第八話:シトラス・メモリー
俺と來美ちゃんの間に強めの風が吹く。Tシャツの裾が強く揺れて、思わず目をつぶってしまいそうになるが、お互いに目はパッチリと開いたままだ。体中の力が抜け、よろけてしまいそうな気がしたがなんとか持ちこたえた。目の前にいる來美ちゃんという存在が、今までのどんな場面よりも目に焼きつく。やがて数秒後に風が吹きやむまで互いに向き合い、その間身体は動くことを忘れていた。
「來美ちゃん……」
俺の体から、卵の殻を破るように出てきた言葉はこれだった。これしか言えなかった。存在そのものを心から求めていたせいか、名前を呼ぶというのをもっとも深く感じた瞬間だった。ずっと望んでいたことが遂に目前に迫っている。たちまち心臓の鼓動が激しくなりだし、喉元は何かを詰まらせたようにきつくなった。
「え、どしたん、その格好!」
「え?」
俺はやけに情けない声で驚いた後、Tシャツを引っ張ってみたり顔を触ってみたりして汚れていないか確認をした。案の定Tシャツは汗で体にくっついて、顔には全く記憶にない煤や汚れが付着していた。やってしまった、というような表情でゆっくりと來美ちゃんの顔を見なおした。
驚いていたはずの來美ちゃんの表情はいつの間にかいつもの無邪気な笑顔に変わっていた。俺のあまりにみすぼらしい姿に笑いがこぼれ出たのだろうか。この表情だ。俺はこの表情を待っていたのだ。
一段一段、ゆっくり階段を上っていく。一番上にいる來美ちゃんの元へ、渾身の力を振り絞って重たい脚を持ち上げながら。俺を見るのがそんなに嬉しいのかと聞きたくなるほどのいい笑顔で俺を見下ろす來美ちゃん。その笑顔を見たかったんだ。脚が攣りそうになり、かかとに疲れがたまる。よろめきながらもなんとか一番上の平地に足をかけたその瞬間、いい表情を保っていた來美ちゃんの目はあっという間に見開き、口は声にならない声をこぼし、眉毛はつり上がった。そんな來美ちゃんの表情を確認した後、視界がどんどんぼやけ、狭くなっていった。
――気付いた時には、俺は体ごと揺れていた。起床した時のように靄がかかったような視界は次第にはっきりとし、感覚も少しずつ戻ってきた。辺りは夕日に染められていて、“オレンジ色”というより“橙色”という漢字表記の方がよく似合っているほど濃い色で覆い尽くされている。辺りの景色を見まわし、ここがホタルの小川を少し越えた獣道のような細い道であることが確認できる。
そして気付いた。今、俺は誰かの背中の上だ。
ゆっくりゆっくり揺れながら進むその背中は鮮やかな青で、きゃしゃな体は熱をもっている。
この体つきといい、柔らかさといい、もしかして來美ちゃんの体だろうか。
多分間違いないだろう。目の前にある見覚えのある麦わら帽子がそれを証明している。
「なぁ」
「えっ? あ、あぁ、胤爽くんやっと起きたんやなぁ」
少々驚かせてしまっただろうか。來美ちゃんの背中にはしる一瞬の電気のようなものによってビクッとなったのを、腹のあたりで共有したような気がした。
「しかし重いなぁ、胤爽くん。よぉ筋肉が付いとるわぁ」
「あ、ごめんごめん」
きゃしゃな体からずり落ちるようにして降り、それと同時に來美ちゃんが腰を地面と垂直に戻した。
「っしょぉ」
腰に手をやり、背中を後ろに反らせる來美ちゃん。ワンピースからちょっとだけ覗かせた白い肌が妙に目の奥に残りそうで、申し訳なさで目を逸らせる。
「重かったんじゃろ。なんか色々ごめんね」
「あぁ全然大丈夫よ。いっつも親の手伝いしとるけんな。ほら、こんなに筋肉があるんやし!」
ノースリーブから伸びている白くて細い腕を九十度に曲げて見せてくる。その筋肉のなさに思わず拍子抜けの笑いが出た。
「全然無いじゃんか」
「え? そうかねぇ」
口をアヒルにして自分の二の腕をつかむ來美ちゃんは見ていてとても微笑ましく、自然に笑いがこみあげてきた。俺の笑いにつられて來美ちゃんも笑いだす。こんなに幸せな瞬間を、俺は今まで気付けていなかったなんて本当に嘘みたいだ。この気付かなかったうちに出来上がっていた來美ちゃんへの想いを伝えるのは今しかない。そう意識すると、手や足の先の方の感覚が徐々に薄れていき、無意識のうちに細かく震え始めた。肋骨を危うく割ってしまいそうなほど、心臓は激しく鼓動しはじめた。体が余計に火照りだして、じわりと汗が湧いてきた。もう夏の終わりだというのに、一向に涼しさを感じられない。
