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第七話:シトラス・シマー

 熱気立つ土手道を越えると、今度は海に向かって斜面を下るように小さな漁師町が広がっていた。

 軒先に座ってゆったりと世間話をしているお年寄り方に軽く会釈を交わしながら先を目指す。


 低く伸びているコンクリート塀は、まるで海まで案内してくれているかのようだ。

 勾配の角度はそれほど急ではない。斜面の街として有名な尾道と比べるとそれが良く分かるだろう。

 まるで迷路の中を進んでいくように、赤い瓦や青いトタン屋根の家々をくねくねと下る。錆びた鉄格子や宇和海からの磯の香りに、どこか懐かしさを感じる。きっとこの場所も昔来た事があるのだろう。そう思わせてくれる町並みだ。


 とうとう車もうまく通れないほど道が細くなった時、十時の方向にエメラルドブルーの宇和海が見えてきた。

 黒い石畳を真っすぐ下っていく。集落の先には船着き場があり、その隣には砂浜というより丸い石で出来た砂利の浜が広がっていた。

 太陽光を反射しながらゆったりと揺れる澄んだ碧は、どんなに綺麗な所を撮った写真も及ばないほど透き通っている。ここに来る途中に見た窓越しの青よりも今の方が綺麗だ。だがしかし、今この瞬間の碧よりも、純粋扉の前で來美ちゃんと見た藍の方がほんの少し優しかったような気がする。透き通る海水は歪みを持たせながら下の丸い石を映していて、河原のように水面は低い。そのせいか、想像していたよりも暗く落ち着いているような印象を感じた。


 その先に、先ほど見かけた來美ちゃんの幻らしき人影を見つけた。だがどこか來美ちゃんとは違う。落ち着いた碧に反するような派手な上着に水色と黒のボーダーシャツで、長い茶髪を頭の上でお団子にしている。多分女性だろうが、急なイメージチェンジなのか、それとも別人なのか。確認するために少しずつ砂利の浅瀬を進んでいく。履きつぶしたスニーカーが溺れてしまいそうになりながら噛みしめるように歩いていくと、それは幻では無く、來美ちゃんとは別の女性だった。


「あの……」

 後ろから恐る恐る声をかけてみる。もしかしたら來美ちゃんの事を知っているかもしれない。

「えっ」

 俺の声に驚いたのか、履いているサンダルのせいか、その人はキュッという音を立ててこけそうになったのを間一髪ギリギリ踏ん張った。

「あ、大丈夫ですか?」

「もう~、びっくりしたわぁ。もうタカちゃ……あ、どうも。違う人やったんか」


 汗をかいて濡れている前髪を直しながらそういう女性。俺を他の誰かと間違えたのだろうか。俺の事を上から舐めるようにしてみる女性。反対に俺は、その意外と露出度の高い服装のせいで目線の行方に困ってしまった。


「あんたぁ、どなたさん?」


 首をかしげる仕草は万人受けしそうな可愛らしさがある。だが來美ちゃんほど心臓に圧迫感がないのは果たして気のせいなのだろうか。きっと俺は、どんな事でも來美ちゃんと比べてしまうという変な癖がついてしまったのだろう。この人と目があっても來美ちゃんの時ほど熱さを感じないのだ。


「えっと……辻原という者です」

「はあ……」


 普段の道端でも女の人に話しかける事なんてできないのに、岩場の浅瀬でなんて上手く喋れるわけがない。ちょっと古びた言い方で言ってしまったせいなのかどうかは分からないが、目の前の女性は困った表情で受け答えてくれた。


