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第三話:シトラス・トンネル

 球場を後にしたときには、もう日が傾き始めていた。


「残念だったな。次は勝てるじゃろ」


 結局あの後は音沙汰なしでそのまま終わってしまった。

 半分嬉しかったし、半分切なかった。

 切なさの中のそのまた半分は、悔しさだった。

 來美ちゃんはきっと、恋をしているのだろう。多分。


「なぁ、元気出せって。……そうじゃ!」


 俺はハッと思いだした。

 今日は野球がメインではない。墓参りがメインだった。


「この後は墓参りじゃろ? そこまで連れてってや。な?」

「……うん」

「そんな暗い顔しとっちゃぁ、ご先祖様に失礼じゃろ。元気出せって」

「うん。そうやね。ごめんごめん」

 ようやく回復してくれそうだ。


「でも勝ってほしかったなぁ……」

「よっぽどファンなんじゃね」

「へへっ。そりゃもう大好きやけんね」


 高橋さんが、なんだろうなぁ。

 俺は相変わらず高橋さんを妬んでいる。

 いい加減忘れようとするが、なかなか忘れられない。

 まだまだ俺も、子供だな。

 下ばかり見ている來美ちゃんは、時々どこか恥ずかしげにちらちらと俺の方を見る。


「胤爽くんは、今日どうだった?」

「ん? まぁ……俺が入ってなんとかせんとなっ、て思った」

 冗談でも何でも良いから、とにかく來美ちゃんを元気づけたかった。俺みたいなのが入ったところで劇的にチームが変わる保証はもちろんないし、そんなことを思う資格が無いのもわかっている。でも、冗談でも他人に言い聞かせると同時に自分にそれを言い聞かせることで、自分への励ましにもなるのかもしれないと一瞬だがそう思った。

 意識して笑顔を作ってみせたら、來美ちゃんも八重歯を軽く見せるように笑い返してきた。


「そりゃあ頼もしいなぁ。期待しとるけんなっ」


 気さくに肩をポンポンと叩く來美ちゃん。

 冗談でもそれに乗ってくれる。本当に話しやすい。


「さ、じゃあ戻るかっ」

「うん」


 また駅までの階段を上がり、切符を買って、電車を待った。

 試合後だからというのもあって、来た時よりもざわついていた。

 二人でベンチに座り、ボーっと人間観察をする。

 行き交う人々の影がさっきから徐々に濃くなってきているような気がした。


 隣に座っている來美ちゃんは、真っ白い携帯電話のボタンを両手の親指で素早くつついている。

 きっと、高橋さんに「お疲れ様」のメールを送っているのだろう。目がトロンとしている。

 俺も人間観察をやめ、なんとなく携帯電話を開いた。


 新着メール、二件。

 一通目は、出会い系からの迷惑メール。今から駅に向かってデートをすれば百万円貰えるらしい。無視しよ。

 二通目は、あの唯一の親友からのメール。今日は彼女と宮島に行ったらしい。わざわざラブラブな写メを送ってきやがった。あぁ羨ましい。それに悔しい。俺も強気でメールを返してやる。


『宮島いいなぁ……羨ましいよ。でも俺も、今、女の子と一緒なんよ!』

 はい、送信。

 目には目を。自慢話には自慢話だ。

 数分後、メールが返ってきた。


『はぁ? まじで? お前が? 嘘だろ? 証拠を見せろ!』

 証拠って……写メ?

 ちらっと横を見る。メールを送り終えたのか、來美ちゃんは足をのばし、膝に手をつきながら遠くの方を眺めていた。

 今がチャンスだ。今しか言う時はない。

 変に胸の奥がドクドクしだした。


「あ、あのさ」

「ん?」


 口の端を軽く噛みながら、來美ちゃんがこちらを向いた。なんとも言えないその表情に、吸い込まれそうな気がした。


「記念写真、撮らん?」


 ドクドクが強くなり、手からは変な汗もにじんできた。


「え? まぁええけど……」


 トロンとしていた目は瞬く間に大きく見開いた。真っ赤になった頬を両手のひらで包み、唇をもごもごさせている。

 俺は自分の深い紺色をした携帯電話をちょっと高目に掲げた。


「じゃ、撮るよ」

「うん」


 來美ちゃんが近づいてくる。軽く柔らかい頬が当たり、心臓が更に激しく脈打つのを感じた。

 近い。今までで一番近いんじゃないか?

