89話 鉤爪犬です
「きゃっ!」
突然の事に私は小さく声を上げた。
首が伸びたのだ。背を伸ばしたのではない。
体は元の位置のまま、顔が3mほどこちらに向かって伸びたのである。
昔話で聞くろくろ首はコミカルなイメージだったのだが、実際にこちらを向いたまま首だけが伸びる様はとんでもなく不気味であった。
「大丈夫です。あれは大きく見せて威嚇しているだけですから」
悲鳴を上げたことでラーラが心配そうにまた声を掛けてきた。
さすが女性と言えども騎士である。彼女は全く動じていないようだ。
ごめんなさい、取り立てて特徴の無い動物だと舐めていました。
普通のようなのに伸びた首だけが違和感をともなっていて、余計に不気味で不快感を覚えるのだ。
それでも私は魔獣という初めて目にする存在を観察し続けていた。
不気味だとは思うが目を反らすほどではない。
前もってわかっていれば驚くことでもないかもと、慣れてくれば思えてくる。
首が伸びたくらいで威嚇になるのか疑問であったが、普通の人間相手ならそれは確かに効きそうだ。
騎士団から何人かが鬨の声を上げながら鉤爪犬に向かって行くと、それはひょいと首を戻して走り去ってしまった。
「どうやら諦めてくれたようです。この辺は道の魔獣除けも薄いので用心が必要ですね。下手に近寄られて追われる形になると馬も体力を消耗してしまいますし」
ラーラはやれやれと剣を鞘に納めた。
「見ましたか?」
私は座席で身を寄せ合っていたコリンナ達に興奮気味に話しかけた。
「魔獣です! 本の中でしか見たことがなかった魔獣がいました! あの首はどういう構造になっていると思いますか? 首の骨が多い? それとも何か不思議な力で伸びているのかしら? ああ、魔獣辞典を持ってくれば良かったです。いつも馬車酔いで読書どころじゃないんだもの」
私が悔しがっているとコリンナの侍女のグレーテが、ソフィアに同情の目を向けた。
ソフィアとグレーテは王宮茶会で既にお互いを知っていたし、狭い馬車で過ごすうちにすっかり打ち解けて仲が良くなっている。
「お嬢様、ここは魔獣に怯えてまでは言いませんが、せめてコリンナ様のように大人しく座って下さいませんか?はしゃいで座席から立ち上がらないで欲しかったです」
やんわりとソフィアに注意をされた。
あの子供だったソフィアに注意される日が来るなんて!なんだか感慨深い。
いやそれよりも私以外は窓の外を見ていなかったのだ。なんて残念な事。
「シャルロッテ様は魔獣がお好きなのですね」
クロちゃんを抱きしめて不安を紛らわせていたコリンナが、新しい私を発見したかのように話しかけてきた。
「好きなわけではないのですが、なんだか不思議じゃありませんか? 魔素を取り込んだ生き物なんて。どこに魔素を溜めるかは、まだ研究中なのだそうです。種として固定した魔獣はともかく、普通の生物が変異を起こしたばかりなら、その部分を取り除くことによって、魔獣から元に戻せるかもしれないですね」
「目に入れるのも穢らわしいと言われてるので、私には怖いとしか思えないですが、シャルロッテ様は平気なのですね」
ふむふむと私の付け焼き刃の魔獣知識に感心しながら、コリンナはそう言った。
そうか、そもそもこの世界に存在するものなのだから不思議も何も無いのかもしれない。
魔素の無い世界を知っているからこそ疑問が出るのか。
それにしても淑女というのは魔獣を見たら怯えたり目を背けたりするものなのらしい。
ひとつ勉強になった。
つい物見遊山で窓にくっついてしまったが、今後気をつけなければ。
でも魔獣を知りたい知識欲に勝てる自信は無いので、またやってしまいそうではある。
「シャルロッテ様は自分をしっかり持ってらっしゃるし、将来も決まっていてすごいです」
魔獣についてどの話をコリンナに聞かせようか悩んでいたら、反対に彼女が話を切り出した。
これは何かお悩みの様子だ。どれどれ、ひとつおばちゃんが聞いてあげよう。
「私は結構流されてるだけなのだけど、コリンナは何か目標はあるの?」
少し恥ずかしげにモジモジしたが、ゆっくりと言葉にしてくれた。
「クルツ領は特産品がある訳ではないので特徴が無くて……。だから何か人を呼べるようなものがあったらいいなと思っています。ただそれが何かと言われたら私にもさっぱりわからなくて」
彼女自身の事を聞こうとしたら領地の話になってしまった。
たしか二女なので家督は他の子供が継ぐはずなのに立派なことである。
「あなた自身は何になりたいの? 意外とそういうところに糸口があったりしないかしら」
「私自身……」
いつも明るくて元気なコリンナだが、やはり同い年の私が婚約した事で将来への不安でも感じているのだろうか。
ハイデマリーも来年は学院に入学する訳だし、目に見える指針がない彼女は焦っているのかもしれない。
「私は、ずっとシャルロッテ様の侍女になりたかったです。こんなことを言うのは失礼なのは分かっているのですが宮廷詩人に歌われるお姫様のそばにいられたら、なにか自分も素晴らしいものになれそうな気がしていたんです」
ああ、そういえばそんな話をした事がある。
その時はソフィアがいるので断ったのと子煩悩なクルツ伯爵も確か侍女として従事させることには反対していたはずだ。
「でも今は桜姫のそばというのでなく、シャルロッテ様のおそばでお仕事を手伝えたらと思ってます」
口元をきっと結んで覚悟したような表情で私を見つめた。
ああ、なるほど。彼女は幼い頃の桜姫という幻想と決別して、現実の私と向き合ってくれていたのだ。
詩人に歌われる優雅な夢物語ではなく、現実の世界で私を手助けしたいという意思である。
これまでも賢者の話をしてくれたり、書類の整理や社交界の話、果ては兄の噂についてまで彼女は陰日向無く助力してくれたことを思い出す。
友人というだけで、一切の見返りなく彼女は笑って支えていてくれたのだ。
私が倒れて目を覚ました時、泣き腫らした顔で喜んでくれたコリンナ。
なんだか胸の奥がじんっとしてしまった。
「なので私はシャルロッテ様の祐筆になりたいのです」
コリンナ・クルツは真っすぐに私の目を見てそう言ったのだった。




