第一話:シトラス・フレーバー
小ぶりの夏みかんが、机の上にある新品同然の参考書でできている山から転がり落ちた。新品というわけではない。本来の使い方をしていない代わりに枕として使っていたため、角が折れてしまっているのだ。それを拾い上げようと目線を移動させる。だが、この目の前に広がっている光景を見るたび、いつも体中の力が抜けそうになる。散らかり放題の部屋の惨状が凄まじいのだ。とにかく参考書や問題集で足の踏み場がないほど汚い。女の子には見せられないほどだ。
そんな散らかしっぱなしのこの部屋のどこかから、機械で作られた質の悪い音楽が流れているのが聞こえている。珍しく誰かからの着信だろう。音楽のする方を辿って耳を傾けてみる。その音楽は高校野球広島県予選のパンフレットの下から聞こえてきているのだと確信した。砂を両手で掘るように荒々しく除けてみると、携帯電話が裏返しになっていて、音楽はここから流れてきていた。そのまま携帯電話を開いて、電話ではなくメールだったことを確認する。気だるくそのメールを開いた途端、俺はまさに絶句した。
『彼女とホムペ作ったんで、遊びに来てねぇ』
ホムペというのはホームページの略だ。それくらいなら俺でもわかる。きっとこれは彼女がいない俺への嫌がらせだろう。唯一の親友からの一報だった。この特に忙しい時期に彼女と共同のホームぺージだなんて、気楽で本当に羨ましい。
そう。季節は夏。高校三年生の俺達にとっては、受験勉強の正念場だ。恋なんてしていられない。なのに親友の方は、ついこの間、私立大学からのAO入試の合格通知が届いたそうで、毎日浮かれているようだ。日記のページを見てみると、その様子が痛いほど分かる。何が『今年の夏はフィーバーしちゃってまぁす』だ。床に落ちていた硬式の野球ボールを力いっぱい握りしめた。嫉妬と虚脱が上手いこと交わって、俺の心を鷲掴みにする。
数学の分厚い問題集をいつものように二冊重ねて枕代わりにしてその場に寝ころび、日記の画面を下から見上げる。受験勉強をしなければならないのは分かっている。だがそうは言っても勉強に集中できない。俺の頭の中には、やっぱり野球しか残って無いのだ。小・中・高とずっと野球を続けてきた。もちろんこれからも続けていきたいと思っている。だからこそ勉強して大学に入らないといけないのだが、やっぱり野球そのものでないとやる気が出ないのだ。
もう一度携帯電話に視線を戻す。トップページに戻り、一応プロフィールのページも読んでみる。どいつもこいつも同じような事ばっかり書いているような気がして少し笑えてくる。
『短所は、ありすぎて書けません!』
『誕プレよろしく』
ふん、もう見飽きたわ。俺は最後に、『飛んでけ』と書かれたページに移った。そこには、他人のホームページ等が何層にも積み上げられているように並んでいた。なるほど、他人のページに『飛んでけ』ってことか。普段あまり見ないから、こういう単語と言うか、言葉には慣れていない。その『飛んでけ』のページには、よく知っている人がやっぱり何人かいて、『夫婦ホムペ』も多数あった。夫婦ホムペとはその名の通り、カップルで同じサイトを使っているホームページのことだ。中にはいつの間にか俺の知らない内に付き合っていて、知らない内に別れていたカップルのホームページもある。高校生における恋愛など、ほんの一瞬の出来事でしかないのだ。そんな中にも、知らない他校の友達が作ったホームページも存在していた。北は北海道、南は沖縄まで、様々なところから集まっていて、その多さにまたも絶句してしまう。いくらスクロールしても下に届かない。そろそろ親指が疲れてきた頃やっと一番下まで辿りついた。高校生の顔の広さはナメてかかるものではないのだと、改めて感じさせられる。
