表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

第四話:シトラス・ページ

 夏の夜の涼風は、一瞬にして俺を固まらせた。

 予期せぬ事態。

 きっと、口は半開きのままだった事だろう。


「來美ちゃん、久しぶり」


 爽やかに手を差し出す高橋さん。その手を震えながら掴む來美ちゃん。そして、庭で立ちすくむ俺。

 俺と來美ちゃんの距離と、俺と高橋さんの距離はさほど変わらない。俺も縁側のそばにいるわけで、三人でちょうど正三角形を作るように存在している。でも、それでも、二人の握手を見ている時間、俺と目の前にいる二人の距離はなぜか遠く感じられた。これは正三角形なんかではない。確かに数学的に考えれば正三角形だ。しかし、心理学的にみれば、きっと細長い二等辺三角形だ。今にも糸状になってしまいそうな、そんな二等辺三角形だ。


「今日は胤爽かずさがこっちに帰ってくるって聞いてな。ちょっと久々に顔を拝みたいと思ってな」


 わざとらしく意地悪な口調でそういう高橋さん。本当に俺のために来たということだろうか。

 そうならば、なぜ真っ先に來美ちゃんの方へ向かったのだろうか。


「そうなんですか。いやぁ……久しぶりですね」

「そうやなぁ。大きくなったな」


 大きな手のひらを來美ちゃんの頭に乗せて撫でている。

 嬉しそうな來美ちゃん。

 そんな表情を見て微笑む高橋さん。

 俺はぽつんと立ちすくみ、やはりまだ口は半開きだった。


「でも胤爽くんのほうがずっと大きくなっちゃってますよ」


 背筋を伸ばしている來美ちゃんが俺の方を向いた。

 それと同時に、高橋さんも俺の方を見た。


「胤爽ぁ。久しぶりやなぁ。ほんまに大きいわ」

「あ、どうも」

 どうせこの後は、“俺の事覚えているかどうか”だろ。

「俺の事、覚えとるか?」

 やっぱりか。

 高橋さんが笑いかけながら自分自身を指差している。

「いやっ、ちょっと……」

 もうこのセリフの対処には慣れた。少し考えたふりをし、難しい顔で答える。これが一番手っ取り早い。


「そうか。まぁ仕方ないわ。野球、しとるんか?」

「あ、はい。おかげさまで」

「そうか」

「はい」


 まだ來美ちゃんの頭の上に手を置いている。

 いい加減それを見せびらかさないでくれ。

 何事もないように高橋さんと俺の会話を聞く來美ちゃん。

 そんな來美ちゃんは、なぜ抵抗しようとしないんだ。そんなに好きなのか。

 俺の胸の奥深くには、大きな嫉妬心の腫瘍が膨らんでいた。


「明日の朝、暇か?」


 明日の朝?

 朝になにかあるのだろうか。

 とりあえず明日の朝は特に何も予定がない。

 明後日も、その次も、予定は特に立ててはいない。


「えっ、あっ、はい。まぁ」

「そうか。久しぶりに俺とキャッチボールせんか?」

「えっ、あっ、はい。お願いします……」


 久しぶりと言われても、記憶にない。

 だが、これはチャンスだ。

 キャッチボールの最中にいきなり速くて良いボールを投げて高橋さんを驚かせる。

 それを見て來美ちゃんが俺の事をかっこいいと思ってくれる。

 そして驚いている表情の高橋さんから手を引き、俺のほうに振り向かせる。

 ――完ぺきだ。

 高橋さんの悔しそうな顔と、俺の投球を見て瞳を輝かせる來美ちゃんが頭の中にはっきりと浮かんできた。俺は勝手に想像を膨らませ、高橋さんを完全に仮想の敵として頭の中にインプットした。そんなこととは知らず、高橋さんは変わらぬ表情で返してくる。


