第五話:シトラス・テイスト
それはどこからどう見ても來美ちゃんだった。その隣は、どう見ても高橋さんだ。來美ちゃんに肩をまわして笑みをこぼしている。これはどういう状況なんだ?
こっちに来る時に一瞬感じたあの予感。
あの予感が、こんな形で当たるなんて。
じゃああの幼馴染ってのは……誰?
もしかして……俺か?
小さい頃に遊んだらしいしな。可能性は十分あるだろう。でも、俺には分かっていた。本当は、高橋さんだ。絶対そうだ。高橋さんは來美ちゃんの家に泊まるほどだし、何よりこの写真が物語っている。
俺と一緒にいる時には見せないようなこの笑顔。それにあの大胆な行動。幼馴染だとしても、大胆すぎる。きっと高橋さんと仲良くなるために俺で練習していたのだろう。俺は遊ばれていたのだ。多分。
全てを知ってしまったような絶望感に、俺は、心臓の委縮を感じた。
今まで密かに感じていた悪い予感が見事に的中した瞬間だった。
それからは全てがどうでもいいように感じられた。
応援団の叔父さんにも良くしてもらったが、あの入団テストの話ですらどうでもよくなった。
所詮スカウトにも注目されないような投手が、野球で飯を食っていけるはず無いだろう。
ましてや大事な右腕を怪我している。完全に治るという保証はない。その場の雰囲気で言ってみたものの、冷静になって考えてみると、無謀な挑戦なのではないかと思いはじめていた。
外の雨はもう止んで、所どころに晴れ間が見える。
だが俺の心には雨雲が停滞し、しとしとと雨を降らしていた。
それからどのくらいの時間がたっただろうか。
どこからともなくバラエティ番組の大げさな笑い声が聞こえてきた。
蝉は昼間に鳴けなかった分、振り絞るように鳴いている。
蚊遣豚と目があった瞬間、左足のすねにかゆみを感じた。知らない間に蚊にかまれたのだろうか。むずむずする。思わず爪でひっかくと、かく前よりも赤くなり、少し大きくなった。
溜め息をひとつつき、ゆっくりと腰を上げる。
廊下を一筋隔てた部屋の襖をあける。
比較的小さなブラウン管の反対側で、叔母さんが正座で洗濯物を丁寧に畳んでいる。
「ん? 急にからかみ開けるけんびっくりしたわぁ」
「あ、すいません」
「どしたん?」
「あの……かゆみ止めを」
「ちょっと待っときなはい」
そういうと叔母さんは台所の方へ行った。
子供がおもちゃ箱をあさっているようなじゃらじゃらした音が聞こえてくる。
テレビの雑音と混ざって不協和音を聴くような気分になる。
かゆい左足を時々かきながら、テレビの音量を小さくした。
これで少しはマシになるだろう。
そのうちじゃらじゃらも消え、台所から叔母さんが戻ってきた。
「はい、これやろ?」
水色のような、緑のような、その中間のような、そんな色をした半透明の容器。
白いキャップを外すと、きつい薄荷の匂いが鼻を突いた。
「あ、うちと一緒のやつじゃ」
「そうながぁ。じゃぁこれでええね」
「はい。ありがとうございます」
見慣れているその容器を見ながらさっきまでいた部屋に戻ろうと襖を開けた。
「あ、ちょっと待ちなはい」
叔母さんの声を聞き、振り向いた。
柔らかい笑顔で俺を見ている叔母さんと目が合う。
「晩御飯、もうすぐやけん食べなはいや」
確かに美味そうな味噌の匂いが香ってくる。
「あ、はい」
そのまま叔母さんに先導されて台所へ向かった。
この前からなじみのある席に座る。既に箸置きの上には木製の黒い箸がちょこんと乗っていた。
叔母さんはせっせと調理しはじめた。
その後ろ姿を見ながら、頬杖をし、気を無にする。
顔を支える手のひらが真っ赤になった頃、机の上に茶色い美味しそうなタレが置かれた。
その次に大きな透明の器が置かれた。涼しげな白い糸が多めに積んである。
器の中にある氷が時々向きを変えるごとにカランという透き通る音をたてている。
