122限目 右手を固く握って
「連絡をとって……水野さんはなんて?」
「あっちも、俺のことが忘れられないと言ってくれた。それに舞い上がった俺は、陽依が産まれたあとも水野と二人きりで会っていたんだ。……そしてお前が産まれる前にバレたんだ」
「……でもそのあとも関係を続けていて、俺が小さい頃再びバレた、と」
「……そうなる」
我が父ながら呆れる……俺はあの子もその子もと手を出してはいないが、この父なら将来的にそうなる可能性があるというのが何より認めがたい……何しろ、姉さんと結婚できないとわかった途端元カノと復縁しようとした雅紀さんという前例があるのだ。可能性はゼロではない。……まぁ雅紀さんは結果的にダブル不倫の申し子となってしまうような遺伝子の持ち主だからある種の被害者だけど……。
「……じゃぁ次、なんで俺と無理心中しようとしたの?」
「……矛盾している話なんだが……陽向はなぁ、もしかしたら聞いたかもしれないが……俺と母さんはお前の妊娠がわかった時、もしかしたら、と思ったんだ」
「……俺が無事で生まれてこない可能性があるって?」
「あぁ……母さんはもう40手前、ちゃんと子供を体の中で育てられずに流産になるとか、そうでなくても障害を持つとか、そういう可能性が高かった。でもお前は健康体で無事に産まれて、人見知りしないでいつも愛想が良くて……そして、俺にとっては孫でもおかしくない年齢だ。可愛くて仕方なかったんだ……」
姉ちゃんが言ってた通りだった、ということか。遅くに生まれた子だから可愛かった、だが大切にしたいと思ったのが姉ちゃんの想像ではなく父さんの本音だとしたら、ますます心中に走った意味がわからない。
「……二度目の不倫がバレて、自分に絶望して、死のうと思った。だが……お前があまりに可愛くて、手元に残したいと思ってしまったんだ。覚えていないと思うが、俺は夜中に家を出ようとしたんだ。その時偶然お前が起きてきて、不思議そうな顔して、『どこ行くの?』って聞いてきて……一緒に、と思ってしまった。正常な判断なんてできなかったんだ」
……全く共感できないが、とりあえず俺のことを思ってでは無いことはよくわかった。母さんがヒステリーを起こすからそんな家庭に置いておくくらいならと思ったとか、貧しい暮らしをさせるのは嫌だったとかそれならまだもう少し情を感じても良かったが……まぁそれでも、言い訳がましく俺のことを考えて、と言わないのは好感が持てる。よくぞ正直に話してくれた。
……殴られる覚悟はしておく、とかいってたよな。
「父さん、立って」
俺は立ち上がって、父さんにそう言った。父さんは困惑顔だったが立ち上がった。顔は流石に可哀想だし、腹でいいか。背丈的に良く入りそうだ。
俺はグッと右手を固く握って、父の薄い腹に一発拳をぶち込んだのだった。
呻き声を上げて崩れ落ちた父さんに、姉ちゃんは「自業自得でしょ」と言って笑った。俺もそう思うし、そう思うから殴ったのだ。殴るかどうかは父さんの弁明次第だったが、一発で終わらせて蹴りを入れなかった分ありがたく思って欲しい。
帰り際に、もう1回ボディブローを言葉で打ち込んでは置くけど。
「姉ちゃんは好きにすればいいと思うけど……俺は今後、父さんと会うつもりは別にない」
「陽向……」
「そもそも俺は父さんのことほとんど覚えていないし、今日もただの不倫した他人くらいの認識だし、母さんは確かにヒステリー起こしたりするけど、俺は母さんが嫌いじゃないからどっちの味方するかと言われたら母さんを選ぶ。その程度の存在だと思って欲しい。だからこれから、姉ちゃんと住むことになっても、どこに転校するとなっても、俺のことは気にかけなくていい。俺も気にかけないから。……まぁ、父親扱いされたかったから、母さんと仲直りでもしといて」
それだけ言うと、俺は玄関を開けて外に出た。2月の近づく空は、スッキリするほど高くて、気持ちのいい薄青だった。
あとは、あれから関わってこない伊藤さんとちゃんと別れて、試験に受かって、引越し準備をして、友達に別れを告げて──それから、愛に告白する。それが終われば、もう憂いはない。
「陽向、凄いはっきりと言ったね。でもいいの? 母さんと仲直りしたら父親扱いするなんて」
「うん。どの道あまり会わないだろうから、いいかなって」
「あはは! ……お昼ご飯どこかで外食して、帰ろっか。何食べたい?」
「んー、ラーメン!」
「おっけー、おすすめのところあるよ!」
俺と姉ちゃんは、笑いあって歩き出したのだった。
その日帰ると、母さんが誰かと連絡しているようだった。どうやら相手は父さんだったらしい。やっぱり連絡はとっていたみたいだ。俺が混乱したりしないように、今までは俺がいる前では連絡しないようにしていたのだろう。
「お父さんに色々聞いたのね」
「うん。蒸発したわけじゃなかったんだね」
「……そうね。でもそういうことにしておいたの。お父さんがどこにいるのか陽向が知っていたとしたら、陽向は会いに行こうとするでしょ? それは止めたかったのよ。あんなことがあったんだもの」
あんなこと……心中未遂か。母さんも本当に、幼い俺を大切にしていてくれたんだな。
「……仲直りはするつもり? 聞いたかもしれないけど、俺父さんと母さんが仲直りしたら父親扱いしてあげるって言っちゃったんだよね」
「それは相手次第よ。それに……やり直すなら、私も仕事変えたりしないといけないからね」
そうなことを言いながらも、母さんは少し笑っていた。笑う母さんなんて久々に見たな。……あの不倫男を父親扱いする日も、案外近いかもしれない。
──それから、忙しないながらも、ことは案外簡単に運んだ。
伊藤さんは少し不満そうな顔をしつつも、もう金輪際か関わらないでと俺に言われたことで諦めが着いたのか、喚いたりすることは無く、素直に別れを受け入れた。
試験には、何とか受かった。筆記がどうこうより、面接での印象が良かったんだろう。俺は昔からそう言うタイプだ。……頭が悪いから相対的に面接の印象が良くなるだけだとは言ってはいけない。そんなことはわかっている。
みんなは俺の試験結果を喜んでくれたが、その反面寂しいと言われた。そう言われるのは嬉しいことだが、今更じゃぁ転校しませんなんてことにはならない。橋本くんは送別会をしようと提案してくれて、俺の引越しの前夜、また焼肉に行こうという話になった。
引越しの準備も簡単に終わった。そもそも俺はあまり物をもっていない。服とか教科書とかその程度だし、そもそもその教科書だって2年生になるにあたって新しいものに買いかけなければならない。昔は自分で教科書を選ぶスタイルだったらしいが、今どきの高校は教科書指定だ。
制服も、別のものになる。今の高校ではブレザーだが、転校先は学ランらしい。髪の黒染めは面接前に落とした。久々の茶髪は懐かしいが、少し先生方の目が痛かった。髪の染色は当然禁止だ。それを破って黒染めしていたので普通に生徒指導に叱られたが、何度も世話にならざるを得なかった生徒指導の先生だ。俺の事情は理解してくれていたので結果的に許してくれたし、そのことは他の先生にも知らせてくれた。
漫研の先輩達にも事情を説明した。寂しくなると言って貰えたのは嬉しいことだ。申し訳ないのは、樋口くんが同じ学年では1人になってしまうこと。でも樋口くんは元々覚悟していたらしく、「まぁ適当にやってますので」と言っていた。




