第229話 なかなか最悪の状況じゃない?
「で? この状況、どうみる?」
周囲をざっと見渡すが、天界への扉どころか敵の姿すら見えない。
答えのない問題に直面したかのように、ディンとシーザは中心部に佇んでいた。
隣のシーザもじっと考え込んでいる。沈黙が重くのしかかった。
「敵の姿が見えない。もしかしたらゼゼの仕掛けた罠か? でも、ゼゼの記憶を読む限り、そんな仕掛けはなかったはずだし……」
「ゼゼ様じゃねぇ。こんな罠仕掛ける理由がない」
シーザは即座に否定した。
「あいつらは霊鬼と戦ってたと思い込んでたよな? ってことは、まず間違いなくそいつの仕業だ。この空間に必ずいる」
天界への扉が見つからない理由も、この空間を霊鬼が完全に掌握しているとすれば、すべてが繋がる。
となると、まずは空間に潜む霊鬼を倒す必要がある。
「霊鬼って要は幽霊って解釈でいいのか?」
「それでいいよ。まあ、大半は放置してりゃ自然と消えるんだけど、中には具現化までして討伐しないといけないヤツもいる。ただ、そこまでいくのは本当に稀だ」
シーザの表情が自然と険しくなる。
嫌な予感がしているのか、その表情はどこか暗い。
「……強いのか?」
「霊鬼は強い奴は恐ろしいほど強い。これだけの幻術をかけるのは……正直やべぇな」
それを聞いて息を呑む。
もっとも霊鬼に有効なのは聖水であることに変わりない。
以前、トネリコ王国で聖水を用意していなかったことでマーリの魔獣に手こずった経験がある。
その教訓を活かし、ディンは聖水を撃ち込める魔銃を持ってきていた。
片手に装備した魔銃を見せつけるように構え、ディンは言い放つ。
「これさえあれば万全だ」
「まあ、ないよりはマシだけど……」
シーザは曖昧に濁しながらも、改めて周囲を見渡した。
「ディン、引っかかる部分は何でもいいから言え」
少しの間、どこか非現実的で輪郭が曖昧な空間を冷静に観察する。
そして、ディンは気づく。
「祭壇を中心に完璧に左右対称になってるな……いや、金の祭壇から伸びる大木の彫刻もだ。よく見たら花模様のタイルまで完全に対称になってる」
中心部から見るとそれは明白なのに、今までなかなか気づけなかった。
そう思わせない違和感がこの空間の不気味さであり、厄介なところだ。
「左右対称だと幻術もかけやすい。やはりこの空間のどこかにいるんだ」
シーザは断言するものの敵の気配はまるで感じられない。
シーザの視線が奥にある金色の祭壇へと向けられる。
「……祭壇が気になるの?」
「まあな。祭壇は魔術装置として機能する場でもある。そこから魔術を発動して、空間全体に影響を与えていると考えるとしっくりくる」
「祭壇を通してってことは、祭壇の近くにいるんじゃ?」
「いや、逆だな。幻術がかかりにくい、離れた位置にいる。だが、これほど強力な幻術を操るなら、空間の外ではないだろう」
シーザは腕を組み、思考を深める。
「敵はおそらくこの空間内で幻術の影響を最も受けにくい場所に潜んでいる」
そう言われてディンはピンときた。
「左右対称じゃない場所か!」
そして、思い出す。ディンは最初にそれを目にしていた。この空間において左右対称ではない唯一の場所。
「天井画」
二人そろって見上げた。
天井画に描かれたのは、ドラゴンに乗る黒装束の男。その男は三つ目の無機質な仮面をつけ正体を隠している。
じっと見つめていると、異変が起きる。
平面の画から仮面の男が飛び出てくるようにじりじりと輪郭が浮き上がっていた。
「あいつか!」
ディンは短く叫ぶ。仮面をつけた姿は一見すればただの子供に見えるが、その身から発せられる気配は明らかに異質だった。
「絵から出てきそうだぞ!」
シーザの警告に反応し、聖水を込めた魔銃を構え天井画に向かって連射。しかし、弾が仮面男に直撃する前に、魔壁が展開され防御される。
「幻術使い相手に安易な攻撃はやめろ!」
シーザに制止され、ディンは構えたまま止まる。やがて霊鬼は完全に絵の中から抜け出した。ゆらりと舞い落ち、静かに地面へと着地する。
シーザはそれを見て、舌打ちをした。
「いいか……ディン。私は今まで多くの霊鬼を見て来た。だから、わかる……こいつはかなりやばい」
「強いんだな?」
「ああ。とにかくどんな幻術を使うかわからないが、声に絶対反応するな。目を合わせるな。あと、触られるな」
「注文多すぎだろ」