 このまま時間が止まらないだろうかと一瞬だけ淡い期待を寄せた。

 だが、無残にもわざとらしいシャッター音で現実に戻されてしまった。


「ごめんな。本当にありがとね」

「あ、うん。でもなんで急に?」


 恥ずかしげに聞いてくる來美ちゃん。

 さっきまでぴったりと当たっていた頬を気にしているようだ。


「ん、まぁちょっとね」

「ふぅーん」


 空気を察してくれたのか、優しくスルーしてくれた。

 また顔が真っ赤になっていた。

 さっきの画像を大事に保存し、メールに添付してやった。


『ほれ。どうじゃ!』

 今の気持ちをそのまま素直に親指で打った。

 ちょっとした優越感。この感じがもう一回でも二回でもあればいいなぁ。


「あ、電車来たね」


 来た時のと同じ色の電車が滑り込むように駅のホームに止まった。

 野球観戦をしていた大勢の人々が一斉に電車に乗り込む。俺らもそれに流されながら乗車した。

 吊皮がどんどん独占されていく。負けないようにひとつ確保したが、俺より背の低い來美ちゃんは結局確保できなかった。


「あれだったら、俺に掴まっとき」

「あ、ええの? じゃぁ……ごめんな。だんだん」


 そう言ってちょこんとTシャツに掴まる來美ちゃん。なんか嬉しい。

 そこから伊予市駅まで、お互いに会話もすることなく、目をそらしていた。

 來美ちゃんが時々ギュッと握り直す度にその存在を感じながら、ただただ伊予市駅に着くのを待った。

 ほぼ満員の電車から解放されて駅に降り立ったとき、Tシャツの端っこにあった感触が一瞬無くなった。

 異変に気付いた俺はその場をきょろきょろと見渡した。


 人の波が立ち止った俺に躊躇せずにどんどん流れていく。

 その時やっと俺はすぐ横にいたはずの來美ちゃんの姿がなくなった事に気付いた。

 流れに逆らうようにして人の波からはずれた俺だったが、來美ちゃんは人の波に飲まれていったようだ。


「ちょ、ちょっと」


 ちらっと一瞬だが來美ちゃんのTシャツを見つけたが、瞬く間に消えてしまった。

 俺は人と人の間をすり抜けるように走り抜け、階段を素早く下った。

 これが俺と來美ちゃんとの心の溝、温度差なのではないかと感じた。

 だからこそ今ここで見失ってしまうと、もう二度と來美ちゃんと仲良くできないのではないかと勝手ながら考えたのだ。


 そう考えると自然に体は動いて行った。

 人の波は想像していたよりもぶ厚く、並大抵の力では越えられそうにない。

 しかし俺には心の力がある。來美ちゃんを想う気持ちの部分がある。

 俺はこれに賭けた。


 とその時、さっき一瞬だけ現れていたあのTシャツが見えた。

 俺にもまだツキは残っていたようだ。

 何人もの体をかき分け、色々な想いでぐしゃぐしゃになっている顔面など気にもせずに突き進んだ。

 その先に、來美ちゃんの左腕が見えたのだ。

 願いを込めて、俺はめいっぱい左腕を伸ばした。そして、階段を降りきりそうだった來美ちゃんの左手首をこれでもかという位がっしり掴んだ。

 後ろにいたおじさんに嫌な顔をされたが、とりあえずはぐれなくて良かった。

 心の溝を修復したのだ。


