第230話 二回も死なねーよ
ニーズヘグはディンたちを敵として認識したのか、鋭く睨みつけ威嚇の態勢を取っている。
今にも襲いかかりそうな気配に、全員が身構える。
「タンタン」
フローティアが静かに呼びかける。
「まだもう一発、とっておきが撃てる。あなたが敵の注意をひきつけて欲しい。その一撃で決めてみせる」
「僕としては、わかりやすくていいね」
ニーズヘグから目をそらさず、シンプルな作戦を立てる二人。互いに言葉を交わすことなく、タンタンが一歩前へ出ようとしたその時――
「全員動くな」
シーザの鋭い声で全員がその場で固まる。
誰も動かぬまま、巨大な怪物、ニーズヘグとの沈黙の対峙が続いた。
「……やはり攻撃してこないか」
シーザはニーズヘグを睨み、ぼそりとつぶやく。
「どういうことだ、シーザ? 説明してくれ」
「ただのニーズヘグなら私たちは射程にいるから、ためらいなく攻撃を仕掛けてくるはず。それなのにまだ様子を伺っている……つまり、ニーズヘグは完全に霊鬼に乗っ取られている」
「攻撃の主導権は霊鬼にある、ということだな」
「ああ。ただ、そこに疑問がある。強いとは言ってもただの霊鬼が、ニーズヘグを完全に支配するほどの力を持っているとは思えない。となると、こいつはただの霊鬼じゃない……」
静かに間を置いて、シーザは口を開く。
「……呪霊鬼だ」
ディンだけじゃなくフローティアもその言葉にぎょっとなる。
――呪霊鬼には決して手を出すな
祖父の言葉が脳裏をよぎる。
人が霊鬼となり、さらに極めて稀に呪霊鬼という実体なき呪いへと変貌することがある。
呪霊鬼の出現自体、五十年に一度あるかないかというほどの希少な現象で、その多くは解決不能として放置されてきた。
なぜなら呪霊鬼の浄化には必ず命を懸ける必要があるからだ。
祖父エルマーもかつて呪霊鬼と遭遇し、撤退した記録が残っている。
「おそらくニーズヘグと邂逅し、殺された瞬間に呪霊鬼へと昇華したんだろうな」
「呪霊鬼は自らを呪いに変え、対象を蝕む存在だろ? ってことは、今はニーズヘグを呪っている状態か?」
「いや、これはもはや共生だ。おそらく呪霊鬼が魔獣に寄生したはじめての事例だろう……」
ゼゼが深く考えず、虚空間に大量の魔獣を放り込んだ結果、招いた厄災といえる。
目の前にゼゼがいたなら、恨み言の一つも吐きたいところだが、これはゼゼにとっても間違いなくイレギュラーだ。
「でも、呪霊鬼の呪いを解いた事例もあるんですよね?」
フローティアが正面を見たまま問いかける。
「ああ。有名なのがルシンダの呪いだ。聞いたことあるよな?」
ルシンダ・テンプルの呪いの家。
幼い頃に両親を亡くし、親戚に引き取られたルシンダは召使い同然に扱われた。顔に残る火傷の痕のせいか求婚者も現れず、雨の日も風の日も、ただ商人の家のために尽くし続ける日々。
四十歳になったとき、大きな流行病にかかり身体を動かすことすら難しくなった。すると、家長はルシンダに家を出て行くよう告げる。その瞬間、ルシンダは悟ったのだ。
どれほど尽くしても、自分はただの使い捨てだったのだと。
――この世界に愛などない
そう壁に書き残し、ルシンダは自室で首を吊った。
ルシンダの死後、その家に入る者は、不思議な問いかけを耳にするようになる。
――愛とは何ですか?
――愛に消費期限はありますか?