「あの、篠浦さん、あ、篠浦來美さんって知ってません?」

 多少噛みながらぎこちなく用件を伝えると、女性は閃いた表情で俺を指差した。

「あ、例の來美の幼馴染の!」

「あ、そうですそうです」


 大きく頷きながら納得の表情ではにかんでくれる彼女。その表情は徐々に“はにかみ”というより“ニヤニヤ”に変わりつつある。

 俺の事をどういう風に言っていたのだろうか。こんな表情をするという事は相当変な印象を持たれているという事だろうか。少しどころではなくかなり気になる。


「話は聞いとるよぉ。あんたぁがそうなんやね。あ、で、どしたん?」

「あ、あの実は今日ちょっと広島の方に帰るんで、ひと言挨拶でも入れようかと思ったらどっか行っとるようでして」

「そうながぁ。うちら……あ、ホンマは男と一緒に来とるんやけど、まぁ今一人なんやけどね。今日はずっと海におるけど来とらんよ?」

「そうですか」

 やっぱりそうか。まぁダメでもともとだからな。

「うん。あ、連絡先とか教えてもらっとらんがぁ?」

「あ、はい。実は聞いとらんかったんで」


 眉間にしわを寄せてしばらく黙り込む女性。

 その間、一定のリズムで足元を濡らしていた波がいつの間にかスニーカーの中へと流れていっている事に気がつき、その冷たさにピクッとしてしまった。

「ちょっと移動しようか。ここで話すのもなんだしさ。ついてきなよ」

 さっきの俺のちょっとした動きに気づいてくれたのだろうか。こういう気遣いはありがたい。堤防の横に積んである消波テトラブロックまで先導され、ついて行った。


「実はここ、うちの家から近いんよ。まぁプライベートビーチみたいなもんかな」

「へぇ。凄いですねぇ」


 凄く申し訳ない気がするのだが、のんびりとしている暇がないのは分かっているので女性が話すのも半分しか意識がいかない。とにかく來美ちゃんの事だけしか頭にないせいか、声を声として認識することさえ難しくなっている。俺は何度も深呼吸し、苛立ちを抑えようともがいたが、どうも心は落ち着かない。わざとゆっくり目を閉じ、ゆっくりとまた目を開ける。透明感あふれる宇和海と人工的で真っ白な消波ブロックは本来見た目からして調和しないはずだが、ここの光景はそれぞれが見事に調和していて不思議な気分にさせられる。この景色もこの女性とでは無く來美ちゃんとだったらなぁ、と何とももどかしいばかりだ。


 宇和海の海水は濁る事は無く、敷き詰められている丸い石たちは光の屈折で揺らめきながらもはっきりと目に映った。二人で消波ブロックをのぼり、ちょうど自分たちの身長分程の高さまできた。海水に濡れた靴と靴下を脱いで、体の左側に置く。それとほぼ同時に女性も右隣の消波ブロックに座った。


「それじゃあ、私がこれしてみようか?」


 突然、女性が自分の携帯電話を軽く振りながら、閃いたように勢いよく声をかけてくる。傍にいた小さな黒いカニも驚いたようにその場を去っていく。


「あ、じゃあ、お願いします」

「了解!」


 学校の教室の後ろの方でやっているようなやりとりに変な親近感が湧いてくる。女性は素早くボタンを押して、携帯電話を耳に当てた。何もしない数十秒間、潮騒と時々遠くから聞こえてくる汽笛だけが耳に入ってきた。


「うーん。どうしたんやろ。いつもなら出るはずなのにぃ」


 わざとらしく音を立たせながら携帯電話を閉じ、後に手を付く。浜風でなびくシャツが妙に色っぽくて苦手だ。もしかしたらこの女性はわざとやっているのだろうか。わざと肌を見せて迫ってくるのだろうか。決して悪い人ではなさそうだが、どうもおかしく感じる。


 と、不意に來美ちゃんの姿が重なって見えた。そう言えば來美ちゃんもこの女性と同じように大胆な行動をとっていた。でも來美ちゃんがとる行動には何の疑問も起きなかった。だとしたら、もしかしたら俺が昨日風呂場でこの想いに気付くずっと前に、來美ちゃんの事を心の奥では意識していたのだろうか。だから大げさに大胆だとも感じなかったのかもしれない。存在としての來美ちゃんだけをただただ本能で感じていたかっただけで、本当の來美ちゃんは見えていないのかもしれない。結局、俺は來美ちゃんという一人の女性をきちんと見ることができていなかったということなのだろうか。