「危なかったな」

「危なぁ……ふぅ、どんくさくてごめんなぁ」

「いいよいいよ。はぐれんで良かったわぁ」


 お互いに安堵の表情を浮かべた。その時にはもう二人とも、繋がっている手首を見ていた。

 急に顔が熱くなる。


「え、あ、ごめん」


 俺は慌てて手を離して後で腕を組んだ。右手で確認してみて初めて分かったが、左手は異様に熱くなっていた。

 來美ちゃんもほぼ同時に腕を引き、右手で覆っているのが見える。


「あ、うん」

 そんなやりとりをしているうちに、どこか遠くからひぐらしの鳴き声が聞こえ始めた。

「なんか……夏の終わりって感じがするな」

「もうお盆やもん。あとちょっとで二学期が始まるしね」

 カンカンに照りつけられた長い一日が暮れはじめる頃に蜩の鳴き声を聴くと、どこか儚くなる。

「今日は何日なんかいね?」

「えっと……八月の十五日。夏休みも残りちょっとじゃなぁ。なんか寂しっ」

 そう言うと、來美ちゃんは俯き気味に口の端を軽く噛んだ。

「そうじゃな」

 夏の終わりはなんでいつもこう寂しい気分になるのだろうか。


「学校いつから?」

「俺らの高校は一週間以上早いけぇな。始まるの。確か、八月の二十から」

「じゃぁ、その前日に広島に帰るん?」

「いや、十七には帰らんと、宿題がな」

 そう。学生の天敵、膨大な量の宿題をまだ半分も片づけていなかった。

「そぉながぁ……じゃぁ、あとちょっとしかこっちにおれんのやなぁ」

「あと……今日も合わせて三日か。もっとこっちにおりたいなぁ」

 急にしんみりしてきた。実はあんまりこういう空気は得意ではない。


「もっとこっちにおって欲しいよ……」

 そう言って來美ちゃんは唇をもごもごさせた。

 後で手を組み、しんみりした表情を浮かべる來美ちゃん。

 そんな來美ちゃんとの別れの日を想像すると、急に息苦しくなったような気がした。

「ま、まぁ、良い思い出たくさん作って、これでもかってくらい遊んで、冬休みにはまた来るよ」

 これでフォローになればいいが。

「うん。そうやね。しっかり楽しんでな?」


 來美ちゃんの笑顔がオレンジ色の空とマッチしていて、優美に見えた。

 黄色い点字ブロックの先の方には、夕日が綺麗に揺れていた。



 それから三十分か四十分ほどの後、俺らは八幡浜駅の駅舎前に立っていた。

 バスで来た道を戻り、最初にバスに乗ったバス停に着いた時には、もう空はオレンジから薄いグレーに変わっていた。


「もう家が見えてきたな」

「うん。家の上側のみかん畑の先にお墓があるけん、みかん畑の中を突っきるけんね」

「え、他の道ないん?」

「ない」


 みかん畑の中を突き進むのかぁ。そんなこと今まで経験した事ない。

 俺は少し不安な気持ちになった。だが、もうそこを良く知っている來美ちゃんについて行くしかない。覚悟を決めた。


「よし、こっから行くけんな」

「え、こっから?」


 來美ちゃんの指差す先には、階段はおろか、獣道さえもない。ただそこには、アーチ状になっているみかんの樹々によって天然のトンネルが作られていた。幅は狭く、小さい子供ならギリギリ頭が当たるか当らないかくらいの高さだ。


