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第六話:シトラス・ミラージュ

 バケツの中の水に一滴の雨粒が落ち、波紋を響かせた。

 また雨だ。

 最初の一滴に続いて、肩や頭に降り注いできた。

 昼間ずっと家の中にいたせいか、雨が地面をたたきつける音は耳の中でよく響いた。

 それでも俺は、足を進める事ができなかった。

 優しさのぬくもりが、今でも口の周りに熱を持たせている。


 雨が突き刺さるのをただただ受け止めていたせいで体が冷えてきているのは分かる。だが、目を開けていながら寝ているような感じで、意識というか魂が抜けたような気さえした。

 まさに頭の中は真っ白だ。

 その時、顔の右側に強烈な光を感じた。その眩いばかりの光線は、近くに落ちた雷だった。

 次の瞬間、強烈な爆発音が耳を貫いた。


 ハッとして我にかえる。

 雨に濡れて体にへばりつくTシャツやズボンが気持ち悪い。

 手足の先は冷えてしまって真っ白だ。

 とりあえず雨宿りをしようと縁側へ戻る。

 飛び乗るように縁側に座り、濡れて重たくなったTシャツの胸元をつまみあげる。


「叔母さん、すみません、ちょっとバスタオルとってもらえませんか?」


 俺が家の中に向かってそう叫ぶと、それに対する叔母さんの返事が遠めに聞こえた。

 畳をこするような音を立てながら、急いでバスタオルを何枚か持ってきてもらった。

 まず頭を強めに拭く。

 指の感覚が徐々に戻ってくる。


「こんなに濡れてしもぉてぇ。風呂、入ってきなはいや。もう沸かしとるけん」

「あ、はい、すみません、そうします」


 そう言って頭を拭きつつズボンの裾をまくり上げる。

 筋肉が良くついている足は随分太くて、まくり上げるのもひと苦労だ。

 両方の裾を無理やりまくりあげると、つま先立ちで一目散に風呂へ向かった。


 着替えるところで、貼りついているTシャツやズボンやパンツを力づくで剥がし取る。ふと見た自分の体はいつもより白くなっていて、冷え切っているのが簡単にわかる。

 剥がすように脱いだ衣類を洗濯機に投げ入れ、浴室の扉を開ける。開くと同時に温かい蒸気が顔を中心に立ち込めてきた。


 その蒸気の向こう側にはいつものように立派なヒノキの風呂釜が待ち受けていた。

 風呂釜に勢いよく飛びこむように入る。すると冷えた体は温度に対して敏感に反応し、その熱さはやがて痛みに変わっていった。


「ああっつっ!」


 思わず叫んでしまった俺は、ハッとして口まで湯につかった。

 冷えている顔面がまたさっきのように熱さに対して敏感に反応した。

 ……が、今度は口が湯につかっているおかげで声は出なかった。

 ただ大きな泡が目の前にどんどん浮き上がってくるだけだった。


 じっとこらえていると、徐々に体が慣れて気持ち良くなる。

 こうしているとここに来た日の事を思い出すなぁ。

 特に來美ちゃんと最初に出逢った、この風呂場を。



 ――とっぷん。

 ――とっぷん。

 ――しゅくっ。

「痛っ」

「えっ?」

 恐る恐る窓に向かって、ゆっくりと腰を上げる。

 浴室のタイルをひとつひとつなぞるように目線を上にあげる。

 目が外にギリギリ出ないくらいのところで一呼吸置き、一気に外を見た。

「わっ」

「うわっ! ……えっ?」

 目の前には、來美ちゃんの顔があった。

 お互いに硬直している。

「あっ……えっと……あの……失礼しましたぁ……」

「えっ、あっ……」

 來美ちゃんの顔はゆっくりと下に降りて行った――。



 ――あれはインパクトがあったなぁ。と一人で懐かしんでみる。

 今となっては笑い事だが、あの時は本当に驚いた。

 もしかしたらあの時から來美ちゃんにひと目惚れしていたのかもしれない。

 逆上せたのも、もしかして來美ちゃんのせいだったりして。なんて。


