最終話:シトラス・モメント
夕焼けの濃いオレンジ色が來美ちゃんの横顔を優しく照らしている。夏のそれとは思えないほど涼しげな風が緩やかに流れて、俺と來美ちゃんの二人に向かってくる。だが何を考えたのか、近づけば近づくほどに鋭くなり、二人の間を強く通り抜けた。純粋扉にそのまま突進した風は、それをも突き抜けて行ったようにも見えた。真っ赤になっている來美ちゃんとは対照的に、俺の体は氷をそのまま飲み込んだように冷やされていった。さっきまでのは一体何だったのだろう。何もかも訳分からなくなり、力が抜けると同時に純粋扉にもたれかかった。
「初めてってわけじゃないけど、今までずっと誰に告白されても断ってきとるけん、久しぶりっていうか……。でもなんか高橋さんにそんなん言われるとは思ぉとらんかったけん、なんか変な感じで――」
何かを言っているのだろうが、それ以上のことは耳に入ることなくするするとすり抜けていった。一瞬にして重たくなった胸を支えるだけの気力が時間とともに無くなっていく。そんなに時間は経っていないはずだが、この場にいるのが億劫になったのか流れる時間がいつもより長く感じた。
「そっか。まぁ良かったじゃん。高橋さんは大人だし、カッコいいし、全部揃っとるし。何より好きなんじゃろ?」
言えば言うほど卑屈になっていく。もう何もかもどうでも良くなっていた。頭の中にずっと居座っていたはずの來美ちゃんへの気持ちはもはや消えかかっていて、代わりに帰りの電車や船のことばかりが駆け巡っていた。
「確かに好きよ?」
もはやため息さえも出ない。胸が躍っていたさっきまでの時間がなぜか遠く感じ、懐かしくもあった。
「でも」
「でも?」
小さな期待を持ちつつ俯く來美ちゃんに視線を注ぐ。でも、を使うという事は物事を否定するはず。もしかしたらまた断ったのだろうか。だとしたら俺にもほんの少しは可能性が残っているはず。急に感覚が元通りになり、來美ちゃんの言葉のひとつひとつが鮮明に聞こえ始めた。
「断っちゃった」
「そっ、かぁ」
浮かない表情の來美ちゃん。きっと告白を断った罪悪感に苛まれているのだろう。そんな來美ちゃんに合わせるように俺も難しい顔を作ったが、内心は真逆だった。一度冷やされた心と体はもう一度燃え上がるように暑くなり、喉仏の方からまた汗がにじみ出てきた。まるで息を吹き返したかのような感覚が体中を満たす。
「ドライブに行ってもなぁんか物足りんかった。なんでか分かる?」
「そうじゃなぁ……」
高橋さんが見え見えすぎるアピールをしていたのだろうか。それとも、なんとなく気分が乗らないままだったのだろうか。それとも、俺のことを気にしていたのだろうか。それだったら凄く嬉しいな。色々な案を出していくうちに良い方向ばかり考えてしまっていた。内に秘めている喜びがバレてしまいそうなほど表情が緩くなっていくのが自分でも分かる。
「胤爽くんがおらんかったけん。それだけなんやけどね」
またいつものように小さく微笑んでみせる來美ちゃん。俺は自分の気持ちを隠すために、ハハッと流すような返事しかできなかった。一番言ってほしい言葉を本当に言ってもらえると、なぜか返答に困ってしまう。期待が薄ければ薄いほどそれは顕著に表れ、次の言葉が思いつかない。真っ白になった頭の中からやっと見つけ出したのは、“告白”の二文字だった。
「あ、あのさっ」
「ん?」
さぁ、ここしかないぞ、俺。もうきっとチャンスはないぞ。そう自分に言い聞かせながら拳を握り締める。言葉にするために口の形を作ろうとするが、顔が細かく震えてしまって上手く作れない。考えれば考えるほど固まってしまう。
「じ、実は……俺、実は……あの、だからそのっ」