一番下にあったホームページは、どこかの知らない女の子による個人的なホームページだった。未知の世界を知ってしまうと、どうでもいいことでも気になって仕方がなくなる。ましてやネット世界の無料の冒険など、躊躇する理由が見つからない。そんな気持ちで、足を踏み入れてみた。背景は瑞々(みずみず)しい夏みかんで、何もかもがオレンジ色をベースに配色してある。なるほど、きっとこの女の子はみかんが狂わしいほど好きなのだろう。それか単にオレンジ色が好きかのどちらかだろうな。プロフィールを見た限り同い年の女の子で、特に変わった様子はなく普通の女の子のようだ。ただ、その子の日記を読んでみた途端その独特の世界に半分は連れて行かれてしまいそうになる。必ず登場する『幼馴染』というフレーズが想いの強さを物語っている。この女の子は、どうやら恋をしているようだ。それも叶いそうもない、『幼馴染との先の見えない片思い』であることがすぐに読み取れる。こういう嘘のような本当の話は特に大好きなので、ブックマークしておくことにした。こういうのを読んでると叶ったときに自分のことのように嬉しいので、ついつい日々の更新が気になって仕方がないものだ。次の更新も楽しみにしておこう。
「ちょっとあんた、準備とか、整理とか、ちゃんと終わっとるんね?」
扉越しに親の獣のような咆哮が響き渡る。言われなくてもそんなの十分もあれば充分だ。
実は、明日の朝から五日ほど愛媛の親戚の元へ一人で帰省することになっている。生まれ故郷の愛媛に住む親戚達と、近くに住んでいる人と、俺が参加する食事会が催されているのだ。幼稚園の頃までは愛媛に住んでいた。しかし部活で忙しくなってからは一度も訪れた事がなかった。小学校の頃は地元の野球チームに所属していてほぼ年中無休。祖父母の家にはたまに遊びに行っていたが、親戚の家に行く事はほとんどなかった。中学校でも野球を続け、野球の強豪校に入るためにやはりほぼ年中無休で練習し続けた。その結果、努力が実って入る事ができたうちの高校の野球部は、昔から強豪と呼ばれていて、やはりまた年中無休。そしてそれもやっと引退して、ちょうど時間があったのだ。だから、墓参りも含めて久しぶりのお盆休みである。だいたい十三年ぶりだから、その頃の事はほとんど覚えていない。
「わかったわかった。今やっとる最中じゃけぇ!」
お返しと言わんばかりに、扉越しに吠えてやった。ちょっとスカッとした。
朝から雲ひとつない青空が広がり、川岸の土手道から見た太田川は、キラキラと輝いている。宇品にある広島港までは自転車で行った。夏服の中に着ている練習用のアンダーシャツが軽く汗ばむ。それを感じながら、入道雲を背に、風を切り裂く速さで駆け抜けた。スポーツバックには、はち切れるほど荷物が入っていて、段差の度にオーバーに飛び跳ねる。真横を走る路面電車に何度も追い越されながら、遂に港に着いた。
駐車場を探してうろちょろしていると、よれよれのお爺さんが待ち構えるように立っているのを見つけた。
「あの、駐輪したいんですが」
お爺さんはゆっくりと指を差し、方向を示して言った。
「自転車は向こうにとめれば無料じゃよ」
指差された方向には、確かに何台かの自転車がとまっていて、その先の海の上に俺が乗る予定の連絡船が停まっているのが見える。
「ありがとうございます」
「ちゃんと鍵、閉めてな」
「あ、はいっ」
自転車をとめてチケットを買い、赤いラインが入った連絡船に乗り込む。かすかに左右に揺れている乗り場に、船酔いへの心配が頭に浮かんでくる。船の中に乗り込むと、俺は窓際の空いている席をみつけ、そこに座った。座った瞬間、瀬戸内の風に乾かされていたと思っていた汗が一気に噴き出してきた。慌ててスポーツバッグからタオルを取りだし顔を押し付ける。数秒ほどそのままの体勢をキープし、がばっと起きたついでに、船酔い予防の酔い止めを一錠飲みこんだ。
ここでホームページをチェックする。昨日からブックマークしておいた、あの子のホームページが気になって仕方がなかったからだ。確かみかんが大好きな女の子だったよな。みかんといえば愛媛。もしかしてひょっとしたら偶然どこかで会えるかもしれない。一瞬そう期待したが、そんな無理な期待をしておいても仕方がない、と、その期待は酔い止め薬とともに喉の奥の方へと流されていった。俺は完全に他人のものとしてこのホームページを見るように自分に言い聞かせた。