「体が大きい胤爽くんにはちょっときついかもしれんな」


 そう。きつい。まぁ低い姿勢は野球の練習でよくやってたから、慣れてると言えば慣れているのだが。

 引退した後にこんな姿勢になるなんて思ってもみなかった。

 腰が今すぐにでも悲鳴を上げそうだ。


「まぁちょっとの我慢よ。頑張ってな」

「おう」


 体が俺よりもひと回り小さい來美ちゃんは、余裕の表情でどんどん進んでいく。

 苦酸っぱいような香りが充満していて、鼻のまわりが少しもどかしい。

 時々みかんの葉っぱが俺の腕をひっかく。

 しだいに爽やかな方のシトラス・フレーバーが鼻を刺激し始めた。


 スタート地点こそ狭かったものの、後の道は比較的進みやすかった。急斜面は意外ときつかったが、そこは気合で何とか乗り越えた。

 樹々の隙間から夜更け前最後の夕日が時々差し込み、薄暗さの中にも風情を感じた。

 通れそうなところを探し、爽やかな香りが漂う天然のトンネルをくぐり抜ける。

 みかんの爽やかな香りがするトンネルを抜けると、そこは紛れもなく墓場だった。

 大きな長い岩を積んだだけのお墓。そんな墓がいくつもあり、それぞれに一礼して、手を合わせて挨拶をした。

 今日はお盆だ。


「よし、じゃぁ帰るか」

 俺は上で手を組んで体を伸ばしながらトンネルに戻ろうとした。


「待って」

 その声に素早く反応して、後に振り返った。


「あのさ……ちょっと寄り道せん?」

 目線を色々な角度に注ぎながら手を後に回して、肩をすぼめて恥ずかしげにしている。


「あ、うん、良いけど。もう日が暮れるで?」

「まぁそうなんやけどさ……」

 さっきの最後の夕日は、今はもう確実に沈んでいた。

 辺りは濃いグレーに変わり、一番星もさっき見つけたほどだった。


「じゃぁん! 秘密兵器の懐中電灯!」

 來美ちゃんは大げさに小さいそれを取りだすと、スイッチを押して足元のクリアなサンダルを明るく照らした。


「この先にホタルが見られるスポットがあるんじゃけど、良かったら観に行こうや。な?」

 また來美ちゃんの強引が始まった。

 どこか違和感はあるが、嫌な事は無いし、むしろまだ來美ちゃんと一緒にいられるのは嬉しい。


「ええよ。ホタルかぁ」

「よっしゃっ」

 広島のなかでも都会の方に住んでいたし、高校三年間は寮生活でホタルにはとことん縁がなかった。

 整備がちゃんと行きとどいていない細い道を二人で並んで歩いた。



 その途中、奇妙な空間に遭遇した。

 広い空き地に、木の板のようなものが立っていたのだ。 

 その板に近づき、姿を確認してみる。

 扉だ。それも立派な高級感漂う茶色のもの。

 外枠と共に、閉じたままの扉が、それだけで立っていた。

 普通、扉は家に入るために設置されるものだろう。

 そうであるはずなのに、扉だけがひっそりと不気味に立っている。

 扉の後ろには空き地が広がっていた。『昔そこに家が建っていた』と言ってもおかしくないくらいの広さだ。

 そんな中、扉だけがひっそりと立っている。


「あれ、なんで扉だけ立ってんだろ……」


「あれ? あれはね、火事で家が燃えちゃった時に、たまたまあの扉だけ燃えずに残ったんだって。取り壊す理由もないから、そのまま残してあるらしいよ」


「へぇ……」

 やっぱり、家が建っていたんだ。

 それはそうか。家が立っていないところに、扉なんか付けないもんな。単純な話だった。

 だが不思議な空間だ。雑草がためらいもなく生い茂っているその広い空き地に、扉だけが立っているのだ。


「こういうのを、純粋扉って言うんよ」

「純粋扉?」

「うん。扉だけが立っとるやろ。どこにも通さん、ただの扉。ただそこにあるだけ。扉が純粋に扉としておれとるんよな。それが純粋扉」

「なるほどねぇ……」


 確かにそう言われると純粋だ。

 何も通すことなく、扉だけが立っている。

 そこに実用性は存在していない。

 扉が扉として、あたかも自分の意思で、生きているように純粋に立っている。

 凄く不思議な空間だ。


「気に入ったん?」

 來美ちゃんが優しく問いかけてきた。その表情は柔らかく、軽く顎を上げているその姿に愛嬌さえ感じる。

「おう。凄く不思議で、なんか……生きてるような、そんな感じがする。まぁ上手く説明できんけど」


 言葉では上手く表現できない。

 ただ不思議だとしか説明できない。

 でも、本当に生きているように感じた。扉が、扉自身でそこに生きているような、そんな感じだ。


「生きてる、かぁ。なんか深いなぁ……あ、そうだ。あっち見てみ!」


 來美ちゃんが急に指差した方向には、綺麗な宇和海が広がっていた。

 月光に優しく照らされている美しく静かな宇和海からは、時々潮騒が聞こえてくるようだった。

 その瞬間、遠くの方から爆発音が聞こえた。

 胸にずしんと響く重い音。

 花火だった。


「わぁ……」

「毎年八月十五日は八幡浜の花火大会が開かれるんよ。よいよ綺麗やろ?」

「よいよ?」

 また方言だろうか。

「あ、“とっても”ってこと」

「あ、あぁそっかそっか」

「うん」


 また耳に髪を掛け直す來美ちゃんは、とたんに花火の方に目をやった。同じように俺も花火を楽しむために体の方向を変えた。

