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第二話:シトラス・カラー

 その日の晩も、大人数で夕食を楽しんだ。相変わらず酔っ払いの溜まり場の中で、俺も來美ちゃんも浮いていた。

 そう。來美ちゃんも。なぜか昼に引き続いて、夕食にも参加していたのだ。


「おいっ、そろそろなぁ、お前らぁ帰れ。子供はぁ、もぉ~寝な~さい」

 急に肩に乗りかかるように、昼間は絡んでこなかった人が絡んできた。

 まだ八時半でこのあり様だ。


「ちょっと……ここにはり辛いな」

 來美ちゃんがぼそっと口にした。

 確かにちょっと居辛い。


「うちん家来る? 隣やし」

「あっ、じゃぁそうしよっか」


 これって、誘ってる?

 もしかして、俺の事誘ってる?

 女の子の部屋で、しかもこんな夜に。

 俺は平然を装いつつ、心の中ではガッチリとガッツポーズをした。


「うん。こっち」


 來美ちゃんが急に俺の左手首を引っ張った。

 襖を開けて、キシキシ言う縁側を歩く。

 時々振り返って軽く笑ってみせる來美ちゃんに、俺はただただ唾を飲み込んでいた。

 玄関でボロボロのスニーカーのかかとを踏みつぶし、様々な虫が鳴いている外へ飛び出した。

 とても静かな夏の夜。

 それとは対照的に、明るいところからは時々大笑いが聞こえて来た。

 耳をすませば宇和海から波音が聞こえてきそうだ。

 そんな事を思っていると、いつのまにか、玄関に着いていた。


「ここでちょっと座って待っとって。……中はちょっと汚いけんな」


 貫禄がある上がりかまちと敷き台は段差が高めで、ちょうどよく座る事ができた。

 本当に家に来てしまったが、本当に大丈夫なのだろうか。

 どこか怪しいような気がしてならない。

 というか、強引過ぎやしないか?

 数分後、コップとポンジュースを持って、來美ちゃんが現れた。


「ごめんごめん。待たせちゃって」

「ポンジュースじゃん」

「うん。うちの大好物やけん」

「さすが愛媛っ娘じゃね」

「まぁな。愛媛がもう、ほんまに大好きやけん」

 スカートを後で持って、綺麗に正座する來美ちゃん。

 そして、とぷとぷ、とコップに流されていくかぐわしい黄色。


「はい、どうぞ」

 耳に髪をかけ直して差し出してくれた。

 一気にそれを飲み干し、唇の端っこについた黄色を指で軽くぬぐった。


「ありがと。やっぱ美味いわ」

「いぃえのことよ。……あ、どういたしましてって意味な」

 膝のところに手を置いて、また笑窪を見せてくれた。


「あ、そうや。小さい頃のアルバム、どっかにあるかもしれん! 探してくるな!」

「あ、うん」

 來美ちゃんがせっせとアルバムを探しに行ってしまい、一人きりになった。

 ポンジュースをグイッと飲み干し、夜空をぼんやりと眺めた。

 來美ちゃんかぁ。

 男子校に通う高校球児だから、女の子と一緒になる事なんか滅多にない。

 あっても公式戦の応援に来てくれる隣の女子高の吹奏楽部やチア部ぐらいだ。

 だから、なんだか……分からない。とにかく分からない。何もかも。

 不意についたため息で、体中の力が抜けた。



 それから十分ほどたった。しかし、なかなか來美ちゃんが帰ってこない。もう帰ってきてもいいはずなのに。不審に思っていたその時だった。二階から次々と何かが崩れるような音がした。大きなその音が家中を伝って玄関先にまで響き渡る。


「おぉい、大丈夫かぁ?」

 二階に向かって野球部仕込みの大声を張り上げる。

 だが返事は無い。

 まさかさっきの崩れるような音の下敷きになっているのだろうか。

 心配で仕方がない。

 いけない事だとは分かっているけれども、靴を脱いで、中に入ってみることにした。

 今にもギシギシ言いそうな廊下をひっそりと進み、付きあたりの階段をゆっくり、のそのそと登っていく。明りをつければいいのに、とつい言ってしまいそうな、薄暗い螺旋状らせんじょうの踊り場を抜け、二階に……。