頭痛が襲ってきて、なんとなく顔全体が熱っぽい。相変わらず口の形は定まっておらず発音もおかしいまま。喉仏がむずむずして、取れるものなら取ってしまいたいほどだ。
「す、しゅ、しゅく……」
「え?」
「しゅ、す、しきゅっす!」
「なになに?」
驚くほど全力で勢いのまま発音してしまったせいで、言葉にならない言葉を発してしまった。爽やかという言葉がまったく似合わない冷や汗が額から一筋、また一筋と流れていく。飲み込む唾は大きく、のどに詰まってしまいそうだ。
「え、もうちょっとはっきりお願い……」
困っている來美ちゃんをじっと見つめながら、もう一度言い直そうとするものの、あれだけ全力で伝えた後にまた言えるほどの気力は残っていなかった。
「や、やっぱいいや」
「え、あ、そっかぁ」
何も言えない俺にがっかりして残念がっているのがひしひしと伝わってくる。俺だってもっと器用だったらきちんと想いを伝えられるのに。
心の中で何度も謝るが、情けなさとどうしようもなさとが混ざってこの場から逃げ出したくなった。体の向きを変えて、來美ちゃんに背を向ける。背を向けるというのは敗北の印。俺は自分自身に負けてしまったのだ。悔しさでいっぱいの俺に來美ちゃんがかけてくれた言葉は、意外なひと言だった。
「胤爽くんって、純粋扉みたいななぁ」
「え?」
「だって、静かだし大きいし。それに、なんかありそうっていうか、不思議っていうか、なんというか」
これは來美ちゃんなりの慰めの言葉なのだろうか。だとしたら嬉しいが、不思議なのは明らかに來美ちゃんのほうだ。今までの行動にはちゃんとした理由があるにしても、少々やりすぎだろう。それに今日の來美ちゃんはどこか様子が変だ。今までのが演技だったのか、それとも今この瞬間が演技なのか。女の子というのは本当に分からない。
「だったら」
「ん?」
「だったら、來美ちゃんは夏みかんみたいじゃ。すごく瑞々しくて、爽やかで、でもどこか分厚い皮に隠れてるって言うか。特に今日の來美ちゃんはなんか今までとは違うような気がする」
強く言い返してみた。さっきまで思うように口が動かせなかったのに、背を向けた途端にいつもの調子に戻すことができた。やはり一種の緊張だったのだろう。來美ちゃんを見ていると思いきった言葉が出ないのは緊張のせいだったのだと気付いた。
「そ、そうかねぇ?」
明らかに動揺している。やっぱり変だ。そう思ったのと同時に、何かが純粋扉に当たる音がした。多分、來美ちゃんの腕か何かがぶつかったのだろう。だとしたら動揺しすぎだ。これ以上何か隠して居るのだろうか。
「なぁ、なんか隠しとるん?」
そう言った途端、また何かが純粋扉に当たる音がした。反応が分かりやす過ぎる。
「いやぁ別に何も……なっ。うん。いやぁ、純粋扉と夏みかんかぁ。なんかコンビ名としてはいまいちかもしれんなぁ。ハハッ」
「そうかねぇ。別に何も変じゃないと思うんじゃけど」
「そ、そうかねぇ。ハハッ」
やはり何かを隠している。俺の経験からして、急に話題を変えるというのは何かを隠している証拠だ。それが一体何なのかは定かではないが、よほどの事なのだろう、さっきまでいつも以上に語っていた來美ちゃんの口が急に止まった。それを深く追求したいのが本音ではあるが、俺と來美ちゃんの間にあまりにも重たい空気が流れているため、なかなか言い出せない。
だが、いつまでもこうしては居られなかった。遠くの方からラッパで奏でる重低音のような汽笛が聞こえてきた。きっと出発の合図だろう。あと数本しかないフェリーのうち、一本目が出港していったと言う事だ。まさかこんなに早く時間がたっているとは思ってもみなかった。こうなってしまえばヤケクソも同然だ。俺はまだ自分の中で納得していない部分を聞いてみることにした。