 水平線まで続く宇和海。その先には大きな虹色の火が海を幻想的に装飾している。

 赤や黄色や緑や白が次々に打ち上げられていく。


「うわぁ……」

「ここ、うちの秘密の絶景スポットなんよ。実はこれが見てもらいとうてな」


 嬉しそうに話す來美ちゃん。

 その瑞々しい肌に時折花火の明かりが写って、優しく照らされている。

 俺から高橋さんに対する嫉妬の気持ちがほとんど無くなり、素直に來美ちゃんが愛おしく思えた。

 鼓動が速くなり、首元から汗が垂れそうだ。

 來美ちゃんはずっと花火の方を見て、「わぁ」とか「綺麗……」とか目をキラキラさせながらつぶやいている。

 そんな來美ちゃんが急に嬉しそうに俺の方をむいてきた。


「実は胤爽くんもいっぺんだけここに来た事あるんよ。覚えとらん?」


 どこか懐かしい気もするが、覚えていない。

 こんな風景、忘れるはずないのに、完璧に忘れていた。人の記憶ってやっぱり長くはもたないもんだな。


「ごめん……覚えとらん……」

「昔のこと、やっぱり全然覚えとらんのやね……」


 さっきまでの表情とは違う、悲しげな表情だ。

 なんか悪い事言っちゃったな。


「まぁまた新しく覚えちくれたらええよ。二人だけの秘密の場所やけんな」


 肌に写る緑の花火の明かりが、今度は來美ちゃんを暗く見せた。

 どこか儚い表情。嘘でも覚えていると言った方が良かったのだろうか。

 もう一度來美ちゃんの顔を見る。

 二人だけ、か。

 秘密って言われると逆に人に話してしまいたくなるが、二人だけってのはあまり口外したくはないな。本当に秘密にしておこう。


「ホタルのとこまであとちょっとやけんな」

「そうだったな。ホタル見に来たんだもんな」

 再び歩み進める俺ら。

 純粋扉に見送られながら、俺はちょっとはにかんだ。



 しばらく右側の宇和海を見ながら進んだ。

 森でそれが見えなくなった頃、道の左側のはるか遠くで自由に飛び回る小さな光をいくつも見つけた。


「あ、見えてきたな」


 子供のように走っていく來美ちゃん。

 その先には、茂みがあり、森の様にうっそうとした空間が確認できた。


「胤爽くん、ほら早く早く!」


 小さく見える來美ちゃんが、俺に向かって手を振っている。さて、走るか。

 つま先に力を入れ、ジョギングのように走り出す。徐々にスピードを上げ、最終的にダッシュになった。

 そして、來美ちゃんがいる所まで追いついたとたん、ホタルが目の前を通り過ぎて行った。

 ペンライトで照らしたのかと錯覚するほどその光ははっきりしていた。

 ついては消え、ついては消え。

 自由に飛び上がる、というか泳ぎまわるようなホタルに、どんどん惹かれていった。



 茂みの間を縫うように細長く流れる小川のせせらぎが夏の夜を涼しくさせる。

 だんだんと夜の虫の鳴き声が響き渡ってきた。

 そんな中、一筋、また一筋と、ホタルが乱舞しては消えていった。


「綺麗……」


 小川をまたいでいる小さな橋。

 そのちょうど真ん中でしゃがみこみ、うっとりしながらホタルのいる方をじっと見つめている來美ちゃん。足元のサンダルの紐が今にもちぎれてしまいそうなほどだ。


「本当に凄いな。近くでこんなんが見れるとは思わんかったわ」

「へへっ。ここ、実は最近見つけたんよ。まだ誰にも教えとらん。胤爽くんが初めてなんよ」

「俺らだけの秘密の場所がまたひとつ増えたな」


 さっきの純粋扉と、宇和海の景色と、この小川。この三つは今度こそ絶対に忘れない。

 小さい頃の思い出が消えたとしても、また新しく作ればいい。

 もしも忘れそうになったら、またここを訪れよう。



 それからどのくらい経っただろうか。

 しばらく俺も來美ちゃんも、自由に飛び回るホタルをずっと眺めていた。

 お互いに何も話さず、ただただ。

 まさに二人だけの時間。

 昨日までの俺には想像もつかなかった時間。

 この八幡浜に墓参りをしに来て、自称幼馴染と出逢って、野球を観に行って。

 純粋扉に出会って、綺麗な宇和海に酔いしれて、こうしてホタル達を眺めて。

 この地に来てまだたったの二日。

 この二日間がどれだけ未来に繋がるかは分からない。

 でも、俺は確信している。

 きっと、これからの人生にとってプラスになるはずだと。


「……涼しいなっ」

「……そうじゃなぁ」


 小川のせせらぎが、辺り一面を爽涼そうりょうに包みこんでいる。

 さっき汗をかきながらみかん畑の天然トンネルを登って来たからだろうか。

 その時にかいた汗が、今度は小川からの心地よい冷風によって体中を、特に顔を冷やしていく。


「そろそろ帰るか。心配しとるだろうし」

「うん。あ、ごめんな。こんなことに付き合わせちゃって」

「いや、もう本当に来てよかったよ。ありがとうな」

「いやもう本当にこちらこそ。あ、帰りはこっちの方が近いから」

 しゃがみこんでいた來美ちゃんが立ち上がり、楽しさ半分、悲しさ半分というような表情で俺の右腕を引いて進んでいく。少々乱暴だが、どこか心地よい、そんな感覚だ。いつもそうだが、行動と表情が釣り合っていないのが不思議でたまらない。