「わっ」


 不意に声が出た。

 來美ちゃんの顔がいきなり出て来たからだった。

 そのせいで後に重心が行った俺は、気付いた時には背中から踊り場に落ちていた。


「あっ……大丈夫?」

 真っ赤な顔の來美ちゃんが踊り場まで降りてきた。

「おぅん、まぁ大丈夫。でも……びっくりしたぁ」

「ごめんな。うち、もうちょっと気ぃつけとったら良かったわぁ」

「いいよ。全然」

「はい」

 來美ちゃんが周りを確認するように見渡す。そして、右手を差し出してきた。ちょっと冷たいがそれでもぬくみのある手。みずみずしく、たおやかな手。そんな手に支えられながら、起き上がった。


「なんか崩れ落ちるような音がして、大丈夫かなぁと思って。しかもなかなか帰ってこんけぇ心配でさ。ごめん。いけん事じゃゆうのは分かっとったんじゃけど」


 罪悪感がわき出てくるように押し寄せてくる。


「あ、あれ、アルバム探してたらなんかずれたんか知らんけど本が一気に落ちてきて。胤爽くん声聞こえたんやけど、うちそんなに声大きゅうないけん、ちょっと降りて大丈夫よって言おうとしたんやけどね」


「そっか。なんか逆に悪いことしたな。ごめん」


 肩身が狭い。

 なんでこんなことしてしまったんだろうっていう後悔が後を絶たない。


「もうえぇけん。心配かけてごめんな。まぁまだそんなに経ってないんやけどなぁ……あ、アルバムなんやけど、なんか……見つからんかった。ごめん」


「そっか。……そっか。まぁいいよ。いつか見つかったら見せて……ね」

「うん。絶対探し出すけん」


 恥じらいからだろうか、ぎこちない表情で笑って見せる來美ちゃん。

 俺もそれにぎこちなく返す。


「じゃあ、今日はそろそろ帰ろうかな」

 これ以上はもう気まずいだろう。

 俺は自分から伝えた。

 それに來美ちゃんも空気を読んでくれたのか、応えてくれた。


「そうやね。もう寝んとね。まだ子供じゃもんね。……あ、明日はお墓参りがあるけん」


 階段をゆっくり降りながら、明日の予定を確認する。

 このやりとりが、なんだか嬉しかった。

 明日も会えるのか。


「分かった。ありがとね」


 つぶれたスニーカーを履き、引き戸を開けた。


「うん。じゃあね」

「んじゃ、また明日」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 逃げるように家を出た。

 來美ちゃんは結局、最後の最後まで真っ赤な顔をしていた。

 どこか恥ずかしげに、上目遣いをして。

 結局今の間の出来事はなんだったのだろう。

 どこか不可解だが、まぁいいか。

 大笑いが聞こえていた叔父さんの家からは、もう何も聞こえなくなっていた。


 

 次の日の昼、俺はやっと布団から出た。

 霞んでいる視界をなんとかいつも通りに直すため、目をこすった。

 あれっ?

 こすったのに、まだ白いまんまだ。

 さらにこすっても、白いまま。

 横向きになっていた体を正面に戻すと、見覚えのある顔が現れた。


「おわっ」


 來美ちゃんだった。

 そして、昨日の記憶が一気に駆け巡った。


「おはよっ」

「あ……おはよ……」


 さっきの白いのは、俺の純白の学ランだった。綺麗に畳んで置いてある。

 その横にはTシャツ姿の來美ちゃん。

 ……なんだこの光景は。なんで來美ちゃんがいるんだ?