「なぁ、來美ちゃんはホームページとかやっとるん?」
「う、うん。まぁ」
「もしかして」
俺はそう言いかけてポケットに手を突っ込むと、自分の携帯電話を開いた。電源をつけるが、反応はない。何度か叩いてみたり振ってみたりしたがやはり何も起こらない。そこで俺はハッと思いだした。そういえば電池切れだったのだ。このままでは聞くことができない。焦りが焦りを呼び、また頭の中が真っ白になった。
そんな俺を見て察したのか、來美ちゃんは自分の携帯電話を取り出し、画面を俺の顔に近づけた。
「これ。実は知っとったんやろ?」
俺が知っているホームページそのものに間違いなかった。やはりこれは來美ちゃんのホームページだったのだ。
「え、どうして……」
意表を突かれた。まさか俺が見ているのを知っていたなんて。
「やっぱりそうだったんやなぁ。アクセス解析って知っとる? 誰がこれを読んだんか分かるやつ。胤爽くんが来るって知った時からなんか知らん携帯電話からよくアクセスされとって。まさかなぁって思いよったんよ」
「そ、そうだったのかぁ」
あえてずっとコメントしなかったままだったのに、姿がバレていたというのは驚きだった。だがそれ以上に恥ずかしさが募り、胸がきつくなる。
そういえば、高橋さんについてあんなに綴られていたのに、なぜ告白を断ったのだろう。長年の想いが遂に叶ったというのに、それをわざわざ断るというのはいくらなんでもおかしい。
「なぁ、あの幼馴染って、高橋さんじゃろ?」
「えっ」
正解、か。この反応は絶対そうだ。
「やっぱりな。あんだけ毎日書き続けといて、なんで断ってしもうたん?」
「え、いや、そんな! てかなんで知っとるん? 全部消したはずやのに!」
そう言いながら自分の携帯電話を確認する來美ちゃん。自分の携帯電話に向かって話しているように見えてもおかしくないほどだった。目線は画面に一直線。口は半開きのままだ。
「嘘……全部消えとらん。消したはずやのに……」
一気に顔中を真っ赤にする來美ちゃん。確かに片想いをさらけ出したような日記の事を目の前で言われたら恥ずかしさを通り越すほどだろう。対する俺は、見てはいけないものまで見てしまった事を悔やむしかなかった。
「仕方ないか。もう読んじゃったんよね」
「あ、うん、まぁ」
「ずっと好きだった。でも叶わなかった。でも、それでも好きだった。うちってなかなか変やけん、まだ生まれてから一回しか人を好きになったことなくって」
「いや、全然変じゃないと思うけど」
俺だってそうだ。確かに『あの高校の女子はかわいい』とか『あいつのスタイルいいよな』とか、馬鹿みたいな男子間の会話は日常茶飯事だった。でも会話の対象になっている女子の事を好きにはなったことがないし、そもそもつい最近までは本気で『野球が恋人』だった。初めて本物の気持ちを思い起こさせてくれたのは、紛れもなく目の前にいる來美ちゃんだ。何も変ではない。
「あれ、確か胤爽くんがこっち来る前の日だったかなぁ。髪を切ったって書いとったの覚えとる?」
「え、あ、あぁ、あれね」
その日記を見た後にいろんな妄想が広がったのは口が裂けても言うまい。
「あれはな、よく髪を切って過去の恋愛を忘れるって話を聞くけん、それを実行してみたんよ。でもな、全然忘れることが出来んかったんよ。胤爽くんみたいに全部忘れてて、何にも思いだせんなぁってなってたらすごく楽だったんやろうなぁ」
「そうかぁ」
俺が幸せな妄想を繰り広げていたときに、來美ちゃんはきっといくつものため息をついていただろう。すごく申し訳ない気持ちで体が満たされてしまいそうだ。だがなぜそこまでの想いを高橋さんに向かって抱きながらも告白を断ってしまったのだろう。