「あ、あのさっ」
「なぁっ」
勇気を振り絞って押し出した言葉は、ほぼ同時に発言された來美ちゃんの声と重なり不協和音を作り出した。その直後お互いに口をつぐみ、一拍の間が空いた。
「あ、來美ちゃんから先に言って」
來美ちゃん、という文字列さえも言うのが照れくさい。喉元がきつく締まるように息苦しい。
「いやいや、胤爽くんから」
もう何度も呼ばれているはずなのに、自分の下の名前を呼ばれるのも別の照れくささがある。
「いや、俺はいいけぇ」
「いやいや、うちも別に後でえぇし」
「いや、俺のも大したことじゃないけぇ」
「うちのもそんなに大事じゃないけん」
「いやいや、ホンマにいいけぇ」
「……うん」
終わりがないと察知したのか、來美ちゃんは勿体ぶりながら話し始めた。こういう小さい決断力さえも今の俺には足りないんだろうな。こういう大事な場面こそネガティブになってしまうのは、やはり自信のなさからなのだろうか。
「あのさ、純粋扉まで歩かん?」
「え、あ、ぉぅん」
まさかこんな些細なことだとは予想していなかった。確かに來美ちゃんの言うように大したことではないが、もう残された時間が少ない分、考えるのも勿体ないような気がしていた。
「ちょっと急ぐけん。あ、でも走ったりは絶対せんけん。大丈夫よなぁ?」
「あ、うん」
数十センチほど先にいる來美ちゃんは、いつものように先々行ってしまうのかと思いきや、何歩か俺の方に向かってきたかと思うと横にぴったりと付くように近づいてきた。俺は思わず歩きだしていた足を止めてしまった。
「ん? どしたん?」
俺を少し見上げるように覗き込む來美ちゃん。見つめあってしまうだけでも恥ずかしいのに、顔の距離の近さがさらに胸を熱くする。鼓動はもう心臓だけのものではなくなっていた。
「え、いや、別に何も」
無意識に照れ隠しをしてしまい、もごもごと男らしからぬ言い方をしてしまった。心なしか來美ちゃんは俺との距離を一定に保とうとしているようにも伺える。どこか怪しいような気もするが、悪い気はしないので特にそれについてふれることはなかった。
「そ、そっか」
いつも何の気なしに済まそうとする來美ちゃん。たまに俯いたり目を逸らせたりしていたが、今日の來美ちゃんは今までのそんな仕草とは比べ物にならないほどはっきりと目を逸らせた。というより、目や顔だけでなく体から逸らせて背中側が見えるほどだ。どうもいつもの來美ちゃんと様子が違う。やはり何かの事件にでも巻き込まれたのだろうか。
「なぁ、大丈夫か?」
「な、なにが?」
「いや、なんか様子がおかしいなぁと思って」
「そ、そう? いつも通りやけどなぁ」
アハハ、とわざとらしく笑って見せる來美ちゃん。そんな來美ちゃんに、どこか違和感を覚える。
「なんかあるんなら言ってみ? 解決するかもしれんじゃん?」
とは言うものの、絶対に解決させられるという自信も根拠もない。でも、何か役に立ちたいという思いが先に立ち、ついつい上辺ごとを口にしてしまった。
「……ちゃんと聞いてくれる?」
「え?」
「ちゃんとうちの話、笑わずに聞いてくれるん?」
そんなに変った事なのだろうか。ここまで焦らされては気にならないわけがない。何が何でも聞いてみたいというのが本音だ。
「もちろん。なんでも言ってみ?」
「じゃあ、純粋扉に着いてから。そっからゆっくり話すわ」
「そっか。分かった」
明らかに緊張している來美ちゃんを横目に、ポケットに手を突っ込む。歩幅は知らない間に徐々に広くなり、進むスピードもそれに比例して速くなっていた。來美ちゃんの話が妙に気になり、きっとそれが歩幅に影響しているのだろう。いつもなら先々進んでしまう來美ちゃんもついてくるのがやっとのようだ。
やがて橙色の向こう側に純粋扉が見えた。その堂々としている立ち姿は、まるで俺と來美ちゃんを昔からずっと待ち構えていたようにも感じる。近づくごとにツクツクボウシの鳴き声が大きくなるという事は、純粋扉に止まっているということだろうか。夏の終わりを嫌というほど感じさせるこの風景に、俺は心の中の物寂しさを隠すことができそうもなかった。