「今日はそうめんな。そこにある胡麻と味噌の特製ダレにつけて食べなはい」
「はい。いただきます」
「夏と言ったらそうめんやけんな。暑い日が続くけん、味噌と胡麻のパワーでしっかり生き延びるんよ!」
「あ、はい」
叔母さんがタオルで手を拭きながら柔らかい笑みを浮かべる。
それを見てから目線をそうめんに移し、手を伸ばす。
小さめのひと塊を取り、そっとタレに浸ける。
持ち上げると真っ白いそうめんに味噌だれが上手くつき、胡麻が所どころに掴まっている。
それを一気に口に運び、噛みはじめる。
濃厚な味噌をそうめんが上手く薄め、胡麻の甘みをほのかに感じる。これは美味い。
時々横に切って置いてある新鮮なトマトも口に運ぶ。
それからは手と口が止まらなかった。
大きな器の半分ほどを食べ尽くした頃、やっとお腹が満足した。
「ごちそうさまでしたっ」
「はい。よう食べたなぁ」
食べ終わった食器を洗い場まで持っていき、その中にお湯をかける。
汚れが落としやすくなるからと小さい頃に母から教えてもらったことだ。
そこから携帯電話を置いている部屋を抜け、縁側に出る。
汗だくとまではいかないが、薄く広がっている汗を団扇で乾かしながらそこへ座った。
足をそっと伸ばし、そこに置いてある下駄に足の裏を乗せる。
ひんやりしていて気持ちがいい。
後に左手をつき、右手で団扇をあおいだ。
台所から持ってきた夏みかんを隣に置く。
皮にツヤがあり、色が濃い。
ヘタが付いている、重量感がある夏みかんだ。
雨上がりの土の匂いが心地よく、夏を感じさせない涼しさが漂っている。
隣にある夏みかんを手にとって皮をむこうとした、その時だった。
「こんばんは」
左側からゆっくりと足音が聞こえ、暗闇の中から來美ちゃんが現れた。
いつものように透き通った声の主は、來美ちゃんだった。
唇の端を微かに上にあげ、笑いかけてくる。
朝に見た時とは違い、白いノースリーブのブラウスにポケットが多そうな深緑の長めの膝丈ズボン。
ブラウスの横から、透明のビニールの様なものが微妙に顔をのぞかせている。
「どしたん、こんな時間に」
すぐそこで夜の虫が鳴いている。
キリキリと、チュリチュリと、ジジジジと。
そんな時間に、どうしたのだろうか。
「いや、ちょっと色々話したいなぁって思ってな」
「そっか」
「それにね、花火とかって……どう?」
「花火かぁ」
「うん。昨日純粋扉の前で見たやつには負けるんやけど、どうかな?」
夏の風物詩である花火、それも手持ち花火は、もう何年もやっていない。確かに純粋扉の前で大きな花火を見たが、小さな花火は本当に久々だ。
いつもならば、夏の夜は、素振りをしたり、シャドーピッチングをしているはずだ。さっきまでのどんよりした気持ちがどこかへ行ってしまい、純粋に花火を楽しみたいと、心からそう感じた。
それに、來美ちゃんが高橋さんの事を好きだというのが分かって、ふっきれたようだ。後ろで手を組んで照れくさそうに言う來美ちゃんを見ても、もうそんなに苦しい気持ちではなくなっていた。
「あ、うん。いいよ」
「ほんまに?」
「おう」
「良かったぁ……」
体中のありとあらゆる力が抜けたように縁側に倒れこむように座る來美ちゃん。
前髪を耳にかけながら、來美ちゃんは背中の方から花火セットを取りだした。
どうやらずっと背中に隠し持っていたようだ。さっきのビニールは、これだったのか。隠しているつもりでも隠し切れていないそれに、一種の可愛らしさを感じてしまった。
「このバケツ、使ってもいいんかね?」
縁側の下から銀色の錆びたバケツを取りだす來美ちゃん。
ところどころへこんでいて、木製の取っ手は色あせている。
そんな所にバケツがあったなんて全く気が付かなかった。
「いいんじゃない? 後で戻しときゃあいいじゃろ」