 來美ちゃんは今、どんな気持ちでいるのだろうか。

 そんな事気にしていないとでも言うように、來美ちゃんは草を踏みわけ、どんどん進んでいく。

 短い獣道を過ぎると、やがて石でできた階段が目の前に現れた。


「この階段を降りきって、右に行けばすぐに家に着くけん」

「分かった」


 階段は意外と急で、ところどころに生えているこけが古さを物語っている。

 ゆっくりと、一段一段降りていく。

 真ん中くらいに着いた時、夜空は幾千もの星で埋め尽くされていた。

 それからも、大事に大事に降りていく。

 あと四、五段を残し、もう少しだと思った、その時だった。


「ちょっ……」

 俺の右腕を引く來美ちゃんの小さな手が、するりと抜けて行った。

「えっ?」

 そのほんの数秒後、來美ちゃんが一瞬視界から消えた。

 それがまた現れた時には、誰もいない道路の白線の上で、よろけながら立ちあがっていた。

 俺は、いざという時に声が出なかった自分に驚いた。と同時に、駆け足で降りて、來美ちゃんが起き上がるのを手伝った。


「大丈夫か?」

「いったぁ……まぁ大丈夫だと……思うけど……」


 口を閉じたまま歯を食いしばる來美ちゃんの膝からは血がにじみ出てきた。

 辺りが暗いせいか、その血液はどこか黒々しく思えた。


「ちょっと擦ったみたいじゃけど、血は出てきてないけん、大丈夫よ」

 不自由もなく歩いてみせる來美ちゃん。この子はどこまでタフなんだ。


「まぁ……痛くなったらすぐに言えよ」

「うん。分かった」

 そう言いながら、來美ちゃんはサンダルを脱ぎ出した。

「どしたん?」

「えっ、何が?」

 不思議なものを見るような目で俺を見る來美ちゃん。

「あ、いや、サンダル脱いでどうするんかなぁって思ってさ」

「あぁ、これ? さっきのせいかな。ちょっと紐が切れちゃって」

 確かに右足に履いていた方のサンダルの紐がちぎれていた。

「片っ方だけやとバランス悪いけん。それに、白線の上は冷たくて気持ちえぇよ?」


 平均台を進むように、白線の上を歩いて行く來美ちゃん。その姿がやけに板に着いていると感じたのは気のせいだろうか。

「平均台に乗っとるみたいやろ?」

 片足を上げておどけて見せる來美ちゃん。

「やじろべぇみたいじゃ」

「どっちも同じよぉ」

 來美ちゃんは白線の上を、俺は車道側を歩いた。

 こんな時間に車は通らないだろうが、一応形だけでも來美ちゃんを守ろうとしたからだった。


 さっき見つけた純粋扉を見上げながら、時々來美ちゃんを目で確認する。

 たまに目が合うと軽く微笑んでくれ、その度に心の中で何かが押し寄せてきた。



 細い道路の脇で、一本の街路灯が静かに道路を照らしている。

 そこを二人で通り過ぎようとした刹那、急に來美ちゃんの足が止まった。


「いっ、つぅ……」

 一体どうしたのだろうか。左足だけつま先立ちをして、顔をしかめている。

「ちょ、どうしたん?」

「へへっ……ちょっと平均台から落ちちゃったみたい……」


 さっきまでの強い來美ちゃんは、もうそこにはいなかった。

 いるのは平均台から落下した踊り子のような、弱々しい表情をした來美ちゃん。


「大丈夫かよ。な、ちょっと足、見せてみ」

 來美ちゃんの足の裏には硝子の破片が刺さっており、濃い赤黒色がにじみ出てきていた。


「なんか刺さっとる?」

「硝子じゃ。裸足になるけぇよぉ。歩けるん?」

 と言っても、これでは歩けないだろう。


「どうしよ……」


 仕方ないか。というより、良いところを見せるチャンスだと思った。今こそ元野球部だということを証明するときだろう。俺は來美ちゃんの横から膝裏と背中に手を回し、踏ん張りながら持ちあげた。いわゆるお姫様だっこだ。來美ちゃんは意外と柔らかく、想像していた通り軽かった。女の子を持ち上げるのは初めてだ。透けそうな下着に、思わず変に緊張する。