「なぁ、なんで高橋さんからの、断ったん?」
あえて告白という言葉を使わないのは、なんとなく恥ずかしいからだ。単語そのものに重みがありすぎて、もはや言葉には出せなくなっていた。
「そりゃあだって……」
「好きな人以外に断ってきたんじゃろ? その勢いで断っちゃったとか? なら今からでも遅くないけぇ一緒に――」
「違う!」
あまりの声の大きさにたじろいてしまった。大事なところを言いかけたところで俺の口は固まってしまっている。それまでの穏やかな來美ちゃんはそこにはいない。代わりに、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうな表情で立つ來美ちゃんがいた。
「違う。違う違う違う! 勢いなんかじゃない! ほんまは、ほんまは……」
「わ、悪かったよ。ごめん。本当にごめん。だから落ち着いてや。なぁ」
遂に俺の悪い癖が出てしまった。何かがうまくいかないとすぐに投げやりな言葉を使ってしまう。親にはよく使ってしまうのだが、家族以外には出来るだけ使わないようにしてきた。ここまできちんと我慢できていたのに、こんな時にやってしまうなんて。俺はなんて詰めが甘いんだ。
こんな情けない俺に向かって、お情けのような蝉の鳴き声が耳をつついた。夏の終わりが近づいていた。夏の大会に負けて、夏の終わりにこんな情けない終わり方をして、気分はもう最悪だった。
これで完璧に來美ちゃんに嫌われた。そう感じた瞬間、思いがけない言葉を耳にした。
「か……胤爽くんが好きなけん!」
一分の間が空いた。
カズサ……かずさ……胤爽……。
胤爽? ということは、俺?
俺が、俺の事が好きってこと?
夏みかんの瑞々しいオレンジはどこへ行ったのだろうか、告白されたのを俺に教えてくれたときとは比べ物にならないほどに顔を赤らめ、運動をした後のような息切れで來美ちゃんは俺をまっすぐに見つめている。対する俺はただただ純粋扉のように硬直するしかなかった。体が言う事を聞かない。頭はフリーズし、血の気が一気に引いていく。告白された、その事実だけが体を駆け巡るが、本質的な意味を理解するのには少々時間がかかった。
告白というのは、もっとこう体中が熱くなって、テンションが高くなって、顔が赤らめて、お互いが恥ずかしくなって……そういうものだと思っていた。自分の中ではそういうイメージが出来上がっていた。だからこそ勢いよくいけるものだし、さっき俺が失敗した告白の台詞も焦りからなのだと勝手に決めつけていた。でも違った。さっきのは焦りからの“言葉としてだけの”告白。言いたいという感情だけの空っぽの告白。だから失敗した後にもう一度同じことを言えなかったのだろう。そんな告白は相手に届かなくて当たり前だ。その半面、今のは本質的な“想いを伝える”告白。俺が抱いていた感情のさらに上を行く次元の告白。俺の体は、心は、それに圧倒されたようだ。体の中に涼風が通り抜けていく。すぅっとして、力が抜けていく。
「え、あ、あぇ」
なんて言ったらいいのか分からない。素直に返事を返すべきなのだろうか。それともまずは感謝の意を述べればいいのだろうか。突然の出来事に対して、俺には対応力が備わっていない。
「もう……もう隠しきれんのんよ!」
それは作られた來美ちゃんが素のままの來美ちゃんに戻った瞬間だった。まさに、夏みかんの分厚い皮から出てくるように。
「今までなんかあるごとに隣におったのも、出来るだけ笑顔でおったのも、昨日のキスも、全部が全部、ほんとに全部、胤爽くんが好きなけん、ほんまに好きなけん……」