「さて問題です」


 いきなり來美ちゃんが俺に問いかける。


「今、何時でしょうか?」

「えっと……」


 枕元にあるはずの携帯を探し出し、時間を確認した。


「十一時……三十七分……えっ! 嘘っ!」


 寝坊だ。しまった。


「正解。もうみんな行っちゃったよ」

「やばっ……そこまで連れてって」


 情けない。早起きが得意なはずの元野球部がこんな失態を犯すなんて。


「分かってるよ。でもな、もうみんな帰って来たの」

「嘘ぉ……」

「で、この際だから、夕方からうちとお墓参りしよ?」

「別にいいけど……今からでもいいんじゃないの?」


 來美ちゃんは、待ってました、とでも言うように、口を開いた。


「待ってました!」


 あ、言った。


「今日な、ちょうど野球あるんよ。見に行かん? ……あ、嫌なら別にえぇんやけどな」

 “野球”というフレーズに、ついつい食いついてしまった。


「野球って、プロ野球? それとも甲子園?」

「あっと……その真ん中らへんかな」

「真ん中?」

「うん。真ん中。知らんのん? 四国・九州アイランドリーグ」

 最近できた、あれか。


「まだ見たことないけど、名前だけは知っとるよ」

「それの中で、どこ応援しとる?」

「いや、どこも……」


 正直、広島での記憶しかないから、「野球を観に行く」と言えば「カープ」にたどりついてしまう。どうしても。


「やっぱ愛媛でしょ。愛媛マンダリンパイレーツ。オレンジ色の。な?」

「あ、うん」


 雰囲気に押されてしまった。


「うちな、自分で言うんもなんやけど、熱狂的なファンなんよ。愛媛の。サポーターズクラブにも入っとるんよ」

「サポーターズクラブ? ファンクラブみたいなやつ?」

「そうそう。で、招待試合のチケットを使おうかなぁって思って。ちょうど二枚やし」

「そうかぁ。なら、行ってみようかな」

「ほんまに? じゃ、早く準備して」

「えっ、もう、すぐに行くん?」

「当たり前やん! さぁほら!」


 來美ちゃんに強引に俺の手首を引っ張られながら、洗面台へ連れていかされた。

 なんだか昔、同じような境遇に出会ったような……。いわゆるデジャヴってやつか?