「おっ、更新してる」
日付からして昨日の晩には更新していたようだ。リアルタイムで見たかったという後悔と記事の内容についての楽しみが交互に押し寄せ、妙に複雑だ。
『今日、ほんのちょっと髪を切りましたぁ。――』
なるほど、髪を切ったのか。俺は女性の髪に関しては、長いのよりはちょっと短いほうが好き。風にたなびく長い髪もいい。しかし、活発的なショートやミディアムの髪をしている人には、なんだかそれ以上に魅力を感じる。体の線はそこまで細くなくてもいい。中肉中背で十分だ。それでいて、軽く天然な子供っぽさがあって……。勝手な妄想が膨らみだし、それが完成するころにはいつの間にか港を出発していた。
瀬戸内ののどかな風景に太陽の光が強引に押し付けられ、キラキラと輝いている。そんな風景を満喫していると、いつの間にか松山観光港に着いていた。楽しい一時間は、本当に短く感じる。そこからバスに乗り換え、今度は松山駅に向かう。レトロな雰囲気の車内放送を遠めに聞きながら、外の景色を楽しんだ。久々の四国のはず。平和な街の雰囲気を味わいながら、どこか懐かしさを感じた。しかしあまり詳しくは覚えていない。きっと一度くらいは通ったことがあったのだろう。松山駅のホームまで歩く途中、ふと駅の時計台で時間を確認してみる。午前十時を少し過ぎていた。駅弁はとても美味しそうだったけれども、向こうに行ってからの食事を考えると、売店を通り過ぎた方が賢明なのは明らかだ。そう感じつつ、プラットホームの方にまっすぐ向かった。
ごうごうと重低音が響いているプラットホームから特急電車に乗り込み、独特のにおいがする座席に座った。車窓から見る駅周辺の風景は広島となんら変わりは無いはずだ。けれども、山があまり無い事に気付き、その点だけ違いを見つけられた。少しして、野球場が見えてきた。あれはもしかして有名な坊っちゃんスタジアムだろうか。俺は野球人として、純粋にその景観を楽しんだ。野球場をすぎると、そこからは全く違う風景が広がっていた。これぞ日本とも言える田園風景。まだ青いままの稲の匂いがなんとなく漂ってきそうだ。
車窓からの優美な風景に慣れてきた頃、やっと山が見えてきた。この調子で進むと、どうやらもうすぐ目的地へ着きそうだ。こういう本格的な旅行というのは久しぶりで、胸のはずみを抑えきれない。そして、やっと待ち合わせ場所の八幡浜駅に着いた。八幡浜駅のプラットホームに降り立つと、さっきまでの海の潮風や田園風景とのギャップに、生活感が伝わってきたような気がした。
そのまま改札口を出た瞬間、薄い緑のポロシャツを着たおじさんが近寄ってきた。
「もしかして……胤爽くんか?」
「えぇ、そうですが」
「やっぱそうかぁ。大きくなったなぁ。でも顔はちいちゃい頃のまんまやなぁ」
馴れ馴れしく肩をたたくおじさん。
「あの……どちらさまで?」
「覚えてねぇかぁ。胤爽くんのお父さんの弟の……まぁええわ。胤爽くんのお迎えにきたんよ」
「あっ、母から伺っています。よろしくお願いします」
どうやらこの人があのおじさんなのだそうだ。だがどうも思い出せない。しかし、俺は家を出る前に渡されていた写真を思い出した。どうしても思い出せないから、と母親から預かったものだ。それを見た途端、顔の一致を確認し、おじさんだと確信した。その後、駅前に止めてあるトラックまで案内され、助手席に乗り込んだ。
海岸沿いの国道をくねくねと走っていく。左に見えるリアス式海岸と漁村の風景が美しい。細長い山道を抜け、おじさんがこれで最後だと言い張るトンネルを抜けると、そこは本当にみかんの国だった。一面のみかん畑。山の麓からてっぺんまで、全部みかん畑。まさにみかんの国である。一方、そんなに乗り物に強くない俺は、鼻の頭がモヤモヤする感じと変な冷や汗に悩まされている。せっかくだから景色を楽しみたいのだが、どうも車酔いの方が勝ってしまいそうだ。こうなると辺りの風景を楽しむ余裕などない。一刻も早い到着を願うばかりで時間が早く過ぎて行ってしまうのを願うばかりだった。かなりの高台までくると、やっとトラックが停止した。