「そうか。良かった良かった。どんなボール投げるんか、楽しみにしとくわ」

「はい」

「じゃあ……そろそろ寝ようかの」

「あ、はい」


 いや、ちょっと待て。

 この人はどこで寝るつもりなのだろうか。

 まさか來美ちゃんの家で寝るのだろうか。


「ちょっと、今日うちに泊まるんですか?」


 前のめりになって床に手をつき、高橋さんに向かってさらに近づく來美ちゃん。

 それはそうだろう。

 俺の叔母さんの家と大きさが変わらないとはいえ、女の子の家に泊まるというのはさすがに特別だ。


「ええでしょう?」

 來美ちゃんのお母さんが、高橋さんと來美ちゃんの真ん中に入ってきた。


綾人あやとくんは小さい頃からお世話になっとるし、何回も泊まりに来てくれとったんやけん、別に何にも問題はないやろ?」

 綾人くん、とは高橋さんの事だろう。

 高橋綾人。名前もちょっとかっこいい。

 なんでこんなにもそろっているのだろうか。


「まぁ……そりゃあ……」

 さすがに來美ちゃんも戸惑いを隠せない。

「と言うわけじゃけ、今日は泊まらせてもらいます。もちろん、一階で寝るけん、大丈夫で」


 今度は頭に乗せていた手を肩にもっていく。

 その手をはなせ、と言いたいがなかなか言える勇気が出てこない。

 俺はとことん情けないな。


「あ、はい……」

「足、なんか刺さっとるな」

「あぁ、そうやった。はよ手当せんと」


 來美ちゃんのお母さんがせっせと中に戻ろうとした。多分、救急箱を取りに行くのだろう。

「あ、じゃあ來美ちゃん、運びましょうか?」

 その高橋さんの発言に驚く一同。


「野球してるんで、重い物を運ぶのは得意なんですよ」

 さっきの俺の台詞をそのまま繰り返したような言葉。それに人間を物扱いにするなんて。この時の俺には、もはや高橋さんは憎き敵でしかなくなっていた。一言一言に物凄く敏感になり、全てを否定したくなっている。みっともない子供のような俺を、またしてもがっかりさせる事が続いた。


「たくましいわぁ。さすが綾人くんじゃ。じゃあごめんね。ちょっと中に連れていくの手伝ってくれる?」

「はい。じゃあちょっと体操座り出来るか? あ、足つけんでええから」

「あ、はい。こうでいいですか?」

 両足を上げたまま、小さく体操座りをする來美ちゃん。

「オッケー。じゃあいくよ」

 來美ちゃんの後にまわり、何を思ったか、抱きついた。

「えっ、ちょっ……」

 そのまま両手をひざ裏までまわし、一気に持ちあげた。

 と同時に歩きだし、襖をあけて、來美ちゃんのお母さんと共に中へ消えていこうとした。


「じゃ、おやすみ胤爽。あとは任せとけ」

「胤爽くん……おやすみ」

 二人から同時にあいさつされ、戸惑いながらも一応会釈だけはした。

「胤爽くん、今日はほんまにお世話になって、ありがとうね」

 來美ちゃんのお母さんが西瓜の皮が乗っている皿を両手に持ちながら、最後に言葉をかけてくれた。

「あ、はい。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 襖がゆっくりと閉まり、静かな庭に残された俺は、特にする事も思いつかず、となりの叔父さんの家に戻った。

「ただいま」

「あ、おかえりなさい」

 奥の方でおばさんが返事をしてくれた。

 扉を閉めながら、ひとつ溜め息をついた。

 まるで蝉の抜け殻のように空っぽになった心は、夕食で満たすしかない。

 今夜は昨日の何倍も食べてやろう。

 その事だけを考えながら、玄関先で靴を脱いだ。



 翌朝の寝起きはあまりにも悪く、口の中が重たかった。

 就寝中暑かったのか、まるで隣で寝ている透明人間の為にあるのかと思わせるほど掛け布団が移動していた。

 畳の上に転がっている枕のせいで見えなくなっていた携帯を取り出す。

 充電が満タンになっているのを確認し、それと共に、受信メールも確認した。


「……三件……かぁ……」


 一件目はやっぱり出会い系から。また百万円の彼女からだ。はい、無視。

 二件目も百万円の彼女から。今度は二百万円に上がっている。でも、無視。

 三件目はあの親友から。そういえばメール返してなかったな。


『おい! なかなか可愛いじゃんか! どこの子?』


 彼女がいる奴がこんな事メールしていいのか?