 半分寝ながら顔を洗い、歯を磨き、準備完了。後は、着替えるだけ。


「心配せんでもえぇよ。ちゃんと後、向いとくけん」

「あ、うん。先に行っといてもいいんよ?」

「ええのええの。ちっちゃい頃はいっつもこうやったやん」

「あ、そっかぁ……」


 やっと思い出した。

 そうだ、幼馴染同士なんだ。

 頭が覚めた瞬間だった。


「うん」


 着替え終わると、またも強引に玄関先まで連れて行かされた。

 ちょっと強引な気もするが、これはこれで嬉しい強引さだ。

 履きつぶしたスニーカーを軽く履き、かかとを無理やり押し込む。

 俺が履き終わるのと同時に、來美ちゃんがクリアなサンダルを履いて、二人で外に出た。

 爽やかな柑橘系の匂いと、小鳥のさえずりが俺を出迎えていた。


「くぅっ、ん」

 一回こっちに振り返った來美ちゃんは、両手で空を押し上げて、ノビをした。Tシャツに隠れていた小さいおへそが一瞬見えて、即座に目線を下に移した。


「こっち」

 そう言って先々行こうとする來美ちゃん。でも何か忘れているような……。

「來美ちゃん、鍵かけんと!」

「えっ? あぁ、かけんでも大丈夫よ。こんな山奥まで泥棒が来るわけないやん。おじさんにも『鍵はええよ』って言われとるし」

「あ、ならいいけど」

「じゃ、行こっ」


 さすが田舎。大雑把というか何というか……。都会では考えられないな。

 一段下のみかん畑の横を通り、二人でバス停を目指した。

 バス停までの数分間、お互いに何も喋らなかった。そのかわり、灼熱地獄の蝉しぐれは相変わらず頭の中を行き来していた。


 先の見えない国道に逃げ水が姿を現しては消え、それを繰り返す内に、小さなバス停が見えてきた。

 そこに着くころには、二人ともへとへとになっていた。

 錆びているバス停の看板に寄りかかるように、二人でしゃがみ込んだ。


「あっつぅ……休憩所でも作ってくれてたら良かったのにな」

「そだね……あと何分だろ」

 來美ちゃんはゆっくりと立ち上がって、時刻表を覗き込んだ。

「ラッキー。あと二分でバス来るよ。これ逃したら最低でも一時間は待たにゃいけんけん……間に合って良かったねぇ」

「一時間かぁ。そりゃ良かったわぁ」


 タオルを取りだし、汗を拭く。しかし、拭いても拭いても汗がとまらない。それは來美ちゃんも同じようだ。手首で汗をぬぐう來美ちゃんを見て、タオルを持っている俺はなんだか申し訳なくなってきた。


「はい。これ使いんさい」

 いつの間にか、俺は來美ちゃんにタオルを手渡していた。

「えっ、ありがと……」

 気持ち良さそうに顔を拭く來美ちゃん。一通り拭き終わると、また自慢の笑顔を見せてくれた。

「ふぅ……だんだん」

 だんだんは、ありがとうっていう意味だったよな。なんだか初めて英語を習った中学生みたいな気分だ。

「おう」


「あ、バス来たみたいじゃね」

 來美ちゃんの後からは、確かにバスが近づいていた。

 オレンジと肌色のレトロな車体が田舎らしさを漂わせている。なんだかタイムスリップしたような気分にさせられた。

 段差を上がり、一番後ろの緑色をした長い座席を二人占めした。

 乗客は俺と來美ちゃんを含めて四人。ここでも田舎らしさを感じた。

 山を下り、古い街並みをぬけて、遂に八幡浜の中心部に来た。そして駅に着くころには、隣に座っている來美ちゃんはすっかり夢の世界にいた。

 時々ピクッと動く唇に、いちいち唾を飲み込んだが、体はまるで金縛りにあったように固まってしまっていた。


 車内放送で八幡浜駅に着いた事を知り、揺らして起こした。

「來美ちゃん、着いたってさ」

 一回眉間にしわを寄せ、細くなっていた目を無理やりに広げて、またノビをした。


「ふぅうん……あれっ、あっ、いつの間にか寝ちゃってたか」

「うん。寝てた」

「……なんもしとらん?」


 恥ずかしげにうつ向き気味に聞いてくる來美ちゃんに、必死に無実を証明する。


「そ、そんなんする訳ないじゃん!」

「冗談よぉ」


 納得してくれたのか、左手の人差し指で目をこすって立ち上がり、バスを降りていく來美ちゃん。

 それを、俺はただただ着いて行った。

 來美ちゃんの言動にはついていけないなぁ。予測不可能。

 バスを降りて、今度は鉄道の改札口へと向かった。

 切符を買い、プラットホームに向かい、重低音と共に発車を待っている特急列車に乗り込んだ。

 車窓の小さなテーブルに置き忘れている小さいサイズの緑茶のペットボトルを挟んで、向かい合って座った。


「こういうのっていいよな」

「うん。なんかよぉ分からんけど、ええよね」


 柔らかい髪を耳にかけ直し、頬杖をついて外を眺める來美ちゃん。その姿は、可愛いというより、麗しいという方が合っているかもしれない。

 柔らかいでは足りないがふわふわとは少し違う、そんな不思議な空気が流れていた。

 八幡浜から三駅。経由駅の伊予市駅に着いたときには、もう正午を少し過ぎていた。


「まだ十五分くらい余裕あるけど、何か食べる?」

 正直、何も食べていないのを忘れていたため、今やっと來美ちゃんの言葉で気付いた。


「あぁうん、そうだな。何がいいかな……」

「一応売店あるけん、パンでも買って食べよっか」

「おう」


 売店の前の方に並べてある菓子パンが今日の朝ご飯兼昼ご飯になりそうだ。

 俺が焼きそばパン、來美ちゃんがジャムパンをそれぞれ買った。そして、プラットホームのベンチに二つ空きがあり、そこに隣り合って座った。


「なぁ、胤爽くんの焼きそばパン、ちょっぴり分けて?」

「あぁ、うん、いいよ」


 三分の二くらい残っている焼きそばパン。俺の歯形がついていない方をなんとか上手くちぎろうとした。だが、麺が上手くひとつにまとまってくれず、なかなか綺麗にちぎれない。