「胤爽くん、ここに着替え置いとくけんね」


 少しエコーが入ったような叔母さんの声が浴室に届いてきた。


「ありがとうございます」


 そう言うと俺はまた口元まで湯につかった。

 目線の先には今日もみかんの皮を入れた袋が三つ、水面に浮いている。

 その中からひとつを引き寄せ、両手でそれを包み込んだ。

 これが無かったら今日までの出来事は無かったかもなぁ。

 話したきっかけもこの袋のおかげだもんな。

 俺は軽く感謝しながらそれをみつめた。


 不意に小窓に目をやる。

 外ではまだ雨が降っているが、その勢いは徐々に弱まってきている。

 來美ちゃんは濡れなかっただろうか。

 もし濡れてしまっていたら、風邪をひいていないだろうか。

 こんな時でも來美ちゃんの事を考えている。

 もはや自分の心に疑いをかける事は出来なかった。


 俺は、好きなんだ。

 きっと來美ちゃんという一人の人間が好きなんだ。

 今まで散々モヤモヤしていた心臓は風呂釜の中の湯を揺らすほど鼓動を打っている。

 來美ちゃんが高橋さんを想う心があるように、俺にも來美ちゃんを想う心があったんだ。

 さすがに成就はしないだろうが、この想いを伝えたい。

 來美ちゃんと離れる前に、この鼓動を伝えたい。


 明日はいよいよ広島に帰る日だ。明日伝えずにいつ伝えるんだ。

 俺は遂に決意した。というより、やっと気がついた。

 明日はっきり伝えよう。メールでもなく電話でもなく、直接会って。

 鳥肌が立つ顔面を湯に潜らせる。

 背筋は湯で温まっているはずなのに、なぜか小刻みに震えていた。



 その日の夜はなかなか寝付けなかった。

 俺には変な癖があるらしい。

 どんなに頑張って想像しても、想像の中の告白が必ず失敗するのだ。

 どんなに成功しそうなシチュエーションを頭の中で繰り広げても最後には「ごめんなさい」で撃沈する。ここまで来てポジティブに考えられないのは、きっと経験の問題だろう。覚えている限りの記憶では女性に対してそういう意思を表明した事は無いし、したいとも思ったことはなかった。



 月日がたつのは早いものだ。

 いよいよ愛媛ここにいるのもあと一日。色々な事があったが、それもすべて今日で終わり。

 明日は宿題に追われるだろうし、明後日からは学校が始まる。

 いよいよ本格的に大学受験がはじまるのだろうが、俺の心の中には大学生活ではなく、むしろ愛媛で野球をしている未来しか見えてこない。夏の大会での成績から考えても、スポーツ推薦を使っての入学は難しいだろう。


 でも、どうしても野球がしたい。

 今まで野球しかしてこなかった分、野球から離れるのが怖い。

 俺が俺で無くなってしまうような気さえする。

 だからきっと、新学期に入っても勉強に身が入らないだろう。

 ゆっくりと目を開けると障子越しに朝の光が体を照らしていた。

 布団に潜り込んでいたと自分では思っていたのに、その布団はいつの間にかやっぱり足元で丸まっていた。

 シャツがめくれてヘソがのぞいていたので、そこをきちんとして、蒲団をたたむ。

 体温で温もっている布団はどこか重たく、寝付きの悪さで疲れが取れていないんじゃないかと思い起こさせるほどだ。


 充電器につないで枕元に置いてあったはずの携帯電話が布団の中に潜り込んでいた。昨日の晩、考え事をしていたせいか、充電器をコンセントに挿すのを忘れていたようだ。

 頭をくしゃくしゃと掻きながら洗面台に行き、洗顔と歯磨きを済ませた後、台所へ向かった。


「おはよう」

「あ、おはようございます」


 叔母さんが朝食の準備を済ませてくれていた。

 隣の部屋のテレビからだろうか。耳の奥まで響き渡るような金属音とそれを包む大声援が聞こえてくる。


「今ちょうどなぁ、甲子園の特集しよるんよ。気になるんやろ?」

 叔母さんが微笑みながら迫ってくる。

 なんで俺の気持ちが分かるのだろうか。顔に表れているのか?