残り数時間で俺はこの場所を去らなくてはならない。今のうちに出来ることは本当に全てやっておきたい。これまでの來美ちゃんの強引さの理由を聞いておきたいし、昔の俺のことも聞いておきたい。さらには、昨日のキスの意味も。そして何と言っても來美ちゃんへの告白。もし成就したら、その柔らかい手をギュッと握って、その時の感覚を永遠に覚えておきたい。成就しなかったら、その時はその時だ。俺の中のネガティブな気持ちは、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
不意に横にいる來美ちゃんを見てみる。どこか緊張した面持ちで、でもその中に時々口だけにやけていたりしている。一体何を考えているのか分からない。これが女子というものなのだろうか。そして、なんとなくだが目の周りも若干赤らめている。これは泣いた跡だろうか。それともただ単に日焼けしたのか。その独特な沈黙に、下手に口も開けない。横目で顔を伺いながら何も話さずにいると、想像していたよりも早く純粋扉に着いた。
「なぁ、胤爽くん。純粋扉にもたれて座ってみてくれん?」
「えっ?」
「えぇけん」
「う、うん」
断る理由はないので、俺は戸惑いながらも純粋扉にもたれて座った。夕日に照らされた宇和海のキラキラした背景のなかに、來美ちゃんが立っている。辺りのみかん畑から香る優しいシトラス・フレーバーが顔を覆い、ツクツクボウシの鳴き声に心が落ち着く。いつまでもこの状態でいたいという気持ちは疲れからきているのか、それとも他に理由があるのだろうか。小さいころの記憶が何一つ思い出せないはずなのに、この落ち着きようは何なのだろう。この懐かしさは何だろう。それを今から教えてくれるのだろうか、來美ちゃんはゆっくりと俺の隣に体操座りをした。
「実はな、うち嘘をついとったんよ」
「嘘?」
どこで嘘をついたのだろうか。それらしい言葉づかいをしていたのをどうにか思いだそうとするが、思いつく前に來美ちゃんは話の続きを語り出した。
「ホタルをみた小川あるやろ? あれな、『最近見つけた』って言ったけど、実は小さい頃に胤爽くんと来たことがあるんよ。もしかしたら『それ嘘でしょ?』って言ってくれるかと思ってな。何かひとつでもええけん、うちとの思い出を思い出してくれたらなぁって」
「そっか」
確かにあの時、変に何も話さなかったような気がする。あの沈黙は風景への感動ではなくて、俺への無念だったのかもしれない。
「この純粋扉もそう。実はもともとはきちんとした家でな、二人でよく遊んどった離れの小屋だったんよ。それが不慮の事故で火事になってな、ほとんど燃えてしまったんよ。その中にはな、うちと胤爽くんが身長を掘った柱があってな。柱は残ったんやけど、身長を掘った跡は残らんかった。それを見た瞬間にな、もう胤爽くんに会えんっていう暗示なんやないかなぁと思うてな」
視線の先が遠くなっている來美ちゃんを横目に、何も言葉が思いつかない。
ひと言でもいいから気遣うようなことを言う事が出来ればいいのに、心の中でいい言葉を探しすぎて間が悪くなってしまう。こんなに期待を外しておいて、果たして告白など成功するものなのだろうか。不安な要素がじわじわと迫ってきて、徐々に心から猫背になっていく。
「そしたら急に、先月くらいかねぇ。久しぶりに胤爽くんがこっちに帰ってくるって聞いてすっごく嬉しくて。なんでもいいけん昔のことを思い出してくれたらなぁと思ぅて色々連れまわしちゃって。ホンマにごめんな」
「いや、全然そんな」
「純粋扉もホタルの小川も夏みかん畑のトンネルも、坊っちゃんスタジアムも全部、昔うちと行ったことがある場所でな。キャッチボールもよぅやっとったし、お互いの家にもよぅ遊びに行ったし、裸足になって道路の白線を歩いたことも何度もあったんよ」
「そうだったんじゃ……」