「あれっ……」

 その時、急に背中に何かの気配を感じた。と同時に、両方の手の甲に、ひんやりとした可愛らしい手が覆いかぶさってきたのが分かった。


「こういうんはな……」

 それは來美ちゃんだった。二人羽織のように、背後から俺を操作している。それが分かった時、まるで心臓が爆発したかのように飛び上がってしまいそうだった。


「ちょ、ちょっと」

 思わず振りほどく俺。

「あ、びっくりさせちゃった?」

「びっくりどころじゃないけぇ。焦ったわぁ」

「へへっ、ごめんごめん。横から手伝おうと思ったんやけど、うちそんなに腕長くないけん。口で説明するんも苦手やし」

 上目遣いで恥ずかしげにそういう來美ちゃん。

「ちょっと貸してみ。……でな、こういうのはな、ねじりながらな、こうやるとな……」

 そう言った時には、來美ちゃんはもう元通り横に座っていた。

 來美ちゃんに渡し、じっと見つめる。片方だけ回転していく焼きそばパンは、さっきまでの悪戦苦闘が嘘事のように綺麗に分割されていった。

「ほらな。はい」

「すごい……あ、ありがと」

 口の端を軽くあげて微笑み、歯形のついている方を俺に差し出した。

「うん、まぁまぁいけるな。これ。こっちも食べる?」

 そう言うと、少し大きめにジャムパンをちぎって渡してくれた。

「ありがとう。なんか喉が渇いてきたな。なんか飲む?」

「あ、じゃぁ……ひやいポンジュースがええな」

「分かった。ちょっと買ってくるわ」

「うん」


 すぐ近くの自動販売機に、五百円玉を投入し、まずは俺のお気に入りのスポーツドリンクを買った。無意識のうちに時間は流れ、気付いた時には紙コップに次々と注がれていく白と透明の中間の色をしたスポーツドリンクをじっとみつめていた。