問いかけは絶え間なく続き、それに応じなかった者は数日後、必ず死んだ。その犠牲者は百人を超えたと言われている。
「ルシンダは霊鬼から呪霊鬼となり、その家をさまよった」
「その結果、復讐を果たした……か。その呪いはどう解いたんだ?」
「問いに対する答えは何でもよかった。ただひたすら話を聞き続ける。三日三晩、神官が問いかけを受け止め続けた末、呪霊鬼は消滅した」
当然、呪霊鬼を消す方法が常に同じとは限らない。
目の前のニーズヘグを乗っ取った呪霊鬼の浄化に必要な手掛かりは……一切ない。
「面倒だな。呪霊鬼がニーズヘグを操ってるんだよね? ってことはニーズヘグを倒せばすむんじゃないの?」
いかにも面倒くさそうな表情でタンタンは問う。
「呪霊鬼は実体がない。ニーズヘグを倒しても呪霊鬼は倒せない」
「だから! とりあえずニーズヘグだけでも倒しちゃえばいいんじゃないの?」
「呪霊鬼は言わば実体のない呪いそのものだ。ニーズヘグを倒した反動で俺たち全員死ぬ可能性もある。手順はまず呪霊鬼を浄化し、その後にニーズヘグを討つって感じだな」
ディンの説明にシーザはうなずくが、その表情はかつてないほど深刻だった。
「そんなに難しいのか?」
「はっきり言って呪霊鬼の浄化は命がけだ。一流の呪術師抜きだとかなり厳しい」
「呪術師抜きならどうする?」
「数で挑むしかない。何が駄目だったか試行錯誤しながら正解を探っていく。ただ一体の呪霊鬼を浄化するために、最低三十人は犠牲になることを覚悟しなければならない」
「……」
犠牲を前提とした解決策に全員が言葉を失った。
今、この場にいるのはわずか四人。浄化に成功するより、全滅の可能性が高い。
だが、他に道はない。
「いや、でもそれって強さは関係ないんだよな? なら、子供でも解けることがあるってことだ。運が良ければ、一発で浄化できるかも……」
鼓舞するようにディンは前向きな言葉を投げかけるが、シーザは黙ったままだ。
静寂が不穏な色を帯びて広がった。
その時、ディンは無数の扉が輝く銀河のような光景に入った時のことを思い出した。そのことを簡潔に説明する。
「もしかしてその扉のどれかが正解ってこと? 間違った扉を開けたらどうなるの?」
タンタンの問いに全員、黙る。そもそも扉を開けるのが正解なのかもわからない。
確かなことは何もない。博識なシーザでさえ何も掴めない。
長い沈黙が続き、それを破ったのはシーザだった。
「まあ……この中だと私がいくしかねぇな」
タンタンやフローティアは戦闘要員だ。魔術や魔獣の知識が最も深いシーザが適任なのは明らかだが……
「シーザ。解けるのかよ?」
「解くしかねぇんだよ……」
悲壮感溢れる表情を見た瞬間、ディンは悟った。
これは知識で解ける問題ではなく、シーザに勝算はない。
胸騒ぎが止まらない。
このまま行かせたら……シーザはきっと死ぬ。
その未来を想像しただけで、気持ち悪くなった。
唇を噛みしめ、明確な打開策が浮かばない焦りに苛まれる。
深呼吸して、高鳴る動悸を抑え、決意を込めて口を開いた。
「ま、待て……俺が行く」
それを聞いて自然とシーザと視線が交錯する。
「客観的に考えてこの中で一番可能性があるのは……一度あの空間に足を踏み入れた俺だ」
「……いや、駄目だ。お前に先陣を切らすわけにはいかない」
「でも、あの問いは俺に投げかけている可能性が高い」
――大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?
最初にこの問いかけを聞いたのはディンだ。
「別の奴が行けば、答えから逃げたと見なされて俺が死ぬ可能性だってあるはずだ……そうだろ?」
「……」
確かなことは何もないが、可能性として内在しているのは間違いない。
「いや、でも……」
「さっき無力化して戻ってこられた。やばくなったら無力化して戻る。それを繰り返して試行錯誤すれば……」
「待て。それだってたまたまだった可能性もある。無力化する行為そのものにペナルティがあるかもしれないんだぞ」
「どっちみちそれが一番可能性があるだろ」
それはあまりにもか細い可能性だった。
もし無力化が問答から逃げたとみなされれば、その時点で死ぬこともあり得る。
さらに現在のディンは継承魔術による赤の刻印が刻まれており、魔術を何度も使える状態ではない。
シーザは悩む。二人で行ければ最善だが、呪いを解く際には必ず一人ずつに切り分けられる。
デメリットばかりが目立ち、メリットはほとんど存在しない。
「俺は……なんとなく、解ける気がする」
それはディンの魔術師としての直感だったが、根拠も勝算もなかった。
「ちなみに洗脳されてないからな」
シーザはディンの目をじっと見つめる。
短い沈黙の後、低くつぶやいた。
「ディン……死ぬなよ」
「二回も死なねーよ」




