第209話 ❇ ♅ ❇
蝶魔術はトネリコ王国で国宝と呼ばれる魔術だ。トネリコ王国でそれを知らない者はおらず国民の多くがそれを神聖視し、伝説の魔術と思っている。
もっともそう評価されるようになったのは、魔王ロキドスを倒して以降だ。
それ以前の蝶魔術はミレイヌしか扱えない希少性と美しい蝶を操る見栄えの良さで多少注目を集める程度のものだった。
実際、蝶魔術が戦闘において最も力を発揮するのは後方支援としての立ち位置であり、状況を打開する強力な攻撃魔術ではない。
利便性に長けており、応用も効くが、あくまで支援役。
単独では生きない魔術。
それが正当な蝶魔術の評価だ。
「でも、それを知るミレイヌ様は生涯魔術の研究をし続けた。そして、それを継承したミレイは弱点を補うためさらに研鑽を続けた。今の蝶魔術はシーザの知ってる頃よりずっと強い」
「継承魔術の恐ろしいところだよ。常に最強を更新する。だが、私はそれを踏まえて言ってる。すぐにやめさせろ」
あまりにも冷たい意見にディンは思わずシーザを睨む。
「そんなに強いのかよ……ダン・スメラギの音魔術は」
ディンとしてはいまいちピンとこなかった。
「ユナ様、シーザ様! お二人はもう少し距離を置いてください! 間違いがあってはなりませんから!」
イチはミレイから視線をそらさずディンたちに声をかける。
距離はあるが、その声は芯から響いてくる。
声を張ってるというより、魔力を声に乗せて飛ばしてる感じだ。
ミレイもイチから視線をそらさず、ディンに黙って指をさして屋根に行けと指示を出す。
お互いすでに臨戦態勢なのかこちらに一切視線を向けない。
「もう止めるのは無理だ」
少なくとも祖母のミレイヌを愚弄された以上、ミレイは絶対に引かない。
シーザは渋い表情ながら、ディンと共に大通りに並ぶ商店の屋根に上った。
奥まで伸びる大通りに二人以外の人影はなく、周囲は夜の静寂に包まれている。
屋根の上から宿敵のように対峙するミレイとイチを見下ろしながらディンは告げる。
「ミレイを信じよう。きっと勝てるさ」
「お前はダンの音魔術の強さを知らない」
「……そんなにか?」
「まあ、言いたいことはわかる。音魔術はロキドス討伐以前から評価の高かった魔術じゃないしな。ダンが特殊だったんだよ」
音魔術は声を遠くまで飛ばすというだけの代物だったが、ダンは違った。魔獣を破壊する音の波動を放つ攻撃魔術に昇華させたのだ。
もっともその凄さは勇者物語ではあまり伝えられておらず、ディンとしてもその強さの根元部分をいまいち理解できていなかった。
「音で攻撃するんなら、耳塞げばいいってわけじゃねーの?」
「マーリ程度の音の波動ならそれでも防げたが、ダンの場合は骨に響かせて内部の臓器にまでダメージを与えるからな。筋肉や魔壁とか関係ねーんだよ」
そこでようやく音魔術の厄介さを理解する。
「ガード無視の超音波攻撃を出せるってこと? 無敵じゃん」
「近いが、そう単純じゃないな。個体によって音への耐性は違う。かなり細かな音の調合が必要になるし、時に自分の身体にもダメージを負う。諸刃の剣ってやつだ」
それを聞いて祖父エルマーの話を思い出した。
ダンの魔術は二次被害がとにかくひどかった。基本、全方位に音をばらまくため、近くにいる冒険者や市民が音で不調になり身体を壊すというトラブルが絶えなかった。そして、それは当然仲間にまで牙を向く。
強力である一方、制御できない無差別攻撃は常にトラブルの火種となり、ダンは毎年のように喧嘩別れをしてパーティから追い出されていた。
圧倒的に強いが、仲間にはしたくない男というのがダンの評価だ。
転機となったのはダーリア王国に拠点を置いたこと。
そこで偶然、音魔術の被害を防ぐ魔術師と出会い、ダンは真価を発揮できるようになった。
その魔術師は他でもないシーザだ。
シーザは両手で魔術を唱える。
「吸音体」
シーザの周囲に豆粒ほどの小さな光る球体が大量に出現する。
「人体に害のある音を吸収してくれる上級魔術だ。仲間にあらかじめかけて二次被害を防いだ。これを使える奴はほとんどいないんだぜ」
光る球体が体に張り付くと全身が膜のようなもので包み込まれた。変化は感じないが、これで音魔術への耐性がある程度できる。
さらにシーザはディンたちを包み込むような透明な球体の魔壁を展開させた。