 と言うか、絶対ダメだろ。全く、軽い奴だな。


『愛媛の子。俺の幼馴染らしいよ。よく覚えてないけど』


 返事が返ってくるかどうかよく分からない。と言うか、多分返ってこないだろう。

 でもなんとなくする事もないし、一応と言う事で返信メールを送った。

 すると予想は外れ、その何秒後かにはもう返信が来た。どうやら食いついたようだ。


『へぇ~、お前、一目惚れしたんだろ』


 ……冗談じゃない。

 なんで俺が一目惚れなんか。

 今は進路を決めるという一大事に立ち向かう大事な時期だ。

 恋なんか、してる場合じゃないんだ。

 でも、なぜだか強く否定しようとする気持ちが湧いて出てこない。

 これ、一体なんなんだ?

 一旦は冷静になったものの、徐々に熱くなってしまっている事が自分でも分かる。

 訳分からないという気持ちが心を満たし、無茶苦茶に力を入れて返信のメールを打った。


『うっさいわ!』


 返信完了の表示を確認した後、携帯電話を閉じて布団に向かって放り投げた。

「……さて」

 どうしようか。

 高橋さんとのキャッチボールまでは少し時間がある。

 それまでに動ける体を作っておくか。

 俺は何かに取りつかれたように、首はね起きでその場に立つと、服が入っている段ボール箱を探し、ノースリーブの白い練習用シャツを取り出して、朝日に当てた。


 朝から元気な光に、思わず目を細めた。

 練習用シャツの背中には、俺の名前と校訓。

 それに仲の良い部員からのメッセージとサイン。

 高校野球をしていた頃が本当に懐かしい。

 ほんの少し前の事なのに、なぜこんなにも懐かしいのだろうか。

 勉強ばかりだったからだろうか。

 それとも野球より夢中なものができたからだろうか。

 ……まあそんなものは無いだろうが。

 思い出がたくさん詰まっているこのシャツに着替えて、俺は朝のランニングへと向かった。

 


