第231話 王都に詳しいつもりでも、知らない場所なんていくらでもあるものだ
呪霊鬼の浄化がディンの役目だ。奥の祭壇の呼びかけに応じれば、万天門への空間が開かれることはわかっている。だが、問題は操られたニーズヘグの存在。
鋭い瞳でこちらを睨みつけ、いつ襲いかかってきてもおかしくない。
「奥の祭壇へ向かう必要があるが、ニーズヘグがその間おとなしくしてる保証はない。引き付け役が必要だな」
シーザの冷静な視線はニーズヘグを捉えたままだ。
「問いに応じた瞬間、ディンの意識は飛び、ユナの体は完全に無防備になる。その間、ユナの体を守る者と引き付け役に分かれるべきだ。引き付け役は命がけの役目になるが、耐えられる者に頼むしかない」
その言葉に全員の視線が自然とタンタンへと集まる。
高い継戦能力と防御力を持つタンタンは時間稼ぎに最適だった。
皆の視線で自分の役目を悟り、ため息をついてつぶやいた。
「ほどほどに頑張って囮役になるよ」
「洗脳系の魔術も使ってくる。絶対反応するなよ」
「大丈夫……この空間の異臭のおかげで正気を保ってられるよ」
役割が決まり、タンタンは迷うことなくニーズヘグに近づく。静かに完全な射程内に入ると、躊躇なく魔弾を放った。
魔弾はニーズヘグの鋼のような鱗に弾かれたが、この一撃によってニーズヘグの意識が完全にタンタンに向けられた。
「では、今のうちにどうぞ。戦果を期待してるよ」
振り返りざま、短く微笑む。その動作すら無駄がない。後方のディンたちは円を描くように移動を始め、祭壇へと向かう。
それを確認したタンタンは徐々に後退していく。ニーズヘグの視線はひたすらタンタンを追い続けていた。
唐突にニーズヘグが口を開き、放射状の強烈な魔力を解き放つ。それをタンタンが魔壁で受け止めた瞬間、激しい戦いの幕が上がった。
ディンは再び祭壇の前に立っていた。
少し離れた場所で、フローティアとシーザが見守る。タンタンが命を懸けて時間を稼いでいるので、のんびりしている暇はない。だが、万天門への空間に踏み込んだ時、時間の流れが現実とは異なる奇妙な感覚があった。
おそらく時間軸が違う。よって、ディンは少し時間をかけて心を整える。
落ち着いたタイミングで目を開き、祭壇奥の大木の彫刻に目を留める。
しばらく見つめていると、先ほどと同じように黄金の小鳥が羽を広げ、くるくると舞い降りてきた。
手を伸ばすと、小鳥はふわりと掌にとまる。
そこから波紋が広がり、それはやがて幾何学模様へと変わる。
問いかけの始まりだ。
【汝に問う。大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?】
その答えは未だわからない。
だから、ディンはありのままの言葉を口にした。
「わからない」
【答えを与える。万天門】
瞬く間に周囲の景色が暗転し、闇に呑まれる。そこから音もなく無数の光る扉が現れた。
星々が銀河に散らばるように、扉は輝きながら空間に浮かんでいた。
ディンは今、呪霊鬼の問いかけの入り口に立っていた。先ほどと違うのは、目の前で起きている現象の意味をはっきりと理解していることだ。
「扉を開けばいいのか?」
誰にも届かない小さな声でつぶやく。
【心の為すままに動けばよい】
声が直接頭に響いてくる。
もうすでに試されている。
何が正しくて、何が間違っているのか何もわからない。
だが、ここで何をすべきかは、なんとなくわかった。
ディンは目を閉じ、長い間ただ佇む。周囲は無音で、生物の気配もない。未知の空間だ。
にもかかわらず、不思議と怖さはなく、心地よさすら感じられる。
そんな感覚に誘われるように、足が自然と動き始めた。
地面という概念すら曖昧な銀河の中を、ディンはゆっくり進む。
目を閉じたまま進み続け、ふと止まる。
ゆっくり目を開けると、目の前に一つの扉があった。
開けても問題ない。
直感に従い、ディンはその扉を押し開けた。
扉の向こうに広がるのは、暗がりの路地裏。