「よしっ、ついたで」
トラックを降りると、目の前には立派な日本家屋がそびえ立っていた。ギンギラの太陽が早くも腕や顔を攻撃してくる。この家まで、約一時間。みかん畑のど真ん中にあるこの家には、もうそれなりの数の親戚達が集まっていそうだ。それらすべてを包み込むように、夏みかんの爽やかな香りが辺りに立ち込めている。おじさんが引き戸をレールの上にガラガラガラと滑らせ、中に入って行く。ニコニコしているおじさんに導かれ、俺も中に入った。肉が焼ける時の美味そうでスパイシーな香りが鼻をかすめた。さっきの夏みかんの爽やかな香りとは正反対ながら、いい匂いであることには間違い。
「おいっ、帰ったぞぉ」
おじさんの声に反応して、おばさんが姿を現した。
「おかえりなさい。あら、胤爽くん、大きくなったわねぇ」
この人も見た事があるような気がする。
「あ、どうも。数日間、よろしくお願いします」
「あら、礼儀正しいじゃない。偉いわねぇ」
「あはは……ありがとうございます」
「まぁまぁ、母さん、もうその辺にして。あ、そうじゃ。疲れてるんじゃけぇ、風呂に入ってき」
「あ、はい。ありがとうございます」
荷物を持ってもらい、靴を脱ぎ、音をたてないようにおばさんについていく。
「着替えはうちが用意しとくから、ゆっくり入っててええからね」
「あ、はい」
おばさんについていったその先には、立派な木造の風呂釜が待ち受けていた。ヒノキの程良く優しい香りが風呂場いっぱいに香っている。目線よりもちょっと低いくらいの小窓からは、みかん畑の先に宇和海が望める。そこから、遠い宇和海の潮風が柑橘系の香りを運んでくれたような気がした。こんなところに住めるなんて、なんて幸せなのだろうか。
しばし湯につかって、目を閉じる。体中から、疲れが出ていくようだ。本当に気持ちいい。みかん風呂だったらもっと良かったけどな。と顔に湯をかぶせた矢先、ふと目を開けると、市販のみかんが入っているあの赤いネットに入った夏みかんの皮が浮かんでいるのが見えた。そうそう、こんな感じのやつ。でも、こんなの最初から浮かんでいただろうか? 不思議に思って、辺りをきょろきょろと見回してみる。しかし、特にそれ以外に変化はない。
「気のせいか」
そう思って鼻までつかる。
――とっぷん。
上からまたネットに入った皮が落ちて来た。
――とっぷん。
まただ。
――しゅくっ。
「痛っ」
今度は頭の上に落ちて来て、ついつい声が出てしまった。
「えっ?」
おそらく声変わりを経験していないだろうと思われる高い声が外から聞こえた。誰だろうか。恐る恐る窓に向かって、ゆっくりと腰を上げる。目がギリギリ出ないくらいのところで一呼吸置き、一気に外に顔を出そうとした、その瞬間。
「うわっ! えっ?」
目の前には、女の子と思われる顔面があった。見た目からして、多分高校生だろう。一歩引いた彼女からは、セーラー服の紺色のセーラー部分に白いラインが入っているのが確認できる。
彼女の顔には化粧っけがなく、みかんの果肉の一粒一粒のように瑞々しい。そして透明感のある素肌を持っていることがよくわかる。それに加えて、肩に掛かるか掛からないかのギリギリラインまでの髪は、前髪を少し残し、後は綺麗に耳に掛けてある。おまけに、余った前髪は、綺麗な純白のヘアピンで上手くとめてあり、さらさらしている。清潔感漂うキラキラした彼女は、一瞬で頬を赤らめた。
彼女と目が合った瞬間から、時間は止まったようだった。止まった時間とは対称的に、鼓動はどんどん早くなっていく。
「あっ、えっと、あの、失礼しましたぁ……」
「えっ、あっ」
彼女の顔はゆっくりと下に降りていった。俺は一瞬頭の中で、人形が落とされる某クイズ番組を連想してしまい、飲み込むようにそれをかき消す。