「ダンと行動を共にしてから開発した独自魔術で超音波を弾く。この二つを合わせれば音による二次被害はほぼ防げる」
「おおっ!」
素直に感嘆の言葉が出た。
今までシーザのことを軽く見ていたが、一緒に行動すればするほどシーザという魔術師の便利さを理解できる。
痒いところに手が届くような魔術をシーザは大量に持っている。
決して強くはないが、博識で魔術の応用も効く。
無人島やダンジョンなどの未知の場所に放り込まれた時、おそらく一番重宝するのがシーザという魔術師だ。
冒険者として祖父のエルマーがパーティに選んだ理由も今ならよく理解できた。
「今思ったけど、シーザって結構すごい魔術師なんだな……」
ディンなりの褒め言葉だが、シーザはこちらを見たまましばらくぽかーんと口を開けていた。
「えっ? 待って待って! 今さら? ガキの頃から私の凄さは散々言い聞かせてきたよな! お前、私をなんだと思ってたの?!」
シーザは心底信じられないような顔でディンを詰める。
小物感溢れる反応に、ディンの中で自然と褒める気が失せた。
「じいちゃんの後ろにくっついてる荷物持ちだと……」
「それは言い過ぎだろ!」
シーザは本気で怒鳴りつけるが、吸音体の効果で音が全く響かない。音量が落ちるというより、すべての音が中和されて不協和音にならないよう自動調整されているような感覚だ。
「まあ、とにかく。ダンの音魔術は特別だ。あの魔術はロキドスにも想定外だったようで効いた。そして、突破口にもなった。ミレイヌや私の代わりはいただろうが、ダンの代わりはいない。あいつがいなければロキドスは倒せなかった」
「……」
「ミレイが強いのは認める。だが、イチに勝つのは……」
シーザはその先を口に出さなかった。
膠着状態で固まっていたミレイが動いた。
夜空に大量に旋回されている蝶に向かって、ミレイは唱える。
「蝶星屑」
「❇ ♅ ❇」
イチが大口を開けて放ったそれはいくつもの言語を同時に重ね合わせて潰したような摩訶不思議な音だった。
無数の蝶が赤い星となって対象に襲いかかる……はずが上空を舞う蝶が全く反応していなかった。
「どういうことだ?」
「詠唱潰しだ。さっきの音でミレイの魔術語を潰した」
それを聞いてディンは呆気にとられる。
「いや、言えてないって! なんか騒音というか異質だった」
「イメージとしては百文字くらいをぐっと圧縮して一文字にまとめて詠唱してんだよ。正確にはわかんねーけど」
言葉で理解できるが、腑に落ちない。
正確な詠唱は魔術展開の基本だが、その法則から明らかに外れていた。
ダンの魔術の異質さを感じる。
「魔術師にとって魔術語は生命線だからな。これを潰されると実質、ほとんどの手を潰されるってことだ」
「……」
シーザは感心しつつも不安げな表情で戦いを見ていた。
ミレイはというと表情を一切変えない。
右手を上げて、再び唱える。
「蝶星屑」
「❇ ♅ ❇」
同時にイチの音により無力化。これによりやはり蝶は全く反応せずただ夜空を舞い続けていた。
「無駄だよ!」
イチはタガーを握り、ミレイとの間合いを一気に詰める。
間合いを詰めたイチとの間を遮るように蝶の大群が舞い降り、イチの動線を切る。
蝶の大群の壁を前にして再びイチは叫ぶ。
「❃❃ ☿ ❃❃」
不快な金切り音を複数重ね合わせたような不協和音で、イチの前で立ち塞がっていた蝶の大群が一瞬で散り散りとなった。
イチの視界が開けるが、その先にいるミレイは右手を突き出していた。
右手から高速で放たれたのはただの魔弾。イチはタガーを下から上に軽く振り上げ、果物を裂くように楽々と斬る。
「お手本通りだが、少々ぬるいかな! ミレイ嬢!」
イチは一歩で間合いを潰し、ミレイの懐に入る。
ミレイは身構えているが、一切動かない。
イチは最小の動きで振りかぶり、ミレイに斬りかかろうとした瞬間、
「カッ……」
イチの動きが止まる。身体が痙攣し、口から声を一時的に発せられない状態に陥っていた。
蝶魔術の使い手との戦いで呼吸するのは危険。毒・痺れ・眠りなど状態異常を起こす鱗粉を飛ばす。戦闘開始時から上空に舞う蝶の大群は人体を痺れさせる鱗粉を、イチに撒き散らしていた。
「おばあちゃんの魔術を、舐めるな」
ミレイは目の前で固まるイチに対し、振りかぶった拳を腹部に叩きこむ。
言葉にならない声を発し、イチは後方に吹き飛んだ。
コミカライズ5話公開中