88話 馬車酔いの話です
ウェルナー領までの道のりは早馬で5日半、通常の貴族の旅程だと10日程である。
そして今回の日程では半月を予定している。
これは接続の悪い乗合馬車並みの時間のかかりようだ。
何故そんなに時間をかけるかと言うと、ひとえに私の酷い馬車酔いのせいだ。
霊峰地帯は村もまばらでエーベルハルトと王都を結ぶ様な幹線道路がある訳でなく、整地されていない土地も山ほどあるのだ。
道も悪く安全に馬車を停めて休憩出来る場所や宿泊施設を考えると、かなり無駄な動線になると言わなければならない。
だとしてもソフィアとラーラと護衛兵らが長い時間頭を突き合わせ、唸りながら話し合って決めたルートなので何も文句は言えない。
前の世界で車が揺れないのは確かサスペンションとか言う仕組みのお陰だった気がするが、そのサスペンションなるものの仕組みを文系の私が知ろうはずはなく、この世界の乗り物に革命を与えることはまったく無かった。
コリンナのお陰で気持ちは多少マシなものの、長い旅程の中で段々と疲れが蓄積され酔いも酷くなっていく。
神様お願いします。次に魂をこの世界に仕入れるなら理系の人を、いやいっそ車の設計士か構造に詳しい修理工の人をお願いします。
込み上げる吐き気に節操のない願いを思い浮かべてしまった。
さて、そんな辛い馬車酔いとの戦いに一条の光が射し込むことになった。
きっかけはコリンナの「飴か何か口にして酔いを誤魔化しては?」と、言う言葉である。
苦しむ私を見て、どうにかして楽にしてあげたいと思ったのだろう。
考える気力も無かった私は言われるままに鞄から王子に貰った黄金の蜂蜜飴の瓶を出してもらい1粒口に放り込んだのだ。
劇的な効果が現れたのは舐めてから2、3分ほど後。
朦朧としていた意識はハッキリして、揺れる馬車に疲弊した身体にじんわりと甘さが染み渡る。
糖分のおかげ?か、血糖値の上昇と共に意識がハッキリしたのかもしれない。
それにしても、ここまで効くものだろうか?
今までだって散々いろいろ試したのだ、もちろん飴を舐めることも。
その黄金の蜂蜜飴の効果は、普段の私の馬車酔いを知るソフィアと私自身を驚かせた。
神をたたえよ!
いや、この場合はこの黄金の蜂蜜飴を褒め称えるべきだ。
素晴らしい。王都に戻ったら王子に聞いて是非再購入、いや買い占めをしたい気分である。
何なら村中が蜂蜜色のレンガであるという製造元まで押しかけて感謝して回りたい。
これがあれば、私は世界を手に入れたも同然なのだ!
車酔い、それは間接的に私を領地に繋ぎ止めていた原因である。
なんだかお酒でもないのに、妙にハイテンションになってしまった。
寝る前に舐めた時は、リラックスして眠れたのに。
そういえばあの時、不思議な夢を見たことを思い出す。
寒々とした山村で何かに丸呑みされた夢だ。
今思えばあれはウェルナー男爵領のイメージそのものではないか?
もしかしたら黄金の蜂蜜飴には予知夢や意識を浮遊させて遠くに飛ばす効果があるかもしれない。
そんな荒唐無稽なことを妄想して一人で笑ってしまった。
酔いへの劇的な効果で、どうやら浮かれているようだ。
瓶に入った飴の数をしっかりと数えて、行き帰りに充分な量か確認する。
一粒でどれくらいの効果があるのかまだわからないがどうか足りますように。
「シャルロッテ様、本当に大丈夫ですか?」
ソフィアが心配そうに話しかけてくる。
飴の効果はなんと一日一粒ということが判明した。
乗る前に舐めてしまえばその日一日はなんの問題もないのだ。この結果には私も小躍りしてしまう。
矢でも鉄砲でも持って来いという気分だ。
前準備をしてくれた人達には申し訳ないが、道中の馬車酔い対策にとってあった本来必要のない行程を省くよう申し出をした。
私の体調に問題がないのならば、新しい死人が出る前に到着しなければならない。
ただでさえ出発するまでにもいろいろと時間が掛かっていたのでここでの時間短縮は思いがけない朗報なのである。
ウェルナー男爵領に着いたら王子にも感謝の手紙をしたためなければ。
王都から離れるにつれ貴族好みの賑やかさで舗装された道は、どんどんと細く殺風景になっていく。
町が見えなくなるとそれもなくなり轍の後と、雑草や木々に混じって辛うじて植えられている魔獣除けの草木がそこが道であることを示すようになっていた。
人があまり行き来していないことがわかる。
エーベルハルト領地の往来とは違い、寂しさと警戒心が辺りを満たしていく。
クロちゃんが私の膝で「めえ」と鳴くと共に、周りでは馬のいななきが上がり、空気がざわめく。
「鉤爪犬が出たぞー!」
そう騎士団の方から、声が上がるのが聞こえた。
コリンナとソフィアが不安げな表情をしている。どうやら魔獣が出たようだ。
魔獣!
私にとっては初めて目にするものだ。一体どんな形の生き物なのだろう。
好奇心に駆られて窓から外を見やると、離れたところからこちらを窺う狸のような犬を見つけた。
えええ……、普通に動物ではないか。期待した幻想的な形状とは違いガッカリする。
たしか鉤爪犬はその名前の通り前足が鉤爪になっていて、そこで人や獲物を引っかけて引き寄せるのだ。魔法とかは使わないのかしら?
「シャルロッテ様、護衛も騎士団もいますのでお心を強くお持ち下さい。あれは目をつけた獲物をずっと並走して追いかけてくるので、一度追い払わないと馬達も落ち着きません。その為の停車なので危険はありませんよ。決して近寄せませんし、あなたの身はこのラーラ・ヴォルケンシュタインの剣に誓ってお守りいたします」
私が窓から外を見ているのに気付いて、ラーラは騎乗のまま近付いてそう凛々しく宣言した。
どうやら彼女は私が不安で気絶するのではないかと心配しているようだ。
陽の光の下で見る赤銅色の髪の彼女はまるで軍神アテナの様だ。
王宮の扉の前で仁王立ちしているよりも、生き生きとして見える。
この雄姿を見られたことだけでも良しとしよう。
なるほど、あの生き物は獲物を延々と追いかけて疲れ果てたところを鉤爪で仕留めるのか。
物騒な生き物に違いないが拍子抜けしてしまった。
私が勝手に期待して落胆していると、にゅ~っとそれの首がこちらに向かって伸びた気がした。
気のせいではない。
まさに、首が伸びたのだ。