 次は來美ちゃんのポンジュース。はっきりとしたオレンジ色が注がれ、自動販売機から取り出した。

 その最中、俺は來美ちゃんの不可解な言動について考えたが、答えは見つからなかった。


「はい」

「だんだん」


 來美ちゃんに渡した後、ゆっくり座ってから、大事にスポーツドリンクを飲んだ。

 ゆっくりとスポーツドリンクが喉を流れて行った。至福の時間だ。一口で汗がにじみ出てきそうだった。

 人々が行き交う忙しいプラットホームに、かすかに蝉の鳴き声が響き渡っていた。


 スポーツドリンクを飲み干した頃、アナウンスと共に、青を基調とした電車が入って来た。

 数人が降り、その後に二人並んで乗車した。一番近くの緑色のシートが空いていたため、そこに隣り合って座った。


「市坪駅で降りるから」

「分かった」


 市坪駅までの五分とちょっとの間、電車内での会話はこれだけだった。

 二人の間に変な緊張感があった。

 プシューと言う音と共に電車から降りると、まさに目の前に珍しい駅名標が設置されていた。


「の・ボール……あぁ、正岡子規の」

「そう。珍しいじゃろ。この市坪駅のミドルネームなんよ。で、その奥が目的地の坊っちゃんスタジアム」

 確かに、ちょっと目線を上に移すと、銀色の立派な野球場が待ち構えていた。

 この愛媛に来る途中に見た野球場は、確かに坊っちゃんスタジアムだったようだ。


「さ、行こ?」

 來美ちゃんに先導されながら、白い階段を降りた。

 手を後ろに組みながら、時々俺の方に振り向く來美ちゃん。その度に微笑んでくれて、本当にしたわしい。

 細い道路を渡った先、そこはもう球場の真ん前だった。

 そこから少し歩いて、大きな階段から球場に入った。



 鮮やかな芝生と濃い黒土以外は、全てが薄い青で統一されている。内野席を覆うように設置されている屋根は、まるで波のようにうねっていて、躍動感がある。俺は不意に広島市民球場での試合を思い出し、懐かしく感じた。


 來美ちゃんに引っ張られるようにして、一塁側のオレンジの集団に混ざって座った。


「俺こんなところで投げてたんだな。なんかもう遠い昔の事みたいだ」

「昔ってそんな。もう野球はせんの?」

「やるよ。この肩が治って、トレーニング積んで、大学で頑張るよ」


 そうは言ったものの、勉強は一向にはかどらないのが事実だ。それに大学に行きたいという気持ちもあまり起こらない。できる事なら勉強で、というよりも野球で進学したいのだが、もはや野球の事しか頭にない。


「肩……どのくらい悪いん?」

「今は、一応軽くなら大丈夫だけど、投げる瞬間に力が上手く入らん感じ。でも、たとえ手術してでももう一回全力で投げられるようになるまで回復して見せるけぇ」

「そぁなが。いつかうちにも試合で投げとる姿見せてね」

「おう」


 と、その時。オレンジ色のはっぴを着たおじさんが近寄ってきた。

 しばらく俺や來美ちゃんを覗き込んだ後、來美ちゃんに話しかけてきた。


「ありゃ、もしかして、篠浦さんとこの來美ちゃんか?」

「あっ、田島おじちゃんじゃないですか! ご無沙汰してますぅ」

「久しぶりやなぁ。今日も応援よろしゅう頼むけんの」

「はい。頑張ります!」

「そっちはもしかして……彼氏か?」

「もう、そんなんやないですよ。こちら胤爽くん。幼馴染で、野球やってたんですよ」

 俺は立ち上がり、軽く礼をした。

「ほうか。君、ポジションは?」

「あ、ピッチャーでした」

「まっすぐはどれくらい速いん?」

「今ですか? 今は多分、百三十キロ前後だと思います」

「じゃぁ、最速は?」

「確か……百四十八キロだったと思います」


 そう。百四十八キロ。

 プロでもたまにしか出せない数字だ。

 あれは確か二回戦の綾川学園との試合だった。

 六回の裏、打者は三番の熊原。綾川学園のエンジ色をしたユニフォームがぼやけるほど熱気が凄まじかった一か月前。力勝負で三振を取りに行ったあの球。外角高めに大きく外れたが、三年間で一番いい真っすぐだった事を思い出す。

 広島県予選で、まだまだ観客はまばらだったが、どよめきが聞こえてきたことはよく覚えている。


「百四八? それ本当か?」

「げぇななぁ……胤爽くん、そんなに速いボール投げられんの?」

 同時に二人に迫られた。

「本当ですよ。まぁプロからはあまり注目されてませんが」


 所詮、まっすぐが速い奴なんかこの日本には五万といる。今年の夏の甲子園で注目された南北海道・蝦夷商業の豊岡や大阪の名門・黒龍館の清水、それに、アマチュア全日本のエース、徳治大の三神さんも常時百五十キロは軽く超えている。