ゴミや汚物が地面にこびりつき、汚染された泥水がボロボロの廃屋の屋根からぽたぽたと滴り落ちる。腐臭が漂い、妙に蒸し暑い。
ダーリア王国は基本的に過ごしやすい気候だが、八月中旬から下旬にかけては、太陽が怒り狂ったように暑くなる時期がある。
その時の不快な暑さに似ていた。
ディンはしばらく突っ立っていたが、人の気配がないことを確認し、意を決して路地裏を進み始めた。
暗がりの角を右に曲がり、さらに奥を左へ。右、左、左、右。
汗がじわりと滲む頃、日の光が差し込む大通りが見えてくる。路地裏の薄暗さから一転し、それはまばゆい輝きに満ちた場所のように感じられた。
ディンは駆け出し、大通りへと飛び出す。周囲を見回すと、そこは王都の見覚えのある通りだった。
多種多様な魔道具を扱う露店や活気溢れる飲食店が軒を連ねる場所。
しかし、今は人影一つ見当たらない。
「王都だったのか……」
ディンが思わずつぶやくその背後から、静かな声が響く。
「王都に詳しいつもりでも、知らない場所なんていくらでもあるものだ」
反射的に振り返る。白いシュールコーをまとう、その声の主を見て固まった。
肩に流れる白髪、尖った長い耳、射貫くような鋭い目。
低い背丈ながら、輪郭が浮き上がったように圧倒的な存在感。
そこに立っていたのは……ゼゼだった。
ディンは驚きのあまり、言葉を失った。目の前に立つその姿が幻であることは理解している。それでも、心の中ではその事実を消化しきれず、戸惑いが渦巻いていた。
「まだ妹の振りをしていたか。気色悪い男だ」
ゼゼが放ったその言葉に、思わずイラっとする。だが、すぐに言葉が出てこない。
ゼゼはディンを一瞥すると、嘲るような微笑を浮かべながら、ゆっくりと歩き出した。
その背中に引きずられるように、ディンは無意識に後を追う。
「先に言っておくが、私がロキドスに負けたのはお前が足を引っ張ったせいじゃない」
ゼゼは視線を前に向けたまま、冷静な口調で語り続ける。
「お前と別れた直後、私は消えた。複数の魔人に襲われても私が負けるはずはない。私に隙はない。では、なぜ負けたのか? 答えは簡単だ。人質を取られた。私にとって価値のある人間だ。そして、その人質を救うため、王都外に出てしまったんだ」
これはディンの憶測だ。だから、目の前にいるのは本物のゼゼではなく、ディンの心が作り上げた虚像だ。
だが、その背中に感じる圧倒的な存在感は、本物のゼゼと全く変わらない。ディンは黙って後を追う。
「もっとも私は百年前から一手詰みの状態だった。瞬間転移で王都の外に飛ばされれば、寿命が削られて死ぬからな。だから、それを防ぐ対策を徹底的にした。もともと誰にも頼らず信じない性分だったが、魔道具が広まったことでその傾向はますます強くなった」
それはディンが抱いたゼゼの印象だ。あまり人を寄せ付けなかった理由が、こうした背景にあると勝手に想像していた。
「戦いも一人の方がはるかに簡単だ。味方のいる状態の方が邪魔だった。おそらくいつの頃からか、『誰にも頼らない』という生き方が私の美徳となっていたのだろうな。その弱みをロキドスに突かれ、じわじわと追い詰められ……最終的にお前に頼らざるを得なくなった」
聖剣の塔の屋上で、星空を共に眺めたあの夜、ゼゼはディンを運命共同体として受け入れようとしていた。
だが、その直後、ゼゼの判断を狂わせる何かが起きて……
世界のバランスが崩れた。
平和を謳歌する人々は、その事実を知らない。
ゼゼは静かにディンの方を振り返る。
「まあ、ロキドスに負けたのは、長きに渡る自分の行いが招いた結果だな」
「……」
「にしてもよりによって妹の振りをした気色悪い男に頼るとは……私もずいぶんと焼きが回ったものだ」
冷たい嘲笑を帯びた視線と小馬鹿にしたその物言いに、カチンときた。
「この糞チビが……今だってお前のせいで命を賭けてる状態なのに――」
「いつだって生物は命を賭けて生きてる。明日、生きてる保証はない。それがあると錯覚してるのは、お前の死生観が麻痺してるだけだ。メメント・モリという警句を脳に刻め」