 玄関を出ると、昨日とは一転、どんよりした曇り空が広がっていた。

 ここはまだましだが、遠くの方の雲は、墨に浸したように黒い。そこから徐々にグラデーションしていき、俺の立っている付近を覆う雲は白色に一番近い薄灰色をしている。

 夏の風とは少し異なる、涼しくもなく湿った風。

 その風に向かって、ランニングを始めた。


 道端の雑草には、朝露が乗っていて、雲の合間から降り注ぐ日の光を反射している。

 時々道路の裂け目から顔を出している小さな花を横目に、颯爽と走り抜けた。

 すべての曲がり角を左に曲がり、ちょうどみかん畑の裏側くらいまで来た時、ほとんど使われていないだろうと思われる階段を見つけた。


 昨日の夜に使った階段とはまた一味違った雰囲気を持つ階段。

 トレーニングがてら、一段ずつ素早く昇っていく。

 思っていたより一段が低く、歩数の割になかなか進まない。

 それでもなんとか昇りつめ、荒々しく呼吸をした。

 肩幅くらい足を広げ、膝に手を付く。

 こめかみの方からじわりと汗がにじみ、頬から顎を伝って地面に落ちて行った。

 からっからになっていた地面が汗を吸収するスピードは申し分なく、もっと欲しいとばかりにすぐに渇いていった。


 そこをさらに左に曲がり、木々の間を抜けると、昨日来たホタルの小川に辿り着いた。

 一匹のカエルが、俺の前を横切っていく。

 そしてピタッと止まり、道端で俺の方をじっと見つめてきた。

 隣には親子だろうか、同じような色をしたカエルが数匹並んでいる。

 そのうちの一匹が、急に鳴きだした。


 小川のせせらぎとカエルの鳴き声以外はほとんど何も聞こえない。

 大きさで考えれば小川のせせらぎが勝つはずだが、カエルの鳴き声が不思議と響いて行くような感じを覚えた。

 カエルは鳴きやむと、そのままさっきとは反対側のせせらぎへと飛び込んだ。

 それに続くように、残りのカエルも飛び込み、平泳ぎで泳いで行った。

 俺は一回屈伸運動をし、ゆっくりと走りだした。


 しばらくくねくね道が続いた。

 左手に宇和海を望みながら、心地よい潮風を感じる。

 水平線の一番向こう側では、真っ黒い雲がどんどん広がっているのが見えた。

 そう感じてから約五分。

 あの、純粋扉が右手に見えた。


 昨日は暗かったのもあって、不気味な雰囲気を解き放っていた。しかし、今は違った。なにかこう、温かいとまではいかないが、親しみのあるような、そんな感じがした。

 昨日と同じだったのは、「生きているような気がする」と感じた事だ。

 ひっそりとたたずんでいた昨日とは一味違うが、その表情は生きているように豊かで、今にも話しかけてきそうだ。


 火事だったというのは本当なのだろう。

 純粋扉を支えている枠組みの一部が、ほんの少し焼けて黒くなっている。

 だが、扉はほぼ無傷だ。本当に不思議な扉だ。

 挨拶代わりに、まるで人の肩を軽く叩くように扉を叩いた。

 扉は生きている。だから挨拶をしたのだ。

 俺は扉を見ながら、数歩だけ後ろ向きに歩いた。

 不意に扉が笑ったように見えたような気がして、俺もそっと頬笑み返した。

 そして向き直し、ランニングに戻った。


 

「胤爽くん、おはよっ!」


 來美ちゃんの透き通った声が聞こえたのは、みかん畑の天然トンネルを通り抜けてすぐだった。

 結局俺の朝のランニングは、昨日二人で歩いたコースを逆回りしていただけだったのだ。

 前髪だけ残して後ろ髪は全て白いキャスケットの中に入れ、後に傾けたそれを耳まで深くかぶっている。そんな來美ちゃんは、いつもより小顔に見える。


 そんな來美ちゃんは肩が見える純白でひざ丈のワンピースを着て、俺に向かって手を振っている。

 柔らかい表情で笑う來美ちゃんは、太陽にも負けないくらい光を放っている。


「今日は起きれたんやなぁ」

「まぁ一応野球部じゃけぇ。キャッチボールで良いとこ見せてやりたいけぇね」

「へぇ……でもさ、肩痛いんやないん?」


 そう言うと思って、昨日からちゃんと痛み止めを飲んでいる。

 いいアピールになるように、準備だけはしっかりとしなくては。


「痛み止め飲んどるけぇ大丈夫よ」

「けど、無理だけはしちゃいけんけんな?」

「わかっとるよ」


 これって、俺の事心配してくれてる?

 いやいや、高橋さんの事が好きなのだから、そんな期待はしてはいけない。

 一瞬だけ緩んでいた気持ちをもう一度締め直すため、靴ひもをわざと解いて、きつく結び直した。


「てか昨日の、大丈夫だったん?」

 二人で歩きながら、さらっと聞いてみる。

 あの硝子の刺さった光景がフラッシュバックされる。

 にじみ出てくる赤黒い血液が、痛々しかったのを思い出す。


「あのあと硝子抜くんが痛かったんやけど、まぁいつもの事やけん大丈夫よ?」

「いつもの事って……でもまぁ歩けとるんじゃけぇ、その言葉信じるわ」

「うん」

 笑う來美ちゃんが昨日よりももっと麗しく感じ、瑞々しい肌は妙に輝いていた。

「てか腹減ったけぇ、一回戻って出直すわ。まだ間に合うじゃろ?」

「時間はまだまだ余裕よ。じゃぁ、家の前で待っとくけん」

「おう。悪いな」

「ええよ。じゃっ」

「おう。じゃっ」


 自分の右肩の近くで小さく右手を上げる來美ちゃん。

 俺はそれに答えるように、さっと左手を上げた。

 それから数分、疲れている筋肉に素早く栄養を送り、グローブとボールを手に、外に出た。

 外に出た瞬間、雲の合間から夏らしい日差しを受けた。

 


 來美ちゃんの家の前をトラックが通り過ぎ、夏風がみかんの香りを運んできた時、家の中から高橋さんが出てきた。チームカラーのオレンジ色をしたトレーニングウェアを着て、脇には外野用の黒いグローブのほかに、キャッチャーミットも持っている。