 もしくは野球好きというのは知っているはずだからそれでか?


「はい。まぁ」

 この瞬間でさえも片耳はテレビからの音声しか入れていない。

「ええよ、見に行ってきなはい」


 あ、はい。と言って俺は廊下の反対側の部屋の障子をゆっくりと開けた。

 開けた途端に音声がさっきよりもよく聞こえ、高校野球の興奮が良く伝わってきた。

 小さめの画面の中では自分と同い年の高校生たちが活き活きと頑張っている。

 それは少し前の自分と重なり、嬉しさよりも悔しさの方がこみあげてきた。


「この子らげぇななぁ。やっぱり頑張っとる若もんはえぇね」

「……そうですね」


 独り言だったのかもしれないが、それが妙に心に残った。

 風鈴の冷たい音が、流れるように耳を心地よく刺激した。

 畳の上にゆっくりと座り、じっと画面を眺め続けた。

 と次の瞬間、甲子園でのホームランシーンに俺はくぎ付けになった。


「木田だ……」


 ライトスタンドへの大きなホームランを打ったのは紛れもなく広島実業の“あの”木田だった。

 誇らしげに堂々と黒土のダイアモンドをまわる姿に、いつかの記憶が蘇ってきた。

 超満員のスタンドからの応援はやがて叫び声になり、一躍ヒーローとなった木田。

 インタビューの映像の下には《プロ注目の逸材》と書いてあった。

 いつかの俺もあれを目指して野球をしてたよな……。

 懐かしさと共にひとつの決意が湧いてきた。


『俺は愛媛マンダリンパイレーツの入団テストを受け、そこからプロ入りを目指す!』


 何を迷ってたんだよ俺は。俺には野球しかないんだ。だから、それしか頑張れないのは分かっていただろう。ネガティブだった俺が今更恥ずかしい。考えすぎてた。若いんだから、少々の無茶なら後で何とかなるさ。落ちたって浪人すればなんとかなる。俺には木田へのリベンジが残っているんだ。こんな所で野球から引退してたまるか。