「……なんだったんだ?」
窓からは元通り見事な宇和海が見える。さっきのは夢だろうか。それとも疲れからきた幻か。とにかくそれにとり残された俺は、とりあえずまた鼻まで湯船につかった。夏みかんの皮が時々鼻の頭を優しくつっついてくる。俺は、一気に逆上せてしまった。
風呂からあがると、時代劇に出てきそうな長い座敷に案内された。その人数から、会ったこともないような遠い親戚の人たちもたくさん集まっていそうだ。家族の垣根を越えて、みんなでワイワイやっている。
「おぅ胤爽、おじさんのこと、覚えとるか?」
見たことない人に突然話しかけられた。このおじさんは、正直覚えてない。だが、ここで覚えていないとは言えない。一応礼儀として、だ。
「あ、あぁまぁ……はい」
「ほんまがぁ?」
そう言って、酒を勧めてきた。当たり前だが、野球部員だった頃からそういうたぐいのものはチームとしての罰が大きく、チームメイトにも多くの迷惑をかけるので絶対にばれないようなところでも避けていた。今更その意識を変えるのは無理がある。
「まぁまぁ飲みなはいや」
「遠慮しときます」
そんな会話がいつまでも続いた。酒が入って、上機嫌になって話しかけてくるのはいい。けれども、ビールや焼酎を勧めてくるのはちょっと勘弁してもらいたい。
「來美ちゃん、ここね」
少し遠くの方だろうか。おばさんの声が聞こえた。そして襖の滑るシューと言う滑らかな音とともに誰かがゆっくり入ってきたようだ。
「失礼しまぁす。あっ」
どこか聞き覚えのある女の子らしい少し高い声が聞こえて、俺は反射的に耳を傾けた。あの声質は確か、さっき風呂に入っていた時に聞いたものによく似ている。というより、きっと同じ人だろう。俺は不思議と自分の心拍数の速度がどんどん速くなっていくのを感じた。広い座敷の端同士にいる俺とその人の間には時間が止まっているのではないかと思ってしまうほどに時間がゆっくり流れている。意を決して襖のほうを見ると、やはり予想通り彼女だった。遠くてよく見えないが、雰囲気からしてそうだと確信した。だがどうにも目が合いそうで合わない。どうにかして合わせたいと身を軽く乗り出した瞬間、俺のことを知ってか知らずか、ぴったりと目が合った。
「あっ」
風呂場から見た、さっきのセーラー服を着ている女の子が俺を見て固まっている。高い声の主は、やはり彼女だったようだ。
「……どうも」
彼女が手を前で組みながらお辞儀をしてきた。心なしか、さっきよりも顔が赤いような気がする。
「……どうも」
それに向かって、俺は軽く会釈をしながら彼女を目で追ってしまう。恥ずかしそうに、ゆっくりと俺の方へ歩いてくる。背丈は俺よりも少し低い。手足は細く嫋やかで、そのしっとりとした肌は健康的だ。なんとなくイメージ通りの姿で、いつの間にか吸い取られるように見てしまっていた。
そんな彼女は、長いちゃぶ台を挟んで俺の真ん前で止まり、行儀よさげに座布団に座った。
「さっきはごめんなさい。まさか人おるとは思わんくって」
流暢な方言だ。この土地からして、八幡浜弁だろうか。よく親しんだ広島弁とは違い、少し関西方面の訛りが入っている。標準語が似合いそうなお嬢様とはまた違った魅力を持っていそうな気がした。
「あっ、別にいいよ、うん」
とっさに答えたせいで敬語ではなかったが、良かっただろうか。普段、野球部で先輩らしく振舞っているとどうもこの口調が直らない。次からはきちんと敬語になろう。
「いつも浴槽に入れとくように頼まれとるんよ。叔母さんにな。ほら、みかんの皮の力でな、お肌つやつやになるけん」
ゆずとかなら聞いたことがあったが、夏みかんでも同じような効果があるとは。母親に教えてあげたら喜ぶだろう。
「へぇ。そうなんじゃ。習慣か何かですか?」
「うん。それ。それにな、お昼からお風呂に皮を入れとくとな、夜には風呂場にな、ぷわぁと香りが広がるけん、それでな……」
