場合、言うべき言葉をぎりぎりまで言えなかった」
そう語る祖父はディンに視線を移した。
「ディン。勇者一族の誇りを持つのはいいが、お前は特別になろうとしなくていい。自分と家族を守り、平穏に生きられるならそれでいいんだ」
「わかってる」
「だから、ユナのことも……頼む」
「そんなことわかってる。当たり前だ。俺がいつもユナを守る」
エルマーはそこで言葉を切り、ディンをじっと見つめた。だが、何も言わない。
「なんだよ?」
祖父は答えず、再び歩き出す。ディンはその背中を追いかける。
「じいちゃん……言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「お前が弱ったエルマーの頭をずっと抑えつけてたんだろうが」
背後から響いた刺々しい声に、ディンは振り返る。そこには再びゼゼが立っていた。
「エルマーの晩年は好き勝手やってたな。勇者事業や本の出版、くだらないことに熱を上げて、家族との時間をおろそかにしていた」
「俺はやるべきことをやっていただけだ。ロマンピーチ家の繁栄のため、家族のため、そして勇者エルマーのためにな」
「自分の安い自尊心を満たすためだろうが。お前の中で都合の良い物語を作るな」
「ああ? わかったような口を聞くな」
「じゃあ、聞くが。エルマーはそんなことお前に一度でも頼んだか?」
ゼゼの鋭い問いかけにディンは思わず言葉を失う。背後を振り返ると、祖父の姿はすでに消えていた。
「本当はお前ともっと一緒にいたかったんじゃないのか?」
その言葉にディンは答えず、ゼゼを睨みつける。幻を相手にするのが馬鹿馬鹿しく思い、ゼゼを無視して歩き出す。
小道を進むと、目の前に大きな池が見えてきた。我が家が近いことがわかる。
その池はそれほど大きくはないが、澄み渡った水面が美しく心を和ませる。水辺にはベンチが並び、人々が集う憩いの場となっている。
何気なく水面を覗き込んだ時、ディンは異変に気づいた。そこに映っているのはユナではなく、ディン自身だった。
目線の高さからしてユナのはずだったが、姿も顔もすっかり元の自分に戻っていた。
懐かしさが胸を締め付け、しばらくその姿をじっと見つめた。
眠りについた後に見る夢の中ではいつも二十歳のディンとして過ごしていた。
そこに現れるのは貴族や、ライオネル、ポールといった社交場で顔を合わせる面々が多かった。しかし、次第に夢に登場するのは、魔術師団のメンバーばかりになっていった。
アイリス、ルゥ、タンタン、フローティア、そしてゼゼ。
だが、昨日の夢は、それまでと違う異変があった。
夢の中にいたディンの姿は……ユナだった。
「夢の中でディンじゃなくなったってことは、お前がユナとしての姿を受け入れつつある証拠かもな」
いつの間にか隣に立っていたゼゼは頭の中を見透かすようにつぶやく。ディンは水面に映るゼゼを睨みつける。
「いつだってこの糞チビエルフは俺を苛立たせるな。ネチネチネチネチ……さっきから何なんだ?」
ディンが問い詰めても、水面に映るゼゼは答えず、静かに消えた。周囲を見回すと、ゼゼはすでに先を歩いている。その背中を、ディンは再び追いかける。
やがて見慣れた景色が視界いっぱいに広がってきた。
家屋が肩を寄せ合うようにひしめく牧歌的な町並みは、ミッセ村の中心部だ。
少し進むと、朽ちかけた十字架が傾く教会の奥に、中央広場が見えた。
広場の中央にはぴかぴかに磨き上げられた勇者エルマーの銅像がそびえ、その片隅では白い大理石の噴水が、涼しげな水音を奏でている。
その風景にディンは安心感を覚える。一度瞬きすると、広場は人で賑わういつもの景色に変わった。どれも見知った顔ばかりだ。
いつも笑顔で挨拶をしてくれる黒髪美女のケイト、毎年いまいち美味しくない野菜を配るシューおばさん、祖父と長年の友人で教会に五十年近く勤めるカーター。
子供たちが楽し気に遊び、大人たちはベンチに座りながら和やかに語らい合う、「いつも通り」の光景。だが、もう一度瞬きをすると、その風景に異物が混じる。
魔獣がいた。
ゴブリン、ワイバーン、ケルベロス……一、二匹ではない。無数の魔獣が広場に押し寄せ、人々に襲い掛かっていた。昔からの知り合いが泣き叫びながら食いちぎられ、刺され、次々に倒れていく。朱色に染まるミッセ村の惨状が広がる。
胸が締め付けられる思いに駆られ、ディンは広場へ走り出した。
しかし、その行く手を阻むのは透明な壁。必死に突破しようともがくが、進むことは叶わない。
「助けようとして救えなかった命なんて掃いて捨てるほどある」