「待たせたな」

「おはようございますっ」

「おはよう」

 高橋さんと來美ちゃんが嬉しそうに話している。本当にこの場にいても良いのだろうかと、気が引ける思いがした。


 トレーニングシューズにかかとを入れ、左手に外野用グローブをはめた高橋さん。

 俺も同じようにコルク色の投手用グローブを左手にはめる。

「ボール、持ってるか?」

 すぐさまポケットに手を突っ込む。大丈夫。持っていた。

「持ってますよ」

 黒土がこびりついている練習用ボール。

 真っ黒だが、日差しを反射して光沢を放っている。


 來美ちゃんの家の前の道路に出た。

 高橋さんと向き合い、軽くボールを交わせながら徐々に距離を離していく。

 久しぶりの遠投も難なくこなし、肩も温まって来たころ、今度は徐々に距離を縮めていった。


「來美ちゃん、ちょっとそこのキャミ取って!」

 高橋さんの声が静かな道路を走っていき、縁側に座る來美ちゃんまで届いた。

「きゃ、キャミ?」

 來美ちゃんがあたふたとし始め、きょろきょろと辺りを見回し始めた。

「キャミってなんですかーー!」

 來美ちゃんの透き通る声が夏風に乗って高橋さんの元へ届いた。

「キャッチャーミット!」


 來美ちゃんが納得の表情を浮かべ、柔らかそうな髪をたなびかせながら高橋さんの元へ届けに行った。

 その表情がどうもわざとらしく見えてしまい、高橋さんへの分かりやすいアプローチに嫉妬心が募る。

 二十メートル先の方から楽しそうな会話の様子が伺えたが、蝉しぐれで何を言っているのかまでは確認できなかった。昨夜のように、距離以上の距離感を感じた。


 使い込んである黒い外野用グローブと比較しても、キャッチャーミットは新しく見える。

 そのキャッチャーミットを左手になじませた後、緩いボールが返って来た。

 それと同時に、高橋さんが腰を下ろす。來美ちゃんはその後ろに立ち、審判のまねをしている。

 高橋さんがミットを構える。上等だ。來美ちゃんに良いところを見せると共に、愛媛マンダリンパイレーツ入りに少しでも近づくために、いっちょ見せてやるか。


 大きめの投手用グローブにボールをおさめ、入道雲に向かって大きく振りかぶる。

 ミットを背に体全体をひねり、うねりを生む。

 体の中から絞り込むように徐々に力を指先に持って行き、アスファルトにどっしりと足をつく。

 右腕と連動させながら大きく左腕で弧を描き、グローブを脇で潰す。

 胸をいっぱいに張って耳の上から投げおろし、指先で力強くスナップさせる。

 ボールが指先を離れた瞬間、バランスを崩してつまづきそうになった。

 反動で右足が高く上がり、地面に着いたころにはボールは高橋さんのミットの中だった。

 吹き出した汗をシャツの袖で拭き、肩を軽く回した。


「どうじゃ」


 向こうにいる二人には聞こえないような独り言が自然に出てきた。

 通称『トルネード投法』と呼ばれる変わった投げ方で渾身の一球を投げいれたが、思ったよりも球速は出なかった。かなりのブランクを感じ、肩を三回ほど回した。

 よく見えなかったが、二十メートル先では高橋さんがかすかに笑っているように見えた。



 それを三十分ほど繰り返したところで、高橋さんが立ち上がった。

「よし、このぐらいにしとこう。実は昼から練習なんだ」

「そうなんですか。じゃぁ、ダウンしますか」


 ダウンというのは、簡単にいえば慣らしのキャッチボールのことだ。

 硬式球を投げた後の肩や肘は入念にケアをしないとすぐ怪我をしてしまう。

 軽く慣らしのキャッチボールをすることで、少しずつ体をオフモードにしていく。

 徐々に高橋さんとの距離を縮める。


「ありがとうございました」


 野球界式のあいさつで締めくくった。

「こちらこそ。うちのテスト受けるんだってな。頑張れよ」

「はいっ、ありがとうございます」