そうだったのか。だからさっきから様子がおかしかったのか。焦っているのだろうか、來美ちゃんの表情は不安をそのまま絵にしたようだ。両手はその間ずっと強く握りこぶしを作っていた。対する俺は、やっと事を理解し始めた。嬉しさという言葉の最上級は何だろう。きっとその言葉でも今のこの高揚した気持ちは表現できないだろう。俺の脳は今度こそ落ち着いて言葉を整理することができるはずだった。しかしそれを通り越して、今度は脳で整理する前に口が独断で言葉を発し始めた。
「役者でもないのに」
「え?」
もはや口の暴走に歯止めは利かなかった。
「役者でもないのに、演技なんかせんでいいんよ。今度からずっと素のままでおってや。そういうのが俺は……俺は」
言い切る前に、來美ちゃんは右手を握ってきた。ずっと握っていただけあって、温もりが凄く感じられた。今度はいつかみたいにすぐに放すことはなく、お互いに感触を確かめあっていた。何も言わずに、俺だけを一点に見つめて。
「わかった。わかったよ。だん……あ、ありがと」
「だんだん、でいいよ。もう意味は分かっとるんじゃけぇ」
「あ、そっか」
アハハと笑う來美ちゃんの笑顔はもう濁ってはいなかった。やっぱり素のままの自然な感じが好きだ。何も余計なことを考えず、シンプルな気持ちになれる。それが愛情の関係になったということなのだろうか。
「ちょっと待っとって」
「あ、うん」
突然、來美ちゃんが立ちあがって、時々ふっと振り返りながらどこかへ歩いて行った。歩くたびに青いワンピースの裾が波のように揺れ、風に飛ばされないようにカンカン帽を抑えながら歩いて行くのが可憐で仕方がない。微笑ましいその姿は、やがて何かを背中に隠しながら小走りで戻ってきた。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ」
なんでもないやり取りかもしれないが、こんなに些細なやり取りでさえ幸福感に満ち溢れている。俺が我慢しきれなくなって噴き出すように笑うと、それにつられて來美ちゃんも八重歯を隠すように笑いだした。
「喉、乾いとるやろ? 夏みかん持ってきたけん、これ一緒に食べようやぁ」
「お、ありがたいわ。もう喉がからっからじゃけぇ」
本当は喉の渇きよりもこの空腹をどうにかしたい。もう限界が近づいている。腹が減りすぎて、車に酔ったみたいに気分が悪くなってきた。來美ちゃんは右隣に座り直し、髪をかけ直してから夏みかんの皮を剥き始めた。
「切れ目入れてきたけんなぁ。昔からこうやって夏みかんに切れ目入れて縁側で食べよったんよ。これも覚えとらんかなぁ。まぁ昔の事なんやけどなぁ」
皮をむいた瞬間、柑橘系の爽やかな香りの粒が、オブラートのように体を包み込んでいく。慣れた手つきで分厚い皮を次々と力強く剥いていくと、中から瑞々しい房の塊が見えてきた。
「お、こりゃあえぇやつよ。実がしっかりしとって、ツヤツヤで。な?」
「うん。大きさもあるし重たそうじゃ。早く食べたいわぁ」
嬉しそうに話す來美ちゃんに、俺も気持ちが高ぶってくる。
とうとう剥き終わって、分厚い皮をお皿代わりに、その上にひと房乗せていく。
「はい、どうぞ」
砂の上に置いた皮のお皿を滑らせるように差し出してくれる來美ちゃん。
「ありがとう」
「いいえのことよ」
耳に髪をかけ直して、ひと房ずつ口に運んでいく。美味しそうな笑顔で見られ、それだけで腹が満たされそうだ。それを見ながら俺もひと房口に運んだ。空腹感はこの後、すぐに消え去った。
口の中に入れた途端、果汁が溢れ出し、適度に歯ごたえも感じる。噛むごとに房の中がプチプチと弾けていく。爽やかな味は苦味がなく、夏みかん特有の酸っぱさもほとんど感じられない。これこそ、俺が求めていた懐かしい味だ。あの記憶の断片は、この場面だったんだ。