「ちょ、えっ、ちょっと」


 來美ちゃんが驚いた表情をしている。そして、脇をしめて、全体的に身を寄せた。


「歩けんのんじゃろ。野球部の時によぅ筋トレでやりよったけぇ、心配せんで良いけぇ」

 ただし野球部仲間のように筋肉質で硬い体ではない。細いラインの柔らかい体。今すぐ急にきつく締めたら、簡単に壊れてしまいそうな体だ。


「あ、うん……」


 静かな街路灯に照らされながら、帰り道を進んだ。

 途中何度も目が合い、その度に違う方向に目を向ける。時々見てはいけない方向をどうしても見てしまい、不自然な方向に目線をやらざるを得なかった。


 立派な日本家屋が見え始めたころ、來美ちゃんの体から急に力が消えた。

 目を閉じ、頬が赤く染まっているのが可憐で仕方がない。

 こうなれば、起こさないように家まで連れて帰らねば。

 そうして進んでいるうちに、家の明かりが見えてきた。

 縁側では、誰かが誰かと西瓜を頬張っているのが見えた。

 向こうは俺の姿に気付いたのか、西瓜をその場に置き、家の中へと入っていった。


「んん……」


 顔を真っ赤にして寝汗をかいた來美ちゃんが赤ん坊のように目をこすり、こっちの世界に帰って来た。


「やっと起きたか」

「あっ、ごめんごめん。気持ち良すぎて眠っちゃったみたい。……重かったでしょ」

「全然。ほんまに余裕じゃけぇ」

「そう? でもなんか……恥ずかしいなぁ」

「しょうがないじゃん」

「でも嬉しいよ」

「おう」


 縁側まで來美ちゃんを運び、そっと木目に沿って寝かせてあげた瞬間、急にさっきの何倍も体が軽くなった。体重の重みよりも、プレッシャーの重みの方が大きかったようだ。


 汗をかいた額をぬぐい、ひと息ついた。

 そのとき、家の中から來美ちゃんのお母さんと、見た事のある人がこちらに向かってきた。


「あ、胤爽くん。來美がご迷惑かけたみたいで」

「いえいえ、とても楽しい時間を過ごせました。本当に感謝しています」

「ほぉかいね。そりゃあ良かったけども」

「あ、それより、來美ちゃんが怪我したみたいで」


 驚いた表情で來美ちゃんを見るお母さん。

 その表情を前に、全く動じずに足の裏を見せる來美ちゃん。


「ん。足の裏、ちょっと切ったみたい……」

「あんたはもう……女の子がそんな恰好して。もっと行儀よくしなはいや。ほんまにもう……それにこんな時間まで。いくら高校生でもね、連絡くらいしてもええでしょ。もう、心配かけんさんなやぁ」


 この後も何分か説教は続いた。

 お母さんの言葉にはどこか柔らかいものがあり、決して攻撃的な言葉ではなかった。

 どこか温かみのある説教。そのせいか、いつのまにか來美ちゃんの姿勢は正座に変わっていた。

 その姿は、まるで猫のように背中を丸めて小さくなったように見えた。

 昨日の行儀のいい來美ちゃんは、作り物だったのだろうか。

 それとも、これは小さな反抗期なのだろうか。

 俺の中で、來美ちゃんに対する印象がまた少し変わった。


「……ごめんなさぁい」

「ほんまにこの子はもう……」


 と、その時だった。

 どこからともなく、さっきの見覚えのある人が顔をのぞかせた。

 見るからに体格がいい。大男とまではいかないが、がっちりした筋肉質の男だ。

 しかも男らしいキリッとした顔立ち。いわゆるイケメンと言われている部類だろう。

 この人どっかで……。


「あれっ、高橋さん?」

 そうか、高橋さんだ。

 來美ちゃんの声を拾い、昼間に見た姿と重ね合わせてみる。

 なるほど、たしかにそうだ。高橋さんだ。

 來美ちゃんの顔がさっきよりも思いのほか赤く染まったような気がした。

 その瞳も溶けるような眼差しに変わっているような気がする。

 これは、さっきまで寝ていたせいなのだろうか。それとも……。

「えっ、なんで? なんでここにおるんですか?」

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