なんだ、こいつ。偉そうに。
ロキドスに負けた癖に。
ディンの怒りは頂点に達する。
「元を辿れば全部お前のせいだ! 自分の強さに依存して暴走しやがって! 冷静に協力し合えば勝てる戦いだったのに! お前のせいで難しい状況になった!」
ゼゼは全く動じず、淡々と答える。
「他者の強さを当てにして、他者のせいにする。相変わらず愚者の思考だな」
「ああ?」
「人格者の血を継いでも、優れた人格を持つとは限らない。お前はまさにその典型だな。私をどうこう言う資格はお前にはない」
ディンもゼゼにだけは性格のことを言われたくなかった。
ただまるで鏡に向かって話しているようで自然と怒りが冷める。
こいつはしょせん幻だ。だとしても言わずにいられなかった。
「なんでお前……負けてるんだよ」
ゼゼの口元から嘲りが消えて、遠くを見つめる。
「あの時、私は間違いを貫き通すと言ったが……もしかしたらとっさに間違いを正そうとしたのかもな」
「……」
背中を向けて、ゼゼは再び歩き出す。
気づくとそこはミッセ村だった。
王都とは対照的にのどかな田園風景が広がる。昔は田舎臭くて嫌っていた景色だが、今はなぜか心を落ち着かせる。自然に囲まれ、ほどよく人が行き交うこの村は、王都にはない安らぎがある。
現実でないとわかっていても、ディンは静かな心地よさに包まれる。
「子供のころはつまらない景色だと思っていたのに調子のいいやつだな」
ゼゼはディンの心を読んだかのように言う。
「十年後、二十年後、お前は今と違う感情を抱くだろう。そのたびに都合のいい解釈をして自分を納得させるんだ」
それは妙に冷たく、残酷に響いた。嫌な部分を突かれたような、気持ちの悪い感覚がディンを襲う。
思わずゼゼの背中を睨む。
「何が言いたいんだよ」
しかし、ゼゼは答えず、田園に続く小道を歩き続ける。
幻だとわかってるのに、感情が揺さぶられる。
一度立ち止まり、ゆっくり深呼吸した。
そして、冷静にここまでの出来事を整理する。
――大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?
これはミーナに会いに行く旅の道中でディンがたびたび考えていたことだ。
フローティアに問われ、直前まで頭にあったことでもある。
大量虐殺したミーナ。その罪に値する償いを果たすことで、果たして許されるのか。
その時代を生きる価値観や考えで答えの変容する問題。
この問いに対し、「わからない」と答えると、「答えを与える」と言われ、ここに導かれた。
この場所は明らかにディンの内面が投影された心象風景だ。
(今、どんどん俺の心の奥底に潜り込んでいるんだ)
扉を開いたことで、普段意識していない無意識の領域にディンは足を踏み入れた。
そして、今はおそらく問いに対する自らの答えを探し求める過程。
ゼゼがその案内人であると考えると、自然と納得がいく。
ゼゼはディンにとって直近で現れた糞ムカつくエルフだ。聞きたくない言葉を平気で吐く女。だが、同時にいなくては困る存在。
嫌いでも受け入れざるを得ない相手である。
この潜在意識の中には、自らの薄汚い考えや暗い部分も隠されている。それらを見せる案内人として、ゼゼは適役だと言える。
「なんとなく見えてきたな」
「何を言ってるかわからんが……お前はとてもずるいやつだ。嘘つきの天才といっていい」
ゼゼは突然振り返り、つぶやいた。
「自分すらもうまくごまかす。だが、お前の計画……ここでは看過されるぞ」
「計画?」
「お前の完全犯罪計画だよ。お前は最初から、それをずっと計画していた」
思わず眉をひそめ、口を開きかけるが、唐突にゼゼは姿を消した。
「ディン」
代わりに背中からかかったその声はとても馴染みがあった。
反射的に振り返る。
短い短髪と整った口髭は白髪に染まり、身長は高いが筋肉の衰えた体は薄く見える。それは老衰で亡くなる前の姿に近い。
「じいちゃん……」
「久しいな」
ディンの祖父、エルマーが立っていた。