 あいにく俺と同じ世代には、逸材と呼ばれる選手が例年よりも多いらしい。それに俺は甲子園にも行けなかった。こんな俺がプロになど行けるはずはない。


「君、名前はなんじゃったかな?」

「え、辻原つじはら 胤爽かずさですが……」

「辻原くん、君、愛媛マンダリンパイレーツに興味は無いか?」

「それってもしかして……」


 もしかして、スカウト? プロ野球とは違うけど、アイランドリーグだって野球で飯を食っている。これは逃すわけにはいかない。


「実はな、十二月に愛媛マンダリンパイレーツの入団テストがあるんじゃが、受けてみんか?」


 なんだ、入団テストか。でも、これに合格したらまた野球が続けられる。もしかしたら、広島実業の木田にもリベンジ出来るチャンスが巡ってくるかもしれない。

 それにする必要のない勉強の時間を野球に回せる。

 勉強嫌いな俺にぴったりだ。

 肩さえ治れば良い球が投げられる自信もある。

 願ってもないチャンスだ。


「受けたいです。受けさせてください!」

「そうか。じゃあ、一応事務所の方に連絡しておくけん。連絡は篠浦さんとこに行くようにしとけばええよな?」

「はい! よろしくお願いします」

 來美ちゃんが元気に答えてくれた。


 凄くやる気が出てきた。

 今日の夜から、早速トレーニングを始めよう。

 宿題とか勉強は、とりあえずまた今度で。


「良かったなぁ! もしかしたら、思ってたよりも早く投げる姿を見られそうやなぁ!」

「おう。っしゃぁ……」

 大きな歓声と共に、試合が始まった。俺も来年、もしかしたらこの場所にいられるのかもしれないと考えると、胸が熱くなる想いだった。



 あれから一時間ほどたっただろうか。

 今日の試合は、なんだか空気が重い。

 回が進むのも遅いような気がする。

 だらだらとただ時間だけが流れている。こんな風に感じるのは、つい最近まで高校野球をしていて、「攻守交代は駆け足ではない! ダッシュだ!」なぁんて怒鳴られていたからだろうか。

 それとも、この猛暑のせいだろうか。

 とにかく、周りの応援団の熱い声援についていけなかった。


「今日のマンダリンパイレーツはいかんのぉ……」


 さっきの応援団長も腕を組んで冴えない顔をしている。

 六回裏、愛媛の攻撃。二アウト二塁。点差は六点。

 ようは負けていてムードが悪くなっているという事。

 相手の勢いに完全に飲まれてしまっていた。


「ここは代打だろ……」


 このバッター、今日はヒットが無い。打てそうな雰囲気も感じられない。

 それならもっと思い切って代えてしまえばいいのに。点差も点差だし、何か思い切った事をしないと……っひぃっ!

