第186話 もし足りないというのなら、それはあなたの覚悟だ
継承魔術はトネリコ王国の秘儀だ。当然、流出は禁じられており、その魔術を扱える国は他にない。トネリコ王国魔術師団内の特別な人間たちのみで継承魔術の情報は共有されている。
だが、継承魔術を他国の人間にかけることは禁じられていない。
よってダーリア王国の魔術師に継承魔術をかけるというディンの要求は無茶なものではない。
が、他国の人間に継承魔術をかけるのは厳密な手続きを踏む必要がある。誰が誰の魔術をいつどこで継承するのかなどのあらゆる細かな問答を累計五十枚ほどの羊紙皮に記入せねばならず、承認にも一年以上かかる。
流石にそこまで面倒な手順を踏む時間的余裕はない。そもそも魔王ロキドスの死体を扱う時点で承認されない可能性が高い。
よって、ディンは秘密裏に継承魔術をかける提案を暗にしており、ガスはこれを渋っているのだ。
魔術師団の支部団長であろうとも、勝手に他国の者に継承魔術をかければ、罪の対象になりうる。ゆえにガスが慎重になるのは当然だ。自然と口から出てくるのは模範的な回答。
「駄目と言ってるわけではない。ロキドスが生きてるとなると緊急事態に当たる。ただ国の秘儀が絡むというのは国益の話になるからね。ディン君の言いたいこともよくわかるが、これは私個人で決断していい事案ではない」
黙って聞いていたディンは首を傾けて反論する。
「がっかりさせますね。ガスさん」
「どういうことかな?」
「大事になればなるほど、私たちの出方が敵側にばれる可能性が高まるのは重々承知のはずです。にもかかわらず、自分の保身のためだけに秘密を公にするのは人のためになりますか?」
ディンは真顔で問いかける。
「君の言いたいことはわかるが、やはり私個人で抱え込める案件ではない」
「いや、抱え込んでもらう。なぜならあなたは伝説の魔術師、ミレイヌの一人息子だから」
それを聞いて、ガスは無意識のうちに軽く嘆息する。
ディンも祖父エルマーの名を使って説得しようとしてくる人間が嫌いなので気持ちはよくわかる。
「私には魔王退治に無償で協力する責務があると?」
「損得ではなく、正義の奴隷になるべき時がある。今がその時です」
「ディン君の口から出る言葉とは思えないな」
「歴戦の戦士の言葉を借りました。ミレイヌ様の息子であるあなたには響きませんか?」
挑発的な言い方にガスの視線が自然と鋭くなる。
お互いの視線が絡み合い沈黙が続く。
「君は継承魔術を甘く見積もりすぎてる」
ぽつりとガスは切り出す。
「そもそも絶対に成功することはないんだ。君は魔王ロキドスの死体から継承しようと考えているそうだが、それは無謀だ。成功率は限りなく低い。成功率の低い継承魔術を実施することほど不幸なことはないよ」
「対策はありますよ」
そう言ってディンが詳細を説明すると、ガスは驚き、少しの間固まる。
「そんなことが?」
「可能かわかりませんが、可能性はある。なのでそれに賭けたい」
ガスは継承魔術の研究者という顔も持つ。ディンの提案したものはこれまでにない実験であり、好奇心をそそるものであるのは間違いない。
だが、それでもガスの表情から後ろ向きなのは見て取れた。
よってガスが何か言う前にディンが言葉を投げる。
「さっきガスさんに責務があると言いましたが……勇者の孫である私にも責務はある。よってこの交渉において私の方が全面的に譲歩しますよ。すべては魔王を倒すためにね」
「交渉……とは?」
「継承魔術の使用を認めてもらえるなら、トネリコ王国魔術師団にダーリア王国の秘儀である魔術覚醒を与えます」
ガスだけじゃなくミレイまで驚きの表情に変わる。
「それは……」
「ゼゼ様はもういませんが、習得している者がいるので教えることは可能です。もちろん全員が習得できる魔術ではないのですが……」
「ちょっと待って! ディンにそんな権限ないでしょ?」
ミレイが思わず口を挟む。
「フローティアたちから許可を得てるよ。魔王ロキドスを倒すためなら些末なことだしな」
ディンはガスに視線を戻す。
「当然、他にもあります。一級魔道具を最低でも十点、トネリコ王国魔術師団に進呈しましょう。何か別の理由を添えてね。これだけでも十分検討に値するはず」
トネリコ王国では魔道具は貴重品であり、未だ一般市民にはほとんど出回っていない。貴族たちはコネを使って、魔道具を手に入れることが可能だが、一級魔道具はよほどのコネがないと手に入る機会はない。
よってダーリア王国では一級魔道具一つで家一軒建つと言われるが、トネリコ王国だと三軒建つと言われる。
その価値は計り知れない。
「さらに言えば、継承魔術を使用するのは私だけ。それ以外の人間には一切使わないと念書で約束します」
「そこまで……譲歩していいのかい?」
「今は何よりも優先すべきことがある。これでも足りませんか?」
ガスは表情を変えないが、その目には迷いが見えた。ガスは視線を落とし、黙る。
「もし足りないというのなら、それはあなたの覚悟だ」
「かもしれないな。今だから言うが、ミレイに魔術の才能があることを告げなかったのは私の判断だ。蝶魔術を継承する時も心のどこかで失敗することを望んでいた。そうすれば危険な目に合うことはないからね」
「お父さん……」
ミレイは複雑な表情でガスを見る。
ガスの気持ちがディンにはよくわかった。なぜならガスはディンと似ている部分がある。慎重で自分の周りにいる人間を大切にする。
だからこそ時に視野が狭くなる。
「君の話を聞いて心から協力したいと思っている一方で、心のどこかで関わるのを恐れている自分がいる。臆病な私を笑うかい?」
「笑いませんよ。逆の立場なら私もきっと同じことを言う」
それはディンの本音だった。
「でも、祖父の言葉をきっと思い出す。勇者の背中は自分の目に今も焼き付いているから。あなたの場合はどうですか?」
ガスは遠い昔を思い出しているのか、一点を見たまま固まる。
ディンの中に勇者の言葉があるように、ガスにも伝説の魔術師の言葉がある。ディンが大切にしているようにガスもそれを心に刻んでいる。
ガスは大きくため息をついて、ディンを見る。
「正直、母からの言葉はあまり思い出せない」
「……そうですか」
「ただ母の顔は今も目に焼き付いてる。毎日、毎日、ここに来る時、銅像の前を通るから嫌でも思い出す」
ガスの口から渇いた笑いがこぼれる。
「気分転換にどの街に行っても、銅像があるんだ。誇りに思う一方、母に見られてる気がして複雑な気分になる」
「……」
「ここで断ったら、母に顔向けできず、街を出歩けなくなりそうだ」
「ガスさん」
しばらくの間、お互い真顔で見つめ合い、やがてガスは口元を緩める。
「約束は守ってもらうよ」
「カーネーションの花に誓って」
それはミレイとの結婚を認めてもらう時に合意を得た時と全く同じやり取りだった。