 笑顔で肩をぽんと叩かれると、大股で家の中へと入って行った。


「良い球きとったよ、胤爽くん」

 キラキラした瞳で俺を一直線に見る來美ちゃん。

 きっとさっきの投球で良い印象を与える事が出来たのだろう。

 優越感と満足感で満たされた心の中で、不思議な塊がまた暴れ出した。


 汗をぬぐい、Tシャツの首元を持ってパタパタと空気を逃がす。

 生温かい空気が顎の方から外へ逃げ、真っ赤に日焼けした首元を冷やしていく。

 下を向くにも横を向くにもチリチリとした痛みが付いてきて、仕方なく首を曲げるのは諦めた。

 どす黒い入道雲の間からは、はっきりと太陽が顔をのぞかせた。


「ありがとう。真っすぐには自信あるけぇね。それに――」

「なぁ來美ちゃん!」

 今からいいところなのに、縁側から高橋さんが間に入る。

 そのタイミングの悪さに、無意識のうちにいつも以上にボールを強く握っていた。

「はい!」

「良かったら練習見にこない?」

 練習?

 そんなに簡単に行けるものなのか?

 來美ちゃんは、行くのか?

 悪い想像が次々と浮かんでは蓄積される。

「本当ですかっ? ぜひ行きます!」

 行くのか……。

 さっきまで真っすぐ一直線で俺を見ていた瞳は、いつの間にか同じように高橋さんを見ていた。


「なぁ、胤爽くんも行くじゃろ?」

 そういう來美ちゃんの瞳からは、さっきのような真っすぐさを感じられなかった。

 ついでに行くくらいなら、一人で残っている方がずっといい。

 俺の心の中では、『もうこれ以上くっつく場面を見たくない』というような感情がはっきりと仁王立ちしていた。

 俺は投げやり気味に答えた。

「いや、俺はいいわ。見させてもらいんさい」

 來美ちゃんは軽く口を曲げた。高橋さんは優しい頬笑みを見せてくる。

「そぉなが。じゃぁ……しっかり見させてもらいに行くわぁ」

「よし、先に乗っとれ」


 高橋さんの指示で來美ちゃんは車に乗り込んだ。

 今ならまだ間に合ったのに、「やっぱり行くな」の一言が言えなかった。

 着替えを済ませた高橋さんが運転席に乗り込み、エンジンをかける音がみかん畑に響いた。

「じゃぁ、またな。胤爽」

「あ、はい……」

 脇にグローブを挟んだまま一礼したせいで、ボールがこぼれてしまった。

 それを拾い上げ、泥をぬぐった時には、車は狭い山道を進んでいた。

 また、一人取り残されてしまった。

 みかんの香りが、慰めるように俺を包み込んだ。



 昼食を早々と済ませた俺は、広い部屋の畳に寝転がり、扇風機のぬるい風に当たり続けた。

「――午後の天気は全国的に曇りとなっておりますが、少しずつ雨が降ることもありそうです……」

 ニュースの天気予報が壁一枚向こう側から微かに聞こえてくる。

 大きな仏壇の横に小さな蚊遣豚かやりぶたが置いてあり、線香の煙が薄く伸びている。

 渇いた線香の匂いが鼻を時々刺しながら、隣の部屋へと流れて行った。

「あっちぃ……」

 団扇うちわで仰ぎ続けていたが、そろそろ手も疲れてくる頃で、腕の底に乳酸がたまっていくのが感じられた。

 大の字でその場であおむけになり、そのまま団扇を離した。

 目線の先では金魚の絵柄の涼しげな風鈴が、揺れるたびにひんやりとした音を響かせていた。


「――四国地方の現在の気温はやや低めで……」

 今日は雨かな。

 不意にびしょ濡れの少女が頭に浮かぶ。

 來美ちゃんは大丈夫だろうか。濡れて、風邪をひかないだろうか。熱を出さないだろうか。

 悪い想像がどんどん浮かんでくる。

 肝心な場面で働かない脳は、こういう時ばかり元気になる。

 高橋さんが傘をさして、その中に來美ちゃんを入れ、相合傘……――。


「あぁーーー!」

 頭をこれでもかってくらい掻く。

 時々爪が刺さってひりひりした。

 窓の外は、徐々に薄暗くなっていった。

 