嬉しそうに一生懸命話す彼女。その笑顔は健気で、元気をもらえそうだ。あまりに一生懸命だからだろうか、さっきから完全に敬語では無くなっている。俺も彼女に合わせて敬語ではない方がいいだろうか。
「へぇ。そうなんじゃ」
「うん。あ、木綱おじさんの親戚なん? あ、親戚、の方ですか?」
ハッとして言い直すところがいかにも良い子らしい。やはり初対面の時は敬語だろう。常識だ。
「え、あ、うん、まぁ、そう……です」
「あ、やっぱりそうですかぁ」
木綱さん、とは叔父さんの事だ。確かお父さんの方の親戚だったはず。お父さんの妹と結婚したから名字が違う。だから、叔母さんはお父さんの妹だということになる。
「し、親戚の方ですか?」
俺も聞き返す。この場にいるのだから、きっと俺の親戚に違いない。彼女は俺の問いに少し困ったようで、目線がずいぶん色々な所に飛んでいる。少し困らせてしまっただろうか。それとも俺の考えすぎだろうか。
「あ、いや、全然そう言うんやなくて、隣に住んでいる者なんですよ。今日はその、お呼ばれされて、一家で来てるんですよ。あと、食事とかお風呂とかのお手伝いとか、あとは色々と、な」
なるほど、そういうことだったか。手伝いで来ているなんて、なんていい方なのだろう。それともこの土地の習慣だろうか。とにかく、それでも一生懸命に手伝いをしている彼女を想像すると微笑ましい限りだ。
「あ、そうなんですか」
「はい、まぁ」
気まずい。普段、男子校に通う俺は寮生活。女子に慣れてないせいか、会話の仕方が分からない。もっと質問とかしてくれたら俺も喋りやすいのに。俺がずっと下を向いてしまうので会話は続かず、しばらく沈黙が続いた。周りの親戚たちは相変わらずワイワイやっているが、その空気に乗れない。
「あの……」
やっと話しかけてくれた。この瞬間をどれほど待ち望んでいたか。
「お、お彼岸ですね」
「そ、そうですね」
それだけかよ!
と突っ込みたくなるが、相手は初対面っぽいし、そんな事はできない。
「あの……」
「はいっ」
背筋が固まってしまっている。どうも緊張が解けない。
「うち、來美って言います。篠浦 來美。失礼ですけど、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
彼女は肩をすぼめてゆっくりと問いかけてきた。上目遣いが可愛らしい。
「俺は、辻原 胤爽って言います。ちょっと難しい漢字なんじゃけどね」
「えっ、嘘っ」
自己紹介をした瞬間、來美と名乗る彼女が固まってしまった。そのうち彼女はやっと俺の方をちゃんと見始めた。だがしかし、こんどはじろじろと見すぎだ。なんかおかしい事を言ってしまっただろうか。もしかして、“漢字”を“感じ”と間違えて、変な人だと思われたのだろうか。握ったままの両手の拳の内側に、嫌な湿り気を感じる。ちゃんとした説明が必要なのだろうか。
「えっ、あの、あぁ、漢字は点々が二つのしんにょうに十に原っぱの原で……」
長いちゃぶ台の端っこで、人差し指を使って透明の文字を書く。
この説明で、分かってくれるだろうか。
「あ、そうじゃなくて、あの……幼稚園くらいまでこっちおらんかったですか?」
「あ、うん。小学校入るときに広島に引っ越したんですよ」
「やっぱり? 胤爽くんよな? いやぁ、顔がなんとなく似とるけん、もしかしたらと思ぉとったんよ。うちの事覚えとる?」
勢いよく聞いてくる彼女。しかしどこか焦っているようにも伺える。
またこれか。残念ながら覚えてない。
「ちょっと分からんなぁ……」
「嘘やっ! 幼稚園の時、毎日のように遊んでたやん! 一緒に幼稚園通ってたやん!」
彼女が身を乗り出して、キラキラした瞳で見詰めてきた。
顔が近すぎて、条件反射的に顔をどうしてもそらせてしまう。
そんなこと言われても……覚えてないなぁ。
「ちょっとやっぱ、分からんわぁ」
「そぉながぁ……まぁ、これからよろしくな?」
そぉながぁっていうのは、多分“そうなんですか”っていう意味だろう。だいたい読めてきた。