軽く笑いかける。來美ちゃんもそれに応えるように口を閉じたまま微笑んでくれた。
どこか複雑な気分だが、もう深くは考えないようにした。
「井戸が向こうにあるけん、一緒に水入れに行こう?」
俺から見て左側を指差す來美ちゃんは、首をかしげて聞いてきた。
ブラウスの裾がひらひらと揺れた。
「おう。ちょっと待ってて」
今の俺は裸足だ。ずっと続く縁側の上を歩き、玄関でサンダルを履いた。
その途中で叔母さんに理由を説明し、外に出た。
夜風が涼しい。
雨が降った後の土は湿っていて、踏みしめる度に数ミリほどサンダルが沈んだ。
玄関先で待ってくれていた來美ちゃんはバケツを両手で持ち、髪を耳にかけ直していた。
「こっちな」
來美ちゃんに先導されて家の裏に回る。平たい岩を並べただけの灰色の道の上を歩いていく。
遠くの方にシトラストンネルが見える。そんなみかん畑の手前に、ひっそりと井戸があった。
夏の夜と言うだけあって、石造りで恐い雰囲気の井戸を想像していたが、実態はそうではなかった。
竹で作った囲いの上に木の板でふたをし、深緑の井戸ポンプが乗っかっているだけだった。
囲いの下の方では苔が競うように生えている。
「これ、映画かなんかで見た事あるわ」
思わず言葉が飛び出た。
「よくあるよね」
そう言いながら來美ちゃんは両手で持っていた古びたバケツを置いた。
「ガチャポン、押してみ」
「ガチャポン?」
ガチャポンというのは何のことだろうか。
駄菓子屋の前にあるあれのことだろうかと一瞬頭に浮かんだが、それはさすがに的外れだろう。
「ガチャポン知らんのん?」
「うん、ごめん。知らんわ」
ポケットに手を突っ込み、首を横に振る。
來美ちゃんは無表情から口をすぼめて一瞬固まった。
何かを考えているのだろうか。
「ガチャポンってのはな、こういう井戸の事を言うんよ。でな、このクネっとるハンドルを何べんも押すとな、深いとこから水が出てくるってわけ。オッケー?」
來美ちゃんは井戸――いや、ガチャポンを指しながら丁寧に説明してくれた。
「オッケー」
「じゃ、押してみ。これ結構重いけんな」
そういうと來美ちゃんは「力仕事は男の仕事」と言いながらバケツを持って構えるようにしゃがみこんだ。
俺はハンドルを両手で握り、勢いよく体重を乗せた。
金属と金属がすれる音がする。
カランカラン、スー。
カランカラン、スー。
リズミカルに押し続けていると、やがて深いところから水が出てくる感触がした。
カランカラン、シュー。
カランカラン、シュー。
なおも続けていくと、ジャブッと勢いよく筒の中から水が出てきた。
バケツに一旦入りながらもしぶきをあげて飛び出し、地面を濡らしていく。
それと同時に來美ちゃんのブラウスにも飛び散り、反射的に片目をつぶったりしている。
「わー、冷たぁい」
ピクッと動く來美ちゃんは笑顔で子供っぽい。
そういう仕草を見ていると、分かっていても心が奪われていきそうだ。
もう充分なのだろうか、來美ちゃんは筒から出る水を直接手ですくい、八重歯を見せつつニヤリとした。
「ひひっ」
不敵な笑みを浮かべると、悪戯な顔つきで、俺に向かってすくった水を飛ばしてきた。
「ひょっ、っ、冷たっ!」
情けない声が反射的に出てしまい、背筋に電気が這った。
それを見て來美ちゃんは大きく口を開けて笑っている。つられて俺も、照れ笑いが出た。
バケツに入った水がいっぱいになると、俺は動きを止め、來美ちゃんに目で合図をした。
それに微笑みで返してくれた來美ちゃんは、勢いよく両手でバケツを持ちあげた。
口をアヒルにして両方の腕をいっぱいに下に伸ばし、足を開いて歩き出す。
危なっかしいその様子に、声をかけずにはいられなかった。
「待て待てっ。力仕事は男の仕事だろ? 俺が持つよ」