 急にこの女性と一緒にいるこの瞬間に後ろめたさを感じ、下を向く。消波ブロックを隠れ棲家にして、黄色と白のシマシマが光って見える綺麗な熱帯魚がいる。さっきよりも潮騒が耳の中でよく響き、裸足になった足の裏の真下に広がる小さな潮の気泡の塊が細かく弾けているのがよく見える。


「おーい」

 遠くのほうから誰かの低い声が聞こえてきた。声質からして男性だろう。

「あ、こっちこっち」


 消波ブロックの上に立って大きく手を振る女性。その視線の先には色黒の青年がこちらに向かって砂浜を走ってきている。その色黒の男ははじめは笑いながら走ってきていたが、一度俺と目が合ってからその表情が一変した。ジョギングほどのスピードだったのもいつの間にかダッシュに変わっていた。消波ブロックの元まで着くと、色黒の男は消波ブロックに手をつきながら荒い息で怒鳴ってきた。


「おいお前っ! 人の女に手ぇ出すんじゃねえよ!」

「いや、これは、これは違うんですよ。そう、そういうんじゃなくて」


 とっさのことに頭が対応できず、呂律が回らない。走ってくる色黒男をぼーっと眺めずに、しっかり身構えておけばよかった。慣れた手つきで勢いよく上ってきた色黒男は俺の目の前までくると力強くTシャツの胸倉をつかんできた。喉がきつく、呼吸がしづらい。野球部時代の悪ノリで多少は慣れていたものの、本気のそれは正直言って凄く辛い。


「ちょ、違うけん! この人はそういうんやなくて」


 さっき色黒男に手を振っていた女性が隣の消波ブロックから乗り移ってきて、俺と色黒男の間に割って入る。色黒男のほうもどういうわけか女性の言うことを素直に聞き、パッと手を離した。その瞬間一気に楽になり、俺は目を見開いたまま大きく息を吐いた。女性は色黒男を一気に引き寄せ、何やらひそひそ話を始めた。色黒男はその険しい表情を徐々に緩め始め、ついにはニヤつきながら頷き始めた。


「なるほどね。そういうことね。なるほど。うんうん」


 何の話だろうか。まさか俺のことを『來美ちゃんに逃げられた情けない男』とでも称しているのだろうか。もし本当にそうだったら流石に俺も怒りを抑えることができない。だがもしそうでなかったとしたら何なのだろう。いつものように悪い想像が頭を駆け回る。


「來美ゆうたら、篠浦さんちのあいつか?」

「そうよ」

「篠浦のやつがどうかしたんか?」

「実は連絡も通じんらしいんよ。どこにおるんかも分からんし」

「そうなんかぁ」

「うん……」


 女性と色黒男のひそひそ話も徐々に大きくなり出して、はっきりと聞こえるようになった。話題からして來美ちゃんのことだろう。今頃何をしているのだろうか。何か事件にでも巻き込まれたのだろうか。心の焦りはすぐに体に現れ、焦りを流そうとしているのか、胸のあたりに大粒の汗がじわりじわりと湧き出てきた。


「それより、はよ謝りぃな」


 女性が色黒男の肩を押す。それを受けた色黒男は俺のほうに向き直し、目線をちらちらと逸らせながら頭を掻いた。


「なんかいきなりすまんかったな」


 女性のほうも一緒に小さく「ごめんなさい」と言ったのが聞こえた。あんなニヤつき顔からいきなり真剣に謝られてもどういう反応をすればいいのか分からず戸惑ってしまう。


「いや、別にそんな」

「この男、ほんまにアホみたいやろ。ほんとにごめんねぇ。……ほら、ちゃんと頭さげぇ」


 女性は無理やり色黒男の頭を後頭部から倒した。この男、かなり女性の尻に敷かれているのだろう。色黒男のお母さんのような振る舞いをする女性を見ればそれがよくわかる。


 と、そんなことを考えている場合ではない。早く來美ちゃんを探し出さないと広島に戻る船がなくなってしまう。最悪もう一泊というのも考えられるが、それでは宿題も新学期の準備も間に合わない。高校野球から引退して何も手をつけていなかった自分に後悔するとともに、タイムリミットというもう一つの焦りをも抱えてしまった。