 勝ち誇っている画面上の木田を見ながら、俺の表情はいつの間にか笑いながら引きつっていた。

 テレビの画面はホームラン特集から優勝の瞬間を写したシーンへと移っていた。



 朝飯を食べ終わった俺は、早速着替えて荷物の整理をした。

 着替えや大きな荷物、お土産の夏みかんは段ボールに詰め、宅配便で運んでもらうようにした。

 今日持って帰るのはスポーツバックひとつ分。来た時とそんなに量や重さは変わらない。

 自分の周りがこうも整理されているのはなかなか清々しい。

 家に帰ったらまず片付けでもするか。あの部屋に女の子を連れて入れる事は出来そうもないからな。

 と、不意に來美ちゃんの爽やかで柔らかな笑顔が浮かんだ。


 “女の子”で真っ先に浮かぶのが來美ちゃん。俺の頭は來美ちゃんでいっぱいなのかも知れない。

 向日葵の様に元気で明るい雰囲気は独特のもので、強く主張するような綺麗な笑顔はまさに太陽だ。

 そんな太陽は、こんな朝でも攻撃的な光を降らせる。

 今朝は昨日の雨が嘘のように、向日葵がよく似合う澄んだ青空が広がっていた。


「叔母さん、ちょっと出てきますね」

「帰りの電車に遅れんようにねぇ」

「わかってます」


 このやりとりもこの夏で最後か。なんでもないただの挨拶なのに、どこか物寂しさを感じる。

 ひとつ息を吐き、履きつぶしたスニーカーに足先を入れ、かかとを無理やり押し込んだ。

 いよいよ來美ちゃんに気持ちを伝える時がきた。


 広島に帰る前にこのモヤモヤをすっきりさせておきたい。どうせ叶わないだろうが一応、だ。

 とほとんど諦めつつも、密かに少しの期待に賭けている。

 引き戸を開けて一歩外に出る。雨の後の朝凪で、いつもの夏らしい朝よりも暑く感じた。

 そろそろ処暑の時期だが、今年はそうでもないようだ。


 目の前に広がる宇和海とみかん畑。

 それに夏らしい爽やかなシトラスフレーバーはいつもと変わらず俺を癒してくれる。

 アスファルトの路面上からは蒸気が漂い、歩くたびにスニーカーを包み込む。

 立っているだけで汗が噴き出してくるので、Tシャツの袖元で額をぬぐった。

 あと数歩で來美ちゃんのいる所だ。それなのに、この数歩が今までのどんな一歩よりも重たく感じる。まるで家が徐々に遠ざかっているようだ。

 表札の前で立ち止まる。


「大丈夫。伝えるだけじゃ。ただ伝えるだけ。よしっ」


 いつの間にか握りこぶしを作っていた右手の中では、じわりと汗がたまっていた。

 それに気付いた途端に汗をかいた手のひらをズボンに押しつけ、手のひらに水気が無くなるまで何度もこすった。

 喉仏をゆらす大きなつばの塊を飲み込むと、引き戸を強めにノックした。

 奥の方から返事が聞こえ、軽やかな足音が徐々に近づいてきた。

 中から出てきたのは來美ちゃんではなく、そのお母さんだった。

 若々しいお母さんは、俺の姿を見るとハッとした表情で口を開いた。


「あ、胤爽くん、おはよう」

「おはようございます」

 いつもより声に力が入る。

「あの、今日帰るんで、一応挨拶をしに来ました」

 まさか告白しに来ましたとは言えない。

「まぁ、わざわざありがとうねぇ。そっかぁ。確か來美が今日帰るって言ってたわねぇ」

「あの、その來美ちゃんは……」

 こっちが本命だ。胸の奥の鼓動はどんどん勢いを増して圧迫してくる。

 そんな俺と向かい合う來美ちゃんのお母さんは、しまったという表情で固まっている。

「あのね、ついさっきどこかへ出かけちゃってねぇ。今日は胤爽くんが来るかもしれんけん居りんさいよって言っといたんやけどねぇ……」

「そうですか」

「うん、ごめんねぇ」

「いえ、そんな」

 來美ちゃん、どこへ行っちゃったんだろう。まさか昨日のが尾を引いているのだろうか。多分そうなんだろうな。

 不意に昨日の悲しげな來美ちゃんの表情が浮かんでくる。

 とにかくこのままでは広島に帰れたものではないと思い、來美ちゃんを探し出す事を決意した。



 昨日の雨のせいか、油照りの朝。

 じわりと湧いてくる汗でべたつく体に、今日は風が吹いてこない。

 まずはどこから行こうか。

 これと言って急ぐ理由は無いので、近くから順に探していこう。

 俺はじめじめと生温かい空気を切り裂きながら、まずは純粋扉へと向かった。

 鉄板の様な道路を歩き、獣道の様なシトラストンネルをくぐりぬける。

 多少の日陰に入ったおかげで少しは涼しさを感じる事ができたが、額や鼻の頭には汗がたまりつつあった。


 トンネルを抜け、眩しさの中に出た。

 墓参りにはこの前来たのだからいないとは思っていたが、案の定それが当たった。

 その横から続く深緑の森の小道は、木漏れ日に照らされて所どころ黄緑色に染められていた。

 油照りの中でも心地よさを感じるこの道の先に、純粋扉は今日も変わらず佇んでいる。

 ふとその後ろに目をやると、今まで気づかなかった事が色々見えた。


 細い薄緑の茎がわらでも作るかのようにまとめて切られており、木の枝の様なものも乱暴に折られている。

 確か來美ちゃんによれば、ここには家が建っていたはずだ。

 こんな風にわざとらしく草木が散らばっているだろうか?

 それとも昨日の雨で上から流れてきたのか?