野球部時代に鍛えた筋肉はもうほとんど衰えていたが、それでもバケツのひとつやふたつは軽いものだ。
自信満々に言った俺に、來美ちゃんは悔しそうな表情だ。
「ちょっとはええとこ見せたかったけどなぁ」
ドスン、と音がするくらい勢いよくその場にバケツを置いた。
衝撃で中の水が揺れ、少しこぼれた。
水は少しずつ流れて行き、辺りの小さな雑草を潤した。
「女の子はか弱い仕草をした方が可愛いんで」
「えっ? あ、そっかそっか」
そう言うと來美ちゃんは肩をすぼめ、左手で髪を耳にかけ直した。
俺はバケツを片手で軽々と持ち上げると、来た道を戻った。
縁側の前に広がる湿った土のところでしゃがみこみ、体の左側にあるビニールを破く。
中に入っている長いロウソクを取り出し、台座につける。
叔母さんの了解を得てライターで火を付ける。
さっきまでの雨にやられたのか、つけるまでに時間がかかった。
花火の入っている袋を挟んで隣にしゃがみこんでいる來美ちゃんは、その火を大事そうに見つめている。
上から垂れている糸にぶら下がるように燃え続けている小さな火。
火の色はみかんのようにオレンジ色だが、どこか懐かしさの残るオレンジ色とは違って見えた。
「まずはどれからやる?」
俺の問いかけに親身になって考える來美ちゃん。
そこまで真剣になる必要はないのだが、そんな來美ちゃんがなぜか嬉しかった。
「じゃあ……やっぱりこの基本的なやつかなぁ」
基本的かどうかは分からないが、良く見るオーソドックスな花火を取り出し、ロウソクに近づける來美ちゃん。
シューという音と共に青白い光が湿った土や雑草に降り注ぐ。
純粋扉の前で見た大きな花火には迫力で負けるが、こういう花火もやっぱり楽しい。
やがて青白い光は緑や赤に変わり、突然ポッと消える。
それをバケツに放り込んだ時に鳴るジュッという音がどこか懐かしく感じる。
辺りには煙が立ち込め、焼けた匂いが薄く広がっていく。
「ほらハート!!」
「おぉー」
來美ちゃんは両手に赤い光を持ち、暗いキャンパスにハートマークを描いている。
純粋にはしゃぐ來美ちゃんが子供っぽくて微笑ましい。
這い回るねずみ花火で逃げまどい、噴射ものに喜ぶ。
そんな來美ちゃんは笑顔が絶えなかった。
それを見ながらひたすら雑草に光を浴びさせている俺の元に、來美ちゃんは静かに近寄ってきた。
「また雑草いじめとるん」
「いいじゃん」
「胤爽くんは変わらんねぇ。小さい頃から花火したらいっつも雑草にそうやって花火浴びさせてたがぁ」
そうだったのか。
なぜこんな事も覚えてなかったんだろう。
「うちが『そんなんしても意味無いんよ』って教えてあげても『いや、絶対いつか燃える!』って意地はってさぁ」
「へぇ……」
「体は物凄い成長しとるけど、中身は昔のまんまよね」
「それ、いい意味で?」
「どっちも……かな」
虫の声が響き渡る。
風もほとんど吹いていない。
ロウソクを挟んで俺も來美ちゃんも黙りこみ、急にしんみりした雰囲気になった。
花火の入っていた袋の中もいつの間にか寂しくなっていた。
俺は話しかけたいのになぜか話しかけられず、もどかしい時間をずっと耐えていた。
二人ともいつのまにか縁側に座って花火を楽しんでいた。
ふとポケットに手を突っ込んだその時、ポケットの中身に気付きそれを取り出した。
それは、後で食べようと残しておいた大きめの夏みかんだった。
ごつごつ肌の夏みかん。
どうせだし、來美ちゃんと半分ずつ分けようと考えた。
持っていた花火の炎が消え、バケツに突っ込んで消火を確認すると、夏みかんのヘタのところに爪を突き刺した。
その瞬間に爽やかなシトラスフレーバーと共に細かい粒子が飛び散り、鼻や口に吹きかかってきた。
柑橘系のほのかな刺激が目をもう一度覚まさせたと思うと、気付いた時には指先はべとべとになっていた。