 二重の焦りに困惑していると、ポケットの中で携帯電話が細かく震えだした。何かいい知らせなのではないかととっさに判断し、素早い手つきで携帯電話を開く。メールが一通届いていた。変に心臓の鼓動が大きくなりだし、口の中が乾いてくる。差出人は……あの親友からだった。


『それもう告白しちゃえって!』


 分かってるよ。心の中でそう呟く。分かってる。今すぐにでも伝えたい。でも、どこを探してもいないのだ。伝えたくても伝えられない状況にもどかしさを感じずにはいられない。そんな状況でこんな軽い文章が送られてくるなんて。「空気を読め!」と今すぐ怒鳴ってやりたいが、広島にいる親友に今こんな状況にいるなんて多分想像できていないだろう。だんだんこみあげてくる苛立ちが俺の腕を勝手に動かす。携帯電話を持っている右手を素早く上に向かって振り上げ、一気に下にたたきつけようとしたその瞬間、俺は打開策を見つけた。


 力強く携帯電話の操作ボタンを押していたせいか、メールの画面は下にずっと下がっていた。さっきの空気を読めていない一文の下に、実はもう一行あったのだ。


『てかさ、その子のホームページとか無いん?』


 それを見つけたこの瞬間の俺の表情は、きっと凄いことになっていただろう。そうだ、ホームページがあったのだ。メールアドレスも電話番号もない俺に唯一残された手掛かり。ホームページというと日記の機能がまず思い浮かぶが、これだと前日までの情報しか分からない。だが、リアルタイムといってちょっとした出来事をを簡単に気軽に更新できる機能も中にはついているというのをあの親友から聞いたことがある。これを見れば数分前の出来事さえも知ることができるはずだ。今日のこの時間のことについて書かれているとは限らないが、確率はゼロではない。俺の頭の隅に希望の微光シマーを感じた。俺はポケットから携帯電話を取り出し、慌てながらも來美ちゃんのホームページを開く。日記の下にある『リアル』というこれがそうだろう。震える指先でボタンを押す。オレンジ色の背景が一気にブルーの海の画像に変わり、一行日記のようなものが表示された。


「昨日のが最後かぁ」


 昨日の晩に一言、『とうとうある人が広島に帰ってしまう……』とだけ更新されてあった。このある人というのは多分俺のことだろう。細かいことを挙げれば、俺が広島に帰ることについて來美ちゃんはどう思っているのか知りたかった。しかしそれさえも書かれていないし今日の動きに関してはまったく書かれておらず、また耳の後ろから変な汗が一筋流れたのに気づくほど一気に力が抜けた。


「え、なぁ、どしたん?」


 後ろから女性と色黒男が俺の背後から携帯電話の画面を覗き込んできた。さっきまで俺の目の前にいたはずなのに、いつの間に背後に回ったのだろうか。驚くほど素早いのか、もしくは俺がホームページに夢中になっていて気付かなかったか。とにかく、二人は鼻の下を伸ばしながら画面にくぎ付けになっている。


「電話やメールが通じないならホームページを見れば情報が手に入るかなぁと思いまして」

「で、どうなん?」

 女性が色黒男に掴まりながら身を乗り出して聞いてくる。

「いや、その、今日のことは書いてなくて……」

「そうながぁ。あっ、んなら、もっと昔のやつに戻ってみたりすれば?」

「なるほどぉ」


 俺は今開いているページを下にゆっくりスクロールしていき、一番下に次のページに行けるところを見つけ、それをクリックした。画面上に小さい砂時計が現れてそれをじっと見ながらページが開かれるのを待つ。この時間が思いのほか長くてじれったい。ようやく表示されると数日前の出来事が事細かに記されていた。このページを開く時間は今考えてみれば実際はほんの数十秒だったかもしれない。だが、急いでいる俺にはその何倍もの時間がかかったような気がして変な気分になる。俺は一人一人の時間軸が心理的には全く平等ではないものなのだと改めて実感した。