夕焼けのど真ん中で、それに負けないほどのオレンジ色をした夏みかんを食べている。小さい頃、確かに俺はこの場所にいた。思い出した。ここで俺は、小さい頃の俺は、來美ちゃんに最後のあいさつをしたんだ。この場所で、この場面で、この風景を眺めながら。宇和海はあの頃と何も変わらず、夕日に照らされてキラキラ輝いている。周りの山々もゴウゴウと重低音を轟かせながら座り込んでいる。夏みかんも、広島にいた頃の酸っぱさはなく、甘みが効いている。何もかもがあの日と合致していて、感動すら覚える。
ふと前を見ると、小さな男の子と女の子が座って仲良く夏みかんを食べているのを見つけた。あれは紛れもなく幼い頃の俺と來美ちゃんだ。小さい來美ちゃんは涙を拭いながら静かに夏みかんを食べている。そして約束を交わしたはずだ。“大きくなったらまた戻ってくる”と。この何年か後にまさか本当にもう一度巡り会うなんて、この頃は想像できなかっただろうな。
「あの日が懐かしいな」
「え、思い出したん?」
驚いて夏みかんをのどに詰まらせたのか、來美ちゃんはひどく咳き込んだ。
「大丈夫かぁ?」
「ん、こぅ……はぁ。大丈夫大丈夫。びっくりしたわぁ。はぁ。良かったぁ。うちずっと泣きよったもんね。でもここで約束を交わした時、すっごく嬉しかった。絶対また会えるって信じとったんよ」
「ほんまかぁ?」
「ほんまよぉ! 早く胤爽くんに会いたくって、お母さんに何度も『明日来るん?』って聞いとったらしいよ」
「へぇ」
「でな、何回も夢に出てきてな、もうすぐ来んかなぁって思いよったら、ほんまに胤爽くんが帰ってきて」
「そうだったんじゃ。それを叶えるなんて、俺ら凄いよな」
「うん。うち、ほんまに嬉しいわぁ」
まさにこれは運命なのではないかと思う。友達から運命を信じるかどうか聞かれたら、今なら自信を持って『信じる、信じている』と答えられそうだ。
「いいえのことよ」
「あ、八幡浜弁やぁ」
「覚えた単語を使ってみたんよ」
「なんかもう……ほんまに大好き!」
とその声を聞き終わるとほぼ同時に來美ちゃんの頭が俺の肩にそっと乗った。いつだったかバスの中でこうなることを妄想していたころの自分が懐かしい。重たくは感じない。カンカン帽がひらひらと地面に落ちて行き、汗をかいた後頭部が露わになった。そこから来るシャンプーの香りの他にも変に色気が漂っていて、俺は反射的に唾を飲み込んだ。
「なぁ來美ちゃん」
「ん?」
「俺さぁ、ひと皮むけて、夏みかんみたいに大きい人間になれたかねぇ」
なんて質問をしてしまったのだろう。また口から勝手に言葉が出てきてしまった。
「胤爽くんはなぁ、これからやない? これから頑張って、野球で愛媛に帰ってくるんやろ? ひと皮むけたのは腕や鼻先だけよ」
ひと皮むけたのは腕や鼻先だけ。その言葉を飲み込む前に、來美ちゃんの細い指先で鼻を小突かれた。
「そっかそっか」
そうだった。俺にはこれからの人生を左右する大きな目標が出来たんだった。一度は諦めた野球の道をもう一度踏みしめるために、その地面に大きな爪痕を残すために、これから頑張らなくてはいけない。不安な要素も多いが、俺には応援してくれる來美ちゃんが付いている。きっと大丈夫だ。
俺はひと息ついた。ネガティブな部分を二酸化炭素と一緒に吐き出して、ポジティブな部分を空気中から取り入れる。体が急に軽くなり、やる気と勇気が湧いてきた。
「なぁ、うちはどう? 成長したかね?」
「そうじゃなぁ。ずっと夏ミカンみたいに分厚い皮に包まれたまんまじゃったけど、今はもう素直になって中身みたいに瑞々しいで」
少し気取りすぎただろうか。でも本気でそう感じたし、それしか言葉が浮かんでこなかった。