それでも力強く剥き続け、半分ほど剥き終えたときに、中の房をつぶさないように真っ二つに割った。
美味しそうな瑞々しいオレンジが目の前で輝き、一粒一粒が今にも弾けてしまいそうなほどだ。
「來美ちゃん」
「ん?」
黄色い光をまじまじと見つめる來美ちゃんは、俺の急な発言に驚いたように返事をした。
「これ、食べる?」
來美ちゃんの目の前に半分だけの夏みかんを差し出す。
それを見た途端に來美ちゃんの目の色は変わり、一気に元の笑顔を取り戻した。
「食べる食べる! ありがと」
黄色い光が消えるのを待ち、それをバケツに突っ込んでから両手を出してきたので、そこに半分の夏みかんを丁寧に置いた。
來美ちゃんはそれを引き寄せ、ひと房とって口に運んだ。
「ん~!」
美味しそうに食べる來美ちゃんに、俺もひと房口に運んだ。
口の中に入れた途端、果汁が溢れ出し、適度に歯ごたえも感じる。
酸っぱい中に甘みもあり、食べやすい。
喉越しも爽やかで、いい夏みかんだ。
「やっぱり夏みかんは美味しいなぁ」
「そうじゃねぇ。これ台所から持ってきてよかったわぁ」
皮と少しの房を見ながらつぶやき気味にそう言った。
「なら、このみかんはうちが作っとるみかんやなぁ」
「そうなん?」
「うん。絶対毎年おすそ分けするけん、おばさんは『もう絶対買わんよ。篠浦さんとこのみかんのファンやけん』って前に言っとったけん」
「へぇ……」
「さっすがうちの夏みかんやな。味がしっかりしとる」
最近広島で食べていた夏みかんはどれも酸っぱかったのに、愛媛に来てからはどれも甘く感じる。
きっとこの土地ならではの何かがあるのだろう。
知らないうちに自分の手の中にあった全ての房を食べてしまっていた。
來美ちゃんが全部の房を食べ終わった頃、袋の中身をまた確認してみた。
残りは夏の風物詩、線香花火のみ。
俺は不意に恒例の“あれ”を思いついた。
「……なぁ、來美ちゃん」
「ん?」
口の周りに夏みかんの果汁が付いているのだろうか、唇を軽く舐めながら俺の方を向く來美ちゃん。
その綺麗な瞳は、とろけるように垂れているように見えた。
頬も心なしか赤く染まっているようにも思える。
「線香花火で勝負しようや」
見せつけるように細長い線香花火を差し出す。
「勝負?」
首をかしげて見せる來美ちゃん。
どうやら線香花火の“あれ”を知らないようだ。
「うん。勝負。どっちの線香花火が早く落ちるか勝負な!」
「そういうことなっ。ええよっ」
顎を軽く前へ突き出すようにして見せ、同時に得意げな表情をする來美ちゃん。
そんな來美ちゃんは、縁側から勢いよく湿った土の方へ移っていった。
俺も同じように移り、立ててあるロウソクの近くにしゃがみこむ。
「もちろん罰ゲームありよなぁ?」
來美ちゃんが深緑のズボンを滑らかに撫でながらしゃがみこみながら言った。
そこまで考えていなかった俺は、目が覚めたように俊敏な反応を見せた。
「えっ、罰ゲーム?」
「うん。罰ゲーム。こういう勝負事には罰ゲームがないといけんがちやぁ」
はっきりとした断定が口調からでも分かる。
そう言われても、罰ゲームまでは考えていなかった。
「罰ゲームかぁ。あっ、じゃあ、『ひとつだけなんでも言う事聞く』ってのは?」
無い知恵を存分に発揮した結果だ。
突然の出来事に対応するのは昔から苦手なのだ。
「わかった!」
唇を口の中に隠すようにしながら笑いかけてきた。
「じゃあいくよ。せぇのっ――」
二人で同時に細い線香花火をロウソクに近づける。
柄の先のむき出しに付着している黒色火薬がロウソクから出る火柱の中に入った。
風は弱まっていて、無事に線香花火は弾け出した。
火薬の匂いが鼻をくすぐる。
中央の小さな火の玉が、小さいちょうちんみたいだ。
その周りのサンゴの様な糸状の光が弱々しく、独特の風情を感じる。