真っ白になった頭の中を、必死に探して出てきた言葉がこれだった。不可解な來美ちゃんの行動のひとつひとつが実は想像以上に深い意味があったのを知り、俺は愕然とした。それであんなに強引だったのか。最初に会った時、すごく折り目正しい女の子だと認識していたのに、次の瞬間から態度が豹変したのはきっと素の自分が出たのだろう。來美ちゃんが自分自身で作った性格に、俺は惹かれていたのか。そう考えると普通は熱が冷めてしまうものだが、なぜか冷めてしまわないのが不思議でたまらなかった。
「あ、アルバムなんやけど、結局見つからんかった。でもな、その代わりに大切にしとる写真を見つけたけん、見てみる?」
切なげな表情のまま視線を俺の方に向け直し、そっと答えを待っている來美ちゃん。罪悪感がたまらなく押し寄せ、何も言葉に出来ないまま二回頷いた。
「アルバムはな、実は小屋の火事で燃えてしまったらしいんよ。絶対に残ってたような気がしてたんやけどなぁ。存在が大きすぎて、亡くしてしまったことに気付けなかったみたい。でも、一枚だけ写真が見つかってな、それがこの写真なんよ」
そう言って、青いワンピースのお腹辺りにあるポケットから一枚の写真を取り出した。真っ白いはずの裏側はセピア調に軽く黄変しており、折れた時に直したのが伺える皺が何本も残っている。來美ちゃんから手渡され表に反した瞬間、俺は一瞬だけ記憶に残っていないはずの昔になぜか戻ったような気がした。
そこにはダボダボのユニフォームを着た少年と、満面の笑みを浮かべる少女と、見覚えのある白い学ランを着た青年が写っていた。場所はきっと家の前だろう。瓦の立派な屋根にはオレンジ色の夕日が降り注いでいる。
「これって……」
「うん。小さい頃のうちら。胤爽くん、全然変わっとらんなぁ。目のあたりとかそっくり」
多少丸っこいが、確かにこれはずいぶん昔の俺だろう。だとしたら隣にいる可愛らしい少女は來美ちゃんだろう。こんな子が知り合いの中にいたような気がしてきた。写真の來美ちゃんと、今の來美ちゃんを交互に見比べる。ずいぶん綺麗に成長したんだなぁとしみじみ感じた。という事は、写真の中の俺の肩に手を乗せている白い学ラン姿の学生は、もしかして高橋さんだろうか。
「これ、高橋さんが高校に入学した時の写真なんよ。うちらが幼稚園の年中さんになったばっかりだったはず。この次の日かなんかに入学式のために広島に向かったんかな。このとき確か胤爽くんが高橋さんに古いユニフォームを譲ってもろうて、それで着とるんじゃなかったかなぁ」
「へぇ。そうだったんじゃ」
どうりで見るからにユニフォームが大きすぎるわけだ。なるほど、と感心し、懐かしさも込めて軽く笑うと、來美ちゃんもつられて微笑んだ。
「この頃からほんまに野球が大好きだったんよなぁ。もちろんこれからも愛媛で続けるんやろ?」
「えっ」
少しだけ間が空いた。俺は答えに困ってしまい、口が動かせないでいた。
確かにこれからも野球は続けていく。だが、正式に愛媛マンダリンパイレーツで野球をすることができるかどうかは分からない。一応入団テストにはチャレンジするつもりだが、これは安易に考えられるものではない。今後の俺の人生を左右する大きな問題だ。
「え、せんのん?」
「いや、その……」
「入団テストは受けるんでしょう?」
「まぁ一応な」
小さく誤魔化し笑いをしてみる。今の俺は自分でもよく分かるほど情けない。ここできっぱりした言葉が言えるとカッコいいのに、それができない。まだまだ心に迷いがある証拠だ。
「チャレンジしてみよう? 大丈夫よ。胤爽くんなら頑張れるよ。な?」
瞬間、俺は喉の下の方に何物にも代えられない喜びを感じた。本気で応援してくれるのもそうだし、何より來美ちゃんに言ってもらえたのが嬉しくて仕方がない。鼻の下の汗が急に口の中に入ってきて、少ししょっぱかった。
「なぁ、この白い学ラン、見覚えあるやろ?」
「うん。そりゃあ」
まさしく俺が通っている広島水産高校の制服だ。ということは、高橋さんは俺にとって高校の先輩ということになるのか。
「胤爽くん、小さい頃にずっとこの制服に憧れとったんよ。そういえば『いつかはこの制服を着るんじゃ』ってずっと言っとったよなぁ」
そんなことを言っていたのか。すっかり記憶から無くなっていた。そういえば、なんとなく白い学ランを目指して頑張っていたが肝心な根本の理由が思いだせないままだった。
「で、年中さんが終わってから広島に引っ越して行ったんよな」