 生ぬるく埃臭い匂いと共に、天の滴がひとつ、またひとつと落ちてきた。

 渇いた道路はやがてそれを吸いきれなくなり、時間を追うごとに濃くなっていった。

 薄暗い部屋の中で、携帯電話の画面だけが眩いほどに光っている。

 俺はごろんとうつ伏せになり、左手で頬杖をついた。


 右手の人差し指を器用に使って、待ち受け画面から『ブックマーク』まで行く。

 上から六番目をクリックすると、オレンジ色のページが出た。

 瞳の奥までオレンジで染まってしまいそうなほどオレンジ。

 そのページの中にある『日記』をクリックする。


「今、球場に来てまぁす……」

 ご丁寧に写真までつけてある。

 どこの球場だろうか。よく分からないが、とにかくオレンジ色の帽子をかぶっている選手らしき人がぽつぽつ写っている。

「大好きな人が間近で見れて幸せ……あっ」

 無意識のうちに声を出してしまっていた。

 それに気づいてからは、声を出すのを意識的にやめた。

 その時、ふと何かが頭をよぎった。

 オレンジ色のチームと言えば、愛媛マンダリンパイレーツ。

 この女の子は球場まで行ってるのか。熱心なファンだな。

 もしかしたら、來美ちゃんと会ってるかもしれないな。

 來美ちゃんはかなりのファンみたいだから、きっと気が合うだろうな。


 頭がぼおっとする。

 まぶたがだるい。

 雨の日はどうしてこんなに気が乗らないのだろうか。

 雨粒と一緒に、変な圧力まで降りてくるのだろうか。

 携帯電話を乱暴に閉じ、頬杖の左手からするりと顔を滑らせる。

 畳に頬から落ち、耳でいぐさを感じ取る。

 窓についた水滴がサンに落ちていく――。



 ――目が覚めると、腕がしびれていた。知らない間に眠っていたようだ。

 目をこすり、体を起こす。

 頬に手をやる。畳の模様がそのまま浮かんでいるのを感じた。

 頭の中を風が通り抜ける。

 整理されたのか、頭が軽い。

 薄暗い空間の中で、まばゆく光る携帯電話をチェックする。

 珍しく新着メールは無かった。

 真っ白い雲からは、もう滴は落ちてこなくなっていた。

 遠くの方で、俺を呼ぶ声が聞こえた。

 耳が起きていないのか、上手く聴きとれない。


「胤爽くん。西瓜、切ったで」


 あぁ、おばさんの声だったのか。

 畳の模様を気にしつつ、台所に向かう。

 飾っていてもおかしくないようなお皿の上に、透き通る真っ赤のそれが横たわっている。

 小さめのフォークがそばに置いてあるが、あえてそれを使わず両手でがっしり持ってかぶりついた。

 アイスのように口の中で溶け、代わりに瑞々しく甘い汁を残していく。

 さらさらした表面に埋め込まれた種を丁寧に皿の上に落とし、またかぶりつく。

 やっぱり夏にはこれを食べなくては。そう感じた。

 窓の外は日が差していないせいでまだ白く、どこか物寂しい。

 だが、寝汗の気持ち悪さをぬぐうような風が、窓の外からやってきていた。


「美味いやろ。今朝から井戸水で冷やしとったんやけど、ひやいか?」

「ほんま冷いです。ありがとうございます」

「なら良かったわ」


 西瓜のおかげで頭の方も回り始めた。

 合計六きれも平らげ、「ごちそうさまでしたぁ」と言いながらまたさっきの部屋に戻った。

 さて、これからどうしようか。

 とりあえず、携帯電話をのぞく。

 最近急に携帯電話を頻繁に使うせいか、依存症になりそうだ。


 無意識のうちにあのみかんの子のホームページまで辿り着き、なんとなくさっきの日記をもう一度読み返してみる。そう言えば、ところどころ出てくる幼馴染って誰なんだろう。秘密を探るために、過去の日記を次々に読む。しかし、特に個人情報が載っているわけでもなく、溜め息をつく。

 次に『アルバム』と書かれたページに行く。

 はじめてこのホームページを知った日から見ようとは思っていたが、何故か不思議と見なかったページ。

 そのページに初めて足を踏み入れた時、俺の目に衝撃の画が飛び込んできた。

「これ、もしかして……」

 顔つきや雰囲気が來美ちゃんにそっくりの人が、楽しそうに友達とピースサインで立っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