 開いたページに記されている懐かしい最近の数日間の日々。俺にとっての数日間は後から考えるととても有意義なものだったが、來美ちゃんはどう感じてどんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。簡単な一行一行にはほとんど感情がこもっておらず、ただ淡々と出来事を記してあるだけだったので、感情や心情を察することは難しかった。


 しかし、俺はその中に気になる一言を見つけた。それは、この前に來美ちゃんと野球を観に行き、純粋扉やホタルの小川を見つけた日の夜に記されている言葉だった。


『純粋扉のあの日の約束も忘れちゃったのかな』


 あの日の約束というのは一体何のことなのだろうか。愛媛に来た最初の日に何か交わしていたのだろうか。それか広島に引っ越す前に何か約束を交わしていたのだろうか。考えても考えても思い当たる節はなく、気になるまではすっきりしないということでもっと前の一言を読み進めてみた。


『ついに明日、ある人がこっちに戻ってくる!』

『明後日が待ちきれない!』

『あと一週間……』

『来月、なんか懐かしい人が帰ってくるらしい』


 みんな俺のことばっかり。こんなに楽しみにしていてくれたのに、俺は何も知らずに「覚えてない」の連続で。悪いことをしてしまったという思いが胸を縮めるように圧迫する。今すぐ謝りたいのにそれもできない。俺の前ではいつも笑ってくれていた來美ちゃんは、実は俺がいない間はきっと悲しさと虚しさでいっぱいだったのかもしれない。


 ため息の数だけ幸せは逃げていくというが、もう既に來美ちゃんという幸せはどこかへ行ってしまった。絶望と後悔で体も心も重たくなって、ため息にならないため息をついた。

 その瞬間、携帯電話の画面に赤い表示が出た。充電がなくなったのだ。


「え、嘘、充電したはずなのに……あっ」


 確かに昨日、充電器をプラグにつないで本体を枕元に置いていた。しかし俺は思い出した。今朝起きたときに、プラグからコードが抜けていたのだ。きっと寝像の悪い俺の腕がふとした瞬間に引っ張ってしまったのだろう。悪いことは重なるというが、このタイミングは残酷すぎる。とにかく、最悪のタイミングで充電が切れたことに対して、残念を当に通り越して自分自信の運を怨んだ。


「ちょ、すみません。もう諦めて帰ろうと思います」


 俺は半分俯いたまま消波ブロックの上で立ち上がり、白い消波ブロックを伝って堤防まで乗り移り、その低めの堤防を飛び降りた。着いた道路はうすい灰色で、細かい石のかけらのような砂が日の光を受けて硝子のように光っていた。


 先ほどの女性や色黒男が何か声を掛けてくれたようだが、それを音としてではなく声として聞きとれるほどの余裕は心に残っていなかった。

 またさっきの小さな港町に戻ってきたわけだが、先ほどとは景色が全く違って見える。駄目で元々だと言い聞かせながらここを訪れたわけだが、小さな希望を持っていた分、心と体に応えた。とくに足は鉛をつけたように重たい。


 ここに着いたときとは違う道に向かって引きずるように歩を進める。緩やかな石畳の坂道をくねくねと上り、土手道まで戻ってきた。向こうのほうにあの廃線路と岩のような駅があるが、そのもっと先から歩いてきたことを考えると心が萎えた。