「あ、うん」
残念そうな彼女。それに対してぎこちない返事しか返せなかった。彼女は元通りちょこんと座り直し、あの近距離の状態は終わってしまった。
終わった途端に少しだけ風が吹き、俺は気付いた。彼女の髪から、良いにおいがするのだ。なんだろう、フワフワして柔らかくて良いにおい。それに全身から放たれる艶やかなオーラ。すごい。
「胤爽くん、今でも野球しとるんが?」
そうめんを啜り、一旦箸を置いてから話しかけてきた。もちろん口の中でモグモグすることなく。すごい。行儀が良すぎる。
「あ、うん。まぁ」
「ピッチャー?」
「うん、ピッチャー」
「へぇ、絶対甲子園行ってプロに行くって言っとったもんね」
そんなことまで言ってたっけなぁ。
「甲子園かぁ……行きたかったな」
「あっ……行けんかったんや。なんかごめんな」
「いいよ、気にせんで。それなりに頑張れたからもういいんよ」
「そぉなが」
ちょっとは会話に慣れてきた。彼女の、たまに見せる笑窪がとても可愛らしい。
「あ、高校はどこ通ってるん?」
「広島水産。分かる?」
「分かるよ。あそこな。あの真っ白の水兵さんみたいな制服の」
「そう、それ。もともとは江田島にあった海軍兵学校の分校みたいなんが宇品にあって、それが終戦と同時に水産高校に生まれ変わったんと。じゃけぇ、当時の生徒が着とった真っ白い軍服がモチーフになっとるらしいんよ」
「へぇ。難しいんやなぁ」
俺は端っこに置いてあるスポーツバッグの中にある学ランを取りだし、彼女に広げて見せた。
近くにいた親戚は物珍しそうにそれを見ている。
「わぁ~。本当に真っ白なんやなぁ」
「まぁね。戦前はこれが男子の憧れだったんと。まぁ今となってはコスプレなんじゃないかって言われるけど」
「コスプレ?」
そう言って彼女は笑ってくれた。笑った時にさりげなく顔を出す八重歯が可愛かった。
「でも、なんでそんなん持って来たん?」
首をかしげる彼女。
「あ、今日食事会じゃん? やっぱ食事会ってなんかかたいイメージがあって、夏服じゃあいけんじゃろうと思ってな。冬用で着て来たら暑いけぇ、バッグに入れて来たんよ」
「そんな事したらしわになるてやぁ」
そう言って笑う彼女。まさに眩しい笑顔だ。
「今年はどこまで行った?」
「何が?」
「えっ、野球」
「あぁ、一応、準決勝まで」
「えっ、げぇななぁ」
「げ、げぇなな?」
あまりいい響きには聞こえなかったが、どういう意味だろうか。
「あ、えっと、すごいですねってこと」
「あ、なるほど」
方言は全く聞かない時期を過ごしてしまうと忘れてしまうものなのだろう。
「甲子園、もう少しやったんにな」
「うん……負けたのは俺のせいなんよ。情けないよな」
準決勝の広島実業戦。肩の怪我を隠しながらの投球だった。
一回から四球ばかりで自滅して、最後には相手の四番、木田の一発でコールド。完敗。全部俺のせいだ。
正直、不完全燃焼。できる事ならもう一度高校野球がしたい。もう一度、きちんと広島実業と試合がしたい。木田にリベンジしたい。
「まっ、もう野球できん訳じゃないんやけん、気にしんさんな」
「おぅん……ありがと」
「あ、そうだ。うちとキャッチボールしようよ。久しぶりに」
久しぶりと言われても、俺としては初めてと同然なのだが。
「いいけど。グローブはあるん?」
「もちろんよ。うちの部屋にあるはずやけん!」
彼女はそう言うと、走ってどこかへ行ってしまった。なんとなくだが、惹かれるような、そそられるような。それでいて、なんとなく懐かしく感じられる彼女。あの、どこかゆかしい雰囲気は何なのだろうか。
俺はとりあえずグローブとボールを持って外に出ることにした。
入道雲がドーンと待ち受けている以外は、殆ど真っ青な空が広がっている。相変わらず夏みかんの香りがなんとなく漂ってきて、鼻を軽く擽っている。
家の前の道路は、遠くの方に蜃気楼が見えるくらいまっすぐに伸びている。その周りには見渡す限りみかん畑で、独特の世界観を持っている。