「よぉ覚えとるなぁ」
「そりゃあだって大切な思い出やもん。それに忘れられん失敗も重なっとるけんな」
「忘れられん、失敗?」
どんな失敗なのだろうか。少し俯き気味に唇を締める來美ちゃんに、恐る恐る問いかける。すると來美ちゃんはまた橙色の太陽の方を向き、ゆっくりと口を開いた。
「家の近くの最後の駅、覚えとらん?」
「家の近くの最後の駅?」
八幡浜駅のことだろうか。そこなら来た時もなんとなく懐かしさを感じたが、あそこは家の近くではない。家の近くという事は、まさか、あの廃線路の寂れた無人駅のことだろうか。
「今はもう廃線になっとるんやけど、ある駅があってな」
やっぱりそうだ。あの駅から廃線路に降りたとき、もしかしたら俺もそこにいたかもしれないという根拠のない想像は実は本当だったということだろう。
悲しい雰囲気を持っていたあの無人駅に活気があった頃を想像する。あのベンチにも何人もの人々が腰をかけ、小さい子供は胸を躍らせながら電車の到着を待っている。そんな姿が、ほんの十年前までは存在していたのだろう。月日がたつのは早いものだと改めて感じた。
「うちな、胤爽くんのお見送りに間に合わんかったんよ」
「見送り?」
「うん。あれは夏休みが終わる少し前ぐらいだったんかなぁ。最後の最後にいい格好しようとしてな。おしゃれとか、プレゼントとか、色々迷っとったら胤爽くんが乗る電車に間に合わんかったんよ」
夕日に照らされている來美ちゃんの目がいつもより潤んで見える。眉間にしわが寄り、だんだん鼻が赤くなっていく。
「そう、だったんじゃ……」
「うん」
よほど後悔していたのだろう。珍しくほんの少しだけ腫れている來美ちゃんの瞼は遂に我慢の糸が切れ、悲しみの雫が頬を伝ってポトリと地面に落ちた。それを見た俺は何も考えられなくなった。考えれば考えるほど答えは遠ざかっていく。こんな來美ちゃんを目の前にして、ごめんのひと言も言えなかった。
しばらくの間、沈黙が続いた。離れしていないせいか、時間がたつごとに話しかけづらくなり、言いだすタイミングを完全に失った。來美ちゃんの方もずっと俯いたままで、涙の跡が模様のようにくっきりと出来ていた。
昼の真っ白な入道雲は少しずつオレンジジュースに浸したような橙に染まっていく。雲と雲の間から覗く太陽は宇和海の水面に赤白く反射し、波間を揺れながらキラキラと照らしている。デジャヴだろうか、なんとなくこの景色を見たことがあるような気がしてきた。どこか儚い懐かしさで、心が晴れるというより落ち着くという言葉の方が似合っている。來美ちゃんはまだ俯いていて、涙の雫は一滴、また一滴と地面に落ちていっている。地面はそれを優しく受け止め、乾いた土で包み込む。俺もこんなに素直に優しく包み込んでやれれば、と考えれば考えるほど隣にいる來美ちゃんがやけに遠く感じてしまう。
そんな來美ちゃんがその重そうな口をゆっくりと開いた。
「昨日はホンマにごめんな」
「昨日? あ、あぁいや……」
きっと昨日の夜の“アレ”だろう。頭の中に昨日の夜がフラッシュバックされる。それと同時に顔から順に体中が暑くなりだした。首もとや手のひらはもう汗まみれだ。
「うち、どうかしとったわ」
「はは……」
切なそうに空を見上げる來美ちゃんにどんな反応をすればいいのか分からず、愛想笑いみたいな変に不器用な笑いをこぼしてしまった。結局昨日のキスは何だったのだろうか。多分、今がその真相を聞く一番のチャンスだ。ここを逃してしまうともう聞くことはできないだろう。大した反応も返せないのに聞きたい事だけ聞いてしまうのはなんだか悪い気がするが、どうしても我慢が続かなかった。
「あのさ」
「ん?」
來美ちゃんが素早く俺の方に顔を向ける時、頬にはもう涙の筋は濡れていないのが確認できた。ただ、瞼も鼻頭もまだ赤く染まったままで、『健康的な肌色』という従来の來美ちゃんのイメージとはまた違って見えた。
「あ、ごめんごめん、こんなみっともない顔しちゃって」
「いやいやそんな」
何度も謝ってくる來美ちゃんに、何度も軽い言葉を返す。こんな些細なやりとりでも罪悪感は募るばかりだった。
「で、どしたん?」
「その、昨日の……」
「何?」
キスの理由、だよ。頑張れよ俺!