 心も足も折れそうになった頃、右手の方向に石垣に隠れるようにバス停の看板が立っていた。その傍には古びた待合所も構えるように建っていた。

 そこからバスに乗ってとりあえず叔父さんの家に戻ろう。荷物を取ったらバス停まで歩き、電車に乗って松山まで行き、広島に帰る。この数日間、一気にいい思いをさせてもらったんだ。それを用意した運命ってやつもきっと疲れているのだろう。最後はひっそりと普段の生活に戻れそうだ。そんなことを考えながら待合所まで、棒と化した足首を無理やり持ち上げるように歩いた。


 果てしなく続く道路はほぼまっすぐに伸びており、遠くのほうでは陽炎がゆらゆらと漂っているのが確認できる。だがさっきまでしつこいほどに現れていた來美ちゃんの幻はもう見えてこなかった。ただ蒸し蒸しするぬるい風が首のあたりを確実に湿らせてくるだけだった。


 やっとのことで待合所の腰掛けまでたどり着き、後ろにもたれかかるように座った。木製のそれは堅かったが屋根のおかげかひんやりしていて気持ちいい。全身の力を抜き、まっすぐ一点に海辺を見つめる。淋しそうに鳴く蝉々に聞き耳を立てていると夏の終わりをしみじみと感じる。汗が視界をふさぎ、背中を濡らし、ももの裏に溜まっていく。決して気持ちのいいものではないが、この何とも言えない風情をもう次の夏まで味わえないのだと受け止めなければならないことが残念で仕方がなかった。


 そういえば今何時頃なのだろう。もうとっくに正午は過ぎてはいるのだろうが、まだ夕方ではなさそうだ。こんなことなら腕時計を持ってくればよかった。腕時計の代わりとでも言うのか、腹時計が体の内側でゴロゴロと鳴った。結局、昼飯はまだ食べてなかったな。空腹で頭が回らず、もはや腹が減っているのも気付けなかったようだ。とりあえず叔父さんの家まで戻ったら何か食べさせてもらおう。 体が急に痩せこけてしまったような気分になりながらバスを待つ。待合所に貼られている時刻表もインクが色あせてもう何が書いてあるのかほとんど分からない。うっすらと見える字をよくよく見ると、ほとんど一時間に一本のペースだということがなんとなく確認できた。バスの種類も一種類。ということは、バスにさえ乗ることができれば帰ることができる確率はぐっと上がる。


 とりあえず今の時刻を午後四時と仮定する。今から一時間以内にバスに乗れて最悪でも午後五時。さっきの二人が來美ちゃんの知り合いだということは、ここはそこまで遠い場所ではないはず。だいたい二時間以内には近くのバス停まで着くだろう。


 そう考えているうちに來美ちゃんと一緒に乗ったあのレトロな車体が荒々しいエンジン音と共に近づいてきた。早速という文字通り素早くバスに乗り込み、一番後ろの席に腰掛ける。意外と思っていたよりも早くバスに乗ることができ、いまだにゴロゴロと鳴り続ける腹もその音が喜んでいるように思えた。緑色のシートはいつかのあの時と同じように心地よく、來美ちゃんがついついうたた寝してしまうのも頷ける。やがてバスはバス停を発ち、海が見える山道を進み始めた。

 


 うつりゆく田舎の風景を横目に、くすんでいる窓に頭を寄せる。今までなんとなく見ていた海岸沿いや漁村の風景、古い街並みなどが懐かしく見えた。いつの間にか夕焼けになりかけている空に照らされてそういう風景がセピア調に見えたのは、きっと窓越しに見ているせいではなく気持ちの問題だろう。森の中の緑の木漏れ日のような色鮮やかさはほとんどないが、哀愁漂う田舎の風景は懐かしさ以外にも物寂しさも兼ね備えているようだ。電信柱と電信柱の間でリズムよく吊下がっているのを眺めたり、道路わきの白線を一点に見続けて歪みを感じたり、なんでもないことをただただボーっと見つめてみるのも案外悪くない。心の空虚を埋めてくれそうで埋まり切らない歯がゆさ。もはや表情を作るのも億劫だ。そんな想いを抱いたまま、バスは一定の速さで徐々に濃くなっていく路面を進んでいった。