 またひとつこの扉の謎が増えてしまった。

 俺はその周りを一周した。

 ただ分かる事は、『ここに來美ちゃんはいない』ということ。

 予想は外れたが、まだまだ選択肢は他にもある。

 この先の道をいけばホタルの小川もあるし、神社もある。

 とにかく進んでみないと分からないものだ。

 俺は抜けるような青空に向けて両手を伸ばし、背伸びをしながら足を進めた。


 昨日の雨のせいか、地面を這うように倒れている草木たちは濡れている。

 その中でも若葉の様な小さな植物の上に軽く座っている雨玉は日の光を浴びてキラキラとしていた。

 俺はそれをできるだけ踏まないように歩いた。

 やがてサーによく似た音を出している小川のせせらぎが聞こえてきた。

 近づいていくと、ごつごつした岩に苔がびっしりと生えているのが見えてきた。

 小さな、本当に小さな橋の下には、ホタルの小川が流れている。

 橋の上から小川を覗くと、その透き通る水の中には黒い小魚が何匹も泳いでいるのが確認できる。

 だがここにも來美ちゃんはいなかった。

 今俺が立っている小さな橋に、ふとしゃがみこんでいる來美ちゃんの幻が見えた。

 嬉しそうに笑うその來美ちゃんは、ふと俺の方を見て笑いかけ、うっすらと消えていった。

 これも会いたいという内に秘める願望が俺に見せたものなのだろうな。

 俺はさっきよりも足早に歩を進めた。


 その先にはあの苔の階段。

 そこを遅めのリズムで降りても、熱気を感じる真っ黒の道路しかなかった。

 まさか何かの事件に巻き込まれたのか?

 悪い予感と急な胸の締め付けが俺を襲う。

 緩やかな曲がり角まで真っすぐに伸びる道路がまるで地平線の彼方にまで伸びるように感じるのは、多分きっとこの目頭が重い感じのせいだろう。

 俺はとりあえずバス停まで歩いた。

 もしかしたらどこかへ行くためにバスを待っているかもしれない。

 そのほんの少しの期待を込めて、一歩一歩進んだ。

 先の見えない国道にゆらゆらと浮かぶ陽炎。

 その先にはバス停の錆びた看板が立っていた。

 逃げ水を追うようにそこへ向かって歩いた。

 気のせいなのか、いつもよりも歩幅は広く、スピードに乗っているような気がする。

 來美ちゃんにもしかしたら会えるのかもしれないという薄い膜の様な期待。

 そんな期待を抱きながらバス停に着いた。

 だがそんな期待も金魚すくいのポイのように簡単に破れてしまった。

 やっぱりここにもいなかった。


 汗をぬぐうのも忘れていて、ふと気付いた時には顎先からも汗がぽとりと滴を垂らしていた。この汗は暑さから来るものなのだろうか。それとも焦りから来るものなのだろうか。

 ただ、來美ちゃんの姿がない代わりに幻が一瞬だけ現れては消えた。

 熱気の中に佇む一瞬の幻。それはまさに蜃気楼だ。

 來美ちゃんの姿を追いかけてもどんどん離れているような気がしてならない。身体的にも、精神的にも。それはまるで一種の逃げ水現象。

 そんな逃げ水に、俺はいつか追いつく事ができるのだろうか。

 追いついて、きちんと向き合えるのだろうか。きちんと想いを伝えられるだろうか。

 暑さのせいだろうが、心がいつもより重たく感じる。

 こうなったら最近来たところにいる可能性は極めて低い。という事は、行った事のない所にいるということか。

 俺は携帯電話のGPS機能だけを頼りに、未知の領域を探す事をきめた。


 自分の紺色の携帯電話を見てふと浮かんできた事がある。初めて会ったときや遊びに行った帰りなど、連絡先を教えてもらうチャンスはいくらでもあったのに、なぜ聞かなかったのだろう。なぜ聞けなかったのだろう。こういう場面を想定して、連絡先くらい聞いておくべきだった。次々と後悔の念が襲ってきた。