「ほんま? 良かったぁ」
今度は肩に顔を埋めてきた。心臓がまた活発に動き出し、緊張してしまう。それを紛らわせようと、優しく包んでいた柔らかくて小さな手をもう一度強く握り直した。
「胤爽……」
「ん?」
今、呼び捨てされたよな? さすがに今まで“くん付け”されていた分不自然ではあるが、どこか声が暖かかった。温もりがあった。俺の方に顔を埋めていた來美ちゃんは、ハムスターのようにひょこっと顔をあげ、甘えるように髪を耳にかけ直した。
「ちょっと……來美って呼んでみてくれん?」
「え?」
「えぇけん。なっ。恋人同士なんやけん、ちゃん付けはもうやめん?」
「あ、あぁそっか」
もうあの日からひと皮むけたんだ。あの頃はいい思い出として受け止めて、新しく踏み出さなくては。來美ちゃんもそういう意図があったのだろう。新しいおもちゃを買ってもらった時の子供みたいに無邪気な笑顔に、少し照れが入っている。喜んでくれるなら、なんとでも呼ぶさ。
「……來美」
照れくさかったが、俺としても嬉しかった。あんなに悩んで、苦しんで、こんな時が訪れるなんて思ってもみなかった。こんな幸福感が味わえるなんて、夢にも見ていなかった。今までのが嘘みたいにこうして寄り添って、手をつないで、お互いの温かさを感じて。いつまでもこうしていたい。今度は俺から來美ちゃん……いや、來美に向かって頭を傾けた。
「へへっ……だんだん」
短い夏の終わりを告げる、静かな潮風。短いようで、本当にその内容は濃かった。もしも愛媛に来なかったら、來美に出会っていなければ、こんな想いは絶対に出来なかった。お互いの昔からの想いも繋がることはなかった。今はとにかくこの地に、この瞬間に感謝している。ゴウゴウと轟いていた山々は徐々にその轟きを隠しつつある。もしかしたらお互いに寄り添っているせいで耳が塞がれているだけかもしれない。もしくは、山々が俺と來美の二人の邪魔をしないように配慮してくれたのかもしれない。どちらにしても、俺と來美の間に流れる不思議な空間を形成するのにはいい環境だ。
そうやって山々に感謝しながら宇和海をじっと眺める俺ら。午後、というより夕方の柔らかい日差しが波間に反射している。その輝きの中の遥か遠くに、一隻の連絡船を見つけた。もう広島に帰る時間だ。
頬を撫でるように先ほどの夏みかんの香りが漂ってくる。今年最後の夏みかんは甘い味。来年も、再来年も甘い夏みかんを食べて、爽やかな夏を過ごせたらどんなに幸せだろうか。夏みかんの爽やかな香りのする潮風。來美の前髪がそれに乗って優しく靡いている。夕凪の静かな夕暮れに、最後の南風が吹いた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
この作品は初めて綿密すぎるほどのプロットを何回も吟味しながら書いたもので、細かい設定や表情・しぐさのひとつひとつまで意識して書いた作品です。
それゆえに更新が月1となってしまったのは申し訳なく思っています。
ただ、そこまでかけて言葉や表現方法を考え抜いたので、そこそこな作品にはなったのではないでしょうか。自意識過剰だと思われるかもしれませんが、そこまでしたという自信があります。
さて、この物語ですが、少々小規模なので、公募に出すには文字数がまったく足りないんですよね。だから、これからゆっくりではありますが、公募用に「純粋扉と夏みかん-完全版-」を執筆していこうと思っています。
(追記:執筆完了しました! 良ければこちらからどうぞ
→https://sutekibungei.com/novels/3dad3a27-05e9-454c-9d63-7031f129f0d1)