「おまたせ。やっとみつけたよぉ」
右手にいかにも古そうなグローブをつけて、さっきの折り目正しい少女が駆けて来た。右手にグローブを持っているということは、左手でボールを投げるということ。すなわち、サウスポーだ。
「よしこいっ!」
わかりやすいほど内股で腰を引いているのが分かる。
「勢いよく言うのはいいけど、腰、引けてるぞ」
「えっ? あ、あぁ……ごめんごめん」
と、どっしりと構えたが、ものの数秒で元に戻った。
「じゃ、いくぞ」
超スローボールを投げてやった。バスケットボールをゴールにいれるくらいの山なりのボールだ。
「えっ、えっ?」
あたふたしながらも、一応グローブの中にボールが入っていった。
「お前、本当に俺とキャッチボールした事あんのか?」
「失礼な。これでも胤爽くんの女房役として色々頑張ったんやけん。それと、その『お前』って呼び方やめてやぁ」
女房役、という単語に少しドキッとしてしまったのは言うまでもない。さすがに俺も高校生だ。女子からそんなことを言われて平然としていられるほど人間ができているわけではない。
だがそんな俺のことを知ってか知らずか、同じように負けず劣らずの遅いボールを投げ返してくる。さっきからだが、少しずつ馴れ馴れしくなってきたような。まぁ自称幼馴染らしいから、それは当たり前かもしれないけど。
「じゃぁ……なんて呼べば良いんだよ」
さっきよりは速いボールを投げてやる。それでもバスケットボールのシュートのようであることに間違いはない。
「わわ、っと。えっ? そりゃ……なんでもええよ。昔から呼んどった呼び方でもええし」
少ししか速くなっていないのに、のけぞるように怖がる彼女。昔からと言われても。覚えてないって。
「昔はなんて呼んでたっけ?」
「えっ……來美ちゃん……とかかなっ」
ぎこちないフォームから緩いカーブが返ってきた。少し焦ってしまう。
「おっと、カーブか。じゃあとりあえずそれで呼ばしてもらうわ」
意外とオーソドックスな呼び方。來美ちゃん、か。なかなか響きが良いというか、弾みがあるというか、可愛いというか。個人的にはとても好きな呼び方だ。
「ちょっと……呼んでみ?」
「えっ?」
「ええけん」
柔らかそうな髪を耳にかけ直して、にっこりと笑っている。鼓動がどんどん速くなる。出そうとしても、上手く声が出せない。話題をそらそうにも、頭の中は真っ白だ。この青空のように、何もない。
「うちに向かって『來美ちゃん』って、呼んでみ?」
ちらちらと目を逸らしつつも、言葉ははっきりとストレートにやってくる。とうとうそれに応えるしかなくなった。恥ずかしさで声がこもってしまう。わざとらしく耳の横に手を添えて俺のひとことを待つ彼女。いや、來美ちゃん。多分暑さと恥ずかしさで顔は真っ赤だっただろう。俺は声の加減を間違えて、思いっきり大声を出してしまった。
「……來美! ……ちゃん」
それは瞬間だった。一瞬で弾けた。みかんの房の果実の小さなつぶが胸の奥の方で弾けたようだった。
そして熱い。暑いのではない。熱いのだ。なんで急にこんなに熱くなったのだろう。
顔の周りしか神経が通っていないような、なんだかモヤモヤする気持ち。
來美ちゃんもそうなのだろうか、照れたような表情のまま下を向く以外は、さっきから固まったままだ。
「へへっ。だんだん」
「だんだん?」
だんだんって、どういうことだ?
「ありがとうっていう意味!」
なるほど、これも方言だったのか。
來美ちゃんは手を後に回して、肩を窄めて恥ずかしげにしている。なんだかちょっと、さっきよりも気温が上がったような気がする。
アスファルトから立ち上る蒸気で、汗が体の内側から噴き出してくるようだった。その火照った体に向かって、潮風が吹いてくる。熱い体をほどよく冷やし、家の方へ吹き抜けていく。その潮風に乗って、シトラス・フレーバーがやって来た。夏みかんの爽やかな香りのする潮風。來美ちゃんの制服のスカーフがそれに乗って優しく靡いていた。