パチパチと鳴っている線香花火の勢いが弱まっては持ち直し、そうなるごとに自分の鼓動を感じる。
來美ちゃんの横顔を見ていると、色々な事を考えてしまった。
もしこの戦いに勝ったら何を命令しよう。
この際だし、大胆にいこうか。でもそれで嫌われたらどうしよう。
じゃあ、ちょっとした事にしようか。でもそれは面白みに欠けるよな。
心の中で葛藤の風船がどんどん膨らんでいく。
それでも線香花火の方は互いに徐々に弱くなっていっている。
葛藤の風船が心臓を圧迫する。
線香花火はとうとうサンゴの様な糸状の光を失い、残すはちょうちんの様な小さい膨らみのみとなった。
「こ、こっからが勝負じゃけぇな」
変な汗をかきながらそう言う。
大きなつばの塊が喉を無理やり通って行った。
「う、うん」
來美ちゃんのほうも緊張したような表情で小さい光の膨らみをじっとみつめている。
辺りにはもはや音が無い。
唯一、体の中で心臓がもがくように拍動しているだけだ。
辺りで自由に鳴いているはずのカエルや夜の虫たちでさえ黙り込んでいる。
静寂に包みこまれた線香花火の光は、今にも消えてしまいそうだ。
お互いの弱々しい光に視線が集中する。
と、その時だった。
「あっ」
視線を降り注いでいた小さなちょうちんは線香花火の黒い先端から手を放した。
それは一瞬で地面に落ち、湿った土に吸収されていった。
葛藤の風船は、一瞬で割れた。
描いていた理想は、儚く散った。
小さなちょうちんと一緒に夏まで落としたような、そんな気さえした。
「よっし! うちの勝ちやね!」
遅れて來美ちゃんのちょうちんも地面に吸い込まれていった。
とても嬉しそうな表情をする來美ちゃん。
綺麗な顔をいっぱいに使った、無邪気な笑顔。
この笑顔に、あと何回出逢えるのだろうか。
明後日には愛媛を出る予定だ。
今年の夏は、本当に良い経験ができた。
ひと夏の思い出が、終末を迎えたような気がした。
それは、線香花火のせいなのかもしれない。
「罰ゲーム、かぁ」
さっきまで集中していた分、今回の溜め息は大きかった。
そのまま立ち上がり、肩を回す。
首を回すと関節が鳴った。
だいぶ長い時間しゃがんでいたような気がする。
さて、罰ゲームだ。
いったい何をされるのだろうか。
普段の野球部の悪ノリが無い分、多少の無茶はできるだろうが……。
「なぁ」
サンダルが土を滑る音と共に來美ちゃんの声が聞こえ、その方向に向いた。
來美ちゃんはその場にすっと立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
一定の間隔を維持すると、肩をすぼめながら後で腕を組むというおなじみのポーズをとった。
「ん?」
もの寂しさと多少の不安が不思議な調和を生みだし、俺を苦しめる。
何の罰ゲームを受けるんだ?
変に目を合わせてくれない來美ちゃんはどこか怪しい。
心臓の鼓動の仕方がさっきまでとは違うような気がする。
「今、うちと胤爽くんだけ……よなぁ?」
俯き気味に俺をちらちらと見ながらぼそぼそとそう言う來美ちゃん。
確かに今は二人だけだ。
高橋さんはもちろんいないし、叔母さんは花火をする事を告げた時に邪魔はしないからと小言で約束してくれた。
叔父さんは今の時間ならプロ野球のナイター中継に夢中だろう。
一応首を伸ばして辺りを確認したが、人影は見当たらなかった。
「うん。誰もおらんけど」
ズボンのポケットに手を入れる。
夏みかんが抜けたあとだったからか、スムーズに入っていった。
「なら、罰ゲームいくけん、ちょっと目ぇ閉じて?」
「えっ?」
目線を少し横に向けながら髪を耳にかけ直す來美ちゃん。
罰ゲームで目を閉じるというのはどういうことなのだろうか。
まさか目を閉じている隙に逃げて、片付けをすべて俺にやらせるつもりか?