 俺の頬に何か冷たいものが触れた。と言うより、押し付けられた。

 反射神経が敏感に反応し、少し宙に浮いた気がした。


「へへへっ、驚きすぎやろ。なに怖い顔しとるん?」


 少し上の、声がした方向をすぐに見た。そこには來美ちゃんが立っていた。

 両手に水色をしたラムネの瓶を持っていて、どうやら片方を俺の頬に付けて来たらしい。


「サンキュ。この局面、なんかアクションを起こさないとなぁと思って」


 手際良く飲み口にピンク色の栓を置いて、勢いよく叩いた。その瞬間、ぶしゃわぁと炭酸が溢れ出した。溢れてくる泡は口で受け、一滴もこぼさずに飲み始める事ができた。


「飲むの上手いなぁ」

「まぁね」

 瓶の中のビー玉が、カラカラと転がる。口の中でチクチクと小さく刺激する炭酸を一気に飲み込むと、ほのかに爽やかなフレーバーが後から香った。

 勢いよく飲んだせいか、頭がキーンとしてきて、歯を食いしばった。


「あぁ~最高! やっぱ夏の風物詩のひとつなだけあるな」

「元気出て良かった。さぁ、辻原監督、どうするん?」

 俺の横に座って、身を乗り出して聞いてくる來美ちゃん。

 顔が近いせいか、急に鼓動が速くなったような気がする。

「監督って。そんな大げさな。ここは代打でしょ」

 打てそうにない選手を打てそうな選手に交代させる。定石の策だ。


『選手の交代をお知らせします。バッター、宇田に代わりまして、高橋。バッターは、高橋。背番号、三十六……』


 その瞬間、さっきまでのだらっとした雰囲気が一気に吹き飛ばされた。

 愛媛を応援している人たちは身を乗り出し、祈るように見入っている。

「ほら俺の言った通りじゃん。この場面はやっぱり代打なんだっ……て」

 隣には、なぜか遠い目をした來美ちゃんがグラウンドの方を向いて立っていた。

 一点集中の視線。

 周りの視線とはどこか違っているような気がした。


「嘘……」

 そこだけ時が止まったかのように固まってしまっている。

「あれっ……どしたん?」

「高橋さんや……」

「それがどうかしたん?」

 一度グラウンドに目を向ける。

 高橋さんと呼ばれる人はバットを使って入念にストレッチをした後、熱気立つ黒土を丁寧に踏みしめながら左バッターボックスへと向かっている。別に何の変哲もない。

「高橋さん、覚えてないん? 小さい頃に一緒に野球しとったやん。てか胤爽くんに野球教えたの、高橋さんよ?」

「えっ、ほんまに?」

 覚えていない。確かに誰かと野球もどきのような事をやったような、やらなかったような……。

 どちらにしても、俺に野球を教えてくれた人がこんな人だったなんて。

「昔、近くに住んでたんよ。高橋さん。その頃からかっこよかったなぁ……」


 かっこいい。その言葉を聞いた途端、俺の中の夏みかんが腐り始めた。

 せっかく今まで大事に育ってきたのに、虫に食われて大惨事だ。

 それが嫉妬だという事に気付くのに、そんなに時間はかからなかった。

 ヘルメットをかぶり直し、投手をにらみつけるように構える高橋さん。顔はよく見えないが、確かに俺よりもがっしりしているし、風格もある。だんだん羨ましくなってきた。


「へぇ。じゃあ相当上手いんだろうな」

 お手並み拝見、だな。

 俺と來美ちゃんの微妙な温度差を気にしつつ、目線を高橋さんに集中させた。

 その初球、大きな打球がライトスタンドを襲……いそうだった。


『ファールボールに、ご注意くださいませ』


 大きなファール。うん、ファールだ。ホームランじゃあない。

「あんな所まで飛ばすなんて、さすがやぁ」

 大きくてもファールはファール。

 二球目、大きく外れてボール。今のは定石だな。一球、間を置かないと。

「高橋さんの威圧感、凄いわぁ」

 威圧感って。ボールはボール。

 三球目、変化球に空振り。完全に崩されたな。

「高橋さん、おしい!」

 全然おしくない。さぁ、追い込まれたぞ……。

 コンッ。

 金属バットでの響くような良い音、とまではいかないが、木製バットの芯に当たる、良い音がした。

 徐々に歓声が大きくなっていく。

 打球はぐんぐん伸びて……フェンスに直撃した。

 太鼓の音頭と共に、トランペットから高らかに音楽が流れた。


「凄い凄い! さすが高橋さん!」


 二塁ベース上でガッツポーズする高橋さん。それを見ながら飛び上がりそうなほど喜んでいる來美ちゃん。そしてそれを見て溜め息をつく俺。

 愛媛を応援に来たのに、なぜだろう。このまま負けてしまえば……なんて考えてる俺がいる。

 と言うか、高橋さんがだんだん憎くなってきた。

 心の中の夏みかんに、殺虫剤をかける。

 しかし、なかなかその虫はそこから離れなかった。


「よしっ! ここからやぁー!」

 隣からは威勢のいい声が出続けている。

 どうせその声援は高橋さんだけに注いでいるのだろう。


 さっきのあの瞬間から、もどかしいのが後を絶たない。

 それから試合が終わるまで、ラムネをチビチビ飲みながら過ごした。

 最後の一口を一気に飲み干す頃には、もう応援団もほとんど片付けが済んでいるようだった。

 げふっ。空になったラムネの瓶越しに、大きく広がっている空を眺めた。

 それは青空と呼ぶに等しい快晴だが、俺にはちょっと暗く見えた。

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