一見すると華奢な子供のような姿の霊鬼はゆるりと立ち、こちらの様子をじっと伺っていた。殺意はなく、凪のように魔力も静かだ。敵なのに敵ではないような錯覚を覚える。
そんな掴みどころのなさが逆に不気味だ。
だが、それよりも気になることがあった。
「あのさ……天井画のドラゴンって有名だよな? 俺、見たことあるんだけど」
「ああ。私もだ。もしかしたら、これ……想像以上の最悪かもしれない」
霊鬼がゆっくりと右手を掲げる。すると天井画のドラゴンもじわじわと輪郭を浮かび上がらせ、絵画から抜け出し始めた。
それは伝説のドラゴン。倒すことのできなかった三大魔獣の一匹。
百二十年前、討伐を請け負ったのは最強の魔術師ゼゼ・ストレチア。
ゼゼとそのドラゴンの戦いの記録はどこにも残っていない。ただゼゼの当時の発言は記録として残っている。
――討伐はしていない。だが、無力化しておいた。今後、被害が出ることはない
その言葉通り、以来そのドラゴンは地上から姿を消した。
当時、ゼゼの言葉の真意を理解できた者はほとんどいなかった。しかし、この時、ディンとシーザはゼゼの行為の意味を悟る。
ゼゼはこの虚空間にドラゴンを封じ、永久に外へ出られないようにしたのだ。
ドラゴンは完全に絵画から飛び出し、地面を叩き割る衝撃音と共に霊鬼の傍に降り立つ。
その巨体は見上げるほど圧倒的で、黒い光沢の鱗は鋼よりも硬く輝く。
古の魔力を宿した肉体、鋭利な牙はあらゆるものを食いちぎり、蒼く澄んだ双眸は見る者に絶対的な恐怖を刻み込む。
ディンたちをその双眸に捉え、猛りを浴びせるような咆哮とともに、みなぎる魔力が爆ぜる。
その衝撃でディンたちは後方へと吹き飛ばされた。
それはかつてゴミも魔獣も人も食う悪食の蛇だった。それが魔力に満ちた伝説の古代樹の根を噛み砕き、その養分を吸い取った。
その果てに悪食の蛇はドラゴンへと進化し、膨大な魔法の力を手に入れた。
出会えば、死。逃れる術はない。
動く最悪の災厄。
「……ニーズヘグ」
その神聖かつ威圧的な存在感に、ディンの足は自然と一歩二歩後退する。
だが、ニーズヘグはディンたちを一瞥しただけで、すぐに隣にいる霊鬼へと視線を移した。それは同志を見る眼ではなく、明らかに獲物を狙う獣の眼つきだ。
「そうか! 悪食の暴れ竜ニーズヘグは魔獣も構わず喰らう! 霊鬼も関係ないはずだ!」
ディンの叫びに呼応するように、ニーズヘグは霊鬼へと狙いを定め、大きく首を振って勢いよく食らいついた。が、その瞬間、霊鬼は溶けるように液体の塊へと姿を変えた。
「なにっ! 形態変化するタイプか」
液体の塊はニーズヘグの体を滑るように這い上がり、口の中へと流れ込む。
ニーズヘグはわずかにうめき声を漏らすが、すぐに何事もなかったかのようにディンたちを睨みつける。
その双眸が蒼から紅に染まっていった。
「そ、そういうことか……マジで最悪じゃねぇか」
シーザの目は悲壮感が漂っており、声はわずかに震えていた。
「どういうことだ?」
「ゼゼ様は霊鬼とニーズヘグをそれぞれこの虚空間に封じた……間違いなく意図したことではないだろうが、よりによってその霊鬼がニーズヘグに寄生したんだ」
霊鬼がニーズヘグに取り憑いた状態らしい。
倒せば解決するように思えたが、シーザの表情はかつてないほど深刻だ。
【大いなる罪。それに値する償いをすれば許されるべきか、否か。汝はどうする?】
再び脳内に語りかける念話。ディンとシーザは黙り込み、ニーズヘグと目も合わせない。
沈黙の中、ニーズヘグは激しく咆哮を上げて、その圧倒的な魔力が爆ぜる。
凶悪な強さが空気を震わせ、その神々しい威圧感にディンとシーザは思わずその場で硬直した。
「二人とも下がって!」
後方で休んでいたフローティアとタンタンが駆け付けて、ディンたちの前に立つ。
頼もしい二人だが、ここに来るまで延々と戦い続けていた。
先ほどの戦いも重なって、消耗しているのは一目瞭然だ。
だが、二人とも疲労の色は一切見せない。
「で? これはどういう状況かな?」
「倒すことのできなかった三大魔獣とめちゃくちゃ強い霊鬼が合体して、超強いドラゴンが目の前にいる」
魔術扉を戻れば、ゼゼの虚空間から永遠に出られなくなる。
前門には最強のドラゴン、後門は地獄の迷宮。
退路はない。
タンタンは呆れたようにつぶやく。
「なかなか最悪の状況じゃない?」
「わかりやすくていいだろ?」
そう、選択肢は最初から一つしかない。
倒して道を切り開くだけだ。