それならまだ可愛い方だ。
じゃあ……何を?
「ええけん。閉じてっ」
「あ、うん」
敗者は勝者の言う事を聞かないといけない。
ここは素直に従い、目を閉じた。
一面、黒。
來美ちゃんの残像が少し浮かんでいるが、何も見えない。
寂しさと不安の調和に満たされていた心の中は、もう不安だけになっていた。
なんだ。
なんなんだ。
目を閉じるように指示されてからまだそんなに時間は経っていないはずだ。
だが、俺の中の秒針は、思い通りに時を刻んではいなかった。
目を閉じているだけなのに、手や足や口までも硬直している。
それを脱しようと思い、鼻から息を吸い口から吐こうとした、その瞬間だった。
何かが口にぶつかった。
それが何なのか分からなかったが、とにかく柔らかかった。
その瞬間、唇に優しいぬくもりを感じた。
宙を浮いているような感覚とはこの事なのだろうか。
足や手の先っぽのほうから徐々に感覚を失っていく。
次の瞬間には、全部の神経が顔に集まっていた。
熱い。
唇が熱い。
顔が熱い。
いつかと同じように、みかんの房の果実の小さなつぶの一つ一つが胸の奥の方で弾けたようだった。
久しぶりのこの感覚は、前のものとは比べ物にならないくらいのものだった。
そして、時間は止まったようだった。
初めて会ったあの時以来だろう。止まった時間とは対称的に、鼓動はどんどん早くなっていく。
初めての味は、爽やかなものだった。
さっき夏みかんを食べたせいか、柑橘系の香りが顔を覆う。
やがて温もりが離れていくと同時に、夜の夏風が小さく揺れてどこかへ行った。
離れてもなお、この鼓動は鳴りやまない。
それどころか、はっきりと動きが聞こえる。
「……目、開けてもええよ」
その声を聞いた瞬間、顔に集まっていた神経は体をめぐってそれぞれの位置に戻った。
それでも、熱くなった顔は元には戻らない。
「……何したん?」
分かっていたが、確認のため。
というか、その単語を聞きたかった。
どんな表情をすればいいのか分からず、とりあえず真顔で聞いてみた。
勇気を出して言ってはみたものの、來美ちゃんは俯き気味に肩をすぼめたままだ。
その瞬間、テンポをおいて來美ちゃんの右の手がゆっくりと動きだし、その人差し指は自分の唇を示した。
恥ずかしくて言えないか。
上目遣いで恥ずかしそうに俺を見る來美ちゃん。
その表情に、少し後ろめたさを感じたような気がした。
「……うちの、その……初めて、やけん……」
空気がシーンと静まっている。
気まずい。
何と言い返せばいいのか分からない。
良い言葉が見つからない。
軽いパニックを起こしているようだ。
そんな俺を見て、真っ赤な顔の來美ちゃんがためらいつつ口を開いた。
「……ごめん」
「えっ?」
ごめんってどういうことだ?
何もしてないのに謝られては、ますます言葉が出ない。
なんて返せばいいんだ。
戸惑っている俺を見て、迷っているような表情の來美ちゃんは口を開いた。
「……ご、ごめん!」
さっきよりも大きな声で、しかも投げるようにそう言った。
次の瞬間、流れるように、逃げるように、どこかへ走って行ってしまった。
「あっ、ちょっ……」
やっと出た言葉は、最後まで言いきれなかった。
足は固まって動けなかった。
唇を舌の先で確認する。
まだ微かに柑橘系の味がした。
初めての味は、やっぱりちょっと酸っぱかった。