 やがて見慣れた風景にたどり着いた。数時間前に訪れたバス停が遠くのほうに見え、左腕を伸ばして呼び鈴を押す。なんとも間抜けに聞こえるバスの呼び鈴も、今日は特別耳障りに感じなかった。やがてアナウンスとともにバスは減速し、数日間を過ごしたなじみの景色が目の前に広がった。バスを降り、バス停に立ち尽くす。バスが発車するのを見届け、はるか遠くの方でバスが小さく見えるようになってから家路を歩き始めた。


 どこまでも続くような地平線は、いつもよりも更に遠く感じた。夕暮れが近づいているというのに、まだ陽炎が揺らめいているのが確認できる。その陽炎はよく見ると來美ちゃんのようで、心なしか元気がないような気がする。またあの幻か。どうせ近づいても消えてしまうんだろうな。疲れか何かのせいで幻想が見えているのだろう。今までのも全部そうだ。体だけでなく心の疲れが俺に幻想を見せていたのだ。來美ちゃんは、そういう存在だったんだ。誰かを好きになるのは、想像以上に疲れるものだ。それを証明してくれた來美ちゃんは、本当にありがたい存在だった。最後に一言伝えられなかったのは残念だったが、いい経験になった。感謝しているよ、來美ちゃん。


 俺は心の中でそう呟くと、最後だけでも來美ちゃんの幻に近づきたくて、歩を進めた。今まで逃げ水のように俺から離れていた來美ちゃんの幻。最後くらい、近づかせてくれ。そして、思い切り抱き締めさせてくれ。最後くらい、いや最後だからこそ。


 徐々にゆっくりと近づいていく。わざと遅いわけではない。もう体力と精神力がもたないのだ。長く続く道路はくねくねと曲がっていて、風はいつものように夏みかんの爽やかな香りを運んでくれている。來美ちゃんの幻はやがて道路脇の古びた岩の階段を上って行った。でも午前中に見てきた來美ちゃんの幻とはどこか様子が違っていて、気のせいか元気がないようにも伺える。ここは確かホタルの小川に続いている階段だ。來美ちゃんが足を怪我してしまった場所だったはずだ。あの時の場面を頭に思い浮かべながらフラフラと拙い足取りで着いていく。


 と、ここで異変に気付いた。陽炎や蜃気楼というのは、長く平たい場所にできるはずだ。俺の今までの経験からしてそうなるはずだ。しかし來美ちゃんの幻は今、階段をゆっくりと上っている。しかも、よく晴れた日に出来るはずだ。周りを見ても、よく晴れているというより、徐々に日が沈みつつあるのがひと目で分かる。それに、いくら近づいても一向に消えそうもない。ということはどういう事なのだろうか。まさか――幻ではないという事なのだろうか。


「く、來美ちゃん?」


 そのまさかだった。階段を一番上まで上りきったのは幻ではなく、なんと実物の來美ちゃんだった。

 幻想が作り出していたはずの影は今、実体として俺の目の前にいる。鮮やかな青いノースリーブワンピースの本物の來美ちゃん。頭にはカンカン帽のような小さめの麦わら帽子を後ろに傾けてかぶっていて、麦わら帽子の下から白いピンがひっそりと覗いている。

 本物の來美ちゃん。まさに願ってもない光景だ。


 思えば”幻想”という文字は幻を想うと書く。その“想う”という字も相手の心と書く。つまり相手の心がなければ幻想ではなく幻相というひどく儚いものになってしまう。今まで俺は來美ちゃんの幻を“幻相”として見ていた。相手、つまり來美ちゃんの心が離れて行っているのだと考えてしまっていたと言うことだ。しかしそれは違った。來美ちゃんの心は離れてはいなかったのだ。

 素早く振り返って俺を見る來美ちゃん。その表情に題名をつけるとしたら『驚き』だろう。そのくらい分かりやすくまっすぐな表情をしている。


「えっ、胤爽くん?」

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