冷たい声が耳に響く。再び隣に姿を現すのはゼゼ。
「お前はこれをひどいとか理不尽だとか思うだろうが……一昔前まではこんなこと別に珍しいことでもなかったんだ」
魔獣に溢れていた時代、理不尽な死は日常だった。しかし、今目の前で起きているのは、自分の知る人々が命を奪われる光景だ。幻だとわかっていても、込み上げる不快感は止まらない。
「お前がずっと見て見ぬふりをしてきた数え切れない現実の一つだ。これらの屍の上に、今の平和が築かれてる」
「お前……死んでも説教か? 言いたいことがあるならはっきり言え!」
ディンは反射的に叫んでいた。
ゼゼは微動だにせず、静かに口を開く。
「なら教えよう。これからお前自身の奥深くにある闇を直視しなければならない。それを受け入れ告解することで、呪霊鬼は浄化される。今はその耐性をつける段階だ」
「こんなまわりくどいことせずに、さっさと見せろ!」
「相変わらず口だけは達者だな。さっきもエルマーの頭を抑えつけて言わせなかったくせに」
「さっき? 何のことだ?」
ゼゼはそれに反応しない。悪戯めいた笑みを浮かべながらディンを見つめる。ディンの苛立ちは募るが、深呼吸をして自分に「これは幻だ」と言い聞かせる。
そして、ひとつの結論へと辿り着く。
「なるほど。問いに対する忌憚のない答えを出せってことか」
――大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?
ずっと「わからない」と言い逃れてきた問題。だが、心の奥底に答えはあった。ただ、それを口にすることで自分の弱さやずるさを晒すような気がして、抵抗があったのだ。
それでも答えを告げることで呪霊鬼が浄化されるなら、もう逃げるわけにはいかない。
「問いに答えるよ」
「なんだ、急に?」
「ミーナの件だ。大量虐殺したミーナが魔王討伐に協力し、多くの人を救ったならそれは償いになるか? 答えはならない。虐殺された人々の遺族がその罪を許すとは限らないからな。罪を犯すとはそういうことだ。だから罪を犯した者は、許されないという罰を背負うべきだ」
ゼゼは無表情のまま聞いていた。
ディンはさらに言葉を続ける。
「だが、世界の危機を救ったなら贖罪にはなる。その場合……普通に生きるための恩赦は与えられてもいいと思っている。たとえ人殺しでもその権利はある……と思う」
「……」
長い沈黙が続く。
ゼゼはディンの瞳をじっと見据えていた。
その時間が気持ち悪く、思わずまくしたてる。
「もちろん、罪の自覚がないミーナに罰を背負わせるのは簡単なことではない。その点を詰める必要があると思う。あと、今の俺に都合が良い答えだってのもわかってるし、打算的な部分もあるが――」
「打算的っていうより……なんだか言い訳してるみたい」
ふと唐突に現れたのはフローティア。
道中で交わした会話の断片がよみがえるが、ディンの胸には妙な痛みが走る。
口を開くより先に体が硬直し、喉元に突き付けられたのは影針。
「嘘つきの匂いがする」
背後にまわるのはルゥだった。幻であるはずなのに、その圧力はディンを完全に縛り付ける。
「ディン・ロマンピーチ。あなたの根元にあるものは何?」
トネリコ王国でルゥに投げかけられた言葉。
謎かけのような尋問にディンは言葉に詰まる。
「お前の言葉のうさん臭さを内心、皆、感じ取ってたんだろうな」
ルゥが消えて自然と姿を現したのはゼゼ。
射貫くような瞳がディンを捉え、思わず息を呑む。
「……何がだ? 俺はちゃんと問いに対して真摯に答えを出した!」
それを聞いてゼゼは呆れたように笑う。
「ディン。二度言わすなよ」
「何が?」
「お前の中で都合の良い物語を作るな」
冷たい言葉が突き刺さる。ディンはゼゼの真意がわからず、その場で固まる。
「大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?」
ゼゼが鋭い眼差しをディンに向け、低く冷たい声で問いかける。
「お前はミーナに絡めて答えてるが……ミーナは一切関係ないぞ。これは正真正銘。お前への問いだ」
「何……? 俺? 俺が罪なんて――」
「本当か? 何も思い当たらないのか?」
容赦なく追及してくるゼゼが、ディンの目には忌まわしい何かに見えた。恐怖と嫌悪感が内側からじわりと湧き上がり、ディンはその吐き気を必死に抑え込む。
静寂が辺りを包む中、ゼゼは間を置き、死神のような冷徹な言葉を告げた。
「ディン。お前の根元にあるものは……本当に正義か?」