「なんというか……理由っていうか」
「理由?」
「そ、その……き、キスの」
言った瞬間、歯ぐきから全ての歯が抜けてしまいそうなほど口の中がむず痒くなって、もごもごさせながら目線を逸らせる。この質問はさすがにまずかったかなぁと今更になって後悔してしまった。言った後にすぐさま目線を逸らしてしまったため、來美ちゃんがどういう反応をしたのか全く見えなかったのだが、この何拍もの沈黙から察してきっと引いたのだろう。
「そういうんは……ちょっとな」
「あ、うん。ごめん」
思わず鼻からため息がこぼれて、肩の力がすっと抜けた。それはそうだろうな。さすがに理由を聞くのは酷だった。気まずさから頭が上がらない。目線の先にある雑草をじっと見つめながら、ひたすら來美ちゃんが次に口を開くのを待った。待つことしかできない自分自身に別れを告げるために今日一日來美ちゃんを探していたのに、いざとなった時に萎縮してしまう。成長していない自分自身を今までのどの場面よりも恨んだ。
「キス、かぁ」
やっと口を開いてくれた來美ちゃんを見て、いつかみたいに胸をなでおろした。悲観的になりすぎている自分自身を奮い立たせようと前を向く。宇和海の綺麗な水面を眺めていると、不意にもう一度『告白』という一種の賭けが頭に思い浮かんだ。もうこうなったら結果なんてどうでもいい。伝わらなくてもいい。とにかく言って楽になりたい。そして、いい思い出として今度こそ記憶の中に閉じ込めておこう。言ってしまう事で次の恋につながるような気がしてきた。
「あ、あのさ」
「うち、昨日な」
搾り出した俺の声があまりにも小さかったせいか、來美ちゃんの発言と重なってしまった。それに気付いていないのか、ゆっくりとまた語り始めた。
「あれから申し訳なさとか色々あって、一人で蒲団にもぐって泣いてしまっとったんよ。そしたらいつの間にか朝になっとって。ホンマにうち、おかしいよねぇ」
へへ、と軽く笑っているが、その表情に明るさは感じられなかった。重苦しい空気が流れていて、どうも気の利いた返答ができない。
「でな、今朝、高橋さんが来てな、うちの顔を見たとたんに驚かれちゃって。さすがに泣きすぎとったんかね。気分転換にってドライブに誘ってくれて。胤爽くんが広島に帰ってしまうから挨拶に行こうかなぁって思っとったんやけど、それまでにまだまだ時間があるって思ってな」
それでどこにもいなかったのか。來美ちゃんの表情を見て咄嗟の判断でドライブに連れていくなんて、さすがは高橋さんだ。こういう來美ちゃんへの気遣いは、本人をよく知っていないと堂々と実行には移せないはずだ。やはり來美ちゃんに限らず女の人というのは、こういう男の人に惹かれるのだろうか。
「色々見に行ったんよ。綺麗な風景とか海とか。街に行って美味しいもの食べたりしてな」
「そっか……」
「でな」
そこで來美ちゃんの口が止まってしまった。丁寧に言葉を選んでいるのだろうか、口は動いているが声は出ていない。そんなに言いたくないのか、もしくは言いにくいのか。とにかく、目線を細かく動かしてはもじもじとしていたり肩をすぼめていたりする來美ちゃんが不思議でたまらなかった。
「ど、どうしたん?」
顔色を伺うように聞いてみると、來美ちゃんは唇を隠しながら困ったような表情で流し目で俺の方を向いた。その顔がみるみるうちに赤く染まっていったのは、きっと夕日のせいではないだろう。
「あ、あんな」
「うん」
胸の鼓動が來美ちゃんにバレてしまいそうなほど大きくなりだし、変な緊張感が辺りを覆う。きっと俺の顔面も來美ちゃんにつられて赤くなっているだろう。喉仏に大きな唾液の塊が通過する。そんな俺に向かって言った來美ちゃんのひと言に、体中の血の気が失せて、固まってしまった。
「告白、されちゃった」
「……え?」