 汗で貼りつくTシャツの背中をつまみ剥がし、俺は気が遠くなる程果てしなく伸びている道路を歩きだす。草いきれが迫ってくるように足先から俺を包む。それは昔飼っていたカブトムシの虫籠によく似た匂いだった。



 しばらく歩くと、そこはもう見た事も無い土地だった。

 それほど遠くまでは来ていないはずなのだが、それまでの行動範囲が狭かったおかげでずいぶんと旅をしている気分だ。

 周りは見渡す限りみかん畑だが、これらは來美ちゃんの家のみかん畑とは色も香りも違っている。

 さほど山奥ではないと思うが、いつも見ていた宇和海が見えないとなると、心細くもなる。

 と、道路わきにひとつのコンクリートの塊を見つけた。それに向かって少しずつ近づいていくと、その正体が分かった。


 駅だ。それも廃線路脇にほっそりと立つ無人駅。

 世の中に捨てられ岩と化したその駅のプラットホームに立ってみる。なんとも悲しい姿だ。

 だが、なぜか俺の事をここでずっと待ってくれていたような気がして、少し温かい気持ちになった。

 俺は錆びてこげ茶色になって横たわっている廃線路に飛び降り、駅に向かって座った。

 來美ちゃんを探しに来たのにこんな所で油を売ってしまうのは、きっと精神的な疲れからだろう。

 俺は駅を下から見上げた。どうどうとはしていないものの、歴史の重みは感じる事ができた。

 あの木製のベンチに、今まで何人座ってきたのだろう。俺ももしかしたらその一人だったのかもしれない。

 錆びた線路を支えている枕木に左手をつき、すっと起き上がる。

 蒸し蒸しとした雨上がりの暑さは、いつの間にかからからの暑さに変わっていた。


 だが依然として汗は止まらない。右腕で額や鼻の汗をぬぐう。気付いた時にはいつの間にか廃線路の枕木をひとつひとつ丁寧にまたぐように歩いていた。

 所どころ錆びた鉄の汁が滲んで汚れている枕木。木目が見えなくなるほど黒ずんでいる。それは日焼けした俺の腕のような健康的な黒さではなかった。


 やがて廃線路はゆるい勾配に突入した。

 線路の両側にあったみかん畑の風景はいつしか田舎を感じる森の風景へと変わっていた。ただ、爽やかなシトラスフレーバーはみかん畑を過ぎても香り続け、いつまでも鼻に心地よい刺激をくれた。

 森の中の廃線路は気持ちが良いものなのだと初めて気がついた。

 大きく育って人の手が加えられていない木々がアーチを作るように廃線路を囲み、影を作る。

 木漏れ日が作る線路上の模様は、まさに天然のステンドガラスだ。

 涼しい風が吹く森の廃線路を見てふと気がついた。


『この道を來美ちゃんと一緒に歩けたらどんな來美ちゃんを見る事ができるのだろうか』


 また目線の先に來美ちゃんの幻を見つけた。片足を上げておどけて見せている。

 時々俺の方を見ながら線路の先を裸足で歩いていく。それは先ほどの陽炎を連想させるものではなく、むしろ森に住む妖精のようだった。

 遠い線路の先に小さく見える來美ちゃんの幻は、いつしか走り抜ける風のように消え去っていた。

 俺も同じように線路の上に立ってみる。森の中を吹き抜ける風は心地よかったが、そこまで感じるものはない。


 と、ひとつの違いに気付いた。

 靴を脱いでいなかったのだ。

 俺はスニーカーを靴下と一緒に脱ぎ、その時に使った左手で両方の靴を持った。

 こげ茶色の線路は雑草で今にも見えなくなりそうだが、太陽の下に横たわるそれよりは冷たそうに見える。

 靴下の形にくっきりと白くなっている右足を恐る恐る線路の上に乗せてみる。銀色の部分は予想通りひんやりとしていて気持ちが良い。足の裏からお腹の方まで冷たい刺激が素早く流れていく。なるほど、來美ちゃんの言っていた気持ちよさとはこのことだったのか。だが、今のこの気持ちを真っ先に述べたい相手は今ここにはいない。


『ほんまに冷たくて気持ちいいんじゃねぇ』

『そうてや? よいよ気持ちええやろ』


 よいよ、とは確か“とても”の意味だったはずだ。

 もしかしたらこういう会話を二人でしていたのかもしれない。二人で笑いあえたのかもしれない。でもその相手はこの場にはいない。虚しさで空を見た。包み込むような木々の葉のこすれる音がさらさらと耳の中を木霊する。

 ひとつ溜め息をつき、俺はやじろべえのように歩きだす。線路の上は特に丸みを帯びているというわけではないが、歩き疲れたせいか少しのずれでもバランスを崩しそうになる。右に傾きそうになれば左に上半身を傾け、左に傾きそうになれば右に上半身を傾ける。進むごとに慣れ、遂には揺れずに軽やかに歩を進められるようになった。

 と、軽やかに歩き続けていると、木の葉がカサカサと揺れる中から不意に声が木霊のように聞こえてきた。


『平均台に乗っとるみたいやろ?』


 耳の奥の方でいつかの來美ちゃんの言葉が密かに、そして微かに聞こえた様な気がした。

 他愛もない会話がこんなにも耳の奥に残っているとは。それほどの想いが募っている証拠なのだろうか。森の涼しさに吹き飛ばされていたはずの汗は、またじわりと額や鼻の下を濡らしていく。左手で持っているスニーカーの中からは、本当に小さなバッタが顔をのぞかせ、どこかへジャンプしていった。白いペンキを塗られた鉄道標識によろけながらもゆっくりと確実に一歩を進めていく。


 やがて森全体が作る緑のステンドガラスを抜け、遠くの方に海が見える分岐点に差し掛かった。

 黒板を爪で擦るような音が今にも聞こえてきそうな分岐器はやはりこげ茶色に錆びているが、さっきまでのように森が覆っていないせいか、指で触るのをためらうほど照っている。

 俺は左手で持っていたスニーカーを右手に持ち変え、線路の支えになっている枕木に添えるように置くと、その中に詰めていた靴下を取り出し、片足でバランスを取りながらそれを履きなおした。履きなおし終えるとそのままスニーカーにつま先から入れ、スリッパのようにかかとを潰して履いた。


「さて」


 このまま真っすぐ行くと宇和海、左に曲がればみかん畑に向かっている。

 そう言えば純粋扉の前で花火を見た時、來美ちゃんが何かをつぶやいていたのを思い出す。あれが一体なんだったのかは定かではないが、もしかしたら俺と一緒に宇和海に行きたかったという來美ちゃんの想いがこぼれたものだったのかもしれない。だったらここは宇和海を目指して真っすぐに進むべきだろう。


 普段まったく神様の存在を信じていないのだが、今この瞬間、聞き流していたはずの來美ちゃんのつぶやきを思い出させてくれた神様は多分俺を宇和海に行かせたかったのだろう。という事は、宇和海に行けば來美ちゃんに会えるということだろうか。微かな期待は大きく成長し、なぜか鼓動はいつもより強く大きく感じた。


 神様に導かれるように錆びた廃線路を進みはじめる。勾配は緩やかに無くなっていき、やがて宇和海の目の前にある名前の無い廃駅に着いた。


 ただの苔が生えたコンクリートの塊と化しているその駅のやはり木製のベンチに座って目を閉じる。

 森の中やみかん畑の中とはまた雰囲気の違う風を感じる。これが海特有の浜風というやつだ。

 目を開けると、大きく待ち構える入道雲と目が合ったような気がした。

 その入道雲の真下、駅とはもう少し離れたところに広がる海辺に、また裸足姿の來美ちゃんの幻らしき人影を見つけた。今度は浜辺で俺に向かって背を向けている。森の妖精かと思っていたそれは、宇和海のエメラルドブルーに透き通るように泳ぐクリオネのようだ。


 俺は立ちあがると駅を降り、宇和海までの土手道を歩いた。油照りの土手道。ここでも草いきれを感じ、顎元からはビー玉の様な汗の滴を落とした。

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